ふと目を覚ませば白い天井が映った。
自分の部屋かと思ったけれど、どうやら違うらしい。嗅ぎ慣れないつんとしたニオイに、顔をしかめながら横を見ると、ジャイ子がケータイをいじっているのが見えた。
「……ジャイ子、なにしてるの」
「うわっ、びびった。起きた? ちょっと透里ママ呼んでくるわ」
「……神威さんは?」
ぼんやりとした意識の中、ぽろっと出たその名前にだんだんと頭が冷めていく。かむい、神威さん。そうだ、私 神威さんを止めに諸系場に行って、結局追い返されて、だけど彼が死んでしまうと思って私は──。
「……最低なことをした……」
ベッドに伏せたまま両腕で顔を覆う。ぐわんと揺れる頭の中、目をつぶれば瞼の裏に浮かぶのは神威さんの最後の顔だ。殴られる直前の、すごく狂気的な、それでいて心底驚いた顔。私が飛び込んでくるなんて思わなかったんだろう、容赦なく拳が降ってきた。
無理もない、神威さんを責められない。だって私は神威さんの喧嘩の邪魔をした。彼が死ぬほど嫌なことを私はしてしまった。
じわじわ滲んできた涙を腕で押さえるように止めていれば、「あのさあ」とジャイ子の声が耳に届いた。お母さんを呼んで行ったかと思ったけれど、まだ部屋にいたらしい。腕をどかして彼女を見る。彼女にしては珍しく、神妙深そうな顔をしていた。
「その怪我、神威さん関係でしょォ」
「い……ち、ちが」
「もしかしてェ……神威さんにやられたとか」
「そ……!」
じっと私を見つめるまつ毛がバサバサした彼女の目は、非難してるのかわからない。
神威さんと関わるとろくなことがないんだよ的なことを、何度となくいろんな人に言われてきた。そのたび私は呑気に大丈夫だなんて言ってきたけれど、今がそうだ。諸系場だなんて野蛮がすぎる場所に行って、番長に殴られて病院送りだなんてろくなことがない。
でも、それは、私の自業自得なんだ。私が行かなければこんな傷を負うこともなかったし、神威さんの楽しみの邪魔をすることもなかった。
「神威さんは悪くな……」
「いや悪ィーから! なにがあっても女殴るようなやつはクズ男がすることだから!」
「いやあのね」
「これを機会に金をせびれ」
「なにを言ってるのジャイ子は!」
悲しみに浸る間もないよ! 至極真面目な顔で「ちゃんと医者に診断書をもらうんだよ」とよくわからない教えを説いてきた。男に殴られたことでもあるのかなこの子は……心配になるよ逆に……。
「ま、安心しな。大したことないって。ちょっと皮膚が切れてたみたいだけど、頭に異常はなし。元々の頭の悪さがひどくならんでよかったな」
「ジャイ子にだけは言われたくない」
「アッハハ、元気じゃん。ママさん呼んでくるわ」
カラカラ笑いながらジャイ子は部屋を出て行った。
今は彼女のなにも考えてないような陽気な姿勢がものすごく嬉しかった。慰められたり、咎められたりしたら、堰を切ったように泣き出してしまいそうだったから。
「……いや、なにを悲劇のヒロインぶってるんだ私は……」
今は私のことよりも、神威さんだ。私は彼が殺されるかと思って戦闘を止めに入ったけれど、私の登場により殺しが止まったとは考えにくい。むしろ神威さんの足手まといになったとしか思えない。今ならこう冷静な判断ができるのに! どうして私は飛び込んでしまったりなんか!
頭を抱えると、神威さんに殴られたところがめちゃくちゃ痛くて涙が出てきた。
私がこうして病院のベッドにいるってことは、誰かが助けてくれたってことだ。……神威さんかな、だとしたら彼も助かったってことで。
いてもたってもいられず、ベッドから起き上がって近くに置いてあった携帯を引っつかんだ。隣に置いてあったヤクルトがことりと揺れた。
神威さんの番号を鳴らす。どくどくと嫌な音を立てる心臓に急かされるまま携帯を耳に当てたが、帰ってきたのは無機質な音声だけだった。
『おかけになった電話番号は、お客様のご希望によりお繋ぎできません』
希望によりお繋ぎできないって。……ちゃ、着信拒否されてる……!?
慌ててメールを送ると、アドレスエラーとしてすぐに返ってきた。
これは間違いない。神威さんに連絡が取れない。私が煩しすぎて着信拒否、メルアドも変更したのだろう。無理もない、私が諸系場来た時めちゃくちゃ嫌な顔してたもんね。お前彼女でもなんでもないのにこんな所まで着いてくんなよダル、みたいな顔してたもんね。
すごくショックでたまらない、はずなのに、ほっと小さな息を吐いた。哀しさも、そりゃあるけど。
「よかった……生きてるよ神威さん……」
諸系場に行く前にメールは送れていたんだ。返事はなかったけれど、アドレスエラーは返ってこなかった。きっと、私を殴った後にどうにかこうにか諸系場から抜け出して私のことを着信拒否したに違いない。
馬鹿だな私は、好きな人に拒絶されてるんだから素直に哀しみに浸ればいいものを。好きな人よりも先に友だちとしての関係が長いから、きっと嬉しくなるんだ、生きてるってだけで。
頭の怪我は検査により軽いものであったため、早期退院することができた。
こうしてはいられない、とばかりに私は夜兎工へと向かった。神威さんに脅されでもしなければ近寄られなかった場所だが、慣れとは怖いもので、半震えだけで済んでいる。相変わらず喧騒が響き、窓ガラスが割れている学校だけど、優しい不良もいることは知っているし……!
「あ、旦くんに羽津くん!」
「ああ? ……あ」
「げ」
校門でソワソワしながら待っていると、下校する生徒の中で見知った顔が見えた。よかった、知り合いいた! とばかりに気軽に声をかける。
いつも呂薄さんと一緒にいる二人はとても気安く、人がビビってるのにも構わずに話しかけてくれるのだ。なので私も全力で知り合い感出して声かけたけど、あの、聞こえたからね。「げ」ってなんですか。
旦くんと羽津くんは私の顔を見ると、それはもう顔を歪めてそそくさと走り去って行った。……え……ちょっと、それはさすがに傷つくんですけど……。
野蛮な男を避けることはあっても、まさか避けられるとは思わなかった。思ったよりショックで校門に立ち尽くしていると、「おい」と声をかけられる。
「JKがンなとこで何してんだよ」
「テメーがンなとこ立ってっと、夜兎工が舐められるだろーが。邪魔だよ」
「あっえっスミマセン!」
いかにもな野蛮な男子にガンをつけられて肩が縮こまる。な、なんだその理屈は……女子が校門で人を待ってちゃいけないのか……! こっちだって勇気を振り絞って立っているというのに……!
「あ? この女……」「なんだ、知り合い?」「いや……」厳つい男たちは、私の顔を見てなにかに気づいたようにコソコソと話し始めた。
もしかして、か、神威さんの彼女として覚えられてるのだろうか……や、やだな〜夜兎工で有名になるとか、私の人生で青天の霹靂だよ もう〜。なんて一人デヘデヘしていれば、「あっ!!」と大きな声を上げられて後退る。
「思い出した! 校内武闘大会でオレの足を踏んだ女だ!」
「でええ懐かしい話」
「ここで会ったが100年目……あの時の鬱憤、晴らさせてもらうぜェ……」
「く、靴踏まれたぐらいで」
「アァ!? 出たばかりのブランドだぞ!? それが、ぐらいでだとォ……!?」
「ヒッ」
勢いよく襟首を掴まれて、制服が伸びる。背の高い彼に合わせて必然的に足が半分浮いた。や、やっぱり野蛮な男は怖い、威圧的で、今にも拳が飛んできそうな……ってほら拳作ってますし!
思わず顔の前に両手を出すが、いっこうに飛んでこなかった。両手を外して見てみると、彼の腕を掴んでいる男子生徒が後ろに立っていた。
「……云業さ……!」
「やめろ。その人に手を出したら後悔するぞ」
「アァ!?」
「お、おい、武闘大会の女ってことは、その人番長の……」
「え、な」
もう一人の男が止め、興奮していた威圧的な男は私の制服を放してさっさと行ってしまった。ほ、と息を吐く。そりゃ諸系場の時よりかは恐怖心はないけど、でも男に威圧されたら怖いものは怖い。自然と震えてしまった膝を叩き、なんて弱いんだと自分を叱った。
「云業さん、ありがとうございました」
「……番長は会わないぞ」
云業AさんだかOさんだかわからないけど、彼は私から目をそらしてそう呟いた。すごく、言いづらそうに眉を寄せた云業さんに、私は目をかっ開いて詰め寄る。
「やっぱり! 神威さん無事なんですね!」
「……!」
「はあ、よかった、元気ですか? 怪我とか、どうですかね」
学校にも通えるほどなんだ。ということはそんなにボロボロじゃないかもしれない。よかった、神威さんの楽しみを邪魔した甲斐があった。そりゃあ神威さんは憤慨どころじゃないかもしれないけど、私は彼が死ぬ方が怖いのだ。
「……元気だ。アバラは何本かいってるが」
「エッそれ元気って言うんですか……。ご飯は食べてます?」
「もちろん。食欲旺盛だな」
「そっか、またあのドカ食い見たいなあ」
皿ごとかき込むような食べ方を思い出して笑う。ぐ、と何かを堪えるような顔をした云業さんを見て、もしかして私笑えてないのかと冷や汗をかいた。
「あれ、なんでお前がこんな所にいるのかな」
聞き慣れた声に、どくりと心臓が跳ねる。ずっと聴きたかった声なのに、聞きたくなかった声だ。
云業さんの身体で阻まれた視線を、そっと彼に向ける。会いたかったけれど会いたくなかった神威さんが、いつもの番長姿でそこにいた。アバラが折れてるとは思えないケロリとした姿に安堵が募る。いや、なんか傷だらけというかボロボロだけど……。
安心を感じると、今度はここから逃げ出したくなった。私は、彼が私に吐くセリフを知っている。
『神威さん、私のせいで傷つく前に、友だちやめてくださいね』
『言われなくても飽きたら手放すよ』
私のせいで楽しみを奪われた彼が言うことなんて。
「まだ友だちごっこしてるつもり? ……失せろ、お前はもう要らないんだよ」
笑顔を失くした神威さんの冷たい声に、さっきまで頑張って緩めていた頬が引きつりそうになった。おかしいぞ、神威さんたちに言わせれば私は覆しようもないアホなのだから、へらへら笑うぐらいアホっぽくできるはずなのに。
「え、えっと、謝りに」言葉の途中で神威さんが横を過ぎて行く。振り返った先の「天上天下唯我独尊」の文字は、翻ることなんてなくだんだんと遠ざかっていった。
「元気そうじゃねぇか」
はっと気づいた時にはいつかのたい焼き屋さんの前で、目の前には高杉さんが学ランのポッケに手を突っ込んで立っていた。頬は腫れているし、腕は傷だらけだし、高杉さんは全然元気そうではない。
「高杉さん! 大丈夫ですか!?」
「大丈夫に見えるんだったら眼科行け。テメーのせいで全治三ヶ月だ」
「ヒイエエ……わ、私がぶっ倒れた後になにが……」
「テメーを病院送りにした後、諸系場をぶっ壊しに戻ったんだよ。坂田がどうしてもっつって聞かなくてな」
言葉のわりに口調に苛つきは感じない。こうなることをわかったようにつぶやく高杉さんに、巻き込んでしまってすみませんと頭を下げた。すると、下げた視線に手のひらが入り込む。そのまま顔面を掴まれて顔を上げさせられた。
「ヤクルト代」
「痛た……エッ、なんですかカツアゲですか!?」
「ヤクルトやったろ、返せ」
「アッ、あの病室にあったヤクルトやっぱり高杉さんが!? なんだ、お見舞いありがとうござイタタタ!」
片頬を思いっきり引っ張られる。遠慮ないなこの人! 私も一応怪我人なんですけど! どんだけ早くヤクルト代返してほしいんだ! そんなに強く引っ張られたら、もう、痛くて痛くて泣いてしまう。
「……い、いひゃい……不良なんて、きらい……」
ぼろぼろと溢れてきた涙は今まで堰き止めていたものだった。拭いたいのに高杉さんの手が邪魔をする。
きらいだ、野蛮な男なんてだいっきらいだ。神威さんなんて、だいきらいになれれば、よかったのに。
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