▼ 彼の名前は柳蓮二
今日我と柳くん日直なりとて、さ教室に入りこし彼に伝へば知れると返りきたり。それとおはようとも。しっかりと挨拶してくれし柳くんに我も惑ひておはやく候ふ、とお辞儀せり。柳くんに出会ひてから姿勢や礼儀をしゃんとせむと思へしぞ。
「今日は忙しからむは」
「日直で? でも二人なればしか大けしうはあらぬぞ」
「だからだ」
「二人の方の難き? 確かに一人でてきぱきやりし方が滑らかかもしれねど」
そこまで言ひて、もしかして我が日直の相手なれば忙しさが増すなりとかさること考へたりやと驚きき。柳くんはくすくすとをかしげに笑へり。どうやらそうめく。むっと口をへの字にしつつ日誌を抱え込みき。
「よきぞ、じゃあ我が今日は日直のわざさながらやれば」
「あな、冗談なり。怒らでくれ」
「冗談か、なら怒らぬぞ」
「そはよかりき。さるほどに苗字、髪が乱れたりぞ」
惑ひて心当たりのある髪を触る。確かにぼさぼさなりき。今朝ちゃんと梳かしこしつもりなれど、どうやら突進せるほどに乱れけむ。柳くんは人の弱みといふか痛きところを突くがかしこきぞかし、と他人に八つ当たりしつつ手櫛を髪に通す。
「我やらむ」庭球後ろを椅子の下に置き、柳くんは目の前に立つようにちょいちょいと招きき。その手にはいつ取りきや小さき細長い櫛握られたり。
「え、よき、大丈夫」
「身なりしなみはしかとしておありし方がよし」
「じゃあ櫛のみ貸してもらへるやは」
「我にときめかせてくれないのか」
「うん」
渋々といひし様子で柳くんは櫛を貸してくれき。以前より柳くんは面倒見がよきといふか、お母さん気質といふか、いろいろと世話を焼きてくる。あしたの身なりしなみ検査はもちろん、ご飯はしかと食へりやなりとか、試験の点を会話に出さば頑張りきはとめでてくるなりとか。佇まいがもはや母のそれなり。巷で立海の母と呼ばれたるを彼や知るらむ。知るらむは、資料人なりし。
我はさる柳くんの、娘としての立ち位置より抜け出さまほしきよしですけども。
なかなか難きもんかなと、「黒板消しは我がやれば日誌を頼む」と言ふ柳くんの話を頷きつつ櫛を動かしき。ざわざわとあしたの賑やかなる教室でも、お隣さんの柳くんの声は凛とせりてよくきこゆ。やうやう整えられし髪を撫で、お礼を言ひつつ櫛を返したてまつりき。
「日誌かあ。柳くんが書ありし方のよしまじき、我字下手なりし」
「なればといとて苗字が黒板なると届かじ」
「届くぞ。意外と腕長きぞ」
「ねんごろにやりすぎてころがかからむし」
「そはまあ……」
「粉が頭に降りてこないとも限らずしな」
「限るぞ。さる鈍臭からぬぞ」
と言ひつつもし手が滑りて黒板消しを床に落とししとして、足に粉がかぶればかたはらいたければ柳くんに任することにせり。わりと日誌を書くが好きといふもあり。
さっそく、とばかり日誌を開きて自動鉛筆を手に取りき。今日の日直、の名前欄に走らす。
「柳、連、二……と」
「ふ」
「あ、なほ悪しさに笑ひきかし」
「うたてし。美しは、と」
柳くんはいづらといはば古風なるに、さる緩やかなる口説き文句はすらりと出づるなれば少し心臓が忙しくなる。真田くんも古風なれど絶対さること言はじきに。こは、なほ子ども扱いせれたりとかさるところならむや。
「めでてくれてありがたく」照れをごまかすように口を横に伸ばしつつ言はば、柳くんはおだしく微笑みき。
事件の起こりしはその日の昼休みなり。講堂からの帰り、廊下で通りかかりし女の子たちの会話がおのづから聴こえ、我は過敏に反応するとなりき。
「柳くん恋しき子ありとて。さっき話せる聴けども友だちが」
「えー、柳くんも恋しき人とかできるかし。確か型が計算高き人じゃなかったっけ」
「柳くんを手のひらの上で転がせるめる人かは、あるわけぬぞねさる人」
確かに。うんうんと納得しつつ教室に入り自席に戻る。にすれども柳くん、恋しき子あるなり。わびし。意外と柳くんとは仲良き方なると思ひたれば、その恋しき子って私かなあなどあらましごともしにすれど、型のことを考ふると浅慮にもきはあり。
でも、なほ、仲の良きにはうつろはぬなれば教へてくるれどもよきに。キッと隣に視線を向けば、お弁当を食へる細目の彼があやしそうに首を傾げき。柳くんの前にはよその級よりはるばる来し幸村くんが美味しそうにお弁当の中身を頬張れり。
そうか、謀るにすれども幸村くんとかなほ身近なる人にするぞかし。それに多分、計算高き女の子に対して我のかしこき言加へもせらるるよしもなし、我に話をする利点が見つからず。
「いかがせる苗字、悪しからめど。何か悪しきものでも食ひきや?」
我は恋しき人の、なほ言ふと友だちの役にも立てずや。いふかひなさに眉を下ぐ。我がもし柳くん以外の男の子を恋しくなれば柳くんに謀るは。よすががありありし。もし柳くんなればいかが応援してくるやは。
箸を置きておぼつかなそうに覗きこみきてくるる柳くんに、「お食事中ごめんぞ」と言ひつつ椅子をそなたに傾く。幸村くんはどうぞ、と受け入れてくれき。
「突然なれど」
「あな」
「我に恋しき人のありしとせよ」
「……」
「その人が柳くんとは正反対なる型なればいかが応援してくるるかなりて」
げにうちつけなる話題すぎて柳くんはつきゆけずめり。ありがたく目を開き、ガン見しくる柳くんに忍びきれずなり視線をそらす。そらしし先、幸村くんまで驚けり。されどすなはち気を取り戻ししように柔らかく笑む。
「応援するは決まれりかし」
「え、あ、してくれないの」
「そは……難しは」
難しや。「なほ型がおのれと正反対ならば応援するにも難きぞかし」わかるわかる、と頷く。我の反応をとばかり見たりし柳くんは、こはくせるけしきを再び疑問に変へき。
「その例へ話は苗字のことならずや?」
「例へ話は例へ話なるぞ」
「苗字のことなればてっきりおのれのことを例へ話のごとく言へると思ひきは」
そは、当たらずも遠からずされど。柳くんの話なりし。
「友だちの話なるぞ」嘘ならず。さ返さば柳くんは例通り落ち着きしけしきで納得せり。
「すなはち、友人に恋しき者がせらるれど、その者はおのれと型がたえて違ふためいかが応援していいかわからぬといふなりは」
「うん、さ」
「我ならばあらゆる行動類型をとぶらひ上げ、好感度を上ぐるためのより良きかたを共にな練りそ。その友人がただの友人ならば」
「えーと」
「我の好ける者ならば応援はせぬぞ」
最後の一言に目が点になる。「恋しき人の恋路、応援せぬ?」確かむるように訊ねば、もちろんと頷かれき。「恋しき人の幸せを祈らぬ?」「さらず」緩く首を横に振る柳くんの語り口は、ひとへに母性のごとき包み込む優しさを感じき。
「よその男のために一喜一憂せる姿を見て笑へるほど、我は冷静になれぬといふなり」
「……じゃあなのめに諦むるなり」
「諦む? 選択肢になかりきは。応援をせぬばかりなり」
お母さんならざりき。ただの美男子なりき。あまりにもかっこよすぎてパラパラと拍手をやる。幸村くんも納得するかのごとく笑顔で昼食を続けたりき。
我は覚悟を決めき。さり、我も応援なんてせず。他人の幸せを見届けて自分が幸せにならずなんてうたてし。せめてやれるはやらむ。
ありがたく、と柳くんとこはき握手を交わしき。
次の日のあした、例の通り柳くんは教室にやりきたり。例通りすぎて驚く。おかしは、我ははやく下駄箱へと行動を驚かししといふになどかさる平然とするらむ。
「おはやく苗字、ネクタイが曲がれりぞ」挨拶をしつつネクタイを直してくるる柳くんはうつろはずお母さんのごとし。あれ、我、友だちに戻れぬ覚悟で今日を迎へしつもりなれど。
「いかがせる、鳩が豆鉄砲食らひきめる顔して」
「え、えーと……今日はよき日かは?」
「未だ始まりしばかりなれど」
そはさされど。
「さいはば」と柳くんは庭球後ろを下ろし、中より封筒を取り出しき。見覚えのあるそれに肩が強張る。
「いはゆる恋文をもらひき」
え、それここで言ひぬる。唖然としながらも続きを促す。
「差出人の書きたらぬはありがたしは」
やりにけり。目を見開く。
「そっ、えっ、な、名前がなし?」
「あな。誰からならむは。どうやらおっちょこちょいなる慌てんぼうらしひ」
「へっ……へえー、そはそれは……」
「だがされどなかなか見どころある。さっき読みけれど、書面は縦書きで筆を使用し、香をふれり。我の好みのわかれる者のごとし」
「そ、そうなり」
そりゃあいろいろ考ふればぞ、文思考の柳くんの心をいかがやれば射止めらるや。されど差出人が書きたらずはひとへに意味がなし。そりゃ柳くんも我にぺらぺら話すべきぞ。いや、だとすれども。
「人よりもらひし恋文を面白おかしく言ふはどうかと思ふぞ」
「さきこえきや? そは失礼せりは。面白おかしく言へるよしならず。嬉しかりて少し高揚しにけめり」
「えっ」
我からの恋文に喜びたりやと思ひにけらずや。あからさまにさるドキリとさすめる言ふやめまほしきげに。
にすれども柳くん、よほど嬉しかりけむは。今回は差出人がわよりなひより我にこうして話してくれたるばかりで、今までもらひし恋文もかく喜びけむ。なんか男子中学生めきてうつくしけれど、ちょっとのみ嫉妬しぬ。
でも、今回は我からのさほどを喜びたる柳くん見られけり。もし私からだってわかってたらさだめてこうはならざりけめど。このけしきを見られしばかりでも、うん、乾杯!
「学校生活では皆自動鉛筆を使用せれば筆では手より特定するも難しは」
「と、特定する?」
「さらなり。告白を受くるにしろいなぶるにしろ、誠意を持ちて返さねば」
「さりかし……」
「我の好ける者からかもしれぬしな」
「期待するばかりいたづらなるぞ」
「ほう、何故なり」
「え、あ、世さ上手くはきかながりて」
手厳しは。苦笑いを洩らす柳くんに、我も同じ顔をして笑ひき。なほ名前を書きおくべかりしと、さ思ひき。柳くんにあらましごとをさせまほしけれどために書きしよしならず。一か八か、我を恋愛対象として見てくるるを賭けて書きしものなり。
でもこのけしきじゃそれもまた望みが薄し。今更その差出人我なりよなど言へずし、柳くんも我なりなんて想像もせらじし。
「では本人に訊ありてみるとせむ」
「え、柳くんの恋しき人に恋文書きしか訊くの?」
「あな」
「やめしほうのよがるぞ」
何故? と首を傾げつつ席に居りし柳くん。あれ、訊きに行くとて言へるくせに居るなり。休憩かは。つきゆかむと半分立ち上がりし腰を椅子に落とす。柳くんが身体ごとこなたに向きき。
「だってほら、違へばかたはらいたからずや」
「確かに違へらばかたはらいたし。だが苗字の反応を見て確信せり」
「え」
「文のかへりごと、今ここなれどもよからむや」
隣の席といふは机がかれたれど案外近かりて、身体ごと向き合はば膝の触るるか触れぬかの距離なり。柳くんはその距離を清げなる手を伸ばし、埋めて、我の手を引きき。上半身の傾くと同時、耳元で静かに囁かる。
「我もなんぢをらうたがれるぞ」
心得る前に反射的に身体を反らさば、はつかに笑める柳くんと目合ふ。
かへりごととて。らうたく、とて。かの文は差出人の書かれたらざりしにいかで。なほ追いつけず。状況に追いつけず。
さる我の言はまほしきやわかれる、ふむと一つこぼして柳くんは「一つ教へおかむ」と我の手を放しき。そして教室の前に向かひ、教卓の上に置かれし日誌を取りくる。戻りこし彼は日誌を開き、そして恋文を取り出しき。
縦の便箋の、色気もなにもなき、たよりに差出人もなきそれ。あるは「柳 連二くんへ」といふ宛先のみ。
「我の名前は"蓮"の方なり」
「……あっ!」
恋文にも日誌にも同様の誤字。かたはらいたきと申し訳なければありつる柳くんからのかへりごとが飛びゆく。つい草冠を忘れてたりき。いとわびし。恋しき人の名前を間違ゆなんて。さるは告白の時でさえ。
「よもおのれの名前も書かず、そして我の名前をここでも間違ゆるとは思はざりき。苗字はあさましき所で我の案を反す」
大事そうに恋文をしまひし柳くん。彼の好みの型とはたえて正反対なる我でも、柳くんを少しでも手のひらの上で転がせしかもしれな……さることやなき。
「それが我とわかれる決め手なりや……」
「他にもあれど、まあ、なさりそ」
「でも多分我に限らず他にも間違えぬる子はいるかもよ」
「否定はせられずは」
誤字なんて誰にでもありうるものなれば。さすがに恋文に、さるは恋しき人の名前を間違ゆなんてありえぬとは思へど、でもほら、緊張とかで。などごまかすように口を尖らす。
「だが我は、苗字ならばよがりしぞ」
さる小さき我の反抗心なりとて、柳くんは溶かしぬるなり。