▼ 弐
何度もいふように我には人を眠らする能力なんて持ちたらずし、持てるとすれば先生を眠らせて試験の答えを見る。かかる小癪なるなり。
さる我に何度もころを費やすなんて跡部くんもいとほし。
「……またなんぢか、苗字。我様に構ふ暇あらば勉強せよ」
「跡部くんに構ふころは暇なんて言はぬぞ」
「……」
「なかなかかの、邪魔してごめんぞ」
「フン。邪魔をよしにしてわざが片付かないなんざ言ひ訳にもならぬぞ」
あてに笑みし跡部くんは、またカリカリと筆を走らせき。生徒会室の大いなる机で書類に向き合ふ跡部くん、その横には樺地くんの同ぜむに紙に目を通せり。
昼休みなれどおほかた休みたらず。ちらと内容を見てみば、卒業式のことを調整せり。か、彼もやり出さるる際なれど。
「別にいくらここなれども構はねど」紙より目を離さず跡部くんは続く。
「我様にはな触れそ」
「さる、うちつけに触るなんて」
跡部くんに触れ合ひを取るほど我はふつつかにはなし。
でもお話もするけはひならずし、これは眠らせるなりとか言へるついでならずかし。
後ろに黙りて立てる忍足くんを振り返る。我は何故ここならむや。
忍足くんはほんの少し笑みて、我の耳元で小さく発せり。
「跡部に触れて」
「忍足くん今の私たちの会話きこえたりき?」
「テメェよき加減にしろ忍足。きこえてんなるぞ」
ドスの効きし跡部くんの声にも狼狽えぬ忍足くんは、もう一度「指でもええから触れてみ」といたくまめやかに言ひき。
「かかる、前に苗字さんと話すが眠りの切替かもとて言ふたけど、あれ違かひしや」
「そらば違ふぞかし、常識やうに考へよ」
「苗字さんと接触するが切替やりしやわ」
「え」
「オイ忍足」
ぼそぼそと真剣味に話す忍足くんの顔は冗談言へるようには見えざりて、しまひには諭さるるように肩を掴まる。
「確かめまほしきや。それがほんまやれば、跡部は寝らる」
「余計なる世話なるぞ。苗字、んな伊達眼鏡曰く聞かざりてよし。教室に帰りな」
「……あ、かの、私跡部くんのうたてきやるまじし」
「大丈夫や、本意は苗字さんに触られたなありよしやなければ」
「忍足」
「跡部を助くると思ひて、な」
さっきより真顔なりよなあ忍足くん。困惑する私を見かねてか、跡部くんが苛々せるように立ち上がり、忍足くんのネクタイを掴みき。
よき加減にしろ、とまもる跡部くんは隈もあいまってか凄まじき迫力で、喧嘩はすごきと惑ひて跡部くんの腕を掴めば。
ガクンと二日前にも見きめる動きで、跡部くんは忍足くんにもたれかかるように倒れき。
驚きで「おのれは無罪なり」のごとく両手を挙ぐ。跡部くんの肩を抑へしまま忍足くんは「ビンゴや」とほくそ笑みき。
「思ひし通りやは。苗字さんに触るると跡部は落つ」
「な、なに、いかなること」
「気難しいやつっちゅーよしや」
まあ確かに跡部くんは水準が高すぎて凡人の我にはわからぬところがあるけども。
再び樺地くんが跡部くんを抱え上げ、長椅子に寝かせき。相変わらず王子様もびっくりな美麗なる寝顔なり。
「一昨日、跡部が苗字さんの肩に触れし瞬間寝しやらむ。体育祭の打ち上げぬ時もふと接触せるやなしやと思ふねぬ」
「そ、そうかは、偶然ならず」
「いや跡部が言うてき」
「言へりや」
「苗字さんに触れし瞬間、こはき睡魔が襲ってきたんやて」
多分苗字さん、跡部の睡眠薬やで。面白おかしそうに言ふ忍足くんは、されど嬉しかりけむ。
南無三宝、我は跡部くん限定で異常者にでもなりしといふや。いやいや、いかが考ふれども跡部くんが変人なり。
「にわかには信じがたありな。さるヘンテコなかむと起こるやは」
「現に今起きたやん」
百聞は一見にしかずといふべきか。
言の葉に詰まれると、跡部くんが唸りつつ驚き上がりき。寝起きの眼で忍足くんと我を見て、状況を心得きやかたはらいたきけしきで前髪をかき上ぐ。
「……苗字、そこの眼鏡より何を吹き込まれきやは知らねど、さながら嘘なり」
「往生際悪いで跡部。跡部やとて苗字さんが必要やらむ」
「なほざきそ」
「本当? 跡部くん」
「……」
我には一切目を合わせぬ跡部くんに、少しのみほっとせり。何でもせられて、人気者の塊の跡部くんも人間らしきところがありやと。
女の子に頼み事するとて、ゆゆしくかたはらいたきぞかし。
「我で良ければ、睡眠の手伝ひさせてよ跡部くん」
跡部くんの手伝ひ、なんだか体育祭が思ひ浮かぶ。高揚を隠しつつさ言はば、跡部くんはちらと我に一瞬視線を向けて、こめかみを抑へけり。
その日の放課後、庭球部はお休みめく。指定されしころに生徒会室に向かふと、長椅子に居りて帝王学書を読める跡部くんと目合ひき。樺地くんも机に居りたりて、二人きりならざりて少し安し。緊張はす。
「来しか苗字。じゃあさっそく頼まむまじき」
昼休みの戸惑ひ様はいづこいひきや、よく知る"跡部景吾"で威風堂々に頼み込みこし彼に虚を突かれき。されどおかげで緊張解る。
はい、といらへ、彼に促さるるまま長椅子に居る。隣に腰掛けこし彼は長き足を組みき。
「なんぢのおかげで、一昨日も今日も、短時間なれど質の良き睡眠取れき。感謝せり」
「え、うん、よくわからねど、うん。でもなどかならむかし、相性や良きね」
「……相性かしい」
「は、いや、ごめん、冗談なり」
冗談にすれどもなほいで。失敗せる、と口を引き結ぶ我に、跡部くんは鼻で笑ひて、そして。
やをら肩を傾け、我の肩へと触れき。
くたり、隣の彼の体の力の抜けしがわかる。そろりと顔を覗き込むと、そらばあまむ見事にすーすーと寝たり。麗し。
重みが増して、とばかり踏ん張りたれど我も限界がきて、長椅子の手すりにもたれかかりき。跡部くんも重力で私へとなだれこむ。さる私たち二人を、きよげなる目でじっとまもる樺地くん。
「き、キツあり、寝たる人とて重き、こは体勢の悪しき、腰痛し」
手すりにしがみつきてなんとか潰れかかるを保存す。未だ膝に頭を乗せし方楽なり。もう跡部くみしからだとか、にほひとか考へたる暇はなし。といふか体力がなき。全身の体重をかけくる跡部くんを、少しのみ押し戻しき。
「か、樺地くん、跡部くんの体勢変へてくれないかは。膝枕すれば」
「ウス」
すなはち動きし樺地くんによりめでたく救出さる。やうやう息吐けき。
改めて身を正しし我に、樺地くんはやをらと跡部くんを長椅子に横にせり。もちろん彼の頭もねんごろに我の膝に乗す。
ずしりと膝に乗りし重みは、命のそれ。足笑ふ。はあ、かの跡部くんを膝枕しにけり。これぞげに枕営業。お世はこの状況が価格返答。雌ねこまにバレたら殺されむ。
かしこさに身震ひしたが、すやすやと眠る跡部くんを見ると思はず拝む。良かりし、力になれき。
その後、約二時間膝枕をして跡部くんは驚きき。膝枕といふ状況に頭を抱えし彼に、緊張感も合わせて足がプルプルせる我が気の利きし言葉などかけらるるよしもなかりき。
跡部くんが我に触るると眠りに入るといふは決定的として認識せり。
肩に当たりしばかりでグラリと倒れ、膝枕に頭を乗せしばかりでおやすみ三秒。半信半疑なりし我も、今では立派に枕としての役目をまっとうしたり。
短時間ながら三週間も続けば、跡部くんの隈もなかなかと薄らぎき。「睡眠の必要性が身に染みしぞ」苦笑を洩らす彼に、ですなあと相槌を打つるほど我も彼と距離近づきき。
「今日は夜よりあらましあり。一ころ際寝かせてくれ」
「うん。今日は我も眠ければ警報かけとこ」
放課後、部活や委員会活動を終へし頃に生徒会室に伺ふ。委員会と部活と、ゆゆしかりしはずなれど跡部くんは疲労を見せばあらざりき。げにゆゆし。
携帯端末で警報をまうけすると、跡部くんは「すまずは」と長椅子に居る我の隣に立ちき。
「なんぢのころを遣りて、悪しがれり」
「いやいや、跡部くんとのころはいと有意義なるぞ。なかなか、短時間しか使えなくてごめんぞ。なほ学校なるとぐっすり寝る時間ってのは取れぬぞかし」
「ハッ。なら我様の家に来や」
「わ、げに枕営業のごとし」
「バーカ、滅多なる言ふもんならぬぞ」
滅多なるかな(冗談)最初に言ひしそっちなるぞ。なんて突っ込みを入れらるるわけなひより黙る。
一つ沈黙を置きて、跡部くんはスッと手を差し伸ばしきたり。疑問に思いながらも反射的に手を重ぬ。重ねし後に驚けど、跡部くんは我の指に触れてもぐらりと傾くはなかりき。
「え、寝ずなりき?」
「いや、睡魔は襲へど、こはくはなし。手ばかりならば落つるもなくなりしかもな」
「そっか。段々慣れてきたといふか、睡眠の足るるようになりてきたのかもぞ」
良かりし、と安堵したがもうすぐでお役御免なると思ふと少しさうざうしくなりき。さること思はばなめければ、すなはち案を変ふ。にすれども、さればなどか跡部くんは不眠症になりけむ。
「さらぬとこうず。なんぢに触れられねばな」
変へし案は、強制やうに止まりき。
跡部くんの手に向けたりし視線を、やをらと上げば蒼あり目に射抜かる。端麗なるその顔が真っすなはちこなたを見下ろしくるおかげで、我はあわあわと口を歪まするしかできず。
「そ、さりかし、人前でおのづから我と肩ぶつかりして寝ぬれば、なんか格好つかぬもんかし」
「ほぉ、言ふまじき。誰のせいで不眠症になりしと思ひてんなり」
「…………えっ我?」
頬をひきつらせつつつぶやありし跡部くんに、素っ頓狂なる声洩れき。
南無三宝。跡部くんの清げなる顔を隈で犯せるゆゑは我なりけむ。おほかた身に覚えがなし。眠る手伝ひたてまつれると同時に、眠れずさせたりきなんて。なにそれいかなること。
動揺する我を、なほ混乱さするかのごとく跡部くんは長椅子の背もたれと取っ手を掴みて我をさし込めき。とっ、整ひし顔が至近距離なるかしこし。
「体育祭からだ。寝台で寝むと目を瞑るとなんぢが浮かびてかれず」
「ご、ごめんたまへ」
「なんぢが足りねばかと思ひて触れば、安堵で睡眠欲がかしこし。ふざけたるぞ」
「……」
「なんぢを抱きしめらるるまで、付き合ひてもらふ。責任は取れよ? 苗字」
"好き"が使はれたらねど、かくも一直線に示されしおかげで鈍くさき我でも薄々感づく。かかる告白、この人にしかせられぬまじからむや。
跡部くんからの好意、といふ恐れ多すぎてたえて信ぜられぬ言動は我の脳内を真っ白にさするには充分なりき。うちつけなる怒涛の展開に、理解に努むべからず。
とりあえず、心臓が保たねば。
サッ、と手早く迫れる跡部くんの頭に腕を伸ばし、優しく数回撫でき。驚愕に目を丸めし彼なれど、すなはちとろんと眠たげにうつろふ。「な、おま……」責むる前に、がくりと跡部くんは沈みき。
倒れ込みこし跡部くんを、ヒイヒイ苦労しつつ長椅子へと横たゆ。装飾されし低食卓に、生徒会長机より持ちこし時計を一ころ後に警報揃えし置きおきて。
「えーと……おはばすみたまへ」
逃ぐるように生徒会室を出づるしかざりき。後にしてみば、など愚行を犯してけると思へど、されど。
いかがせむか、我も今夜は眠れそうになし。今夜どころか多分明日も明後日も。げに、跡部くんの心地がやうやうわかれり。