▼ 忍足に家庭教師する
「侑ちゃんのカテキョしてやりてや名前」
大学一年生にして、今年度のミスコンに選ばれた恵里奈様に頼まれれば、応としか答ふるは許されず。相も変わらずクールなる表情で、されど呆れを滲ませた彼女はその"侑ちゃん"を思ひ出したるならむ。ふうと一息つきき。
「侑ちゃんって、恵里奈の兄弟の。何年生なりっけ」
「中三。名前、数学わりと得意やったやろ? 侑ちゃんに教へてやりて」
「侑ちゃんは数学苦手なるの?」
「って言うてんやけどな……」
堪忍なる、ほんま堪忍……と指を組みし恵里奈が頭を伏す。いかでさるに謝るやと疑問に思へど、中三か……と別に考へ込む。中三。最近の中学生のレベルは高しし、私が行ひしところで教へらるとも思はざれど。
「うーん、でもこれで侑ちゃんの方が頭良かりせば大分ショックなりよ」
「大丈夫や、そこは上手いことやる」
「は?」
「上手き教えられるて」
にっこり笑ふ恵里奈は、なんとなくつくり笑ひのごと~で、裏に何か考へてよさうなる感じはあったけれどそれがなるにかわかるほど私は彼女との付き合ひが未だ長くはなかりき。大学よりの付き合いなるものなれば。
無理そうやったらすぐやめてもええし。と彼女に背中をぐいぐいと押され、元々逆らえなかりしもあり首を縦に振る。恵里奈が怖いといふわけならざりて、単純に美人に弱し。
「侑ちゃんも喜ぶわあ」
うれしさうに笑ひし恵里奈の顔をまじまじと眺む。この彼女の妹さん……同じく美しきやな。喜ぶ架空の侑ちゃんを浮かべ、私はその日より中学三年の数学をネットで調べき。
「あかん、今日晩メシなんやりきっけ」
自宅を前にしてそうぽつりと零せし恵里奈に、私はなるにも返事をせず内心笑ひき。唐突なところあり。しかも美人の口より晩メシだなんて、あからさまにギャップ。
恵里奈は一瞬止まれど、まあええかと扉を開けき。他人の家のにほひといふは、どうしてこうも感ずるならむ。忍足家のにほひは、好きかもしれず。お邪魔しはべりと玄関に入らばなほ濃くなる。靴を脱ぎ、端に揃えると「そんなんええって」と軽く笑ひし恵里奈の背中につきていきき。
「侑ちゃんプリン好きかな」
「さるん買うてきし? あぐれどもこなたが期待したる反応は来ぉへんて」
リビングに入り、恵里奈の促しでソファに座る。ガラスのローテーブルの上に持ちてきしプリンを置かば、同じくガラスのグラスが彼女の手より降りてきたり。中には冷えし麦茶。
持ちてきし教材をカバンより出したりと、リビングの扉が開きて男の人が入りてきたり。髪は襟足まに、丸眼鏡。お父さんかなと思へど、それにしては若すぐ。お兄さんかな。
しまひし、プリン買ひたらず。
「あ、お邪魔してます。恵里奈の友だちの苗字と言ひはべり」
「初めはべりて。弟の侑士と言ひはべり。今日はよろしゅう」
「……?」
全てが理解できず、作りし笑みはやがて消えき。弟。恵里奈、弟がゐしの。ゆうし。侑ちゃんって、もしかして。今日はよろしゅう。それじゃあ。
「あ、あの、侑ちゃん……?」
「堪忍しいや、学校でまでそなき呼び方してんのかい」
「癖になりたらず」
面白おかしさうに吹き出しし恵里奈が、彼に近づき手を差し向ける。「侑ちゃん、ウチのかわええ弟やで」満面の笑みで紹介してくれし彼女に、侑ちゃん……侑士くんが煩わしさうに顔を歪める。引きつった私の口より洩れた言葉は、「仲良しね」というありきたりなる感想のみなりき。
リビングにて勉強を始めて30分。わかりしがあり。侑士くんは頭がよし。違はず。少なくとも数学が苦手とかこれっぽっちもなし。
「この問題の解き方がよぉわからへんねん」との言葉より始まるが、私が拙ゐ説明をすとうんうん聞きながらやがて答えを導き出したり。私がわからぬ問題があらば、「こういふ公式使はば解けるやな」と上手き具合にかわしていく。といふか私の説明聞きたらぬ……私が解き方書きたれども手元見たらずし……私の顔見たりし……のわりには私が見ると顔そらすし……。
「めっちゃわかりやすしな。名前さんの説明」
「……いや……そういうのいいんでほんと……」
本気でお世辞にしか聞こえず。
次は応用問題を解き始めし侑士くんに、私は彼の記す公式を眺め、そしてふと彼の顔を見る。
妹さんならざれど、美人は美人なりき。クールなるところは恵里奈と覚えたり。でも侑士くんの方が静かなるは、なほ男の子なればなるならむや。異性と二人きりの時の中学生男子って、例の煩さが消えてかしこまってたイメージがあり。なんだか懐かし。
思ひ出し笑みを浮かぶと、ちょうど問題を解き終へし侑士くんが顔を上げてバッチリ目が合ひき。不審さうに眉を寄せられる。そりゃさうなり。
「なるにはべるか、笑うて」
「あ、えっと、恵里奈と似てるなありて」
「ええ……嬉せずかな。高飛車やろ、あの人」
「そんなことなしよ。いみじく優しき人。友だちになれしが奇しきくらい」
「顔も好みなる美人さんなりし」冗談混じりに付け加える。
しばらく黙ってゐし侑士くんは、さうにはべるや? と小首を傾げた。頷くと、彼はペン回しを一回。
「ほならば、姉貴に覚えたる言ふ俺も、優しいっちゅーことでええにはべるや」
「……それはわからず……会ひしばかりにはべりし……」
「それもそやな」
シャーペンは回りきらず、テーブルにかしゃんと落つ。ペン回しが下手らし。ゆっくりと持ち上げしシャーペンを構え直し、彼は頬杖を付きながら完全に私へ向ゐき。
「いづこが覚えたる言ふにはべるや? 俺と姉貴の」
「えっと、……綺麗なる顔とか」
「そらおおきに。ならば、好みの顔なるや」
これは否定能はず。恵里奈の顔を好みと言ひし上で、彼女と覚えたりと言ってしまひしなれば。
ぱかりと開きにし口をどうにか閉じ、困ったなと頬に手を当つ。さすが恵里奈の血筋……色気がなるやあり。別に口説かれてるといふわけならざるをムズムズしぬ。
「お姉さんをからかうもんじゃはべらず」と返さば、はははと声のみで笑はれき。なるならむ、中学生には見えないね侑士くん。
「キャーー!! ゴキやーー!!」
「!?」
甲高き悲鳴が聞こえ、驚きで飛び上がりき。キッチンの方でお菓子を作りたりし恵里奈が、恵里奈らしからぬ声で叫びながらこちらの方へやりてく。ご、……例の名前を言ってはいけぬヤツが出現しきと。場の空気が一気に張り詰める。
「侑ちゃんなんとかしいや!!」
「横暴やな」
「ゴキジェットと牛乳パックあり? 私が始末すよ」
「えらゐ男前やなる名前さん……」
忍足家と違ひて私はもう少し貧乏なる家に住んではべれば対策くらいは取る。苦手といはば苦手なるが、私以上に苦手なる彼女の反応を見ば一気に冷静となりき。
されど立ち上がりし私の肩を掴み、制せし侑士くんが前に出づ。「俺が」低く落ち着く声で囁ゐし彼は、戸棚よりゴキジェットを取るとヤツに近づきき。背中がたくまし。
怯える恵里奈の温もりを背中に感じながらも、侑士くんを見守る。ヤツにゴキジェットを構えた彼が一思ひに噴き出すと、その前にかわせしヤツが侑士くんの顔に目掛け飛び。
見事反射的にキャッチしにし侑士くんを見て恵里奈の断末魔がリビング内に響きき。
「ほんましばらくは触らんとゐてな」
「お前……救世主に言ふ台詞かいなそれが」
再びローテーブルに戻り一休憩。されど恵里奈は侑士くんより3m離れし場所で彼に一切近づこうとはせざりき。お菓子作りも急遽なしになりきめり。
異様なる空間となりし場を、とりあえずプリンで和ませむと促す。「たまへはべり」と手に取りし侑士くんの右手は先ほどヤツをつかまえた右手か……とか思うたりしたらざりはべり。
「侑ちゃんゴキ捕まえた手でプリン食ぶる!?」
「やかましわ石鹸で何度も洗たわ。しばらくネタにする気やろ」
「あったりまえやん、こないおもろゐず」
「ハア……名前さん、優し?」
「いや……あはは」
心底疲れしやうに顔を片手で覆った侑士くんが恵里奈を親指で差しながら小声で訊ねてきたり。答へきれず。お姉ちゃんといふ生き物は強し。
「感触残りて気持ち悪しきは確かやな」苦き顔でボソボソつぶやきながらため息一つ零せし彼。なんだか可哀想になりてきたり。例のヤツを素手で捕まえるのはさすがにショックだよねわかる。いくら手を洗ってもね、気持ちがね。
い未だにスプーンを握ろうとせぬ侑士くんの手を取り、無理やり握ってみる。ぎゅっぎゅと何度も人の手の感触を記録するやうに握りこんなり。
初対面のやつが急に接触するなんて非常識なれど、例のヤツよりかは嫌がられなからむ。と信じる。
侑士くんが固まって数秒経ったので、パッと手を放しき。
「あの、感触消ゆるかなりて」
「あ……おおきに……感触……うん、柔らかしな」
「例のヤツよりかはそりゃあね」
笑ひながらも、さて私もとプリンに手をつく。美味し。よき土産になったのならじきや。
忍足姉弟が沈黙しながらプリンを食ぶるため、私もつられて黙々とプリンを口に運ぶ。漸う忍足家ならばではの空気に戻った気がす。あまり口数の多からぬ空間に、されど落ち着くなるあと思いながらぺろりと平らげた。
次に侑士くんと会ひしは電車の中なりき。座席に座りながら文庫本を捲るその姿はなるとも絵になりたり。扉の横に立ちながらさる彼の姿を見て、そしてああやっぱりとこめかみを抑へき。
また家庭教師やらまほき、と恵里奈に頼まれたがなるかなるか時間が合わず、次の機会はそう訪れなかりし。あまり上手く教えられなかったこともありて、まあ、私も中学三年の頃の勉強を学び返してはみしものの、多分もう侑士くんに教えることはなからむと思ひたれど。げに頭良かりしなり。氷帝学園の制服を着てる彼を見て、ため息一つ。めちゃくちゃレベル高いお金持ち学校ならざるや。
いかで家庭教師なんて頼んできしならむ、と疑問に思ひながら彼を横目で見たりと、侑士くんはふと文庫本を閉じて、荷物棚よりラケットバッグを下ぐと席を立ちき。斜め前に寄ってきていたご老人に席を譲り、さて扉付近……私への方へと人混みを避け向かひてく。逃げるわけにもいかず、しばらく目を泳がせて、さて覚悟を決めて見上げき。
「見てたよ、侑士くん。席譲ってたね」
「譲ったんちゃいますよ、名前さん見かけしかば話そ思て」
ぼそぼそと小声が静かなる電車の中に溶け込んでいく。ラケットバッグを足に挟むやうに立ち、私を囲むやうに腕をつかまり棒に伸ばしし彼より少しだけあの家の香りがしき。
沈黙は別に苦手ならざれど、なるとなく何か話さなくてはと話題を探しぬ。侑士くんは話さむと思ひきと言ひしくせに、口を開かず私をじっと見下ろしたりき。
「あの、いかで家庭教師頼んだの? 頭良いよね、氷帝学園とかいみじよ」
「そないええわけちゃゐはべりよ。まあ確かに教わる必要はなかったかもしれへんけどな……」
「ほら。もう」
「必要はなくとも意味はありましたて」
「意味?」
「名前さんと出会うきっかけや」
一拍置きて、乾きし「え」が口より洩れる。中学生とは思へずめる大人っぽき笑みを浮かべながら小首を傾げた彼に、瞬きが何度となく繰り返さる。
電車内に響く次の駅へのアナウンス。徐々にゆっくりとなりていく電車の速度とは逆に、加速していく脈拍が熱を上げき。そういはば、好みの顔なりき。この人。恵里奈とは違ひて、直視してはいけず。
手すりを掴みたる手とは逆の手を取らる。思わず身構えたが彼の力には敵わなかりき。例のヤツの感触を消しし時とは違ひ、侑士くんの手のひらが私の甲をさらりとなぞりてより指を絡めてきたり。さて向かひ合わせになりながらも、ぎゅっと恋人繋ぎのようなそれの出来上がり。
「握手やのーて、こういふ関係になりたいねん、俺は」
息が止まりて、驚愕に目を見開きながら彼を見上ぐ。やがて離れし手のひらの感触は、あの時とは別物のごとく思へき。
駅に着き、すぐ隣の扉が開きて侑士くんが動き出すと漸う時間が動ききと錯覚しき。この人怖すぐ。一瞬で持っていかるるかと思ひし。
「どうやりせばなるるか、また教えに来しってなる、名前先生」
通りすがり様に投げかけられし落ち着きし声に、ぐるぐると迷走したりし私は咄嗟に「やなりよ……!」なんて言葉しか言えず。私の反応がをかしかりしや満足したのかわからざるが、侑士くんはラケットバッグを背負ひつつ、はははと小さく笑ひて電車を降りていきき。