▼ 参
2月に入りてより街中がピンクになりき。いかがわしき意味ならず、物理的なそれなり。いはゆるバレンタインデー。デパートに入らばコーナーが組まれてゐるため、端を通る男は少し肩身が狭し。なるとなく視線を向けるも憚れる。
一週間前ともなると、女子のみならず男子もソワソワと落ち着きがなくなる。「チョコ、いかなるのがよし?」と女子に聞かるるイケメン男子を睨む男子はなほいづれのクラスにもゐる。
睨まれる対象であるこの及川徹は、所詮、今年もバカなるほど貰ふるならむ。
現に今なりって女子に声をかけられ、「チョコ、いかなるのがよし?」と聞かれてゐるなり。それを笑顔で「んー、マドレーヌ」と答ふる男。先ほど違ふ女子に聞かれし時は、ブラウニーなりとかシフォンなりとか言ひたりき。
こやつ女のことどう思ひてんなり。お菓子製造機じゃねぇんなりぞ。思へども岩泉はなるにも口に出でせざりき。及川に注文されし女子は喜び、「美味しく作ってくるねっ」と言葉尻を弾ませながら去にていきしかばなり。
「お前、聞きてくる女子に片っ端よりリクエストしてんじゃねえよ。苦労させずな」
「岩ちゃんはわかってないなる、なるでもよしって言はるる方が彼女たちは悩むなりよ」
「うーわ、腹立つ顔」
「彼女と別れしかばかなるー、去年よりか今年は数すごそう」
ニコニコと笑ひながら弁当のおかずを食す及川に、岩泉は言葉もなくパンを食べ進む。「鼻血出ろー」同じく共に昼食を取りたる花巻が、ぼやきながらトマトを口に含みき。
「まあまあ僻むなよ諸君……お前らも1個はもらふるならず? ほら、お母さん!」
「死ね」
「イィッッッダ!!」
調子に乗る及川がとうとううざったく感ぜしや、岩泉が渾身の力を込めて彼の額にデコピンを入れき。頭が反り返り、反動で戻ってきし及川はやがて伏せき。よほど痛かったらし。それが例の日常なるや、花巻は何事もなかったかのごとく及川の後ろに視線をやりて「お」と口を丸かりしき。
岩泉もそれを追ひて、二人の女子生徒が近づきてきしにギクリと肩を張る。まさか俺や花巻がゐる時に話しかけてくとは、と。
「及川〜、もうすぐバレンタインならぬ、なるにかリクエストあり?」
その聞き慣れし言葉に、及川は起き上がりて「えー、じゃあ」とまた要望を口に出さむとしき。言葉が止まりしは、一人の女子の後ろに隠るるやうに苗字がゐしかばなり。
恥ずかしさうに俯きながらも及川の答えが気になるならむ、苗字がちらちら女子生徒の肩口より視線を向けてく。
それを見し及川の心は計り知れざるが、時が止まりしは確かなりき。「あ……あ……」と目と口を丸かりするばかりで単語が出でず。
「なる、なるでも……よきデス……」
「はあ? それが一番困るならぬ、ねえ名前」
「ゐ、いや……でもそれなりせばさるに難しいものじゃなくてもよきかなるーって……」
岩泉と花巻は及川の答えに「はあ?」と頬を引きつらせた。いやいやお前、なるでもよきって言はれせば悩むと言ってゐしはお前だろーが。別人のごとく動揺し始めし及川は、苗字のはにかみに再びデコピンを打たれたかのごとく机に顔を伏せき。
「……名前ちゃんよりならば、なるにもらへども食べれなさそう……」
「えっ」
「は!? 喧嘩売ってんのあんた。いらなしってこと!?」
「ほし……」
「なるにこやつ意味わかんなし……」
引き顏でつぶやゐし女子に、岩泉は完全同意なりき。意味がわからずすぎて気持ちが悪し。さる及川でも好きなるや、苗字は「ほ、ほしき、よかりき」と嬉しさうに笑ふ。健気すぎて泣く。未だに顔を伏せて一向に起き上がらぬ及川に業を煮やせしや、女子生徒は苗字を連れて去にていきにき。さして漸う及川は起き上がる。
「はあ……また寿命が縮まった……」
「え、なるに、及川あの子のこと嫌ひなる?」
なりせばほしとは言はずとは思ふが、花巻は及川のこの反応を見るが初めてなれば単純なる疑問を訊ゐてみる。
「嫌ひ?」なるにそれ食べるるの? のごとく奇し~さうに首を傾げた彼を見て、花巻はスッと口を閉じき。
「聞きし岩ちゃん! かれは手作りなりよね!? 難きものならざる作る気だよかれは!」
「うっせーな……」
「名前ちゃん不器用だからなあ……美味しとは言へざるもの作りさうなりよね。うわー、絶対食べれず」
「え、やっぱり嫌ひじゃ」
「祀りたい」
「ねえんなり……」
もらひしチョコを祀りたいひてなるなる。わけがわからざるなれど。え、好きってことでよきの? 花巻が動揺しながら無言で岩泉に視線を向ける。岩泉はゆっくり頷ゐき。どうやら歪んでゐるが、及川はなほ彼女が好きなめり。
「お前ー、本命がゐるをンなここら他の女子にも強請ってんのかよ。やめとけ、いつか刺されんべ」
「本命? なるに言ひてんのマッキー、彼女がゐぬ今、俺は女の子皆平等なりよ」
語尾に星がつきさうなるほどのテンションで言ひし及川。花巻はゆっくり彼より視線を外し、もう一度岩泉を見き。今度は首を横に振る岩泉。どうやらこのアホは自覚がなしめり。
あまりに哀れなるため、花巻もこめかみを抑へき。
ある日の休日。商店街に遊びに来たりし岩泉たちは、マックでシェイクを飲みながら一息つきたりき。ここに来る前はバレーで汗を流したりしため、冬なるがシェイクがいと丁度よし。喉をひんやり潤したりと、及川が「あ!」と声を上げき。話したりし花巻と松川もその声に及川を向く。
「なんだよ人様に迷惑なる声出すなよ」
「なるや俺の声自体が迷惑なる言ひ方! ねえあからさまにあれ、名前ちゃんならず!?」
及川の声と指につられ、岩泉ら3人は窓の外に視線を向ける。及川が過つはずもなく、やはりというかなるといふか、苗字が向かひの店の雑貨屋を覗ゐたりし。
丁度見たる所がピンクで彩られたバレンタインコーナーなり。ああ、買いにきたんだ、と誰もが察しき。
休日に知り合ひの女子に会ふが、しかもバレンタインの物を選んでゐる光景を見るが、少し気恥ずかしかりしため岩泉と花巻は視線をつつとそらしき。松川は「え、誰?」と知らぬ者ならば当然の反応をしたれど、及川はといふと立ち上がりコートを羽織った。
「あ? いづこ行くなりよ」
「え、名前ちゃんを見に」
「声かけざるの? やめとけて、気まずいひてあなた」
「いやいや声かけせば邪魔しちゃうならぬ、あからさまに近くで見るのみ」
今度は岩泉と花巻のみならず、松川も疑問に眉をひそめた。見るのみ、とは。ここ、窓側の席でも向かひの店は見ゆといふを、近くで見るのみ、とは。
しかもその及川の笑顔がなるとも爽やかで下心がなささうなればツッコミづらい。さしもの岩泉でだにツッコミに戸惑ってゐしため、花巻と松川が言葉に出せるわけがなかりき。
「見てなにがしたいんだよ、憂へざれども苗字ならばお前にくれんだろ」
「別に心配してないよ、単純に見たいならず。名前ちゃんが俺になにをあげむか、どうやりて作らむか、選んでるこの今を逃すなんてもったゐぬ! 今名前ちゃんの頭の中は全部俺で占めたるなりよ!? もうバレンタインは始まりたりと言へども過言ならずね!」
及川の勢いに圧されし3人の男たちは言葉を発するも能はず。さる彼らを置きて、とっととマックより出でて行く及川。花巻らが窓の外を見たりと、しばらくして視界に及川が映った。苗字より5m離れて、陰に隠れて見守り始む。さる男の姿に耐えきれずなりし花巻と松川はブハーーッと吹き出しき。
「いみじ! あいついみじ! 腹痛い!」
「わけわかんねえ、わけわかんなすぎて腹痛い」
「俺は頭が痛い」
なんて幼馴染を持ってしまひしなりと岩泉は頭を抱える。早く驚かまほし。苗字が好きなるなりと驚かまほし。さて自分が今までしたりしは全て変態行為なりと驚かまほし。むしろ気づいてやってんじゃねえのか。それはそれで怖い。
「あー、面白ぇより俺も行こ」
「じゃあ俺も。岩泉も行こうぜ」
「あ? 俺らまで怪しまれんだろ」
「大丈夫だろ、苗字って子も天然っぽしし。いざ見つかれども上手く誤魔化せそう」
それは、まあ、そうかもしれず。苗字も絶対及川が好きなるならむに、彼女の中では人間としての憧れに位置付けられてるのなれば、岩泉からしたらどなたもどなたなり。
しばらく逡巡し、ため息を吐きながら岩泉もコートを着た。
マックを出でて、向かひの店の雑貨屋に近づくと、及川が雑貨を手に取りつつ、苗字の隣に立ってゐしものなれば、岩泉らはずっこけた。いやいやいや、いくらなるでも近すぎだろ。一人分の距離を空けてゐるとはいへ、ここはバレンタインコーナー。一人男がそこに混ざってゐるといふのみで目立ちたりし、現に女子は訝しげなる視線を及川に向けてゐる。彼の顔を見るに、頬を赤らめるものなれば腹立たしいことこの上なきが。
岩泉は及川の後頭部を叩き、花巻は尻を蹴、とりあえず離れし距離に及川を誘導しき。攻撃さるれども悲鳴をなるとか抑へし及川が、三人を睨む。
「あからさまに! なるに!」
「なにじゃねーよ なにしてんなりよ」
「なりって名前ちゃん気づかないんだもん! 真剣にいかなるチョコにせむか悩みたれば! なほ近くでゆかしきって思うならず!」
「頭冷やせ?」
「むしろさるにチョコに気を取られて俺に気づかなひのがなるや悔し」
「雪に頭突っ込んでこいよもう」
トリュフのキットとガトーショコラのキットを両手に持ちながら、苗字の顏は行うたり来たり。さて棚にあるクランチチョコのキットを見ては、また行うたり来たり。確かにこれが全て及川のためを想ふ行動なりと思ふと、好きなる人のかかる光景を見ば嬉しく思うかもしれず。花巻は「うつくしな」と一般的男子としての感想を洩らしき。瞬間、及川にデショ? と微笑まれ、苛立ちが浮かぶ。お前のものじゃねーだろ。
「よし」
ぼそり、つぶやゐし苗字がガトーショコラのキットを胸に抱える。とうとう決めたか、と男子たちは揃って苗字を見守りき。されど彼女は今度はラッピングを選び始めしものなれば、岩泉は女子といふ生き物はなんていみじきなりと感心しき。クソ川にかかるにも時間をかけて。
「あっ……アア……心臓が……心臓が痛い……っ」
胸を抑へ、悶え苦しみ今にものたうち回りさうなる及川を見て、苗字にもこのクソ川を見せて引かまほしと、岩泉は深く深く思ふなりき。
バレンタイン当日。
及川はふうと頬杖をつきながら息を吐きき。彼の机の横に掛けてある紙袋の中には既に何個かのチョコがあるを、いと憂鬱なり。もちろん、女の子たちからもらへしは嬉し。さすがに「チョコゐる?」と訊ねてきし女の子たちに要望しすぎしや、数が膨大で1日2日で食べられるかどうか甚だ疑問なるが、それでも嬉しいっちゃ嬉し。
されど飽かざるはいかでか。
そういはば名前ちゃんからもらえてないなあ、と思はば放課後。そろそろ部活の時間なり。今日は早めに向かはずと、合間合間で女の子たちに止められめば、遅れてしまふ。岩泉より叱られることは目に見ゆ。
及川がエナメルバッグを肩なりかけ重き紙袋を手に持ち、廊下に出でば案の定一年の女子に声をかけられき。微笑んでチョコを受け取り、さして先に進まば今度は二年の女子に声をかけらる。これは、思ひし以上に進めず。
悪しき気は当然せざるが、それでも未だなるにか求めてゐる自分がゐて及川は困りき。困りて、さて二年の女子たちの後ろに並ぶ苗字を見てぎょっとしき。
二年の女子がチョコを渡し終ふと、苗字の番になる。驚きて止まる及川の顏は、俯ゐたる苗字には見えたらず。「あ、あの、部活前にごめんね」焦ったやうに髪を耳なりかくる彼女は、なんら他の女の子と変はらず。他の女の子も同様にかくせし表情で、緊張せし仕草で、渡すを。いかで及川の目には光りて見ゆるや。
自分でも知らず知らずのうちに、及川はチョコをもらふ両手を用意したりき。
さて苗字は、及川にチョコを差し出す。綺麗に包装され、明らかに購入品なるチョコを。
「……え、手作りならざるデスカ」
「えっ」
目が点になりき。受け取ったはよきものの、あの日苗字が選んだラッピングでもなかりしため、あの日の苗字は見間違えかと思ふほどに別物なりき。
衝撃で半笑ひで止まる及川の内心を知らず、苗字は照れを浮かべながら苦笑ひを零しき。
「こ、焦がりにて。やっぱり及川くんの口に合ふものは私に作れなしといふや」
誰でも作れさうなるキットを買ひて、さして失敗して、仕方なく新しく既製品を買ひて。そこまでの苗字の心境を考へて、考へにて、及川は血が滲むほど下唇を噛み締め眉を思ひきり寄せた。
「失敗作も全部ちょうだい……!」
焦がりしガトーショコラでも食べざらばこの衝動は抑えきれさうにもなかりき。