mg | ナノ


夜兎工が泊まる宿に来てしまった。オンボロ。小さい。狭そう。私たちの高いホテルと比べるとお化け屋敷のよう。
す……と胸の前で両手を合わせる。私はここでお陀仏かもしれない。

「あはは、云業なに拝んでんの。なんか視えた?」
「エッいや! いえ! そういうわけでは!」

ひょっこり私の顔を覗き込んできた神威さんに、慌てて飛び出た心臓を抑えつけた。彼は変なヤツと笑顔で先に進んでいく。

……。す、すごくフレンドリーだ。
当たり前か。今の私は云業Nさん。透里ではないのだ。彼が私と知れば、きっと冷たい目で引っ張り出されるに決まっている。
久しぶりの親しんだ様子に、ちょっとだけ涙が滲んでしまった。袖で拭った。

「焼き鳥美味かったな。ここの宿の夕飯だけだと足りなかったからなァ」
「男子高生の腹ナメすぎだよな」
「特に番長が食っちまうから」

今まで夜の街で焼き鳥でも食べてきたのかな。男子の中に入って男子トークを一緒にするのが初めてで、違う意味でドキドキする。意外と私たち女子と似たようなこと話してるんだな。

宿の廊下は床が軋んでいた。一歩一歩踏み出すごとに音が鳴る。どこからかギャハギャハ笑い声が響く。夜兎工業高校が出張してきているみたいだ……。

「じゃ、風呂でも入んべ」
「風呂!?」
「なんだよ云業N。イカくせェ臭いは落とした方がいいよォ」
「イカ!? た、食べてない、が」
「はぁ?」
「ぶふっ」

急に吹き出した神威さんを見る。口元を手で抑え、しばらく止まっていたと思うと何事もなかったかのようにいつもの笑みで顔を上げた。
顔を歪めた阿伏兎さんに「な、なんでもない」と首を横に振る。もう私は話さない方がいいかもしれない。よくわからないけど墓穴を掘る気がする。

とはいえ、風呂は無理だ。お面で顔は云業さんになれているけど、身体は私。おっぱいが付いている云業さんが風呂場に現れたら、病院に連れて行かれるかもしれない。もしくは研究所。それは避けたい!

「お、俺はみんなの後で入ろう。男だらけの中入りたくない」
「みんなそうだよ」
「まァいいんじゃない? じゃあ云業N、先に部屋に戻ってなヨ。そこの突き当たり左だから」

神威さんが指をさしてくれたので頷く。風呂場に向かう彼らを見送って、ダッシュで入り口に向かった。
走っている最中ポケットから携帯を取り出す。急いで履歴からジャイ子の名前を押し当てた。

『もしもし透里!? アンタ今どこいんの!』
「か、か、神威さんの……夜兎工の宿……!」
『なんでだよ! むしろ笑うわ!』
「今帰るけど、もし私が戻らなかったら上手く言い訳しといて……!」
『いや帰ってこいよ!』
「帰るつもりだけど……!」
「云業」
「ヒイ!!!」

背後からぽつりと一声聞こえた。ガチャンと廊下に携帯が落ちてしまう。反動で通話が切れてしまった。
帰るつもりだけど、今まで彼と付き合ってきた私の第六感が言っている。これは巻き込まれるやつだ……!

ギギギとゆっくり振り返る。暗い廊下の先、学ランを揺らしながら神威さんが一歩一歩近づいてきていた。ホラー! その笑みが逆に怖いんだよ!

「どこ行くの? 部屋は突き当たり左だって言っただろ」
「あ、え、電話をしたかったもんで……」
「そう。済んだ? 戻ろうか」
「え、ええと、番長、お風呂は」
「俺もヤローと入るの嫌だからサ。二人でトランプでもしていよう」

普段の私ならばここで「神威さんがトランプとか!」とびっくりもしくは笑っていた。けれど縁が切れているし、そもそも私は云業さんなので笑えない。顔を青くさせながら「はい」と言うしかなかった。




なんでトランプなんだろう。神威さん、意外に夜兎工のみんなとトランプしてるのかな。仲良いな。いいな。
真正面で向き合って、掲げた手札の前を手が彷徨う。しかもババ抜き。神威さんのことだからスピードをして一瞬で終わらせるのかと思った。つまらんなそれは。

「うーーーん。云業がババ持ってると思うんだけどな」
「(そりゃ二人しかいないからな)」
「よっと。あり。ババ引いちゃったよ」
「ハハハ、残念でしたな」

ニコニコしている神威さんはカードゲームに向いているかもしれない。その表情は読めないからだ。
うーん、と真剣に悩む私もなんやかんやババ抜きを楽しんでしまっている。そんな私を見て、神威さんは口を開いた。

「おまえが勝ったら、一つだけ言うこときいてあげよう」
「え?」

突然の賞品の提示に目を丸くする。あぐらをかいて、膝に肘を乗せる彼は「どう?」とそこで初めて目を開いた。口元の笑みは崩さない。

「……か、番長が勝ったらどうするんですか」
「どうしようかな。おまえは俺になにしてくれる?」

無言が過ぎる。困ってしまって、視線を落とした。
この場合は云業さんができることを言わないといけないだろうに、それがまったくわからない。肩を揉むぐらいしか浮かばない。それでは賭けにならなそう。
うんうんと唸り、パッと思いつく。神威さんが喜びそうなことなんて、喧嘩以外ならこれでしょう!

「ご飯食べに行きましょう!」

蒼い目がまんまると見開かれた。

「わた、俺が奢りますよ。中華料理でもバイキングでも任せてください」

神威さんと食べに行くためにバイトを始めた。ちょっとずつ貯まってきた。
それを使う機会はなくなったけれど、約束したことを思い出したのだ。彼となにを食べるかは決めていた。彼が食べたいものをだ。

勢いで言ってしまい、ハッと気づいた。もしここで負けたら私ではなく云業Nさんの財布がすっからかんになってしまう。それは避けたい。
気合いを入れ直した私を見て、神威さんがフと微笑む。

「ノッた。たらふく食べよう」
「負けませんよ」

カンとゴング音が鳴る。二人だけのババ抜きが始まった。




あと一枚。あと一枚引いてカードが揃えば私の勝ち!
神威さんが掲げているカードは二枚。一枚は私が望むカードで、もう一枚はもちろんババだ。彼の視線や表情を読みたいのに、いつもの仮面のような笑顔を貼り付けてまったく読めない。ちなみにババが行ったり来たりして、この攻防も何十回目となっていた。

「……も、もう……これが最後ですよ……」
「そうだネ。そろそろ終わらないと阿伏兎たち戻ってきちゃうしネ」
「いや別に戻ってきてもいいんですけど……。よし、これだ!」

ガッとカードを指先で掴み、引き抜……こうとするも力が強すぎて抜けなかった。いやずるいでしょ! これ確実にババじゃないやつでしょ!
両手でカードを引っ張るも、神威さんの指は微動だにしない。最初から勝たす気なかったなこの人!
放せ……! と全身で引っ張っていると、突然勢いよく襖が開いた。なだれこむように阿伏兎さんたちが入ってくる。
「番長ォ寝ろォ!」謎に叫びながら怒涛の勢いで云業さんたちと戻ってきた。パッと急に神威さんが指を放したため、私はトランプを掴んだまま後ろにひっくり返ることになった。

「なに?」
「センコーらが寝ているか回ってんだよォったく!」
「ありゃ。いつのまにか消灯時間過ぎてたんだ」
「早すぎなんだよつか健全な男子高生が22時に寝れるわけねーだろォがよ!」
「お前は男子高生の歳でもないしネ。云業、勝負は終わりだ。寝るヨ」
「え、え」
「おまえの布団はここにないから俺のとこにおいで」
「えっあ、わ!」

ドタバタと何人かの云業さんがせっせと布団を敷き、次々と入り込んでいった。みんな先生がなんやかんや怖いのかな、なんて微笑ましく思う暇もない。慌てて身を隠すような騒ぎに紛れ、腕を引かれた。
足を取られ、身体を倒される。目を白黒させる間に掛け布団が頭の上までかぶせられた。早業。

しんと静まった部屋の中に、スパンと襖が開いた音が鳴る。「……寝ているな」星海坊主さんの声だ。
室内をじっと見ていた気配がしたが、しばらくして襖が閉まった。ギィ、ギィと床を踏む音が遠くなっていく。よ、よくわからないけど見つからなかった。よかった。

暗闇に目が慣れていったので、そこでようやく気づいた。
なんか温かいと思ったら、なんか壁が目の前にあると思ったら、神威さんが私と一緒に横になって同じ布団をかぶっていた。驚きすぎて声にならない声が出る。ガッと口を手で鷲掴まれた。

「しー。あいつ地獄耳だから。まだ動かない方がいいヨ」

こくこく頷く。放された。
か、神威さんの足が私の足に絡んでいる。神威さんの息遣いが近い。布団にくるまっているので、じわじわと熱が一体化する。

少女漫画みたいな展開に泡を吹いて倒れそうになった。私、今、神威さんと一緒に寝ているんだよ。同じ布団で、掛け布団まで頭までかぶって、まさに二人きりの密室になっているよ!

バクバクとうるさい心臓を抑えると、ふと手の甲にモサァと毛が触れた。
冷静になり顎を触る。ヒゲがある。私は今云業さんの顔をしている。

「ンンッぐ」

肩を震わせて笑ってしまった。神威さん、相変わらず優しいんだからな。云業さんにすらこんなヒーローみたいに手をかけるの? そんなの云業さんも恋しちゃうからやめた方がいいよ。

「なに笑ってんの」
「あ、すみませ、くっく、おかしくなっちゃって」

一度笑い出すと止まらなくなる。まだ星海坊主さんが傍にいるかもしれないのに、バレたら云業さんが怒られるってのに。久しぶりの神威さんの突拍子もない行動に、笑みが溢れて仕方ないのだ。

いつまでも身体を震わせる私を、どうにか抑えつけようと思ったのだろうか。神威さんが私の背中に腕を回してくる。絞めつけられるかと思ったが意外とソフトだった。違うけど、云業さんにハグしてるような状況にまた吹き出してしまう。

「ンンフッぐ、ぐ、う……! すみませ……! フフ……!」
「……はあ、やんなるな。俺もおまえといると楽しいと思っちゃってる」

笑いを堪えるのに必死で、私の肩に顔を埋めた神威さんの声はくぐもっていて聞き取れなかった。




すう、すうと寝息が響く。神威は横になったままカリ、と指先で彼女の顎を掻いた。
引っかかった物体をゆっくりと捲ると、云業ではない彼女の素顔が現れた。案の定気の抜けたように眠っている。
布団に頭を押しつけ、しばらくその寝顔を眺める。彼女の背中に回していた神威の腕が痺れていた。力加減が難しい。少しでも気を抜くと背骨を折ってしまいそうだった。

「透里の勝ちだね」

神威は聞こえないように呟いたので、息となって布団の中で溶けた。彼女の手の中で握りしめられた、ババではないトランプがしわくちゃになっている。それをそっと抜き取り布団から放った。勝敗は神威だけが知っていた。



20.05.06


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