「君たちィ〜! ちょっと今時間あるかなァ?」
陽気に話しかけてきたのは唇がぷるぷるなお姉さんだった。体のラインがわかるスーツは社会人を表すよりも色気を表している。自分とは違う世界に生きている人すぎて、まさか私たちに話しかけていると理解するのに十秒ほどかかった。
ハッとして隣を歩いていた神威さんに視線を向ける。この本能で生きている人のことだ、色気むんむんなお姉さんに鼻の下伸ばすんじゃ……! と思ったが、彼は先ほど買ったチュロスをじゃがりこのごとく高速で食べていた。
そして颯爽と先に進もうとしてるのだからちょっとちょっとと止める。
「か、神威さん、話しかけられてますから」
「キャッチでしょ、聞くだけ無駄」
「え、え」
「あらぁ辛辣な彼氏ね〜! キャッチじゃなくてインタビューだからお時間少しいいかしら?」
メイクで固めたお姉さんの顔が引きつったような気がしたが、気のせいということにした。それよりもインタビューとは。疑問符を飛ばした私をチャンスと思ったのか、お姉さんはマイクを持ちながらグイと近づいてきた。今気づいたが彼女の後ろにはディレクターっぽい人やカメラを持ってる人もいる。
「今カップルのSNS事情について調査してるの。良かったらあなた達のかわいいSNS会話見せてくれないかしら」
「アハハ、趣味悪」
「かっ神威さん!」
一歩離れた場所でニコニコ笑う神威さんの笑顔は全然楽しさを感じない。こ、これは、ツマンネーメーターが上がっている気がする。早いとこ切り上げて行きたがっているカレー屋に行かないと、私一人残してとっとと行きそうだ。それはつらい。
神威さんの言葉にさらに青筋を立てたお姉さんだが、それでも笑顔で私にマイクを向けてきた。う、こ、断りにくい。ティッシュ配りのお兄さんからもなかなか断れない女なのに、ここで上手く切り抜けられる技なんて持っているはずがない。
しかしお姉さんが言っていた言葉に気づいた。そもそもこれはカップルに聞く話題では!?
「あ、ご、ごめんなさい、私たちカッ、カッ、カップルではないんです、だから協力できないです」
「え、そうなの? すごくお似合いなかわいい学生カップルだと思ったのに」
「エッ」
「おばさん、あまり透里に寄らないでヨ。クサイ香水が移るだろ」
「……男の方はまっまくかわいげはないけれどね」
とうとう笑顔を崩して頬を痙攣させるお姉さんと、お面のような笑顔を浮かべている神威さんの間に火花が散る。私はといえばそんなことに構っている余裕はなく、お姉さんの言葉が脳内を駆け巡っていてファンファーレが響いていた。
似合ってるって、そんな、もー、いや、わかってるけどね! 大人のお世辞っていうか! 社交辞令っていうか! そういうもんだよね! ていうかあの野蛮な神威さんとカップルだなんて冗談じゃないよ、もー、友だちってだけで骨が折れるってのに、もー。でも、そうか、他の人から見たらそう見えなくもなくもなくなくないのか。いやいや、だから一種のジョークだって、本気にしたら神威さんにも失礼だ。……。
お姉さんのスーツの裾を掴み、神威さんから少し離れさせる。きょとんと向いてきた彼女に、いやあははと苦笑いを洩らしつつ小声で口を開いた。
「ほ、ほんとに、カップルに、見えます?」
私の顔がよほど切羽詰まっていたのか、それとも気持ち悪かったのか、お姉さんは驚愕に目をかっ開いてしばらく動作を止めた。美人が目を見開いている顔は少し怖い。
動揺する私の手をガッと握ってきたお姉さん。ヒイと肩が跳ねた私などつゆ知らず、彼女は「わかったわ」と神威さんに聞こえないように小声で迫ってきた。
「片思いなのね」
「エッ! い、いや、……は、はい」
「お姉さんに任せて!!」
「は、え?」
興奮気味に叫んだ彼女は、私の手を離すと何事もなかったかのように「ごめんなさぁい」と語尾に音符が付くかのごとく発した。な、なんだったんだ。神威さんを見る。三つ編みの毛先の枝毛を探していた。もはや興味すらない。
「カップルだなんて間違えちゃって、お姉さん悪いことしたわね。お詫びに中華料理屋のコースチケットあげるわ。今日のランチにでも行って」
「今日はカレーの気分だからなー、でももらえるもんはもらうネ。透里、また今度食べに行」
「今日行って」
「か、神威さん、今日は中華にしましょう……」
怖い。神威さんとはまた違う怖さがあるよこのお姉さん。なにか社会の荒波に揉まれてきて生き残った猛者のような気迫。命令されたのが気に食わなかったのか、神威さんは笑顔で口を発さない。な、なんだこの空気ー! 肩身が狭いよ!
お姉さんからチケットをもらい、神威さんの背中を押してその場から離れる。ちらりと後ろを振り返れば、お姉さんは親指を立ててグッジョブを送ってきていた。この中華料理屋になにかあるのか。怖すぎて行きたくない。
しかしせっかくもらったのだから、ちょっとだけ行ってみようと。外観を見て怪しかったら引き上げるという形で。機嫌悪そうな神威さんの腕を引きながらチケットの中華料理屋に着く。
メニューもフカヒレや麻婆豆腐など美味しそうなものが並び、なかなかの値段で外観もお洒落。高級料理店だと一目でわかった。チケットを見直したが、騙されそうな注意点はない。
「神威さん、入りましょう、ね。美味しい小籠包食べれそうですよ!」
「美味しくなかったら透里の顔に吐き出すからネ」
「そ、相当機嫌悪いな」
冷や汗を流しながらも自動ドアの前に立つ。開いた扉の中に入れば、神威さんが入った時点でもちろんだけどドアが閉まる。そして目の前には高級料理店の内観が広がら…………ない。台所、ソファ、ベッド、冷蔵庫、その他もろもろの家具が付いたワンルームに入り込んでいた。
空気が洩れる。自分の想像と違いすぎてこめかみを抑えた。わ、わけがわからない。わけがわからない!
「キスしないと出られない部屋だって」
「え!?」
隣に立っていた神威さんが扉を振り返りながら口を開く。確かに扉に貼ってある紙にはでかでかとそう書いてあった。な、な、なんだってー! そんなばかな!
慌てて扉に手をつき、横に引いたがビクともしなかった。叩いても扉は分厚く、手から鈍い音が鳴るだけ。助けを呼ぼうと辺りを見回したが窓がなく、外観で見た窓はもしや絵かハリボテだったのかと頭が混乱した。
「ほんとに趣味悪いネ、あの女。こんなことしてなにが楽しいんだか」
「そっそうですよ、どうしよう、キスなんて」
「うんうん、キスだけで終わるわけがないもんね。どう? 一発する?」
「なんでですかしませんよ」
顔が青くなっている気がする。どうしよう、どうしよう! 絶対さっきのお姉さんだ、なにかテレビの企画かなんかで男女を閉じ込めてキスさせたら出させてあげる〜とかやってるんだ! 変態か! 誰が見て楽しむってんだ! ほっといてあげてよ!
しかも私はさっきカップルじゃないって言ったのに、片思いって言ったのに……鬼畜か……。私の恋心が弄ばれている気がする。神威さんにキスなんて出来るわけないのに。ってまたなんかいかがわしい冗談言われた気がするけど聞いてない、私はなにも聞こえてない。
「と、とにかく! やってみなきゃ始まりませんよ!」
「なに? やっぱりヤるの?」
「違います脱出です。神威さんだっていつまでもここにいるの嫌でしょう」
部屋の奥に進み、イスを扉の前に持ってくる。振りかぶって扉にぶつければ鈍い音が鳴ったが、扉はビクともしなかった。
「ああー……だめだ。神威さん、都合よく頼って本当にすみません、この扉壊してくれませんか」
「ん? 壊す?」
「はい、多分神威さんのパンチなら壊れると思うんです。そして早く出てカレー屋行きましょ!」
もう中華料理屋はこりごりですよね! 神威さんなら壊せます! と罪悪感をビシバシ感じながら神威さんを促す。扉を壊してってどんなお願いだ……野蛮が嫌いと言う女子が言ってはいけないセリフ第3位だよ……。
神威さんは少し思案すると、わかったと頷いた。そして関節をゴキゴキ鳴らし、拳を作る。少し離れてその動向を見守った。
足を開いて体を捻って、風を切る音が鳴るほど振るった勢いある拳は、扉に触れるか触れないかで止まり、そしてコツンと扉に当たった。
固まる私に神威さんが笑顔で振り返る。
「壊せなかったや、頑丈だなァこの扉」
「いやいやいや!! うそうそうそ!!」
めちゃくちゃ止まってましたから! 扉に振るわれてなかったですから拳! なんですかそのフェイント! 今の勢いだったら絶対壊せてましたよあの扉! ていうかなんで全力出してないんですか!
理解不能すぎて口からぽんぽんとツッコミを飛び出せれば、神威さんはまるでうるさいとでも言うように壁を殴って壊した。彼の肩が壁に入り込むほど力強いじゃんほら!
「壊せないって言ってるじゃん、俺も悔しいんだヨ? そんなに心抉って楽しい?」
「それ! それを扉にしてほしいんですけど! 絶対壊せますでしょ!」
「壊せないなら仕方ないネ、キスしよっか透里」
「ひい!」
笑顔で小首を傾げる彼に危機感を感じ、慌てて部屋の奥に走る。当たり前だけど神威さんもついてきた。なんて狭い部屋だ。ワンルームしかないなど逃げ場を作る気がない。
あっという間に追い詰められ、テーブルを挟んで彼と向かい合うこととなった。な、なんでこうなるの……!
「早く出てご飯食べに行こうって言ったのは透里だろ? 安心しなよ、レモンの飴はあるみたいだしさ。それでも舐めて」
「余計なお世話ですよ……! か、神威さん、さっきまでめちゃくちゃ機嫌悪かったじゃないですか、いいんですかこんな、さっきの人たちがどこで見てるともわからないのに」
キスしないと出られない部屋、ということはキスしたらば部屋の扉が開くということだ。つまり誰かがこの部屋を見ていて、扉の開閉を操作しているということになる。絶対キスするまで監視している。
そんなの絶対に恥ずかしいし、神威さんだって嫌だろうと。思っていたのに彼はいつもと変わらない態度である。もはや尊敬する。
「だって、出れないし」
「そ、そんな軽やかにしていい行為じゃないと思うんです……もうちょっとこう、ムードが……」
「ほんとに透里は頭が飛ぶほどアホだよネ。まあまあ、減らないから」
「私の中の何かが減りそうです……」
ていうかすごくバカにされたな。
しかしこうして時間稼ぎをしていれば、飽きた神威さんが今度こそ壁や扉を破壊して外に出る気がしてならない。頑張れ私、誘惑や恐怖に打ち勝つんだ。さすればカレーが待っている。
テーブルの向かいの神威さんは、しばらく黙っていたが、いつまでも引かない私に業を煮やしたのか笑顔が消えた。真顔怖いて。
「透里は、俺とキスするのがそんなに嫌なんだ」
「い!? い、いえ、そ、そういうわけじゃ」
「あ、そう? じゃあいいよネ」
「いやいやいやいや! だからそんな軽やかやめましょ! 私だってファーストキスに憧れはあってですね!」
「一回だけ一回だけ」
「そんな麻薬の勧誘みたいに! ヒイ!」
テーブルの周りをぐるぐる周り逃げていたが、とうとう神威さんが拳を振り落としてテーブルを破壊した。だからそのパワー、扉破壊に活用してくださいって!
一気に距離を詰められ、腕を取られる。咄嗟に俯いたが覗き込むように神威さんは頭を下げてきた。そ、そんなにキスしたいか。いや、外に出たいのか。それとも欲求不満か。わからないけどムードの欠片もない。
首を横に振れば顎骨を片手で掴まえられ、固定させられた。ちっ力強ええー、指が頬に食い込んで痛いんですけどちょっと。
私の反応を楽しむかのように目を細めて口角を上げ、ゆっくり近づいてきた神威さん。もう耐えきれない。
「私がします!」
「ん?」
「私からしますから! 神威さんはちょっ……止まっててください!」
空いている片手で彼の口を塞ぎ、やっとの思いで叫ぶことができた。神威さんは一瞬呆然としたけれど、しばらくして私の顎骨を放す。
ナイス考えだ私、これなら私のペースで、私のタイミングで、ほんの少しちょんと触れ合えば済むのだから。「別にいいけど」いつもの笑みに戻った神威さんは、じゃあしてと椅子を引っ張り出してそこに座った。私の目線より下になった彼を見るのはなんだか新鮮で、居心地の悪さを感じた。や、やだなー、この妖しい雰囲気。
「じゃ、じゃあ、目をつむってください」
「うん」
言われた通り目をつむった神威さんにタライが落ちてきたような衝撃を受けた。あ、あの最強で最恐な神威さんが目をつむってるよ! 隙だらけじゃない? 隙があるのかなんてわからないけど。
深呼吸をして、意気を高める。彼の肩に乗せた手が震えていた。唾を飲み込み、ゆっくりと神威さんの顔に近づく。そして目が合う。
「……なんで目開いてるんですか」
「見たかったから」
「つむっててくださいって……恥ずかしすぎて死にそうです……」
「アハハ、真っ赤」
神威さんは慣れてるんだろうな、たかがキスなんて。私の心臓が今にも壊れそうだなんてわからないんだろう。それがいい、むしろそうでないと困る。私と神威さんは友だち、特別に意識していることに気付かれるわけにはいかない。
「これ、ノーカンですからね、なんの意味もないですからね」バレないがためにつぶやくと、神威さんはわかってるよと微笑んだ。
そしてやっと、渇いた唇が彼の頬にたどり着く。
「わー!! やっちゃった!」
「……」
「ごめんなさい神威さん、ほんと、ああもう、ごめんなさい!」
必死に服の袖で神威さんの頬をゴシゴシと拭く。これで消えるなんて思ってはないけれど、感触は消えるかもしれない。あっ拭きすぎた、赤くなってしまった。神威さんの皮膚弱いのに。申し訳ない。
よほどショックだったのか、それとも拭きすぎて頬が痛くなったのか、神威さんは固まって動かない。というか理解ができてない顔をしていた。珍しい。そして次にはふー、と長い息を吐いて額を抑える。珍しい。
「……そうだった、透里はアホだった」
「はいそうです……アホです……」
自分の行いに反省していると神威さんが立ち上がった。急に威圧を感じて一歩下がったが、いまだに掴まれていた腕を引かれてさらに近づく。見下ろしてくる神威さんの表情は感情が読めないが、熱を孕んだ目に息を飲んだ。瞬間。
ウイーン。
「あっ、開きました! 開きましたよ神威さん! やった……!」
「あれで開くんだ……」
視界の端で扉が開いたことを確認し、ヤッタアと飛んで喜んだ。また真顔で呆れたようにつぶやいた神威さんはどうやら疲れたようだ。疲労回復に早くカレーを食べに行かなければ。
かりそめの中華料理屋を出ると、案の定そこには先ほどのお姉さんを筆頭にディレクターやカメラさんがいた。「なにしてくれるんですか!」と文句を言ったが、お姉さんに小声で「ほっぺにチューできてよかったでしょ」と微笑まれる。反省してない。
「まァ、一番残念だったのは彼みたいだけどね」
ぷ、と人を小馬鹿にしたように笑ったお姉さんに、勇気あるなと青ざめていれば、やはりというかなんというか神威さんが彼女の髪を頭ごと引っ掴んだので命からがら止めに入った。
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