▼ バネさんと遊ぶばかり
我はいはゆる箱入り娘なりけると驚きしは、海に向かひてT袿を脱ぎ捨てつつ飛び込みゆく男の子たちを見し時なり。
波しぶきを上げて豪快に笑ひつつ半裸で魚ごっこをせり。ゆゆし。
ここ、六角の地に来るまで、花の舞ふめる会話で茶時間を楽しむが"遊び"と思へり。どうやらここは違ふめり。
空と海の色の混じる線を視界に入れつつ、今までの常識を覆すめる光景を眺めて立ち尽くす。潮のにほひがなんとも言へぬこはさで、ならふにはころかからむ。せっかく巻きし髪もパサパサにならむ。
ここに、住むのかあ。ふうと吐きし息は潮風に浚はれゆきき。引っ越しはたてまつり方なきものとはいえ、のどかすぐる空気に居心地悪しさを感ず。よも父親以外の裸(上半身)を、着きし早々五分で拝見するにならむとは。
「お、見ねえ顔なり」
ぎくりとこはくなりし肩を落ち着かせ、いつの間にか隣なりて顔を覗き込みきたりし人に向く。
明らかに美容院ならずおのれで揃えせめる髪、そして焼けし肌。にかりと笑ふ顔は彼のけはひを表しし様なりき。
「観光っすか? 海はよからむー」
「いえ、我、本日引っ越してまいりき。汝はこなたの方なりや?」
「あな、さるぞ。にすれども引っ越しか。良き土地に来たりは、お嬢さん」
歯を見せし笑顔はここ何年と見たらざりしため、その白さや笑い皺に驚きき。そ、そうか、人間てこのごとく笑うんだっけか。微笑みとは別物すぎてとばかり見とる。
「海は心地良しし地元の奴らはみんな優し。貝や魚はかしこしし最高なるぞ」
「へえ、そうなりかし。のどぐろやアワビは我もいと恋しきなり」
「喉の黒き魚なんていたっけな……。ウチはハマグリとかアサリならば取るるぞ」
「アサリ……」
知らず。されどこれから住む地域の方に浅学とはおぼゆまじきため、笑みつつ「楽しみなり」と頷きき。
「あれ、バネさんじゃん」「バネーとくきなぞー」海の方より発条を呼ぶ声のきこえし途端、目の前の男の子が大いなる声でいらへき。あな、彼が"バネ"といふ方なのか。
あまりの声量に、管弦楽が目の前で始まりきやのごとく驚きぬると、バネさんが「ワリィワリィ」と快活に笑ひき。
人間てかく大いなる発声やせらるる、と仰天せると、バネさんがとみにT袿を脱ぎだせば卒倒しにけむおのれを抑へき。
「な、なにをして……!?」
「ん? いや、脱がずはしほたるれば」
「あ、かの、なんぢ方には恥じらひといふものは」
「カッカッカ! 面白ぇことな言ひそ! 恥じらひたらば海で遊べないじゃないっすや!」
バシバシと肩を叩かれき。ち、力強しし、人に叩かれし初めて。こや折れきまじからむ……帰ればレントゲンを撮りに行かずは。
それよりも早く服を着なむ。太陽光が肌に反射して眩し。よき筋肉の締めたよりなりかし。麗し。
「うし、せっかくだし海入りましょーや」
「え、入るとて、でも我水着なんて」
「靴のみ脱がば大丈夫なるぞ」
既に靴を脱ぎそめたるバネさんに、狼狽えつつ砂浜を見る。我の知れる砂の色ならず、こはからむそれ。見ば所々に流木の枝散らばれり。足が切れむ、と冷や汗を流しき。
「またのついでに」と丁重にいなびば、気にもせらぬようにそうかと笑はれき。
「未だ海見てんのか? なら六角の家でも行かばいっするぞ。ここじゃ暑さでやられぬ」
「六角の家……?」
「ほら、あそこ。海の家のごときなり」
「わあ、美し。砂浜に家を建つかし。でも六角の方々が住むには小さしまじや?」
とかく挨拶をせずはですね、と続くると、バネさんはぽかんと目を丸くしつつ我を見下ろし、そして我慢のせられずなりしようにお腹を抱えて大笑ひしそめき。
「おふ苗字、いかがせる壁とにらめっこして」
「バネさん、良きにうちいでたまひき」
六角中で彼と同学年とわかりてから、バネさんは学校で顔を合わするたびニカニカ笑ひつつ声をかけてくれき。
驚くべきは、それの彼のみならぬなり。ありし学校は「ごけしきよう」と一言で、一定の距離を保つ方々が多けれど、おそるべし六角中、「苗字さん味噌汁飲むべー!」と気軽に話しかけたまふ方が多々。おかげで出で汁の効きし味噌の汁の恋しき食ひ物順位上位に入りき。
されどただ楽しきばかりならぬが学校。排球を持ちつつ壁と向き合いため息一つ。
「球を上ぐべからぬ、わざと下が」
「苗字の腕ほそっこいしは。よしよし、我と特訓すや!」
バネさんも体育の帰りなりきや、肩にかけたりし運動着をほっぽり投げ、我に球をくれと手で合図しくる。いけぬ、と首を横に振らば疑問符を飛ばされき。
「衣服をさ置くと皺になりぬ。畳みおかむ」
「おお、苗字は母ちゃんみてぇなりは」
「我は未だ子をまうけしはなきぞ」
「ははは! だとすればびっくりなり」
面白おかしそうに笑ひ、運動着を畳みしバネさん。さても改めて我に向き直り、球を要求せり。ふわりと球を上げば、「下はかかり」と腕を伸ばし、球は軽々と我の手元へ戻りくる。
構え方をまねびして両腕を伸ばし、ポージングをきめてぎょっとせり。手首きはが紫色に変色せり。「ひ!」と悲鳴を上げき。
「なり、いかがせり」
「わ、我の手首が、な、なにか感染せるめる」
「感染! ッハハ、内出血も知らずや」
内、と曰く皮膚の内側で出血といふか。初めての出来事に戸惑ひ、ひとへにおのれの腕ならずめる錯覚に陥る。
近くまで寄りきたりしバネさんが、我の動揺を眺めつつ宥むるように笑む。
「苗字が体育頑張りし証なりは」
「そうなりかし、もう少しめでたき証が良かりけり」
「カッカッカ。苗字には谷上手くなってもらわかばな」
「いかで?」
「海辺で一緒にやりてぇならずや」
海辺谷は我も知れり。やりしはなけれど。外国の白き海辺とあはすと綺麗とは言へぬ砂浜を思ひ出し、曖昧に笑ひて頷きき。
髪がパサつく潮風を受けつつ沿岸を散歩す。我もそろそろここの空気に慣れずは。
六角の方々を見たると、海に入るるは"遊び"の必須条件に思ふ。男の子のみならぬ、女の子もT袿のまま入れり。さるはバネさんを含めし多人数でさ遊びていたのなればともし。
我は六角に来てから未だ遊ぶことはせられたらじ。
潮風を吸ひ込まば、むせかえって咳を数回。ふと視線を感じて横に向かば、バネさんが二匹の犬と一緒に歩ききたりき。
「よ、苗字。苗字も散歩か」
「バネさんもですか。わあ、美しき一ちゃん」
「ジェイクとリッキーとて言ふなり。餌やりてみるや? 飛びつくぞ」
「ありがたく。Wait,Wait」
バネさんより餌を貰ひて犬の前に手を出せど、なんだか待つ気配がなし。おかしは。バネさんの犬なれば、躾はしっかりとされてさされど。
「Sit down」まで言ひし時、バネさんがプハーッと吹き出しき。
「ワリィ! ウチのは日本語しかわからぬなり!」
「あ、そ、そうなりかし。失礼せり。じゃあ……待ちたまへ」
「ここでも律儀なりや苗字は!」
カッカと笑ふバネさんはひとへに犬を撫づるみたいに我の頭を混ずるように撫でそめき。少し嬉し。
主たちは例かく撫でられたるなり、あったかしかし。さ目線を二匹の犬に向くれど、ジェイクとリッキーは我の心中など構はず、手の中に入れしままの餌にもうよしやと飛びつききたり。
圧倒して後ろに尻餅つかば、バネさんの惑ひしように我を引き上げてくれしため、さてやうやうバネさんの力持ちを実感せりけり。
「これぞ、灰かぶり城」
「めでたし」
先日買ひし海辺用の草履を履き、砂浜に足を踏み出してみき。流木を避け、波に近づく。初めて立つ六角の砂は、なほ少しこはかりき。されど未だ海に入る勇気はなし。たまに飛びくる波のしぶきが目や口に入りてあまりの塩辛さに泣きつつ遠ざかりしは、六角の人には言へず。
六角の海では、毎日誰かしらは遊びたり。今日は庭球部なりきめり。バネさんや首藤くんが海の中で素かづき対決せる中、佐伯くんが砂で灰かぶり城を作りてくれき。それを見しダビデくんのふむ、と頷く。
「灰かぶりも住んでら」
「いえ、砂の城には人は住めませぬ」
「……」
「はは、こらばダビデ一本とられきかし」
「ダァァビデェェ!」
「うわっよくきこえけりねバネさっタンマッ」
海より上がりて全力で駆けてその勢いのままバネさんはダビデくんに跳び蹴をかましき。見しもなき光景に口が開かばささず。電視でいけるはらから喧嘩のごときものならむや。いやにスッキリせる顔で二人は元に戻れど。佐伯くんが爽やかに笑ひたればこは庭球部の日常ならむ。
「砂遊びもよけれど、せっかくなら海に入らぬか苗字」
バネさんの誘ひにとばかり逡巡し、決意して立ち上がる。「はい」と意気をこめて、着たりし制服を脱ぐ。履ける袴も脱ぎて水着にならば、「ちょっおまっダビ! 行け!」「うし」目の前で見ればに焦りそめしバネさんがダビデくんを六角の家に促しき。
その間、距離を縮めこしバネさんの肌が視界ところせくに映る。
「なに誘惑してんなりなんぢは!」
「ゆ、誘惑……? 泳ぐつもりで」
「水着にげに本格的にならんでいいってーの! つか制服の下に着たりきや。いそぎ万端なりは、なやりそ」
「あ、ありがたく候ふ」
めでられにけり。でも確かに、この六角の海で水着で泳げる人はあまり見ず。現にバネさんなりとて、上は裸なれど下は制服の袴なり。洗濯がいとさ。
戻りこしダビデくんが乗合手ぬぐひを我に羽織らせてくれき。さてやうやうバネさんは我より離れ、焼けし顔で気まずそうにガリガリと頭を掻きけり。
「初めて見き」
「なにが」
「バネさんは例我に笑ひたまへば、さる笑顔以外の」
「おや」
「おや」
おや、と零ししダビデくんと佐伯くんは真顔でバネさんを凝視せり。その視線やむつかしかりし、彼は「じろじろ見すぎなり」とダビデくんをど突きき。な、なんと過激なる意思疎通。
「そらば、苗字とあると楽しきなり、笑ひぬるに決まりたらむ」
さ言ふバネさんは我の尊敬する歯を見せし笑みでも、笑い皺の浮かぶ笑みでもなかりて、ひとへに敏感なる首を擽られきめる顔なれば、我まで擽られきめる心地になりき。
バタ足の筋肉をつくるために、縄跳びをせらばそれをバネさんに見つかり、みんなで大縄跳び大会始まりき。八の字跳びや、級全員が一丸でいかほど引っかからで跳べるか競り、いつの間にか大事になりたりて六角中の協調性に驚きし。力持ちでみんなの人気者なバネさんは縄を回す係りになれり。
クロールの練習をするために肩を回したらば、バネさんに捕捉球をせむぞと誘はれき。野球用の球を触りし自体初めてで、思ふ存分肩を回しながら振り投げればとんでもなかたに飛びゆきにけり。知れる、これが本塁打といふなり。だぞは、と笑ふバネさんと一緒に球をとぶらひに行ひき。
平泳ぎをまねびするために蛙を捕獲せむと川に向かはば、つきこしバネさんと葵くんが虫取り網を抱えて川に飛び込みゆきき。そして蛙ならず魚を捕まえむと躍起になり、逃げられて盛大に水しぶきを立てつつ転ぶバネさんに、葵くんが大笑ひせる瞬間同じく転びたりき。
素かづきをするために肺活量を鍛へむと縦笛を練習せらば、構ひに来てくれしバネさんが小さき太鼓を持ち出しきて課してくれき。その音を聴きし他の級の子たちもやりきて机を叩き、カスタネットを叩き、黒板消しを叩き大合唱となりき。もちろん先生に怒られ、粉だらけになりし教室をみんなで掃除せり。
さても我はやうやう、海にかづくいそぎせられき。
流木が痛からざらばや、しほたるれども大丈夫なるように護謨製の靴を履ききし、息のせらるるように酸素耐圧容器も近くに置きてあり。ゴーグルも完璧。そしてT袿と短飯。
休みにバネさんを海に呼び出し、「遊びてたまへられずや」と一言つぶやかば、彼はまた豪快に笑ひき。
「いっつもねんごろなりは、苗字は。さいふ嫌ひならぬぞ」
「ありがたく候ふ」
「よーし、いっちょ泳ぐや!」
バッとT袿を脱ぎ、短飯で駆け出しし彼に倣ひ、我も慎重に浜を歩きて海に入る。初めて入る海はいと冷たかりき。されどこのしょっぱさにも幾分か慣れし。
水の中に身体を浸けたる実感に、嬉しくなりてなほなほと奥へ進まば、うちつけなる波に頭覆はれき。そして足が地に届かずなる。
バタバタと身体を浮かさむとすれど沈むばかり。鼻や喉のわりなくなりしさるほどに、バネさんに引き上げられき。
「大丈夫か!? 苗字は泳げながりしぞ」
「は、……ごほ、はあ、……我はいつかはバネさんと遊べむや」
腰を抱えて支えてくれたるバネさんに甘え、その肩に手を乗せ息を整ゆ。かたはらいたけれど、さ言へるついでならず。掴まりたらぬと溺る。いかで、かの日のバネさんと海で遊びたりし女の子たちのごとくかしこくいかず。
「なに言ひてんなるぞ」一瞬ぽかんとせるバネさんは、次には満面の笑みを向けきたり。
「今までの苗字との時間が遊びじゃねえってんならば、なり、行ひか?」
そらば最高に楽しき行ひなり! なほ付き合ふぞ!
歯を見せて、なまめかしさなんてまるならぬ顔で、おかげで心臓が軋みて痛し。帰ればレントゲンを撮りに行かずは。