夜兎工の三羽烏は地元の商店街を闊歩していた。
道ゆく人たちが彼らを見ては、脇に脇にと避けていく。目が合って喧嘩をふっかけられてはたまらないのだ。夜兎工は「手のつけられない不良」で有名な工業学校であった。
中でも三羽烏の一人、神威は夜兎工のトップ──番長である。女子供には手を上げないし、弱者にも興味がない。強いヤツと闘うことに楽しみを見出している男だ。彼の目の届く範囲では、夜兎工生による小さな火種は消し潰されていた。
とはいえ、不良と縁遠い商店街の皆さんはそのことを知らない。返り血を浴びている男と関わりたくはない。懸命な判断であった。
赤く濡れているTシャツに構わず、「お腹が空いちゃったよ」微笑みながら神威は腹を撫でた。不良高校を一校潰した帰りである。
「なにか食べよう。食べ放題とかないかな」
「あそこ人で賑わってますね」
「行列の出来る店か?」
「喧嘩かな?」
云業が指した場所は商店街の一角であった。男たちがソワソワと落ち着かない様子で出たり入ったりしている。阿伏兎と神威がつられるように店に近づくと、甘い匂いが漂ってきた。
店はお菓子で埋め尽くされていた。『Happy White day』とポップが至る所に貼ってある。阿伏兎は「なんだよ菓子かよォ」とぼやいたが、三羽烏の中でもわりと常識人な云業はなるほど、と頷いた。
「もうすぐでホワイトデーですからね。ヤロー共がお返しを探しているのでしょう」
「ホワイトデー?」
喧嘩ではないので一気に興味が失せた神威だったが、小腹が満たせるならと棚のクッキーに手を伸ばしたところであった。聞き慣れない単語に首を傾げた。
神威が俗世のイベント事に疎いことは承知している。云業は「バレンタインデーはご存知ですか?」と続けた。
「知ってるよ。無条件にチョコもらえる日だよネ。透里からもらった」
「まあ、そうですね」
そうではなかった。神威は確かに透里からチョコをもらっていたけれど、もらったというより脅して奪い取った、が正しかった。
透里とは、地元の女子校に通う女の子だ。ひょんなことから神威と知り合い、彼の頬をビンタして気に入られ、以降定期的に会っては食事を共にしていた。
ビンタしたといえど、彼女は強いわけではなかった。どころか不良などの野蛮な男は嫌いであったし、神威の横で常にビクビクと怯えていた。それなのに律儀にツッコミを入れるし、怖いくせに向かってくるし、友達になろうと言ってくる。神威はそんな彼女の申し出を受け入れた。変なヤツだと、興味を抱いたのだ。
友達になってしばらく。紆余曲折あるも変わらず友達で過ごしてきたある日。というか2月14日。
「バレンタインデーなんざ男子校に関係ねェ!」とくだを巻いていた夜兎工生があまりにもうるさいので、神威はバレンタインデーって何? と云業に訊いた。
「女子がチョコを渡す日です」
「そっか。じゃあもらってこよ」
すぐに神威は教室の窓から飛び降りた。まるで2コマ漫画のような迅速な展開に、周りにいた夜兎工生は「え? チョコって自分からもらいに行くの?」と愕然としたのであった。
当時、透里は「殺されるかと思った」と語る。
移動教室中に校門から手を振っている神威に気付いた彼女は、自己ベストで駆け寄った。周囲に囃されたらたまったものではないし、待たせたら神威からどんな仕打ちをされるかわからなかったからだ。
肩で息をする透里に神威は笑顔で頷くと、さっそくとばかり拳を作った。
「おはよー。チョコちょうだい」
「ぎゃあ!!」
彼女の横を風が切り、神威の拳は壁をめりこませた。ドゴオ。コンクリートが破壊された音が周囲に響く。神威は一発で不良10人はぶっ飛ばせるほどの力を持っていた。
「な、なん、な、なんですか!?」
「バレンタインデーって知ってる?」
透里はこれでもかというほど目をかっ開いた。神威から発されたとは思えない単語が聞こえてびっくりした。びっくりしすぎて「いや……」と日本人特有のワンクッションを挟んでしまう。
「あり? 知らないの? じゃあチョコ持ってきてない?」
「あ、いえ、知ってますけど……神威さん知ってるんですね」
「うん、さっき聞いた。女子がチョコをくれる日だろ?」
「そうなんですけど全員が全員じゃないというか」
「くれないの?」
透里がくれることを疑わなかったのだろう、神威は大きな蒼い目をぱちくりと瞬かせた。
純粋に欲しいと思っていることが窺えて、透里は口をつぐむ。後々渡しに行こうと思っていたのだ。求められることが嬉しくて、つい頬が緩んでしまう。しかし視界の端で壊れた壁から瓦礫が落ちて我に返った。今は授業の合間だ。
「あの、今持ってなくて」
「くれないんだ。残念。悲しいから物に当たっちゃおう」
「物に当たるレベルじゃないんですよ! やめやめ!」
再び壁にと振りかぶった神威の腕を透里が引っ掴む。ちょっとの振動でも彼女をふっ飛ばしてしまいそうなため、さすがに神威は動きを止めた。
同時に「持ってきてます! ありますから!」と必死に透里が叫ぶ。
「今手元にないってだけで持ってます! 後であげようと思ってて……!」
「なんだ。早く言いなよ」
「言う暇なかったじゃないですか!」
「楽しみにしてるネ」
透里はげっそりしながらも頷いた。さすが天上天下唯我独尊。ものすごい回転数で人を振り回す男である。
言うだけ言って背中を向けた神威を見やり、透里は全身の二酸化炭素をかき集めて大きく吐き出した。ドッと疲れた。しかし「あ、そうだ」と顔だけ振り返った神威に姿勢を正す。
「他のヤローにあげたら殺しちゃうぞ」
出た。物騒。
口角を上げながら言った神威に間を空けず、慣れた透里も苦笑いで返した。
他にあげる予定がないので余裕を保っていられるが、軽い言い方とは裏腹に本気を感じて背筋が凍る。そんなにチョコたくさん欲しいのか、持ってきた分で足りるかな、などとは心配した。
そうして無事に透里からのチョコを手に入れた神威は、もらった瞬間に秒で平らげたのだった。
「もしかしてあのバレンタインデーのお返しってこと?」
「はい。今度は男から渡すんです」
バレンタインデーのちょうど一ヶ月後がホワイトデーなのだという。名前の由来はわからないが、借りは返す日ということだろう。
なるほど、お礼参りみたいなもんか。神威はふうんと興味なさそうに零した。
「番長もお返ししましょう。あの子に」
云業がずいと前に出て、神威の視界を髭面で埋めた。目がマジである。云業はラブコメに敏感であった。
夜兎工は喧嘩喧嘩喧嘩の日々だ。上級生から下級生まで年齢に関係なく、毎日どこかしらで暴力沙汰が起きている。窓ガラスは割れるわ担任は禿げているわ、とにかく心休まる日々はなかった。
刺激があることに不満はない。むしろ云業は神威の向かってくる者みな薙ぎ倒すその強さを尊敬している。とはいえ、荒んだ毎日に癒しを求めるのも本心であった。
そんなある日、普通の女の子が神威の横に現れた。
すぐにいなくなると思った。神威は女の子を傷つけないが、興味もない。性欲を発散するその場限りの相手しか見たことがない。この人結婚できないだろうな……と高校生ながらにも云業は思っていた。
それがどうだろう。神威から「透里と友達になった」と面白おかしそうに報告された時の気持ちといったら。阿伏兎は「セフレか?」と言ってすぐに顔面が凹んでいた。
云業は内心めちゃくちゃ興奮していた。番長にも春が来るかもしれん、と瞬時に云業B云業C云業Dに知らせた。翌日には全ての云業に周知され、阿伏兎以外の3年Ω組は神威と透里を見守る隊として発足された。
「うーん。まあもらったモンは返さないとか。じゃあ云業よろしく」
「ちょちょちょちょ」
「なに? 金は後で払うヨ」
とっとと店を出ようとした神威の前に云業は慌てて回り込んだ。なんて……なんて最低な男なんだろう。愕然とした。
「その、番長がご自身で選ばれた方が……」
「なんで?」
なんでって。云業は透里が哀れすぎて目頭が熱くなった。
唯一の男友達にチョコを強奪され、味わうことなく一秒で胃袋に吸い込まれ、そしてお返しは適当に済ませられる。びっくりするほど欠片も愛がない。透里がどんなチョコを神威に贈ったか云業には知る由もないが、ビビりながらも神威に付き合う彼女のことだ、彼のように適当ではないだろうとは予想できた。
「云業の方が女心知ってるから無難なモン選べるだろォよ。選んでやれよ」鼻をほじりながら阿伏兎はダルそうに言う。云業以外に透里の味方はここにはいなかった。
「……わかりました。適当に見繕っておきます」
「うん。ヨロシクー」
仕方ない。俺が役目を果たそう。
云業は気合いを入れた。発想の転換だ。透里が喜ぶ物を選んで、神威に渡してもらえば彼女の中の彼の株が上がる。なんなら番長の云業への信頼も手に入れることができる。これこそラブ&ピース、一石二鳥だ。
云業はその日から数日、女の子が喜ぶ物の研究に時間を費やした。
おかげで女子力が上がり、髭もツヤツヤになった。云業Aがそうなると云業Bや云業Cも変わっていく。3年Ω組は良い匂いで包まれ、阿伏兎が「キメェ! なにこの髭面のお花畑!」と発狂した。
云業は透里にも近づいていった。手に入れた女子力で彼女をお茶に誘い、流行の話や好きな物の話に花を咲かせた。
頬杖をつきながら「えーっわかるそれなー」と会話していれば、透里から「なんか私の友達とノリ似てますね」と若干引きながら好印象をもらえた。
彼女と別れた帰り、突然現れた神威から踵落としを受けて地に埋まる。
「お前なにがしたいの?」
「すみませんッホワイトデーのために彼女の好みが知りたくてッ」
「そう。知らなくていいよ」
神威は云業の頭を踏み潰し、早々に立ち去った。
理不尽だ。転校しよう。
云業は自力で地面から這い出て、少しへこんだ。物理的に凹んでいるけどそういう意味ではなく。
とはいえ神威がホワイトデーにお返しせず、透里の好感度が下がったらマズい。云業はめげなかった。これも神威の……夜兎工の番長のためだ。
なにより彼女が神威に付き合ってくれることで、このような理不尽な目に遭う頻度が下がったのだ。自分のためでもあった。
ホワイトデー前日。廊下を進む神威の背中に云業は声をかけた。
「ホワイトデーのケーキを作ったんですが良かったらどうですか」
今までの研究の成果を手作りケーキに込めたのだ。
それを聞いた阿伏兎は「はァ? 重」と思ったし、周囲の夜兎工生には「云業、番長にホワイトデーのお返しあげんの!? つか番長はバレンタイン云業にやったの!?」と誤解を生んだ。
神威だけが平然と、というか今思い出したように「あー」と返した。
「ありがとネ。それなら明日お前の部屋使わせてくれる?」
「え?」
「透里とケーキ食べようと思って」
通常ならば一組の男女に己の部屋を貸すなど、たまったものではない。けれど云業にとっては好都合だった。一気に二人の仲を深めるチャンスだと思った。
ずっと親しく友達であれ、と見守ってきたものの、恋人関係でもやぶさかではない。神威が透里に名前の付けられない感情を抱いていることには薄々気づいていた。
危惧すべきは、一線を越えないか、だ。
さすがに自分の部屋でおっ始められるのは困る。とはいえ、あの初心そうな透里に対して無理やり事に運ぶほど神威も鬼ではないだろうと云業は踏んだ。……おそらく、多分、きっと。
頼むぜ番長。一発キメてくれ。あ、いやこれは交配ではなく。
云業は「掃除しときます」と固く頷いた。阿伏兎が横でバケモノを見るような顔をして凝視してきた。
云業Aだけでは心許ないので、数人の云業と共に云業Aの部屋を掃除し、ついでに飾り付けもした。Happy Whitedayのバルーンが壁にかけられ、ふぅと爽やかに云業Bは汗を拭う。云業Cがケーキをホールから切り分け、云業Dも皿とフォークをローテーブルに置いた。
「そろそろ番長たち来る頃だな」
「じゃあ俺たちは一旦出るぞ」
「健闘を祈る」
云業たちがゾロゾロと帰っていく。といっても、このアパートは云業で数少ない部屋を埋められていた。
残された云業Aも神威たちが来たら入れ替わりで出ようと思っている。後は若い二人で……というヤツだ。最後に部屋を一回りして、女の子に見られて困るものはないかと確認をした。
「あ」
「入るよ云業」
「お、お邪魔します」
云業がローテーブルのケーキの横に置かれていた小さな箱を確認した瞬間、突然に玄関の扉が開かれた。
チャイムもノックもない。勝手知ったる様子で神威はズカズカと入り込んできたので、云業は慌てて押し入れに隠れることとなった。
「あり? 云業いないな。まァいいや、透里座ってて」
「は、はい」
間一髪、云業は見つからずに息を潜めることができた。そうしてすぐに「何故俺は隠れてしまった……!」と頭を抱える。しかも例の"小さな箱"を回収せずに!
云業は押し入れの戸の隙間からそっと茶の間を覗く。神威は台所に向かい、透里が茶の間のローテーブルの前にやってきた。
気づくな気づくな気づくな。云業は冷や汗をダラダラと流しながらも念を送った。
「わあ! すごいケーキ…………」
透里の綻んだ顔を見て、云業は"努力は実る"ということを知った。感動した。神威と阿伏兎からは絶対にもらえない反応を彼女はくれる。自分の研究の成果が報われたことを噛みしめた。
しかしそれを台無しにするのがあの"小さな箱"であった。
透里はケーキの横に置かれていた箱を見て、途端に顔を凍らせた。すべての動きが制止する。箱にはオシャレな文字で『SKIN』と記されてあった。
番長がめちゃくちゃヤル気満々みたいな男になっている!!
透里は箱から目を離さない。というか固まっている。神威はお茶を用意している。云業は押し入れの中で顔を覆った。詰んだ。
大方、先程の云業の中の一人が置いていったものだろう。『神威と透里を見守り隊』の中でも、熱量はそれぞれ違う。ラブコメを楽しまず、とっとと繋がってしまえと思っている云業もいるのだ。
気持ちはわかるが、さすがにこれはドン引きだろう。云業はいたたまれず髭を掴んだ。
「お待たせー……ん? どうしたの透里。座れば?」
神威がお茶を持ってやって来る。お待たせ、の「待」のところで透里は盛大に肩を跳ねさせた。無理もない。そんなにあからさまに置いている男なんて彼女の中では未確認生物もいいところだろう。
彼女の背後から顔を覗かせた神威は、テーブルの上のスキンに目を止めた。さすがに驚いていた。
「そのゴム、透里持ってきたの?」
「なわけないじゃないすか!!」
どうやら透里が持参したと思って驚愕していたらしい。いやそれもそれでおかしいだろう。ホワイトデーに家に招かれた早々テーブルにスキンを置く女がいたら見てみたいと云業は思った。
神威はお茶をテーブルに置いて、代わりに小箱を手に取る。同時に透里は華麗なる動きで部屋の隅に移動した。
「云業のかな。良いモン使ってるネ」
「いいいいいです知り合いのそんな情報」
「せっかくあるし、ケーキ食べた後にどう? 一発」
「ケーキ食べたら帰るんで大丈夫です」
「そう、残念。まァこれサイズ合わないし」
「聞いてないです!!」
かわいそうに、透里は真っ赤になって蹲ってしまった。神威が玄関へ続く廊下の前に立っているので逃げられないのである。
ホワイトデーにお返しをもらえると期待して心躍らせながら来たのだろう、いつもよりおめかししている様子がさらに云業の涙を誘った。一気に下品な雰囲気にさせてしまって本当に申し訳ない。せめて順を追ってもらいたかったのに。
神威は「とりあえずケーキ食べようヨ」と透里を見下ろした。彼女は立てた膝に顔を埋めたまま動かない。耳が赤い。
「……」
「……」
「……と、……か」
「ん?」
蚊の鳴くような声が聞こえ、神威は耳をそばだてた。透里が勢いよく顔を上げる。
怒っているような、照れているような、それを誤魔化しているような、不器用な表情だ。それでも茹だるほどの熱を持っていることは誰が見ても明らかだった。
「……え、えっちなこと、しませんか?」
云業が芸人であったら押し入れから転がり落ちていたかもしれないが、夜兎工生だったので寸でで止まることができた。
どういうことだ? この二人、清い関係だと思っていたがやることやってるのか? 云業は咄嗟に神威を見る。彼にしては珍しく、笑顔が剥がれて真顔で透里を見下ろしていた。
「……もしかして誘ってる?」
「え!? 違いますよ! しないですよね、って確認です確認!」
なあんだそういうことか。とはならないだろ。男子高校生の欲望ナメちゃいかんぞ。
ふぅ、と神威が息を吐いた音だけが響いて、云業は「これは殺されるな」と思った。透里がではない。自分だ。
神威は明らかにこの状況を面倒だと思っている。それもそうだろう。友人とケーキを食べようと誘ったら、機嫌を損ね理不尽に警戒されている。その原因を作り出したのは他でもない云業だ。
絶対に後でしばかれる。云業は覚悟した。
女の扱いに長けてはいない神威がこれ以上ヘタをやらかして、透里と絶交にでもなってしまったらホワイトデー作戦が元も子もない。
云業が押し入れから飛び出すか否か悩んでいると、先に神威が動いてしまった。つん。彼女の肩を軽く押す。
透里は「ぎゃ!」と鈍い声を上げながら床にコロンと転がった。蹲って体幹が不安定だったとはいえ、力の差が歴然である。倒れた透里に覆いかぶさるようにして神威は床に手をついた。
どう考えても体勢がまずい。ヒュッと息を呑む音が、彼女からも云業からも発された。
だめだ番長! 無理やり襲っては──!
「透里、お前を食うだけなら俺は二度目に会ったその日に食ってるよ」
しんしんと、もの静かに告げた神威の言葉に透里の目が見開かれた。「え?」自然と掠れた声が洩れる。
理解が追いついていない透里の両腕を掴むと、神威は子供を持ち上げるかのごとく軽々と引き上げた。いつもの距離感に戻り、視線が交わる。
「友達はヤらないんだろ?」
「……」
「"友達"に了承したのは俺だしネ。飽きるまでおまえに付き合ってやるさ」
これは。云業は咄嗟に口を覆う。昂りすぎて声が洩れるかと思った。
これは、神威なりの譲歩ではないだろうか。
男慣れしていない彼女に合わせ、欲を抑えている。暗に怖がらなくてもいいと言っている。天上天下唯我独尊、我のままに進む彼が透里の意思を尊重し、大事にしている。
すごいことだ。信じられない。あの番長が。
目の前の光景を疑い、云業は何度か目を擦る。彼女の腕を引き上げた時点で骨の一本折っていてもおかしくないとすら思っていた。それほどの馬鹿力なのだ。おそらく繊細な力加減をしたのだろう、きっと彼女の腕には痣すらついていない。
人を踵落としで地面に埋めるあの番長が──。
云業は目頭を抑えたが、神威は気にせず「それに」といつものニコニコな顔で続けた。
「さすがの俺も見られながらヤる趣味はない」
「は?」
「──ッ!!」
透里を向いていた神威が、押し入れに視線を投げた。云業の背中に一瞬でびっしりと冷や汗が滴る。
バレていた。殺される。地面に埋まるなんて生温い、ブラジルまで地下から飛ばされてしまう。
云業が押し入れの隅で縮こまっていると、その襖が勢いよく開けられた。影のかかった神威が笑顔の仮面を貼り付け見下ろしている。悲鳴にならない声が押し入れから聞こえ、透里は「え!?」と見開いた。
「云業さん!? いたんですか!?」
「すっすみません、違うんです、俺は──ッ」
「早く出てきなよ。押し入れの中じゃ全力出せないだろ」
「(全力で殺す気だ)」
「なんだ、じゃあ云業さんも一緒に食べましょうよケーキ! 云業さんが作ってくれたんですよね?」
先ほどまであれだけ神威から距離を取っていたというのに、透里は押し入れの前を塞ぐ神威の脇から顔を覗かせ云業に笑顔を向けた。天使を見た。
いやいや。首を振り、雑念を消し去って気を取り直す。彼女がケーキの作者を知っているということは、神威が言ったということだ。人の手柄を横取りしない神威に、云業は状況を忘れじんと噛みしめた。
気を削がれたのだろう、神威は踵を返すと「早く食べよう」と持ってきた皿に切り分け始めた。透里に六等分の一個、自分に四個乗せ、一個余る。
「云業さんの分ですね」
「……あ、ありがとうございます」
早々に勢いよく食らい始めた神威に怯えながら、おずおずと押し入れから出てテーブルの前に正座する。置いてあったスキンの箱は薙ぎ払い、この空間から消した。
切り分けられたケーキは小さかったけれど、云業の目尻に涙が滲んだ。くれると思わなかったし。
「云業さんこのケーキめちゃくちゃ美味しいです!」
「そ、そうか」
「ね! 神威さん」
「あごめん。味見てなかったや」
「またもったいないことを」
どうやら透里の機嫌も直ったらしい。見るからに肩の力が抜け、顔に『空気が変わってよかった!』と書いてある。
神威もその気はなかっだろうが、あわよくばイチャイチャしたいと思っていたに違いない。ケーキを真上からフォークでブッ刺して貫通、皿にヒビを作っていた。云業は居た堪れなさに肩を縮こませた。
「私、ホワイトデーに男子からこうやってもらったの初めてなんですけど」頬張りながら透里が話し出す。
ああそういや男友達が初めてなんだっけ。神威は相槌を打った。
「すごく楽しいですね。来年のバレンタインはちゃんとこっちから渡しに行きますね」
透里は味を占めたようだった。
また神威に無茶振りをされるのか、今度は今回のようなヘマをしないようにしなければ。云業が遠い目で来年に思いを馳せる。
その視界の端で、食べ終わった神威がフォークを揺らした。ふ、と溢れた笑みが耳に届く。
「腹空かして待ってるからいっぱいちょうだいネ」
夜兎工の三羽烏は地元では名の知れた不良だ。道を歩けば人波が割れ、人々に避けられ恐れられる。
神威の傍には阿伏兎と云業が控えているが、笑顔で駆け寄ってくる人物など見たことがない。それは透里も例外ではなかった。
──けれど、"その日"が来るのもそう遠くはないのかもしれないな。
「神威さんの言ういっぱいは無理です」顔をしかめる透里を見る碧眼がどうにも柔く思えて、云業はニヤけないよう頬の内側を噛みしめた。
23.04.01