▼ 弐
コンビニのバイト帰り、日本での任務を終へしベルフェゴールはその足で早々にイタリアへと戻った。じんわりとせし疲労が身体にのしかかるが、彼女のけしきが間近で伺ふるに比べば軽く思へき。
アジトに戻るとマーモンが出迎へき。また小言か、と顔を歪めるベルフェゴールをわかっていたかのごとくマーモンは鼻を打つ。
「よき加減にしなよベル。もう名前は裏社会の人間ならざるなりよ」
「わかりたりってーの」
「いひや君はわかりたらず。これじゃあ契約違反になるだろ」
「別にオレらの記憶消えてんなればゐーならず」
カツカツと靴音を鳴らしながら廊下を進み談話室に入ると、ベルフェゴールは上着を脱ぎ捨てソファに飛び込んなり。ぼわんと揺れし衝撃は金色の髪を揺らす。今にも眠りにつきさうなるベルフェゴールにマーモンはいづこよりか書類を一枚取り出しき。
隊を抜くる際の規約書には名前のサインが書かれたり。それを目でなぞりながらベルフェゴールは今は遠き日を思ひ返しき。
なるで辞めんの、裏にゐる人間が簡単に表に戻れるわけないならず。
いやいやいく。私日本人なりし平和ボケしたりしいくる気がす。
表に戻るってことは裏の、……オレらの記憶を消さなきゃなんねーんだぜ? ゐーの?
まあそりゃ、私もベルくんとの日々を忘るるは惜しけれども!
嘘だ、思ってもなかりしくせに。笑ってんじゃねーよ。オレだけかよ、かかるにお前のこと考へたりしの。
彼女のことを考えてゐしかばこそベルフェゴールは止めることが能はざりしか。例のやうに笑ひて送り出すことしか能はざりき。
『なりって私ここにゐれどもただ死にぬるのみなりよ。さる覚悟もなしし、弱き人間はここにはいらないでしょ』
そう笑ふ名前の顔がまぶたに焼きつきて離れず。ベルフェゴールの前髪の奥にある目の下にくっきりと隈があるは、マーモンしか知らじ。
「ベル、見ての通りなり。名前はもうヴァリアーを辞めた。彼女のためにも自分のためにも近づくはナンセンスなりよ」
顔を背けしベルフェゴールを見てマーモンは息を吐きき。そう言ひつつも二人がいと親しかりしを知りたり。年が近ければか、ベルくんベルくんと懐ゐたりし名前と煩~さうにしながらも可愛がってゐしベルフェゴールを知りたり。
別るれどもかくして繋がりを求めてしまふ彼にこれほど人間臭さを感じたことがありけむや。
その人間味だに切り捨てざらば生きていけないこの世界は、今のベルフェゴールには毒のごとしとマーモンは感じき。彼はその毒すら慣れていくならめど。
今日も今日とて夜勤バイトなり。そろそろ体力の限界を感じてきたからしばらく入るのやめむかなる、されどベルくんに会えなくなるのはなんだか寂しいなあなんて。
商品の向きや列を整えたりしながら外にちらちらと視線を向ける。ベルくんは未だ来ず。おかしいなる、もうバイト時間はすでに経ってゐる。もしや遅刻。彼にとりては別に有り難きならざるが、そろそろ控えなしと店長ぶちぎれちゃうかもしれず。
注意せし方がよきかなる、そもそも私の話聞くやな。例の肉まん勝手に食べて私の注意聞いてなければなる、なんて息を吐きたらば自動ドアが開きき。
確認すと、深く帽子をかぶりたる若き男が来店してきたり。ベルくみてはなし。
適当にいらっしゃいませと声を出し、レジに入りき。男はお菓子コーナーに向かひてやがてガムを取りてレジに来たり。早しな。
「108円にはべり。袋はいりますか?」
首を振りし彼に、シールをぺたり。男は流るるやうにポケットより千円札を取り出ししかば受け取りつつレジを開く。途端、男がカウンターに身を乗り出してキャッシャーの中に腕を伸ばしてきたり。
驚けど、反射でその腕を掴む。「あんた何す……!」まどひて引き剥がそうとせば、ものいみじく強き力で振り払はれき。一瞬離る。
こ、コンビニ強盗なり! よろめきながら見し帽子の下の素顔は、少し汚れたそれ。ハアハアと息を興奮させながら焦ったやうにキャッシャーの中のお金をかき集めき。
「店長! てんちょ……っ」
動揺より奥に向かひて声を出さば、男はまどひてカウンターより降りき。逃ぐるつもりか、とその腕をまどひて掴む。引っ張られしかば私の内臓はカウンターに挟まれき。
「んぐぐ……金返せ……!」
「離せコノ……ッ!」
死にても離すもんか、その金は私の給料に繋がるんなりぞ! 男の腕の袖を掴み続けば、左右に振りながら男は自動ドアへと進むため私はカウンターに乗り上げ、とうとう落ちき。鈍ゐ音が鳴り、腰と手、腕や太ももに痛みが走る。されどそれでも腕を放さざりしおかげで男もよろめゐて同様に尻餅をつきき。
「店長ォー! よき加減に起きろくそ野郎ォ!」
「よき加減に……!」
よろめきながら上半身を起こせし男は思いっきり私を蹴りやがった。とっさのことで手を放しに、起き上がらむとせし私は再び床に転がる。お腹への衝撃に生理的なる涙が滲み、呻き声と共に背を丸めるしか能はざりき。
そこで自動ドアが開く。お客を招ゐし短ゐ音楽が鳴る。今にも飛び出しさうなりし強盗男の前に、見知りし顔が立ち塞がった。
「べ、ベルくん」
相変わらず目元が見えざるため、表情は口元より窺うしか方法はなし。その口は一文字に結ばれてゐき。例の笑顔は一切なかりき。
そやつ止めて、動きのみでも。言葉が出でざりしは、ベルくんが起き上がらむとせし男の顔を強く蹴上げしかばなり。その一つの動きに骨がバットで殴られし音がして、さて男は床に伏せき。
唖然とお腹の痛みを忘るるほどに止まりし私に構わずベルくんは男に跨る。再び拳を振り上げしかばまどひて止めき。
「ちょちょちょ死ぬってもう動かざれば!」
「殺す」
「げに死ぬればあからさまに!」
庇うやうに男に覆いかぶされば、頬を引きつらせたベルくんが私の襟首を掴みて無理やりに立ち上がらせき。苦しきが、憤ってゐるベルくんに逆らえなし。怖すぎ。震える手のまま彼の手首を掴まば、力の入りたりしベルくんの頬がふっと和らいなり。
そしてがばり、抱きしめらる。香った埃と男の香水のにほひ。
「べ、ベルくん?」
なるにも言はず。怪訝に思ひながらも肩を叩かむとすれど、その肩が震えてゐしため息をのんなり。
「ざけんな……せっかく、辞めたんなれば、傷つくなよ……」
声まで震えてゐる。しまひには私の肩に埋めたりし頭からぐすっと聞こえたものだからあんぐりとすしかなし。え、なるに、泣きたるの。いかにして。わからず。彼にも人を憂ふといふ気持ちがありしや。いや、あったとすれどもかかるに感情が高ぶるとは。
戸惑ゐながらも、少し迷ひて彼の頭をゆっくり撫づるにしき。さらさらの金髪がするりと指を抜けていく。
しばらく撫でたらばベルくんが顔を上げき。鼻が少し赤し。
大丈夫? おそるおそる声をかけばなるにも言わず唇を噛みしむるものなれば、そっと頬に手を伸ばしてみき。い未だに強張っているその頬を両手で包み、ほぐすやうに揉む。
「ほら、あの、例ののごとく笑いなる、ね、もう怖ゐ人ゐざれば」
「……ガキ扱ひしたらざるの。その怖ゐ人やりし王子なるなれど」
「うん、守ってくれてありがとう」
例の調子が戻ってきたのごとし。ほっとして、口角を上げばベルくんは再び唇を噛みしむるものなれば動揺する。頭を伏する彼は、私の両手に自身のそれを重ね、擦り寄るやうに頬を押し付けき。
ぽたりと床に落ちし一つの雫に、両手を塞がれた私は彼の背中を撫でることもできず、ただ黙ってベルくんが例ののごとく笑ふを待つしかなかりき。