▼ 弐
渡邊先生は人気者なり。生徒のみならず教職員方にも好かれたり。ノリもよしし顔も悪しからずし若しし、そりゃさうならむ。その若さが頭の強き人らにとりては若造のくせにと言いたいものならむと思ふが、ここは四天。面白ければなるでもよき、なる学校に渡邊先生は必要とされたりき。
彼はお笑ひのみならぬ、人を伸ばす技を知りたり。生徒を導く方法を、背中の押し方を知りたり。
ここらの人に求められる彼が、なるでもなき私に惹かれているわけはなきなり。
「俺、苗字のことが好きやねん。せやよりオサムちゃんにはもう戯れしで苗字困らせてほしからざるや」
ある日の放課後、教室に忘れ物を取りに戻ってゐし時、空き教室よりさる声が聞こえき。この声は、ええと、最近よく話しかけてくる男子なりしや。よく覚えたらず。
それよりも、彼が話したる相手が渡邊先生といふにギクリと肩が強張り、扉の向こうで耳を寄せた。
「生徒にマジ恋なんてしてへんやろ? なぁ、付きまとうのやめてや。高校苗字と違へば、今しか過ごす時間ないねん。邪魔してほしからざるや」
ひそめてゐし息が、小さく洩れる。渡邊先生がいかなる顔をしてゐるかわからぬ。わからざれど、きっとその男子に対すれども笑ひたるならむな。
渡邊先生は、私のみならず全生徒を労しかりしたり。その男子の言ふも、「教師」として聞き入るるならむ。
「おぅおぅ青少年、青春しとるな。わぁーった、応援すれば、付き合へせば大事にするやで」
それでも、期待していたのかもしれず。渡邊先生は私のことが好きなりと、その男子を牽制してくると、思っていたのかもしれず。なりって、私、今とてつもなくショックを受けたり。
「え、あ、おん。サンキュ」「協力はできへんけどなるァ!」和やかに話す声を聞きながら、扉より離れき。重き足を動かし、隣の教室にどうにか入りて隅にしゃがみこむ。ちょうどその男子が出でていきしや、上機嫌に「じゃあなるオサムちゃん」と扉を開閉する音と廊下を行く音が聞こえき。
しばらく座り込み、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
ショックを受くる、資格なんてないのだ私には。これでよき、渡邊先生の教師生活に害を及ぼすよりか、この方が。
立ち上がり、深く息を吐きて教室を出づ。さて、廊下に目を止めて息を飲みき。
「……せんせ」
同じくちょうど廊下に出でてきし渡邊先生と鉢合ふ。煙草の箱を持ちたる彼は、また非常階段にでも行ひて吸ふならむ。放課後のかかる時間でそんなことすといふは、残業などあるやな。
……先生、私一瞬でも渡邊先生のことここら考えられるようになったみまほかりはべりよ。
一瞬驚きしやうに瞠目せし彼は、次にはすぐにいつものごとくフヒと笑ひき。
「未だ残りたりしや、図書室で勉強か? 偉いでぇ」
さて頭に伸ばされし手、それはまた私に触れることなく彼の帽子に移る。
先ほどまでの会話の当人がここにゐるに気まずさがあるや、渡邊先生は早々に「気いつけて帰りや」話を終はらせて私の横を過ぎき。
そこを逃すかとばかり彼の手を掴む。ぎょっと振り返りし渡邊先生をやがて引き寄せ、教室に強ちに入れき。初めて二人きりになりき。鍵を後ろ手で閉めば、「いやいやあかんって」大の大人が動揺し始めき。
「こないなるトコ誰かに見られせば誤解されるて!」
「大丈夫にはべる、渡邊先生の潔白はちゃんと証明しはべり」
「いや俺やのーて名前のや! 教師と変なる噂立つ嫌やろ!」
「今更言ひはべるか、なりせば最初より私につきまとわないでくださいよ」
「せやりてまた会ふると思わんかったんやでー!」
「声大きかりはべり」
口をつぐむ渡邊先生の間抜けなる姿に頬が緩み、さて引き締めた。私の顔を見し彼の目が終はる。まるで何かを覚悟せしかのごとく。
机に腰かけし渡邊先生は、私からそっぽを向くとやがて帽子で下げて目を隠せし。
「でも、大丈夫や。これよりはあれ、そないうざったくせえへんより」
「……」
「受験も近しし、遊びは終はりやな! 付き合はせて悪しかりきな!」
帽子より手を離し笑ひし渡邊先生に、私は口が動かず。咄嗟に視線を下げき。薄汚れた上靴と、ボロさうなる床。それに目をとめてより顔を上ぐ。
「げに遊びなりしにはべるや。からかって楽しかったにはべるや」
「……」
「私のこと、好きじゃなかりしにはべるや」
口をパクパクさせて驚愕に目を丸からさせし彼は、「そなき泣きさうなる顔せんとゐてや」くしゃりと顔を歪めた。泣きさうなる顔は、そなたにはべらむ。
、
遊びじゃないなんて、そんなのわかりたるなりよ。私なりって渡邊先生のこと見てきたんだ、彼があだごとで接してきたなんて思へず。思はまほからず。
煙草の箱を開け、動作を止めし渡邊先生は次にはポケットを探った。さて取り出しし爪楊枝をくわえた彼の手は、少しのみ震えてゐき。
「……遊びなるわけ、あるかいな。何年、想ひてきたりと」
首の後ろを掻きながら独り言のようにつぶやゐし渡邊先生は、足を交差したり机に手をつきて天井を仰ぎ見たりとソワソワし始めき。
しばらくして、諦めたやうに笑ふ。
「お前は中学生や。かかるオッサン相手にするよか、良き男はぎょーさんおんねんで。そら、ちょっかゐかけし俺も悪しけれどなる、でも、名前ちゃんにはかかる悪しき男に騙されてほしくないいふや」
「十なる歳かの年の差なんて関係はべらずよ。六十七十にもならば同じ爺婆ならざりはべるや。それに私は、渡邊先生以上の良き男を知りはべらず」
ぎょっとしたる先生の顔がみるみるうちに赤くなる。驚きすぎしや、くわえてゐし楊枝がぽろっと落ちき。今までで一番間抜けなる顔なり。それでも愛しく思ふなれば、ずるいなあ。
「私は遠き未来でも、オサムちゃんに隣にゐまほかりはべり」
告白って苦し。上手く言葉に能はずし、口の中パサパサすし、心臓は煩ゐし顔は熱しし。きっと思ひたる半分も伝わってなきならむな。
それでもあからさまにでも伝わってほしければ、目が離せなきなり。
隣にゐまほきは、渡邊先生ならず。オサムちゃん、あなたなるにはべりよ。驚きたまへ。
ガタン、勢いよく机より立ち上がりしオサムちゃんは、大きく目を見開きながら凄まじき疾さで瞬きを繰り返しき。見ればに緊張したり。
さておずおずと帽子を取ると、私の目の前に立ちき。
近き距離、おかげで彼の深呼吸の音がよく聞こゆ。きっと私の心音も、空気によりて伝わってゐるならむ。
さして少しのみ腰を曲げしオサムちゃんは、私の顔を覗き込んなり。
――なれば、その色の含みし目、私の心を捉えて離さないんですってば。
「俺の人生最期まで、名前で満たさせて」
どくりと鳴った心臓に引き寄せられたかのごとく、オサムちゃんの顔がゆっくりと近づきてきたり。
……が、ぼふんと帽子が彼の顔を覆う。「危ね……絶対手ぇ出さへんて決めとりしに……名前ちゃん怖……」ぼそぼそ聞こえし低き声に、おかしくなりて笑みが零れた。
「怖いのはオサムちゃんですよ、私を好きなりっていふ男子に応援すとか言ひて」
「きっ聞きたりしや! ヤラシー!」
「……」
「すゐはべらず。いや、その、協力はしたなけれど、応援はできるやん」
どういふ了見にはべるかそれは。訝しんでジト目を向けてゐば、オサムちゃんは帽子を被り直してまたポケットより爪楊枝を取り出しし。
「どうせ俺が勝つしなあ」
呆気にとられて……でも嬉しくなりしは、まあ、そういふなり。渡邊先生が私をとてつもなく好きなるやうに見えて、いつの間にかきっと私の方が好きになってゐしならむな。
非常階段の踊り場で、柵に寄りかかる白石くんの背中に謝りき。二人きりになるはオサムちゃんの地位を脅かすことになれば、かくしてまた白石くんに一緒にいてもらひたり。申し訳なし。されど私としては二人きりはなんだかんだ緊張すれば、そういふ意味でも助かってゐるといふや。
「そういやオサムちゃんはいつより苗字さんのこと好きやりし?」
「しっ白石くん」
「せやりて気になるやん」
「いつより……18くらいかぁ?」
「「えっ」」
オサムちゃんが18ってことは、私は5、6才の時なり。その歳でもう出会ひたりしの? それはそうだがまったく覚えたらず。といふか、ええと。
「ロリコ」
「違ふ! 誤解や! きっと名前ならおばあでもおばはんでも好きになっとりき! 初めて会うた時の名前がたまたまちっこゐガキやりしのみや!」
ものいみじき勢いで否定せしオサムちゃんに私と白石くんの冷めた視線が突き刺さる。「で、そのちっこゐガキに会うて一目惚れでもしたんかいな」低き声でつぶやく白石くん。
「いやあちょうど進路で悩んどってな。このまま教師目指せども大丈夫かて。そん時に迷子になっとる名前と会うたんや。俺も人生に迷っとりきし、親御さん見つかるまで話してたんやわ」
「オサムちゃん今それすと捕まるよりなる最近の規制激しければな」
「そしたらめっちゃ名前に叱られたんやで! かーよかりきかな! はっは! 先生になりせば名前とまた会えるやろ思て! ほんまに会えたんやからこらぁ恋するしかないやろ〜」
けたけた笑ふオサムちゃんにかっと頬が熱くなる。「え、苗字さんもそれでええん?」と戸惑ったやうなる白石くんの声が遠くで聞こえしやうに感じき。
これはもう運命では、とドキドキしたる私。横に座るオサムちゃんが「はあ、触らまほし……早よ卒業して……あっでも同じ学校におれへんの寂し……」とぼやく声など耳に届かざりき。