▼ 隣の部屋の天根さん
※社会人か大学生設定。
「ど、どうも。隣に越しこし苗字と申す。よろしく願ひたてまつる」
202の扉より出でこしは男の人なりき。さるはなんだかがっしりせる。大きなり。顔の掘りが深し。ええーと、名前は……天根さん、天根さんか。
天根さんは我の持つ引っ越し蕎麦ならぬそうめぬと我を交互に見て、そして隣の部屋を見き。
都内のあからさまにボロあり長屋に、一昨日引っ越してきたのみの我。新生活は楽しみよりも緊張しか抱かざりし。とかくまず環境、環境は大事なるぞ。お隣さんとも仲良くならばや。
「うたてし……大丈夫なる、悪いし」
いなびれき。そうめぬいなびれき。ぺこりと頭を下げし天根さんは悪しき人ならざらめど、もしかせば人付き合いの苦手なる人かもしれぬ。で、でもとりあえずそうめぬ。
「あ、かの、そうめぬ美味しきぞ。作るも、さ面倒でもなしし……」
「あ、かしこし」
「へっ?」
そうめぬを持ちつつぽかんとする我。対して天根さんはどこからか覚書を取り出してなにやら書き込みそめし。な、なにやうまき。なにか食ひしや。うちつけなる覚書に心得られであると、天根さんは覚書を袴の隠しにしまひつつ「物はあまり受け取らぬようにせるなり」と口を開きき。
「なれば代はりに、今のダジャレはもらひおく」
「……だ、ダジャレ?」
「そうめぬ作るはさ面倒でもなし。……プッ」
「は……はあ、お役に立てきめり」
なんだかよくわからねど、ダジャレや恋しからむ。ひたぶるにおのれのものにしておのれで笑へる天根さんを見て、我は脱力と共に空笑ひ洩れき。あやしき人かな。
「天根と言ふ。よろしく願ひたてまつる」
握手を求めて手を伸ばしこし彼に、あれっ友好やうなりし、と驚きつつ我もまどひて手を伸ばす。けしきよりもされど、なほ手もこはかりき。そして大きなりき。
ある夜のこと。
とみなる雨に惑ひてベランダに出でて洗濯物を取り込める時、隣のベランダで天根さんが煙草を咥えながらぼーっとせるがわかれり。
天根さん煙草吸ふなり、とまじまじ見たらば我の視線に驚ききや彼がこなたを向く。
「一本いる?」
「いえ、吸はぬので」
「……あな、そらばすはぬ。……プッ」
「(ツボの浅き人なのかは)」
「でもあぐるぞ。美味しきぞ。多分吸へながるし」
「ええ……いや、ほんとにいらな……吸へず?」
サアアアと雨の降る外を見つつ、天根さんのベランダに近寄る。薄き壁を挟みて手を伸ばしこし彼の持てるは一本の白き煙草。吸へぬとは、と受け取りて確かめて、げにと笑ひき。確かにココアシガレットは吸へず。
「などか煙草ならぬやー」
「苦きはあからさまに」
「もー、おかし」
「お菓子のみに?」
「上手くないですよーあはは」
などかベランダで黄昏ながらココアシガレット咥えたる天根さんてば、お茶目か。おとなしき想像を持てるに一気に子どもめき見えて笑へき。けたけたと失礼にも関わらず洗濯物を抱えつつ声を出したらば、「しー、夜は静かにし夜……プッ」と天根さんが真顔で言ひくれば惑ひて口を塞ぐ。すごいなダジャレの切り込みたよりあり。
「まあ雨音できこえざらめど」
手やしほたれし、T袿のお腹きはで拭きし天根さんにまた笑ひ洩れき。
ある日の休みのこと。
久しぶりに手間暇かかる料理を作りたらば、お鍋が腕に当たりて床にひっくり返しにけり。惑ひて部屋を飛び出し、下の階の住民に「らうがはしくしてすまぬ」と謝りに行く。なのめに許してくれき。
せっかく作りしに……したためずは……としょぼくれつつ階段を上ると、部屋の前には天根さんが。
「どうかせるや?」
「いや、ゆゆしき音がすれば」
「ああっするみぬ、鍋落としにて」
「怪我は? 火傷とか」
「え、あ、せらぬ。大丈夫なり」
「そうか、よかりき」
緩く笑みてくれし天根さんに、さいはば初めて真正面より笑ひし顔見きはとまじまじまもる。すなはち真顔に戻りし彼は、したため手伝はむやと申し出でてくるれど丁重にいなびき。
おかたみ部屋に戻り、我は鍋をしたため床を拭きて……とせりて驚く。あ、あな、ゆ、床に……床に傷が……!
いかがせむいかがせむと泣きべそをかきそうになりたらば、また叩ききこえき。顔を引き締めて出でば天根さんなり。天根さんの顔も引き締まりたりてよしは。
「さいはば言ひ忘れたりしすけど、最近下着……いかがせるすか? 苦虫噛み潰しきめる顔して」
「なんでもありま……いえ、かの、床が」
「空きき? しか重そうには見えぬが」
「いえっちがっ違ふ、傷、傷がですね」
手っ取りとく見てもらはむと部屋に誘導せば、天根さんはとばかり止まれる後おそるおそる入りきたり。玄関の隣の台所、天根さんはすなはち傷を発見す。
「あからさまにつききかし」
「いかがせむ、なほ大家さんに電話とか……」
「我直すぞ」
「えっ」
それからの天根さんの行動はとかりき。部屋より傷直し道具を持ちてきたと思はばすなはち直して、といふか誤魔化してくれし。これならば傷がいづこにつけるかもわからぬ。
「ありがたく候ひし九死に一生を得き……」
「九死に一生を得し一床……プッ」
「あながちにいくかし」
その次の日のこと。
洗濯物を夜に干したれど、日を越ゆるぐらいのころに雨の降らむと電視でやりたれば取り込むことに。窓を開けし先のベランダ、そこなりし黒き影が我の洗濯物に手を伸ばせり。「どわあな!」驚愕より奇声が飛び出づ。
「いかがせるすか!?」隣のベランダに出でこし天根さんの声を聞けばか、その黒き影は舌打ちを残してベランダより飛び降りき。我はへなへなと腰抜く。
が、隣のベランダよりパコォンといひ音の鳴りしと思ふと下の方より短き呻き声きこえき。
それよりらうがはしき声がして、パトカーの音がして、数十分なる間我はあくがれつつ窓の前で腰が抜けたりて。玄関の扉の叩かるる音でやうやう立つべかりき。
「大丈夫っすか?」
「かの……なにがなんだか……」
「すんませぬ。昨日下着ドロの話する忘れたりて。そいつ、もう捕まえしすけど。……かしこかりけるぞかし」
「……下着、あな、捕まえ、さりや」
びっくりせり。よも二階にまで登りくるなんて。ていふか本当なるなり、下着ドロ。ぼーっと天根さんのT袿を眺めたらば、彼はどこからか覚書を取り出してペラペラと捲りて真剣に読みそめし。
「ど、いかがせるとみに覚書帳見て……」
「……いや、かける言の葉を、とぶらひて」
「え?」
「笑はせまほしけれど」
「かかる時のかしこきダジャレはなしかし」と覚書帳を額に当てて明らかに落ち込む天根さんに、仰天せるあと素直に笑へき。
「我、天根さんがこうして話してくるるばかりで笑へる」
「そは我の存在が笑ひ話といふなりやかし」
「違ふ違ふ! ……ふっふふ」
下着ドロは確かにかしこけれど、でも励まさむとしてくるる天根さんが美しければ、結果大丈夫かは。やなりなあ我、現金なるなり。謎に笑ひ出しし我を見て、天根さんもやんわりと笑みを浮かべてくれき。
ある日の休みのこと。
隣の部屋がらうがはし。誰か友だちでも来らむか、と微笑ましがりつつ我は作業を続く。壁は薄ければ会話が筒抜けなり。天根さんの声以外に、1、2……4人の男の人の声がす。床抜けぬかな大丈夫かは。
あんまり聞かば悪いし、とイヤホンをつく。とばかりすると内線鳴りき。
我の部屋かは、とイヤホンを外しつつ扉を開けばそこには見知らぬ4人の男の人たち。みんな笑顔なり。
「こんにちは! 例ダビデがお世話になれり!」
「だ、ダビデ?」
「隣の天根とてやつのあだ名なり。迷惑かけられたらずや?」
「寒きダジャレ言われたらぶん殴りたりいっすればぞ!」
「これ、よければもらはまほしきぞ」
鷲鼻な彼が語尾をまどろませつつ袋を差し出しくる。中はあさりなどの貝類なりき。「わあ! 嬉し!」天根さんの友だちならむか、隣の部屋の前を見ば、我と目の合ひし天根さんが申し訳なさそうに両手を合わせたりき。
「あ、でも我、貝とかの料理したことなかりて……美味く使へざらむしみなさんで食ひてもらひし方が貝も幸せかと……」
「さなどかすか!? 樹っちゃんの獲った貝美味しきにあたらし! さり、よければ一緒に食はむぞ!」
「えっ」
「ねぇ樹っちゃん作りたらむー!」
「よきぞ」
「よっしゃー!」
「やりし、樹っちゃんの味噌汁楽しみなりは」
「ダビデ部屋片付けろほら! 女の子来れば!」
えっなんかもう天根さんの部屋で小さき宴の開かるるが決定せり。そしてそこに我の参加するも決まれり。あっあっと戸惑ひたらば、「いやでも苗字さんに悪しからむ!」と我以上に戸惑ひきめる天根さん。
「我は貝料理を作りてもらひて食ふべくばこれ幸いなれど……」
「ほらみろダビデ」
「で、でも我、天根さんの部屋入れどもよしや?」
なんだか男の人の部屋に入るもな、と思ひつつ訊ねば、天根さんは頬を掻き頭を掻き首を掻きせる後に、長く息を止めたりきめる顔で赤くなりつつ「……よきぞ」とこぼしき。
それより剣太郎くん、黒羽くん、佐伯くん、樹っちゃん、と呼ぶくらいには密度濃きころをふりき。罵りすぎて天根さんの隣の部屋の人や下の階の人に怒られき。「静かに罵らむぞ」と無声な状態がなほ笑ひを誘ひきや、みなさぬ口を盗作盗作しながらも身悶え笑へり。天根さんの言ひしダジャレに黒羽くんが全力で突っ込みゆきしが今日一番の衝撃なりき。
さても楽しきころが終はり、夜も深くなりくればみんな帰りゆく。我は天根さんが少しさうざうしからむ目をせるに気がつきき。
「当時もゆゆしく楽しかりけれどぞ。……かれし友人とたまに会ふ時の楽しさとて、さうざうしさが隣なればよりいとど感じるぞかし」
みんなが帰りていひしを見送り、長屋の階段を上りながらぽつりと零さば、天根さんは無言で部屋の前へと向かひていひき。「でも我はさうざうしからぬぞ」彼がこなたを向く。
「隣には天根さんがあれば」
少しのみ目を丸くして、すなはち真顔に戻りて、そして例のようにやんわりと口角を上げて。さても天根さんは我の恋しき顔でつぶやありき。
「じゃあ、俺もなり」
雷が落ちて停電せる時は玄関口で小さき灯火を灯しつつ新しきダジャレを一緒に考へき。
かしこき話を電視で見し夜、どうにもこうにも眠れざりて寝台に寝つつ壁をこんこんと小さく叩かば控えめに返りきたり。律動的に叩かば同じ調子で返りくる。それを繰り返したらばいつの間にかかしこさを忘れて眠れる。
夜遅くこうじて帰りしには、扉の取手に袋かかれり。おそるおそる中を見ば美味しからむおかずがタッパーに入れり。「作りすぎき。餃子がげうさん……プッ」ベランダで壁越しに突っ込みを入れておありき。
ひょんなことより天根さんの甘きものを恋しきと知りし時、勇気を出して一緒に甘きもの食ひに行かずやと誘へば意外とすんなり了承してくれき。道中ダジャレ以外の話題ではしか盛り上がらねど、それもまた彼めくと我は楽しかりき。なによりけしきはうつろはぬに嬉しそうにデザート食へる天根さんが美しかりき。
そして二年経りしある日のこと。
「我、この長屋出でむと思ふなり」
天根さんの部屋で魚と格闘せるに背中にきこえし言の葉。包丁を持ちつつ「はい?」と振り返りき。天根さんは正座なりき。さる真剣なる話なのか。我も惑ひて包丁をまな板の上に置きて彼の前に同じく正座す。別れ話とかならぬぞかし、大丈夫なるぞかし。
「と、唐突なりかし」
「以前より考へたらばありけり。このきは治安も良くはなしし、周りに気を遣ふし。あしき展開なればまず移転かはとて。……プッ」
「なにのあしき展開か」
そうか、天根さんあらずなりぬや。曲げし膝の上で指をいじり、それに視線を落とす。なさうざうしくなりそ。いづこに行くやは。遠き所かは。「さ遠からぬとこなれど」あっ遠からずとて、よかりき。
「つききて、ほしきなり」
指より真正面で頭を下げたる彼に視線を移す。ちくたくと時計の音のみの小さき部屋に響きき。
「……一緒に住んでよしや?」
「うし」
「ひ、一つ屋根の下に、我と」
「うし」
「ずっと、おはようもおやすみも、同じ部屋で言へるや!」
「……かの、あんまり、あからさまに、……鼻白む」
顔を両手で覆りし彼に、我は感極まりて飛びつくように抱きつきけり。
引っ越し蕎麦ならぬ美味しき美味しいそうめぬを持ち、隣の家に向かふ。「ヒカルくんのごとくいなびるればいかがせむ」内線を押す前に隣の彼を見上げば、「作るもさ面倒ならずとて言はば大丈夫」自信満々に返りきたり。それで大丈夫なるはさだめてヒカルくみしけなるぞ。