▼ 弐
葉月の十六日。お盆の終はる日。夕方にはやり火を焚きて、精霊馬に乗ってご先祖様はやをらやをら天国に戻りゆく。
あした、欠伸をこぼしつつ居間に入らば母より「驚く遅し」とピシャリ言はれき。時刻は昼を回れり。
無理なきぞ、昨日は金縛りとかあるじゃと思ひてなかなか眠れざりしなれば。わざとなにもなけれど。
遅めの朝食と昼食を取りつつ窓の外に目を移す。今日は晴れたりき。向かひの山もよく見ゆ。
「のん気なりかしー、かかるだらだらしにて」
「三治郎は知らじけれど田舎の帰省はやをらするためなるぞ」
いつの間にか隣に居れる三治郎に、昨日は夢ならざりきやと一息つきき。
ご飯を食ひ終へ、嫌々ながらも鞄より課題と筆箱を取り出す。夏休みの課題の量の多すぎなるは、学校側は休まする気などなきといふなのか。
「去年も宿題やとてたね。へえ〜今年はかかる所やれるなり。相変わらず英語? とていふは何が書きてあるかわからぬや」
「あ、さり。日本史もある。三治郎教へよ」
「よけれど我も勉強嫌いなれば、徳川が天下とりしと黒船来航くらいしか覚えたらぬぞ」
「我よりいみじからずや」
三治郎の見守る中、我はせっせと筆を動かす。途中、字が汚いなりとか答えを見てたまに間違ゆる我に猪口才なりとかちょいちょい挟みくる彼をどうにか切り抜け、三時過ぎには一段落せり。おやつ食はむと立ち上がり、饅頭を取りてふと驚く。三治郎は饅頭より果物の方やよきな。
背後なりなひより振り返りてありつるかたを見返す。三治郎は窓より山を眺めたりき。
「行かむや? かの山」つぶやくと驚きしように三治郎は振り向きき。「よきぞ、明しし、今日で戻るなればかし」我の言の葉を聞くに、彼は嬉しそうに綻びき。
「どっか行く? やり火焚く六時なればそれまでに戻りゆきたまへよ」
母の言の葉にいらへ、我は携帯のみ片手に向かひの山へと向かひき。隣には三治郎が並ぶ。
気のうつろひしよしならず。かの山は暗き想像なりし、幽霊は出づとて聞くしで小さき頃より近づくはなけれど。でも三治郎がこの山に近づくるは我でしかあながちなると思ふと、すずろに腰上がりき。ご先祖様にねんごろにすれども罰は当たらじ。
「この山は昔、山伏行ひし所なり。幾分か小さくなりたれど。懐かしは」
山に着くと、ふわりと浮きて木に掴まりし三治郎。その顔はいわけなさが充分に残れり。そらばさり、十六なればは。
さくさくと木々に覆はれし山道を進む。木漏れ日がキラキラ光りて地面を照らす。急激なる上りに息を切らしながらも、おのづから頂上を目指しき。
「ねえ名前、恋しき子とかひなき?」
「またその話題! やめてよひいひいひいひいひありおじちゃんに言ふまじきぞ!」
「ひっ……しか年上ならぬぞ! 一応主より年下なるぞ!」
「などかしか気になる、我のこと生まれし時より知れるまじき?」
「お盆の時しか間近には見られぬなれば。あの世では旧友と遊びたりし」
「(遊びたりや)」
「友だちは大事にせる方のよきぞ。恋もして、好き人見つけなかし」
「余計なお世話なるぞ……」
「死にし者の言ふなれば、説得力あらむ?」
またくるくると喉を鳴らしつつ笑ひし三治郎に、どうも笑顔に毒気を抜かるるぞはと思ひつつ足を進む。昨日の雨のせいで土がぬかれば歩きがたかりき。
さりとてよふやうやうたどり着きし頂上。頂上付近は木が生えてなく、きは見渡せられき。「あっちが忍術学園ありし方」すっと東を指しし三治郎の結ひし髪がひらりと揺れき。
とばかり無言で豊かなる地を眺む。田んぼや畑のわたるこの地は、三治郎の生きたりし世いかがなりけむ。これよりいかがなりゆかむ。
ゆらりとなほ東に進む三治郎につきゆくように歩きしさるほどに、地面に錆のごときものの埋まれるに驚きき。
「苦無なり」ふっと近づきこし三治郎が目を見開く。せむかたなく石で掘り返しき。
出でこしは、確かに忍者漫画で出でゆかむ金属類の武器なりき。
「あはは、げに懐かし。もうかかるものいらぬ世になりけるぞかし、あはれなるや。掘り返してくれしに申し訳なけれど、埋めてよきぞ。こは必要なきものなれば」
「でも三治郎のならむ」
「そうかも。でもいらぬぞ。そは人を殺す道具でもあるなり。そんなの、思ひ出すまじ」
「……学園でまねびし道具の一つならむ。友だちとの思ひ出を思ひ返せずや」
呆気にとられて、次には「そっか、……さりかし」と三治郎は緩やかに笑みき。少し錆びし苦無を草で巻きて持ち、私たちは山を下ることにせり。時刻は四時半、未だ充分に間に合ふ。
「ねえ名前、来年もお盆に来てくる?」
「えー、来年は受験なればな」
「忙しき?」
「うん」
「ふうん」
よしは。そのつぶやきに気まずき思いを抱きながらも三治郎に振り返る。ともしがらるれども、といひし目は、驚愕にうつろひき。
山道の奥の暗闇より無数の手が近づきゆきたからなり。
よきなあよきなあイイナアイイナア。
「ぎゃあなああ!」
「! 走りて!」
驚きし三治郎が駆け出す。言はれなくともとのみに我も開始を切りき。
イイナアイイナア、ワタシタチモテンゴクニイキタイ。
招き掴みかからむとせる白き手、耳に直接響く妬みの声。成仏できずに山に留まへる霊ならむか、イイナアと向きし手は三治郎に向かへるが走りつつでもわかれり。
三治郎はお盆で帰りきたり。ここで奴らに捕まれば戻れずまじや。とりあえず、ご先祖様たちとは違ふどす黒き気配に、薄かりて白き三治郎が汚されそうに。
「さん……っ!」
ののしらむとせり。なんぢ足速いめくし我を置きて一人で逃げなよとて、言はむとせり。
されどなんとも運悪しく、ぬかる地面に足を取られ、我は再び滑りしといふよしなり。
昨日と違ふは、やがてにつきし地面のなく、山の崖に体の傾きしといふで。
「名前!」
三治郎は我が苦無を掴む手首を掴みき。
けれどもするりと抜けゆく。薄かりて白かりて、透明なる霊体は我の手首を掴めざりき。
その時の三治郎の顔といへば。
ふと目を覚ましし視界には、なほ木々映りき。奥には山の入り口見ゆ。しめし、崖を下りし分とく着きけり。
てうど夕日が差し込むかたに倒れけむ。泥のみならず汗もかける体に舌を出しつつきはを見渡しき。
三治郎の泣かむ顔で立てり。
「泣かで」
「泣かぬぞ。……ごめんぞ、我が山に行かむとて言へば……あんなはばつらがありなんて思はざりけり。ごめん、ごめんぞ」
そして三治郎は目の前に膝をつくと、やをら我を抱きしめき。たえて温度なんて感ぜず。感覚もなけれど。
「や、や、やめよ、大丈夫なるぞ」
「なあに? 鼻白める? 名前は男に抱きしめられしもなき?」
「もうこちたきぞ!」
「ふうん」
さっきまでの悲痛ならむけしきはいづこにいひきや、三治郎は再び笑顔を取り戻すと我に立つを促しき。
傍に転がりてありし苦無を取り、携帯を取り出す。
「!? もう五時半過ぎてんじゃん!」
「よく寝たればぞお」
「なにをのん気な! やり火間に合はぬぞ!」
一ころも気を失ひけむか我は。三治郎も驚かしてくるれどもよきに。
「別に見送りてもらはねどもよきぞ、また来年来るし」
「わっ我がもう会へぬかもしれざらぬや!」
三治郎の話を聴きて、生きたる者はなにの起こるかわからぬを実感せり。当たり前のごとく訪るる来年が、来週が、明日が、来ぬかもしれぬ。
今なりとて打ち所悪しければ死にたりき。そりゃ死んだらご先祖様のかたへ入りならめば、彼らには会へめど。
三治郎は少しわびしそうに笑ひて「会ひに来」さつぶやありき。
山を出でて、田んぼや畑を突っ切りて家へと走る。相変わらず「ほら顎出でたりよーぺたぺた足つきすぎ」と小こちたき指導に指導されつつ全力で走る。
息切れ切れに戻りしには、はやくやり火は始まれり。
燃え盛るオガラの煙に乗り、ご先祖様が続々と天に戻りゆく。けやけき光景なりき。でも奇しかりき。
持てる苦無を、少し考へしあとその炎の中に放り入る。母になにしてんなると叩かれき。
三治郎の手に清げなる苦無のうちいでしがわかれり。
「錆びてたから驚かざりき。これなほ我のなり。ありがたく名前」
「うん」
「泣かで」
「泣きたらず」
「うん、じゃあ、笑へ」
さ頼みし三治郎が楽しそうに笑ひき。なほこの笑顔はうつくしし、そしてらうたがる。一応血の繋がりがあるご先祖様なればならむや。おばあちゃんとかお母さんに少しのみ似たり。
「笑へとて言はれて笑へぬぞ」
「もー、うつくしからずは。我のこの笑顔まねびしなよ、ほら、にこーとて」
「はひはい」
「……ねえ名前、恋しき子ある?」
「またそれ。はいはよきなきよはぬどうせ」
「うん、知れるぞ。名前ぞ、今までで出会ひこし男全員合はぬぞ。多分これよりも、我以外」
口を間抜けにも広げき。なに言ひてんなりこの男、口説き文句か。うつくしき顔して意外と言ふ型なのか。
ぶはっと吹き出さば、三治郎は満足そうに微笑みき。
「うんうん、その笑顔。我に似てうつくしきぞ」
そして煙に引かるるように天に昇りていひし三治郎。
とばかり眺め、数刻が経ちてオガラの炎がむげに消えき。焙烙に残りし錆びし苦無を軍手でまうく。
「"我に似て"は余計ならぬ」
どんのみ笑顔に自信持てるぞ。されど、まあ、思ひ出さば笑へるなればそれきはの力があらむは。うきこしかたを背負ひこし人の、人を笑はせまほしかりて安心させまほしかりて笑ふ顔が、しかもわりなかりてわびしかりて、されど温かかりて落ち着けて澄みきれるものなりなんて知らざりき。
葉月の十六日がもう終はる。今年のお盆がもう終はる。また来年も会へるようにせざらまし。易しめり当たり前のことならねばこそ。
明日よりはさだめて笑へる気がす。