鳥のさえずりを聞きながらメアはぱちりと目を覚ました。ちょうど目覚まし時計のアラームが鳴り出す五分前だった。学校生活のサイクルが抜けきっておらず、朝寝坊したって誰にも叱られたりはしないのに自然と目が覚める癖がついてしまっていた。
ダンテの事務所に転がり込んでから早くも三日が過ぎ、メアは大体の勝手を掴み初めていた。主な注意点は三つある。一つ目、ダンテはとにかく朝が弱いのであまり期待しないこと。彼は平気で昼過ぎに起き出してきて「おはよう」と言うタイプだ。二つ目は、彼の不規則な食生活に引きずられないように気を引き締めること。何故あれだけの摂取カロリーでお腹が引き締まっているのか、謎が多すぎるしずるい、とメアは怒りすら覚えていた。最後、三つ目は――電話が鳴ったらとにかく出ること、だ。
余っていた二階の部屋はシングルベッド一つ置いただけで手狭になるようなまさしく猫の額ほどの小部屋だった。物置部屋を想定しているのかもしれない。それでも落ち着いて手足を伸ばして眠れるだけ天国だ。家を出てから一週間ほどの車中泊は慣れるまでが辛く閉所恐怖症になるのでは、と不安に思うほどだった。ダンテは広い方の自分の部屋を使っていいと申し出てくれたが、流石に申し訳ないし図々しいと思いメアの方から断った。
黒と緑のバイカラーのトレーナーとスキニージャージに着替えて髪の毛を三つ編みに結い上げると、メアは静かに部屋を出た。向かいの部屋はダンテの自室で、まだ眠っている気配がする。
そっと階段を降りて、洗面所で洗顔と歯磨きを終えると朝食……の前にメアは机の上の電話をよっこいしょ、と脇に抱えた。
電話線は十二分に長く、メアはそのまま階段の踊り場の窓から足場だけの小さなバルコニーに出てするすると梯子を登った。
この建物に屋上があることを知ったのは昨日のことだった。事務所の近辺で体を動かせる場所を尋ねると、ダンテからここを提案されたのだ。
腰の高さほどの錆びた柵に囲まれた概ねフラットな屋上だった。一部例外なのが、隅っこの方にひょっこりと置かれた木製の給水タンクだ。昨日掃除をしながら、レトロな代物だなあと珍しく思い軽く叩いてみたが、中は空っぽのようで虚ろな音が跳ね返ってくるばかりだった。
空は穏やかな水の色をしていて今日は一日晴れそうだ。日当たりが良いので植物も育てやすいと思うのだが、ダンテはそういうマメなタイプではないだろう。
梯子の傍に電話を置いてから、撥水性のあるアイボリーの床に座り込んだ。
ダンテの仕事を手伝う、と一口にいっても具体的に何をどうすれば良いのか判らず、とりあえず思いついたのは電話番だった。まだ正式にオープンした訳ではないが、広告は出しているらしく噂を聞きつけて電話を掛けて来るお客さんたちもいる。
デビルハンター見習い、とダンテは口にはしたもののメアを直接的な戦力に換算するつもりは今のところないようだった。ボディガードを頼んだのはこちらなのでその矛盾しない判断に文句は言えないのだけれど、メアは内心物足りなさを感じていた。
(あの夜は足が竦んでしまって、情けなかったな)
もし挽回するチャンスがあれば喜んで飛びつくのだけれど。初めて見た禍々しい悪魔を思い出すと、今は恐怖ではなく、ただ悔しさが込み上げるようになっていた。
全身縮こまっている気がして、ゆっくりと時間をかけてストレッチをしていく。物心ついた時からの習慣になっていたがここ数日サボってしまっていたので調子が狂っている気がする。父はメアにふわふわのぬいぐるみや甘いお菓子ではなく、近接格闘術や武器の扱い方を授けた。小さい頃は同い年の子が持っている可愛いドールハウスや習い事のバレエが羨ましくて拗ねたりもしていたが今思えば彼なりの愛情だったのかもなと思えた。仕事柄のせいでいつ危険が訪れるか判らないから自衛の術を学んで欲しかったのだろう。"家業"を継がせる気だったのかは定かではないが。
脚を開いてぺたりと床にお腹をつけ、ぼんやりとしていると、
「猫みたいだ。体、柔らかいんだな」
振り返るといつの間にかダンテが立っていた。いつものレザーパンツに、パジャマ代わりの黒いTシャツの裾から手を突っ込んで背中を掻きながら眠たそうに目を瞬かせている。
「おはよう。今日は早起きだね」
「ん。まあな……」
首の関節をゴキゴキとえげつないくらい鳴らしながらあくびを漏らし、背後の電話を親指で示す。
「こんな律儀にお守りしてくれなくていいんだぜ? この調子だとトイレにまでおぶって行きそうだな」
「……一人の時は持ってこうかなってちょっとだけ思ってた」
思考を読まれた思いで恥ずかしくなりメアは下唇をぎゅっと噛む。
「だって他に家事くらいしか出来ることないし、申し訳なくて」
「充分だよ。気にしすぎだろ」
無茶振りの依頼をした上に宿まで提供してもらっている身として、メアは自分に出来る最善のことをずっと考えていた。
エンツォからダンテが引き受ける依頼料の相場をポロッと聞いたのだが一万ドルでは遠く及ばない額で唖然としてしまった。
なけなしのそれもとりあえずの前金として受け取ってもらおうとしたのだが、当面の自分の生活費をそこから出せと紙袋も突き返されてしまったのだった。
そのうち心変わりして請求してくれるかもしれないけれど。
どうしたものか、と一人で唸りながら足首を掴んで前屈をしていると、
「なあ、ちょっと遊んでくれないか」
よっ、と声をあげながら軽々とダンテがバク転をして指先であおる仕草をした。
「寝覚めの運動がてらにさ、お手合わせ願おうか」
「私なんかでいいの?」
「まあそう謙遜すんなって。いつでも掛かってきていいぜ」
ええ…っ、と戸惑いの声をあげながらメアは重い腰をあげてダンテと対峙した。彼ほどの実力者を前にすると、戯れの手合わせでどのくらいのエンジンをかければいいのか全く判らなかった。ええいままよ、とメアは一度ぎゅうっと瞼をつむってから開いて神経を集中させた。私如きが手加減だなんて烏滸がましい、と思った。
キュッ、とスニーカーの底を鳴らして床を蹴ると間合いを一息に詰めながらダンテの肩口に向かって踵を振り下ろす。それをひらりと横に飛んでかわす動きも読めていたので即座に体を反転させて鋭い上段の横蹴りを放った。ダンテがおやっと驚いた表情をしながら、メアの脚を腕でガードする。硬い骨と筋肉にぶつかって、メアの脚もじぃんと痺れた。
それにも怯まず、弾かれた足で更に懐に踏み込むと、ダンテの右ストレートが飛んで来たので反射で避ける。たぶん彼が本気になったら私なんかじゃ避けられないんだろうな、とメアは苦笑しながら同じく右の拳を返すも手の平でやんわりと受け止められる。軽やかなバックステップで避けるダンテに追撃をしながら、メアは体を沈みこませてダンテの背後に回った。飛びつき首に腕を絡ませ絞め技の体勢に入ろうとするも、くるりと背負い投げされてすり抜けられてしまう。地面に叩きつけられる前に、何とか全身をバネのようにしならせて逃げ出したものの悔しい。
ダンテは少し暑そうにふっと前髪を息で吹き上げた。一方のメアは既に額に汗が浮いている。
「やっぱり、いい動きだ」
「それはどうも」
ありがとう、と言いながら動きを止めず前傾にステップを踏んだ時だ。急にガクンとメアの膝が落ちた。
ぎゃっ!と尻尾を踏まれた犬のような悲鳴をあげると同時に紐が解けてすっぽ抜けたスニーカーが宙を飛んだ。何で脱げたの!と驚きながら、つんのめったメアを咄嗟に受け止めてダンテもバランスを崩し二人して派手に転ぶ。
一瞬、世界が静止した後、ダンテが堪らず笑いだした。
「っふ、はははは、マジかよ!バスター・キートンみてえ」
「ご、ごめんなさい」
恥ずかしさと暑さで顔が真っ赤になっている気配がした。抱きとめられたダンテの胸板は逞しくて、柔らかく、胸の下に感じるなんともいえない感触と温かい拍動、初めて大口を開けて笑ったダンテの明るい表情にしばらくメアの思考が停止してしまう。
手の平に熱い頬を埋めつつ指の隙間からその穏やかな顔を見ていると、ん?と不思議そうなダンテと目が合った。
「あっ、いや、ちゃんと笑えるんだなあって……思って……」
出会ってからの基本の表情は硬い仏頂面だった気がしたのだ。
一瞬はっとしたように目を開いてから、ダンテはにやりと口元を歪めて笑う。
「おかげさまでな。言っとくがその柔らかいソレは不可抗力だからな?」
指のさされた方向と体勢に気がついてメアは押し当てる形になっていた胸を上半身ごと引っぺがして弾かれたように後ろへ跳ねて避けた。
「うわああごめんなさい!」
「お気になさらず」
どうしてこうなった、とパニックを飲み込んでメアが耳まで真っ赤にしながら靴を履き直し、ダンテがくつくつと笑いを喉で押し殺していると、待ち望んでいた音が高らかに鳴った。
ーーDriiiiing……!
けたたましい電話のベルに、メアは走り寄って受話器を取り上げる。
「はい、こちらダンテの便利屋です」
その応対に「キマらないから早く店の名前決めねえとなあ」とダンテは小さく項垂れた。








その建物は"ホテル・スプレンディッド"という名の高級ホテルだった。
「スプレンディッド……"素晴らしい"って自分から言うだけのことはあるかもな」
アール・デコと現代建築の入り交じった内装のメインホールには受付と喫茶店スペースがあり、とにかくだだっ広い。ドーム型の天井もやたらと高く、吊り下げられた豪奢なシャンデリアがキラキラと柔らかく光を反射していた。受付の待合席でやたらとフカフカとした座り心地のソファに体を沈めながら、ダンテが気だるげに目を細めて天井を見上げていると、
「お待たせしました」
受付カウンター脇の従業員用出入口から制服姿の女性がヒールを鳴らして現れた。
ワインレッドを基調としたブレザーと黒のタイトスカートはさすがホテルの雰囲気とよく合っている。首元に差し色として添えられたくすんだ金色のスカーフをちまちまと直しながら、窮屈そうに息をついた。
「似合ってるぜ、メア」
それは従業員姿に変装したメアだった。
ダンテは素直に感嘆しながら感想を伝えたのだがメアはリップサービスだと受け取ったようで、どうもありがとう、と憂鬱そうに小さく呟いてタイトスカートのシワを手の平で伸ばした。
長いブルネットを高いまとめ髪にし、いつもは化粧っけのない肌にもきちんと場相応のメイクが施されていた。コーラル色のリップが引かれた唇が不満げに尖り、ピンクベージュのシャドウが乗った目蓋がふるりと震える。
「ちゃんと上手くいくかな」
「やってみるしかないだろ」




今朝屋上でメアが取った電話は比較的治安の良い繁華街にある、高級ホテルの支配人からの依頼だった。
最上階のスイートルームにひと月ほど居座っているお客がいて、そいつを追い出して欲しいというのが凡その内容だった。
ダンテはその依頼をめんどうくさいと嫌がったのだが、依頼料や生活費のこともあるし代理でメアが引き受けると電話口で豪語してしまったが為に"ボディガード"の彼も自然と着いてくる羽目になった。
その迷惑なお客というのは元々頻繁に長期滞在していく不動産会社のCEOレイモンド・マーロウで、ホテル側からしたら羽振りの良い有難い上客だったはずなのだが、今回は些か様子がおかしく困っているそうだった。
予定の滞在期間を過ぎ、前払いしていた宿泊費が足りなくなった頃から、窓もドアも締め切られ、清掃員や支配人が声をかけても全く応じる気配がなくなってしまったというのだ。唯一の反応らしい反応と言えば一日一度の夕食時のルームサービスの注文だったのだが、一週間ほど前から厄介なことに注文の品を届けに行った従業員が失踪するようになってしまったと言うのだ。
「五人も失踪……ディナーとして食ってんのか?」
「それも確認しようと、"マスターキー"、緊急用の斧でドアを叩き割ろうともしたみたいなんだけど傷一つつかず開かなかったらしいの」
「警察には相談しなかったのか」
「営業停止になるかもとか何とかでとりあえずは大事にしたくないんだって」
現段階で打てる手段も尽きて、その怪奇現象に対応できそうなやつがいるとダンテにお呼びがかかったという寸法だった。
件のスイートルームから注文が入ったコース料理をワゴンに乗せて、メアとダンテは従業員用のエレベーターに乗り込んだ。
懐の拳銃にフルで弾が装填されていることと、予備マガジン二本をジャケットの内側で点検してよし、とメアは小さく両手の拳を握った。
それを横目に見ながらダンテは、
「本当に俺が変装しなくて大丈夫なのか」
「従業員一人じゃないとドアも開けてくれないみたいだし、女の私の方が相手も油断するでしょ」
それにダンテの体格じゃ浮いちゃうよ、とメアは笑ってワゴンの取っ手を握りしめる。
「それにダンテの"予想"が当たってれば私でも平気でしょう?」
「そりゃそうだが」
「あっ、このワゴンに乗って部屋に入るとか?クロスで隠れてるし」
「いや、たぶん乗れないわ」
ダンテはうーんと呻きながら前髪をぐしゃりと掻き混ぜると、メアの耳元に顔を寄せて低く囁いた。
「絶対に、無理すんなよ」
「うん、大丈夫だって」
最上階の10階に辿り着いて、エレベーターを降りるとそこには本当にドアが一枚あるきりだった。ワンフロア全てスイートルームだとは聞いていたが、これを一人で貸し切る金持ちの道楽は理解しがたいものがある。かつては毎晩人を呼んでパーティでも開いていたのだろうか……というのは偏見か。攫われた人たちが生きていてくれたらいいのだけれど。
メアはぐいっとほっぺたを抓って気合いを入れると、ダンテと目配せをした。
「作戦開始、だね」




三回ノックした後、ルームサービスであることを告げるとしばらくしてドアの向こうでガサガサと物音がした。
ドアスコープの辺りに息づかいを感じながら、メアが緊張した面持ちで佇んでいると、ようやくドアが開く。
「失礼いたします、マーロウ様」
中に入ったものの室内は薄暗く、部屋の主はすでにドアのそばから距離を置いていた。
変な人だ。そもそも人なのかも怪しんでいるのだけれども。
静かに息を吸い込むとひどく甘い匂いがした。人工のフレグランスというよりも甘く煮つめた果実のような甘ったるい匂いが立ち込めていて思わず噎せそうになる。
唯一点けられた光源は、リビングの暖色系のフロアスタンドのみでその脇にマーロウらしきスーツ姿の男が立っているのが見えた。顔には影が落ち、ここからでは判別出来ない。
「マーロウ様、お料理はどちらでお召し上がりになりますか?」
そう尋ねると男は無言で、ベランダに続く窓辺の前の丸テーブルを指し示した。
今の時間ならば本来夜景が望める大きな窓のはずなのだが、ぴっちりと閉じられた遮光カーテンのせいでこれでは朝が来たのかもすらも判らないだろう。
メアはテーブルの前にワゴンを押していくと、食器類のセットを始めた。一般的なテーブルマナーはひと通り父に覚えさせられたので問題ないはずだ。
じっと項の辺りに粘ついた視線を感じながら料理を並べていると突然、右手首を掴まれた。
動じぬようにそっと顔をあげると、少々頬が痩け、ブロンドの髪は解れてはいるものの写真で予め確認していたレイモンド・マーロウその人の相貌が浮かび上がった。眼窩もくぼみ、ぎょろりとした鳶色の瞳と目が合う。
「あの、どうか、されましたか?」
「君は、ここの従業員じゃないね?」
まずい、と思った時には体が宙を浮いていた。ワゴンめがけて放り投げられ、横転した積み荷の食器類や赤ワインが砕け散った。受け身を取ったので直接的なダメージはほとんどなかったが高いヒールとタイトなスカートでバランスが取りづらく、起きあがるのに一瞬手間取ってしまう。
「マーロウ様、何かお気を悪くさせてしまったのでしたら謝らせてください」
馬鹿力ではあったが、まだ彼が何者かは判らなかったので銃を引き抜くには早計に思えた。メアはあくまでまだ従業員を装いながら、怯えたように腰を低く下げてマーロウを見上げた。
「ここのホテルの従業員は入室する時にノックを四回するのが基本なんだ。どんなに新人だろうとそれは徹底していると聞く。でも君のノックは三回だった」
スカーフの首根っこを掴まれて体が宙ぶらりんになったかと思うと荒々しくソファの上に投げ出される。人を物とも思っていないような素振りにメアは恐怖よりもふつふつと怒りが込み上げてくるのを感じた。
マーロウは答え合わせの時間が大層楽しいようで、その口元には笑みが浮かんでいた。
「それから私は予めルームサービスを頼む時に何処で食事をするかも伝えるようにしているんだ。今日は寝室で摂ると伝えたが、それなのに君は一言も確認せずに準備を始めてしまった……何かが変じゃないか?」
そんなブリーフィング受けてない!と支配人にあとで文句を言ってやろうか、とメアは更に苛立ちを募らせた。想像以上に神経質な男だったらしい。
冷たい死人のような指先がメアの太ももに這い上がり、強く食いこむ。
「随分躾がなっていないようだが、君は一体どこから迷い込んだ娘だ?」
メアは唇の端を吊り上げて笑う。
「申し訳ございません。注文の多いお客様は苦手分野でして」
「まあ、誰でもいいか。腹が減って敵わないのでね……君は美味そうだ」
その時、マーロウの口が異形のそれに変貌し、裂けた。やっぱり悪魔だった、と肩口をソファーの背もたれに押しつけられながらも、メアは拳銃を引き抜きマーロウの眉間に躊躇いなくトリガーを数度引く。男の体は衝撃で仰け反ったが、それに抗いながらメアの肩口に噛みついた。人外の乱杭歯が皮膚を突き破り、痛みにひゅ、と呼気が漏れたがメアも負けじとマーロウの体を押し返しトリガーを引く。
貫通した銃弾が背後の壁や高価そうな装飾品を打ち砕いていく。
「君の血は甘いな」
牙に残ったメアの血を舐めとって悪魔は微笑んだ。
暴れる手と長く伸び始めていたハイエナのような爪がブレザーとブラウスを引きちぎり、メアとマーロウの体がソファーから転げ落ちていく。撃ち尽くしてスライドオープンした銃にマガジンを再装填しつつ、半身を捻ってマーロウの腹を渾身の力で蹴り飛ばし振りほどく。そしてベランダに続く大窓に向かって銃口を向け、弾丸を撃ち込んだ。
「ダンテ……ッ!」
割れた大量のガラス片を蹴散らしながら、赤いコートをはためかせてダンテが飛び込んできた。過去に戦った低級悪魔のやり口と似ている、とダンテが見当をつけていた通り、やはりマスターキーを拒んだドアと同じく、外側からのアクセスを遮断する術が窓にもかかっていたようだった。誰かを招き入れた後、内側からの侵攻には非常に脆いようだ。屋上を伝えば最上階に侵入することは案外容易く、空き巣にも狙われやすい。ベランダがあれば尚更、である。
ダンテは悪魔に大して躊躇いなく背負っていたリベリオンを袈裟に振り下ろした。その勢いを殺さぬまま腕を返し、更に逆袈裟に斬りあげる。マーロウ、だったらしきグールによく似た醜い悪魔は叫び声をあげてコールタール状の体液を撒き散らしながら床の上を悶え転げた。
「クソ悪魔が美食家気取ってんじゃねえよ」
腰のホルスターから拳銃・アイボリーを抜くとその眉間に弾丸の雨を降らせた。脳漿と黒い血が飛び散り、悪魔の体はピクリとも動かなくなる。
「魔界の底で泥のスープでも啜ってな」
訪れた静寂に慣れず、鼓膜がきぃんと痛んだ。
終わった、のか。
高級絨毯の上に広がった悪魔の血糊だらけの惨状をゆっくりと振り向いて、メアは「あ」と声をあげると、
「これじゃマーロウか判りづらくなっちゃったね」
まだ硝煙を吐く銃をホルスターに仕舞いながら、ダンテが亡骸を乱雑に持ち上げて懐をあさる。
「とりあえず今はこれで何とかなるだろ」
引っ張り出した財布からレイモンド・マーロウの免許証を見つけて、ダンテはふうと息を吐いた。
「検死に指紋照合やDNA鑑定、"悪魔に体を乗っ取られたレイモンド・マーロウ"だと判断する材料はわりかしあると思うぜ」
「なら、大丈夫か」
"薄情なようだが、どうして彼がこうなってしまったのかは、私たちの与り知る所ではない"とメアはいつもターゲットに対してはそう考えるようにしていた。いちいち気にしていたら身も心ももたなくなってしまうだろう。
メアは覚束無い足取りで寝室に向かうとベッドサイドの受話器を取り上げ受付に内線をかけた。支配人に全て片付いたので来て欲しい旨を伝えるよう頼み、通話を切ると、パチリとダンテがスイッチを入れたらしく室内の電気が全て点いた。慌てて破けた服の胸元を手繰り寄せるが、
「おい、メア、」
つかつかと歩み寄ってきたダンテが険しい顔でほつれたメアの髪をゆっくりとかき上げ、傷口を睨む。
「やっぱ噛まれてたか。思ったより酷いな」
バレちゃったか、とメアは誤魔化すように小首を傾げて笑った。
「そんなことないよ。ぜんぜん痛くないし、傷も浅いから平気だよ?」
実際にもう傷口の血は固まり始めていたし、浅い噛み傷だと判っていた。傷痕もきっと残らないだろう。父の手伝いをする中で負った傷たちの方がもっと酷かった、とメアは嫌なことを思い出してしまいすっと目を細めた。
「ごめんな、ボディガード失格だ」
メアの傷口を庇うように片腕だけでダンテにふわりと柔らかく抱き寄せられて、視界が揺れて滲んだ。
「なんでダンテが謝るの……私が守って欲しいのはお父さんからだけだし、今日の依頼だって私が勝手に受けて調子に乗ってミスしただけだもの。ダンテは悪くないよ。弱い私が、悪いんだよ」
どういう風に伝えたら一瞬垣間見えたダンテのひどく苦しそうな顔が晴れるのか判らなかった。泣きそうになりながらメアは両手でダンテの背中を撫でさする。腕を動かすと傷口がじわりと痛んだがそれもどうでもよかった。
「私がもっと強くならないとダメなんだよ」
ははは、と乾いた笑い声をあげながらダンテが泣き笑いのような眉根を寄せた表情でメアの瞳をじっと覗き込んだ。
「……そんなところまで似てるのか」
「?」
「お前はそのまんまでいいよ。充分強い。ただもうちょっと自分のこと大事にしろ……」
ダンテはベッドからシーツを剥ぎ取るとメアの体を包み、両腕でぎゅっと抱きしめた。頭をぽんぽんと撫でられてまだ泣いてなかったのに本当に涙が落ちそうになってしまう。幼子をあやすようなダンテの手つきに、呆れられたかなぁとメアは静かに落胆した。




ホテル・スプレンディッドの開かずの扉はダンテたちによって開かれ、その後は警察が介入することになった。
レイモンド・マーロウが宿泊していた部屋のウォークインクローゼットからは"食べ残し"の従業員の死体が多数発見されたらしい。覗かなくて良かった、とメアは思わず顔をしかめた。あの部屋の匂いは腐敗臭を誤魔化す為だったのかもしれない。
世間的には悪魔の仕業ではなく「有名不動産会社のCEOはシリアルキラーだった?!」と誇張して消費されているようだった。その方がウケると記者たちは判断したらしい。
事務所のソファーでその経緯を新聞紙やゴシップ誌から拾い集めながら、メアはううむと低く唸る。
「マーロウはなんで悪魔に取り憑かれちゃったのかな」
どうでも良いと思ったもののゴシップに感化されてしまったのか段々と気になってきた。
警察に事情聴取はされたものの、二人共ほとんど部外者であった為に詳細も知らされないまますぐに解放されたのだった。
暇つぶしにビリヤードに興じていたダンテが手を止め、キューでとんとんと剥き出しの肩を叩く。
「さあな。隙があったんだろ」
「隙って……心の隙?」
テーブル上の配置を眺めてからキューボールに狙いを定めつつ、ダンテは気だるそうに答えた。
「そうだ。ビジネスに失敗して会社の金を使い込んだだとか、夫婦仲が上手く行ってないだとか。そういう弱みに低級の悪魔は取り入る」
狙っていたらしき三番ボールがクッションに弾かれ、綺麗にポケットに吸い込まれていった。ことん、とボールが落ちる音を聞きながらメアはなるほどと頷いた。
「会社の経営は右肩下がり気味だったみたい」
「大方その辺で唆されたんだろ。お偉いさんは態度だけじゃなくてプレッシャーもデカいってことだ」
飽きたのか、キューをテーブルの上に放り投げてダンテはメアが座っているソファーの向かいに座り込んだ。
「怪我の具合はどうだ?」
騒動から三日が経ち、メアの傷も医者に一度処置をしてもらったもののその後は自分で手当できるほど順調に回復している。
事務所内は暖かく、ダンテがいつも通り上半身裸なように、今日のメアも着古したオーバーサイズのバンドTシャツの下にタンクトップを合わせた装いだ。薄着でいると傷口に巻かれた包帯がどうしても目立ってしまった。
「ちゃんと治って来てるよ。明日くらいにはもう動いて平気だと思う」
日課のストレッチも大事をとって休んでいたので体がなまっている感じがして落ち着かない。
そうか、と安堵したような表情を浮かべてダンテはごろんとソファーに寝っ転がる。
心配をかけてしまったようで申し訳なくなったが、謝罪の言葉はそっと飲み込む。
「そんなことよりお待ちかねのアレだよ、アレ」
メアは今朝ホテルの支配人の使いが届けに来た封筒の蝋印を割って一枚の小切手を引っ張り出した。
「これでツケていた事務所の修繕費が払える!美味しいものも食べられる!」
微睡んでいるダンテの目の前に五万ドルと書かれた小切手をゆらゆらとかざした。ホテルの支配人から送られてきた依頼料である。しかも怪我をしてしまったメアを心配してくれたのか、医療費として当初掲示した額よりも上乗せしてくれていた。まともな人で良かった、とブリーフィングのミスはこれでチャラにしてあげることにした。
ダンテは鼻先で揺れる小切手を煩わしそうに片手で払いながら、
「そりゃお前のだよ、メア。好きにしろ」
「だって、ダンテが悪魔を倒してくれた」
「お前が引き受けた依頼だろ」
「じゃあ半分こしよう」
「いらない」
ええ……とメアは困惑の声をあげて手の中の小切手を見つめた。しばらく考え込んだ末によし、と頷くと、
「とりあえず修繕費のツケは払っておきます」
「なんでそうなる?!」
ダンテが飛び起きてぐいっとメアの腕を掴んだ。
メアは不満げにだって、と唇を尖らせると、
「今は私の家でもあるから、エンツォの気が変わって取り立てられでもしたら困るんだもの」
ダンテが顔をしかめてぐぬぬと呻いた。
「何も言えねえ」
「でしょう? でもね、私が欲しいものもちゃんと買うから、ダンテに手伝ってほしいんだ」
ふふふ、と笑って小切手をひらつかせるメアにダンテはふうん、と少し苦い顔をした。
「女子の欲しいものには、嫌な予感しかしないな」

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