▼ 日吉の初めてのおつかひ
日吉若は悩みたりき。それはもうものの見事に悩みたりき。コンタクトを入れたるにも関わらず目を細めて眉間に力を入れたるせいで、周りにゐし女性客たちが日吉を避くるやうに動けど、それに驚かざるほど日吉は悩みたりき。
彼の目の前にある光り輝く綺麗なる装飾品の数々。日吉の時を止むるには充分すぐるものなりき。
時は数刻ほど前、昨日の部活終はりに遡る。練習を終へ、着替へたりシャワーで汗を流したり未だ走りたりたり、氷帝テニス部レギュラー各々が好きなるやうに過ごす中、滝萩之介は本日の練習メニューを部誌に打ち込んでゐき。一人黙々と作業する滝の後ろにゆっくりとおどろおどろしきオーラを纏った彼が近づき、滝はいやに寒気を感じて振り返る。さて驚愕。
「日吉……いかにせし、さる今にも世界が滅亡しさうなる顔をして」
「さすが滝さんにはべりね。確かに俺の世界は今にも壊れさうにはべり。……いや、壊さなきゃいけざる、にはべり」
滝は狼狽えた。確かに日吉は宇宙人やら未確認飛行物体やら、ごくまれに奇怪なるを言ひ出す時があり。されど普段そのやうなるを口にする時の日吉は、大抵楽しさうなる顔をしたるなり。普段笑わないやつが笑ひし時の見慣れぬ笑顔のやうなるものなれども、確かに楽しさうなるなり。なるがされど今の日吉の表情はそれとは正反対なりしため、滝は一旦口を開けて……閉じき。とりあえず横に座るやう促す。
「実は折り入りて滝さんにご相談したいことがあるにはべり」椅子に座り、膝の上に拳を作りて深刻なる面持ちで告げた日吉に、滝は一つ頷ゐき。相談さるるは多々あり。それこそ跡部に忍足に。
口を開きし日吉は……されどそれより発するはなかりしか。さして三分ほど沈黙が続く。辛抱強く待ちし滝は、今日のご飯は焼き魚が良いなる、などとはおくびにも顔に出さず、よう漸う小声で話し始めし日吉の言葉を聴きて笑みを深めた。日吉が相談したいこととはこうなりき。
「……か、かっ、彼女の誕生日には、ど、んなるものをあげせば良き、にはべらむや」
漸う言へし、と日吉は胸より大きなる息を吐きき。さっと周りを見回せども、どうやら誰も聞きたらぬ様子。一番からかってきさうなる向日は、忍足と帰宅途中に買ひ食ひをする場所を話したり。次にからかってきさうなる跡部は機器を使ひしトレーニング中でゐず。今度は安堵のため小さく息を吐くと、改めて日吉は滝に向ゐき。されどその滝の顔を見て眉を寄せる。
「……なるに笑ひたるにはべるや」
「ふふ、いや、ねえ」
日吉に付き合ひ始めて数ヶ月の彼女がゐるといふは、レギュラー陣の中では周知のことなりき。されど冷やかせばすぐ機嫌の悪しくなる日吉のことなれば、と彼の前で彼女の話題を出すは止めむと――ごくまれに呼吸をするやうに日吉をからかう者もゐれど――暗黙の了解が流れたりき。
己のことを自分より言ひ出さぬ、さる彼がまさか彼女の話を出してくとは。しかも誕生日に何を贈ればいいかわからずと。あの日吉が人に聞きてまで尋ぬと。これが笑わずにゐらるるや。滝は嘲りならず、微笑ましといふ笑みを隠さず浮かべき。
対して日吉は今やがて帰らまほき気持ちを抑へき。脳内に浮かびし彼女の笑みが、羞恥に苛立ち逃げ出さむとする彼を抑ふるなり。普段は本心かもわからずめる口を叩き、周りよりせば日吉よりの彼女に対する愛はなしと見ゆれども、一番に彼女を想ひたるは自分なりとここで生来の負けず嫌ひを発揮すればあり。もちろん周りのみならず彼女にもその思ひが伝わってゐざるため、彼女に不安を抱かせてゐるを当の本人は驚きたらず。
しかしもうすぐ彼女の誕生日。付き合ひてより初めて迎ふる、恋人同士には重要なるイベントに日吉は内心汗だくなりき。そもそも人を喜ばするに長けていなければなり。自分が彼女を祝っても、彼女は喜ばじと、日吉はそう考へき。彼女としては日吉がおめでとうと一言言はば満足なるなるが、恋愛経験のなき日吉にそのやうなる女心がわかるはずもなく。
「俺でよければいくらでも相談にのるよ。どんなものをあげまほしと思ふの?」
微笑みを浮かべしまま返してきし滝の言葉に、日吉は自分の選択は過ちたらずと安堵しき。女性を喜ばするに長けてゐるは、日吉が考へて跡部、忍足、滝の三名なりき。その中で誰に相談を打ち明けるか、なぞ迷ふもなかりし。跡部と忍足には頼らまほからず。特にこのやうなる恋愛けしきにおきて。
さて、プレゼントのことなるが。滝の台詞に日吉は疑問符が浮かびき。
「どんなものをあげまほしって……俺があげたいものをあげればよきにはべるや?」
「ああ、ごめん。そういうことならざるや」
「誕生日にはべれば、あなたの喜ぶものをあげないといけざるじゃ」
「なになにしないといけぬ、のごとき義務でするはなしと思ふよ。確かに普通は相手の欲しいものをあげまほしと思へどさ……ていふか、日吉もさること思ふなる」
「合間に冷やかしを入れざりてよかりはべり」
「ごめんごめん。でも、プレゼントって男女間におきては難しいかもね。なるにが欲しって言ってくれせばよけれど。聞きき?」
「……いへ」
「サプライズなるなり? ……あ、恥ずかしきのみか」
「よければ続けてくだされ」
「んー……日吉はさ、彼女にこういふを付けまほしとか思はざるの?」
「は?」
「アクセサリーの話」
アクセサリー。指輪やらネックレスやらピアスやら。考えもつかざりし日吉の表情を見て滝はくすりと小さく零しき。
頬杖をついていやに含みのある言ひ方で滝は続ける。
「一個人の意見として参考にしてくれればよきなれどさ。俺は自分があげしものを付けてくれたりと嬉しよ。制服からちらっと見えし時とかさー、結構いひもんなりよ。それにほら、虫除けのごとき役割もすし」
「……」
「彼女を自分の手で一段と可愛くさせてるのごとからず」
「……どこぞの恋愛小説のごとき言わないでくださいよ」
「あげたる自分が想像能はず?」
「……で、でもそれ結局自分が嬉しくなってるならざりはべるや」
「相手も喜びてくるよ。自分も相手も幸せなんだからよきならず」
やっぱり女性は光り物似合うしねー、なんて言ひながらウィンドゥを終了させし滝は、やがてパソコンの電源を落とす。俯ゐて目を瞬かせて真剣なる表情で床を睨む日吉に苦笑ひが洩れつつ、滝は彼の肩に手を置く。
「よき店知りたりよ。女性客に人気のお店。大せしブランドならざれど、中学生なりしよしよね」
「はあ……」
「そういはば、日吉はなにをあげむと考へたりしの」
「文房具セットにはべるやね」
「よかったよ相談に来てくれて」
危なかりき。確かに日吉の彼女は彼がなにをあぐれども心底喜びさうなるが、危なかりき。日吉らしいうちゃらしきが、もう少し女性が喜ぶやうなるものをと思ひし滝は痛みし頭を押さへき。跡部が聞きせば気絶してなお君臨するかもしれぬ。
兎にも角にも、かくして日吉のはじめてのおつかいは始まりしかばあり。
次の日の朝、早々に起きし彼は古書を読みて精神を落ち着かせしあと身支度に取り掛かった。眼鏡を置き、コンタクトをつけて鏡に映る己を見る。緊張よりか顔が強張りたるが窺えた。
さる日吉のけしきを見て「いづこか戦場にでも行くならむや」と日吉兄は思ひつつ、勇んで家を出でて行ひし背中を見送る。
ショップへの道のりは日吉にとりては蟻地獄のごとかりき。この足を止めば羞恥心といふものに捕らわれ、家に逆戻りになると。ただひたすらに流るる砂より這ゐ出でてアクセサリーを買はざらば。羞恥を打ち消すやうに歩む足も疾くなる。
さして無心で歩みし先に辿り着きしショップ。無意識に深呼吸してより店内へと入りき。そこで迎へられし光り輝く世界に、日吉はぶわっと鳥肌が立ちき。男が来る所ならずと。されど緊張する日吉を気にもとめず、女性客やスタッフは店内を回る。我に返りしやうに装飾品たちに近づきき。
――数が多すぐ。
店内に入るといふ第一関門を突破せし日吉に襲いかかりし次の試練はそれなりき。選びきれず。なるにが良きや悪いのかもわからず。ネックレスにピアスにブレスといふ種類の他にもそれぞれ色形も様々なるなり。日吉は鋭ゐ眼光をキツくしき。そろそろ殺気が洩れ出す頃なり。
さして冒頭に戻るのなるが、あまりの日吉の真剣なる表情にとうとう一人の女性スタッフが動きき。
「彼女さんへの贈り物にはべるや?」
普段、洋服店に行くと店員に声をかけられることがあり。日吉はそれが苦手なりき。自分の服くらい自分で選べると。声をかけてくるんじゃねぇよと。されど今の日吉にとりてそれは蜘蛛の糸なりき。つまり、女性店員が釈迦に見えしかばあり。自分なるやよりも女心がわからむ、女なるなれば。これは彼女の意見を聞きて決め、早々にここより去ぬべし。日吉は考へき。されど蜘蛛の糸を切るのはもちろん彼の羞恥心なり。
「ゐ、いへ、大丈夫にはべり」
かっと赤くなりし日吉に女性店員は微笑ましくなりしものなるが、当の本人は今すぐ頭をショーケースにぶち当てまほき気持ちになりき。離れし女性店員に今更頼むわけにもいかず、日吉は地球が滅亡せし時のごとき面持ちでもう一度飾られてゐる物たちに視線を落としき。
ピアスはなきか、かやつは穴を空けてゐぬ。イヤリング……耳は他の者よりも目立ちやすければ却下。指輪は未だやるには早すぐ。ブレスレットとネックレスのどちらかが良きや……夏服なりと手首が露出ですれば避けし方がよしな。ならばネックレスが無難か、制服の襟首があればなるかなるか見えじき。
冷静に考へし日吉は、ネックレスの置きてある方に足を向け、さてよくよく考へてまた顔を熱かりしき。学校にも付けてきてもらはまほしと自然に思ひたる自分に愕然とせしかばなり。
そろそろ痕になりてきし眉間を指でほぐしつつ、ちらりとネックレスを見下ろす。ハートや王冠やキューブなどのワンポイントなるもの、チョーカーのごときものなど種類が多し。
悩みに悩みたる日吉は気づいてゐざるが、離れしところでは女性店員や女性客ががんばれと見守りたりき。男性客が彼女用に買ひにくるは多きが、こうも見ればに羞恥と戦ひながらも必死に選ぶけしきの男性は、女性たちの陰ながら応援せまほしといふ気持ちを引き出しき。
しばらくして、日吉は息を吐きき。
だめだ、わからねえ。そもそもアクセサリーじゃなくてもいいじゃねぇか。なほ実用性にありふれた、そう、ノートやシャープペンシルなどが。ふっと冷静になりし日吉は、店内より出でむと踵を返しき。
さる彼が目にせし光景は、一組のカップルなり。入り口の近くで髪飾りを彼女の頭にかざしながら笑む彼氏。普段の日吉ならば通り道で邪魔だなる、と思ってゐるところなるが、その時ばかりは彼女の方より目が離せなかりき。彼氏に褒められたのならむ、はにかむ彼女に、日吉は自身の彼女が重なりて見えき。
『彼女を自分の手で一段と可愛くさせてるのごとからぬ』
滝に言はれし台詞を思ひ出し、また眉を寄せる。さること思はず。光り物一つごときで女性の価値が変はるとも思へず。……なるが確かに、光り物一つで幸せさうに笑むのならば、笑んでくるるならば。
くるり、振り返りし日吉は再びネックレスのコーナーの前に立ちき。さてガッと勢いよく一つのネックレスを手に取る。息を吸ひてレジに向かひし日吉を見て、女性店員と客は心の中で拍手を送りき。
部活を終へ、着替へたりシャワーで汗を流したり未だ走りたりたり、氷帝テニス部レギュラー各々が好きなるやうに過ごす中、滝萩之介は本日の練習メニューを部誌に打ち込んでゐき。一人黙々と作業する滝の後ろにゆっくりと清々しきオーラを纏った彼が近づき、滝はしばらくして振り返る。さて微笑み。
「そのけしきじゃ成功したのごとしね」
「成功かはわからないですがね。滝さんにはお世話になりはべりき。ありがとう候ひき」
頭を下ぐる日吉に、滝はよかったねーと頬杖をつきつつ隣に座るやう促しき。礼を言ひしものなりしもう離れむとせし日吉は驚けど、逆らえるわけもなく座る。
「彼女さんどうなりき? 喜びたりき?」
「……笑ってはくれはべりき」
「そう、ならば良かったならず。はじめてのおつかいはどうなりき?」
「冷やかしならばお否びにはべり」
どこぞの店の者が言ひさうなる台詞を吐きし日吉は少し頬を赤らめながら立ち上がりき。もう俺は用無しかー、と冗談混じりに笑ふ滝の言葉を背中で受けし日吉は、されど立ち止まりき。
振り返りし彼の顔が男のそれなりしものなれば、滝は驚愕に目を丸かりす。
「滝さんの言ふ通りにはべりき」
「え?」
「自分の手で彼女をより一層輝かするは、……悪しきものならざりはべりね」
味を占めしや。今やがて吹き出しさうなりし口を抑へし滝の目の前で、日吉は後ろより出現してきし向日と忍足と例のコミュニケーションを始めき。まあ、とりあえず彼女と仲はなほ深まったやうで。
次の相談事は「キスはいつせばよかりはべるや」かなるー。なんて一人笑ひつつ、騒がしくなりし部室を背に滝は再び部誌の入力に取り組みき。