mg | ナノ


80円を確認した高杉さんは、それを握るとポケットに突っ込んだ。ヤクルト代を無事返金して安心するも、80円くらい奢ってくれてもいいじゃないかと不満が顔に出たのだろう、彼は私が何も言っていないのに「あ?」と威圧してきた。高校生の80円て結構大事ですもんね!

「気は済んだかよ」
「すみません、あり」
「済んでねぇのかよ」
「いやこれは謝罪というか! ……ありがとうございました、泣けてちょっと気が抜けました」

高杉さんに頬をつねられ痛みで溢れた涙は、いくら拭おうともしばらくは止まらなかった。

彼は私が泣き止むまで黙って立っていてくれた。たとえヤクルト代を巻き上げようとするためだとしても、彼がいてくれて良かった。高杉さんのせいにして、私はやっと泣くことができたのだ。

フンと鼻を打ち、高杉さんは傷だらけの腕を上げ私の頭へと伸ばした。
ちょうど神威さんからの打撃を受けた箇所だったので、無意識に身体がビクリと小さく跳ねる。クツクツと笑われた。

「身に染みただろ。アイツとツルむにゃ命がいくつあっても足りねぇってよ」
「そんなの最初からわかってましたよ。……でも私は、命が一個でも何個あっても、神威さんと友だちでいたかった」

彼の固い指が私の髪に触れるか触れないかの所で止まった。すぐに下ろされ、その手はポケットの中に入っていく。先客の80円が鳴った。

言葉に出すと、干からびた筈の涙が再び流れ出した。慌てて目をつむり、必死に引っ込める。
友だちでいたかった、でももう無理だ。謝ることさえもできない。神威さんの人生に、もう私は要らないからだ。

こっちから願い下げだ。野蛮で低俗で暴力的で威圧的な不良と友だちなんて、天地がひっくり返っても御免被りたい。

──そう思っていたのに、私の天地は何度も何度もひっくり返り、新しい世界を見せてくれていた。楽しそうに死地に飛び込んでいく危なっかしいあの人を、ほっとけないと思うようになってしまった。けれど。

「もう一緒にいれない……」

どんなに周りから神威さんと関わると危険だと注意されようが、初めての男友だちだから、なにより私が一緒いて楽しかったから、……好きに、なってしまったから、一緒にいることを選んでいた。しかし神威さん自身が"友だち"の関係を断った。唯我独尊、不良高校の番長と一般女子高生では、近づくことももうない。

「頭冷えたじゃねェか」まるでこうなることを予測できていたかのように高杉さんは口角を上げる。

「ダチじゃねェって言われて納得できんならお利口さんだ。頭が良いヤツは自らヤローとダチになろうとしねェ」
「……」
「……もう、俺らみてぇなヤツに近づくんじゃねーよ」

はっと気づいた時には高杉さんの手が私の頭の上に乗っていた。ぐしゃぐしゃと髪の毛をかき混ぜられるように撫でられ、彼の隻眼が細められる。

合図のように思えた。
高杉さんとここで別れて、私はきっと普通の平凡な毎日に戻る。あの欠伸が漏れる日々だ。
神威さんと関わってから少なくなった毎日に、戻る。神威さんや彼を通して出会った人たちと縁を切るんだ。
そう思うと、名残惜しくて、離したくなくて、またドバッと一気に涙が膜を張った。嫌だ、と首を小刻みに横に振ると、高杉さんが少し困ったように手を離す。

一緒にいたい。でも彼の楽しみを邪魔した私にそんな資格はない。
どうしたらいいんだろう。この苦しさは神威さんたちと離れたら、時間が空けば、薄らいでくれるのだろうか。

「救いようのねぇアホは、考えなくていいんだよ」

小さく呟かれた言葉に違和感を抱いたところで、高杉さんはため息を吐いて踵を返した。
じゃあな。振り返ることもない学ランが揺れて去っていくのを、私は涙を堪えて見続けるしかできなかった。

ああ、終わってしまった。ぶっ飛んでいて、振り回されて、ツッコミが追いつかなくて、楽しかった、私のちょっと疲れる毎日が。




「京都かー、どこ行こうか」

そりゃ清水寺っしょ。コナン巡りしよーよ。木屋町らへん行こ〜。
わいのわいのと騒ぐ教室内。いつもの光景と一味違うのは、話題が修学旅行についてで統一されているからだ。

二泊三日、待ちに待った修学旅行が近日に迫っている。みんなは外国を希望していたが、私としてはみんなとならどこでも良いので、楽しみも楽しみだ。
伏見稲荷神社も行きたいな、としおりに挟まっている京都の地図を眺めていると、みんなの輪から外れてジャイ子がやって来る。

私の隣に腰を下ろし、周りに聞こえない音量で彼女は声を出した。

「京都でいい男見つけよーぜ、バ神威よりも超絶イケメンな」
「ええー、もういいよ男は」

むっ、と顔をしかめたジャイ子。せっかくのメイクも残念になるほど、口をへの字に曲げていた。

神威さんに絶交された日、ジャイ子にだけは彼と縁を切ったことを伝えた。
ジャイ子の中では神威さんの好感度はダダ下がりらしく、「それがいんじゃね」と女に傷をつけたことを許せないのか、同意してきた。私の周りは良い友だちばかりだ。

「アイツらにも伝えりゃいいのに、アンタに合う男、山ほど紹介してくれると思うけど」

ジュビ亜たちに目を配りながらつぶやくジャイ子に、しばらくしてから首を振る。陽気な友だちたちに心配かけさせたくないというのもあるが、私自身まだ整理できていないからだ。

「いいんだ。私が話に出さなかったら、きっとジュビ亜たちも言い出さないだろうし」
「まあ」
「せっかく好きになったんだもん、ゆっくり一人で、忘れていきたいんだ」

だからまだ他の男はいいや、忘れるまで。たははと笑うと、鼻の穴を広げたジャイ子にガッシリと抱きしめられた。

「私は! お前が好きだ!」
「痛たた、なに急に!」
「ちょっとォ〜ジャイ子受けとか地雷なんですけどォ」
「だーれが受けじゃ! 攻めだわ!」
「なんて会話」

ジュビ亜たちの輪に戻っていったジャイ子の背中を見届け、しおりに目を戻す。ふと思い出し、机の下で携帯を開いた。アドレス帳に記載されている神威さんの名前、削除のボタンが押せずにそのままである。

みっ未練がましいー! こういう女いるよ!
はあ、と重いため息を吐きながら机に頭をつける。
もうこの名前から連絡が来ることはないのに。そもそも、拒否されてるのだから、繋がるはずないのに。

ゆっくり忘れるって言っておきながらこのザマだ。忘れようともせず、形跡を残したまま。
友だちとしてなのか、好きな相手としてなのか、その両方の気持ちを抱いているからこんなにもしつこいのかな。しばらくは、どうにも忘れられそうになかった。




修学旅行1日目、本日はお日柄も良く。
京都駅でグループ行動が始まると、ジャイ子を筆頭にした私たちのグループは、かんざしを作るお店に向かった。
色とりどりの花や素材を組み合わせ、自分の好みにあったかんざしが出来上がっていく。ジャイ子たちはノリに似合わず細かい作業が得意で、お店の人も褒めるほどの完成度であった。
彼女たちに敵わないながらも、私も満足のいくものができる。

その後はできたかんざしを持ち寄り、着物のレンタルを行った。締め付けに苦しさを感じるが、それ以上にジャイ子たちの「インスタ映えじゃんヤバーッ!」とのテンションの高さに笑いが洩れる。鮮やかで豪華な着物は確かに華美で、自分を特別なものだと思える。
くるくると鏡の前で纏った着物を見ていると、小物を選んでいたジョニ美がフフンと微笑んだ。

「神威さんに見せたら即効だったのにねぇ」
「え? な、なにが?」
「惚れさせられたのに、って!」
「そーよ、写メってやるから神威さんに見せなさいよ」

ジュビ亜までノッて携帯を取り出し、こちらが止める間もなく撮影し始めた。送られてきた画像の自分は素っ頓狂な顔をしているが、まあ着物は様になっている。
お、お、送ってももう意味ないんだけどな。ガッシリと肩に腕を回され、両側から二人に「送れ!」コールをされた。これは送らないと放してくれないやつ。

仕方なしに画像を添付しメールを送る。送信画面をジョニ美たちに見せると、よしと手を打たれた。すぐに戻ってきた"メールが届きませんでした"のメールは、彼女たちにバレないようにしなければ。

「じゃあこのまま観光行っか」
「金閣寺行こーよ! カネ カネ!」
「遠くね?」
「そういや透里、伏見稲荷行きたいっていってなかったっけ?」
「あ、でも他に行きたいとこあったら」
「あの鳥居のやつっしょ? いいじゃんゲンソウテキでさ〜行こ行こ」

着物を翻しながらとっとと店を飛び出していったジャイ子たちに呆れながらも、私もとついていく。こうして振り回してくれるものだから、悩んだり考え込んだりする時間も持てないのは、正直助かった。

京都はどこもかしこも観光客が多いが、伏見稲荷も例に漏れず。
物珍しげに写真を撮る外国人に紛れ、異形の者が我が物顔で闊歩していた。古の都である京都の空気は、異形の方らも落ち着くらしい。
この神社の神使はやはりお狐様なのだろう、袴を着た狐が巫女さんの隣を二足歩行していた。

あまり見ない異形の方らに視線をやっていると、本殿に着いた。お参りし、千本鳥居へと向かう。

大きな鳥居の中から続く道は、全面が赤で先が見えなかった。圧巻していると、写真撮るよと腕を引かれる。無理やりピースの手を作った。

一歩鳥居の中に入ると空気が変わり、息をすると澄んだ空気が胸へと広がる。神聖だな、すごいなと感嘆した。でも神威さんは興味なさげに進むんだろーな……いやっ! だから私は! 考えないようにって!

私たちは着物を着ているからか、通りすがりゆく外国人の方々に無断で写真を撮られていった。さすがに気分悪くなるわ、と肩をすぼめたジャイ子たちが足を早める。

大社といっても山でもある。着物で山登りはちょっとキツいぞ。
私よりか体力はあるといっても、さすがに慣れない着物はこたえたのか、ジョニ美の泣き言から始まり、熊鷹社の辺りで引き返すことにした。

「なんか啼鳥菴っていう休憩所あるってぇ、そこいこ」

マップを見ながら先導するジュビ亜を筆頭に、我がグループは転ばないよう慎重に進む。もちろん写真を撮りながらである。
そんなジュビ亜の呼びかけも聞こえていたが、私は谺ヶ池の説明書きを読んで、何度も何度も思い出さないようにしている人を、再び浮かべてしまったのだった。

「行方知らずになった人を探す時、池に向かって手を打ち、こだまとなって返ってきた方向に手がかりがある……」

なんて素晴らしい言い伝えなのだろう。こういうのは信じてしまうクチだ。いやっ! 別に! 神威さんは行方不明になってないし! 夜兎工にいるってわかってるし!
しかし、失くなってしまった友情は心残りだった。どんなに忘れなければと願っていても、未練を残すなと自分に呆れても、こういう言い伝えを読んで浮かんでしまうのは、囚われている証拠だ。

だったらいっそのこと、未練がましい行動を続けていれば、段々飽きて止めるかもしれない。考えるなと思うから、考えてしまうんだよ、きっと。

よし、と意気込んで「神威さんと仲直りできますように!」と心で唱えながら手を打つ。
無理なのだ、絶対できないことはわかってる。これは、忘れる儀式みたいなものだ。

乾いた音がこだまとなって返ってきた方向は、山の奥であった。正規の道から少し外れた、木々が生い茂る上に続く道。目を凝らすと小さな祠があり、そこに学ラン姿の学生が溜まりこんでいた。

「チッ、賽銭全然ねぇ。タバコ一個買えるか?」「盗ってやんなよ」

野太く笑う男たちは、祠に座り込み、あろうことかタバコを吸い始める。こ、こんな神聖な山で。信じられない。
唖然と凝視していたのが悪かったのだろう、一人の男がこちらに気づいて「何見てんだコラァ!」と声を荒げた。懐かしの野蛮すぎる。

その気性の荒い男は、私への威嚇と共に、祠の横の石柱を蹴り上げた。
すっ、すごい罰当たりだー! 青ざめた私の目の前で、蹴り上げられた石はゴロリと傾く。

嫌な予感、みたいな第六感は神威さんと一緒にいることで鍛えられた気がする。
彼らの方へ駆け出して、池に向かって転がる石に目掛けて飛び込んだ。
ズシャアア、野球のごとく滑り込みキャッチが成功する。あっぶ、あぶ……危なかった。

「あ? テメ何やってんだよ」
「いやちょっと面白かったけど。え? 俺らと遊んでくれるの?」

腕の先で止まってくれた石に安堵しているもつかの間、突如スライディングをかましてきた女を訝しむように見ながら近づいてきた男二人。
着物だったため、瞬時の反応が取れなかった。あっと発する隙に、一人の男に馬乗りにされる。
ゾッと身の毛がよだった時には、襟に手を合わされる。

「透里! テメーら何してんだよ!」

突然の怒号に目を向けると、ジャイ子が道の向こうから息を切らして走ってきてるのが見えた。私がいつまでも来ないから、探しに戻ってきてくれたんだ。
なんていいやつ、とホッとしたが「なに友達?」と下卑た笑みを浮かべた男に鳥肌が立つ。だ、だめだ巻き込んじゃ。

「に、逃げ」
「オイオーイ、ここでアンアンしてんじゃねーよ。TPOがあんだろーが、これだから若者はよォ」
「あ、阿伏兎さん。阿伏兎さんも混ざります?」
「俺のツッコミ聞いてた?」

草を踏みしめる音を鳴らしながら、山の奥から聞き慣れた声が近づいてきた。
状況が、あまり理解できなくて、馬乗りになっている男が彼に気を取られているも、逃げることが浮かばなかった。
だって、今、阿伏兎って。
ちょうど上に乗っている男のせいで、山の奥が見えない。

「祠から金取ってたら女も釣れて。どうします? 持ち帰ります? 最近してなかったでしょ」
「余計なお世話だっつの。オジサンにはオジサンのペースがあんの」
「あ、番長ーォ。番長は持ってくっスか?」
「俺はパス。お前らで楽しめば」

"番長"という単語に全身が跳ねる。聞き慣れたはずの、聞きたかったはずの声なのに全然知らないそれだった。
必死に顔を背けると、谺ヶ池が目に入った。視界の端で、興味なさそうに横を過ぎる神威さんと、覗き込んで来た阿伏兎さんの顔が見えてしまった。

「………………エ゛、ネーちゃん」
「神威テメー……」

阿伏兎さんとジャイ子が声を出したのは同時だった。ピタリと止まった神威さんの顔は見えず、学ランの背の天上天下唯我独尊が揺れる。
翻し、数歩近寄ったその勢いで、神威さんは私の上に乗っていた男をぶん殴り吹っ飛ばした。

「ブフォァ!」
「ばっ番長テメー何しやがる!」

池に落ちていった男を見て、タバコを吸っていた男が祠を蹴り上げながら立ち上がる。しかし次の言葉を紡ぐことなく、神威さんが後ろ蹴りで彼を沈ませた。

しん、と辺りは静まり返る。
いまだに地に倒れている私へ、ゆっくりと見下ろしてきた神威さんは、相変わらず表情の読めない笑顔を貼り付けていた。


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