▼ 清光の心臓の音がうるさい
清光の心臓の音がうるさい。
隣にいて聞こえるだなんて相当のものだ。以前はそうでもなかったのに、この頃音は大きくなるわ速度は上がるわで、子どもの身体と同様な短刀たちと大差ないように思う。
清光に手を握られ、色づいていく爪を見つめるフリをして、そっと彼の顔を窺う。ドッドッド、心臓は重くうるさく音をたてているというのに、その表情はいつもと変わらない。すました可愛い顔である。ネイルに興奮しているのかな。
慎重に私の爪を塗る清光がふと顔を上げる。目が合って、ドクンと一際大きい音が耳に届いた。あまりのそれに凝視してしまう。
「なーに、俺の顔になにかついてる?」
「えーと……じょ、うずだなって」
「そりゃね。顕現された時から塗ってるし。はい終わり」
ふ、と爪に息を吹きかけられた時でさえ、バネのように跳んでいるのかと疑うほど心音が騒いでいる。逆にこんなにも心臓が速くなっているにも関わらず、表情がまったく変わらないというのもすごい。いつからだっけか、清光の心臓がうるさくなったのは。
私が過去を振り返っている間にも、清光のネイルの説明は続く。グラデーションを付けたとか、桜の花びらのシールを付けたとか、今度はラメをやってみたい、だとか。高揚しているのか、私の爪を覗き込む清光は自然と頭が触れるところまで近づいてきていた。
ええ子やね、とほろり涙がこぼれそうな心地だ。自分の爪は紅一色なのに、私のために飾りを用意してくれたのだろうか。自然と頬が緩んでしまうのも無理はない。
「ありがとう清光、すっごくかわいいよ」
「うっ……」
ギュン!!!!!!
清光が固く目をつぶったと認識した次には、心臓が雑巾のように絞られたような、耐えがたい苦しみの爆音が聞こえた。衝撃を予測できなかった私は「うわああ!」と驚きの声を上げて畳に伏すことになった。
もしかしたら審神者になると、超能力とか特殊効果とかが付いてくるのかもしれない。
審神者になる前は平凡であった私が、就任して清光を初期刀として顕現したその時から、刀剣男士の心臓の音が聞こえるようになった。
審神者御用達の掲示板や政府に相談してみたが、症例が少ないという。一般ではないということを知り、個人が特定されそうなため公に相談することはやめた。心臓の音が聞こえるからといって、審神者業務や日常生活に困ることは少なかったからだ。
ドクドク、トクントクン。生きていることを証明するその音は、普通にしている分には風と変わらない音量であった。
逆に戦や、驚いた時や、怪我をした時、心臓がそれ一仕事だ! と張り切った時に、その音はよく聞こえた。鶴丸の落とし穴の餌食になった男士たちは、みな大きな音をたてるものだから、何度敵襲か!? と勘違いして庭を飛び出したか知れない。
自分の心臓の音が聞こえているとわかれば、男士たちは気味悪がるだろうと思うと、彼らに打ち明けることはなかった。話す必要も、ないだろうと思う。役に立つことならば公表もできただろうが、知識も少ない私がわかることといえば、具合が悪そうなことや興奮していること。
しかしこれは彼らの表情や様子を見れば、心臓の音など考慮しなくても、気づけそうなものであった。
──と、思っていたのだけれど。
まさか清光の心臓が四六時中うるさいだなんて。
いや、四六時中は盛ってしまった、安定といる時や居間でゴロゴロしている彼を遠目に見た時は穏やかにしていたと思う。しかし四六時中の三分の二くらいは心臓が張り切りすぎちゃっている気がしないでもない。
清光は私が初めて顕現した、いわゆる初期刀だ。不甲斐ない私の面倒を見てくれて、自分がぼろぼろになっても付いてくれていた。今やたくさんの男士がいる本丸だけれど、痛みで過ごした最初の夜を二人きりで一緒に乗り越えてくれた清光は、やっぱり特別な男士だ。
そう。だからこそ、だからこそ不調が起きているならばなにがなんでも治してあげたい。否、治さなければならない!
「加州? 先日の健康診断では特に問題なかったが……」
「えっ……心電図検査も?」
「ああ」
町の診療所で刀剣男士でもできる腹部胸部レントゲン、心電図検査と、簡素な健康診断を行ってもらった。その結果を薬研に見てもらったが、上記の通りである。
問題がない、それならと心底安堵した。
「なんだ? 加州がなにかあるのか?」
「ううん、考え過ぎたみたい。顔には出さないで、無理しちゃってるのかなと思って」
「そう思うきっかけがあったのか?」
「ええと、いや、……」
「……大将、俺たちは刀だ。心配しなくても大将が手入れしてくれるなら、それで治ってるさ」
小さく微笑んだ薬研に、ありがとうと頷く。理由も聞かず、どっしりと構えて話す彼のおかげで心配事が一つ減った気がした。なんて頼りになる男士だ、言葉一つで私の心を手入れしてくれるよ君たち男士は。
医務室を出て、ホクホクとした気持ちで執務室へと戻る。道すがら、庭で短刀たちが鬼ごっこをしていたため、その光景に癒されながらも角を曲がった。
そんなよそ見をしていたため、向かいから来る人物に気づかなかった。肩を思いきりぶつけ、よろけた身体は地面につく前に咄嗟に引かれる。
「うわっ主! 大丈夫!?」
「わっ……わ、びっくりした、ありがとう清光……」
先ほどまで脳内を占めていたその人物が3Dになってそこにいた。胴体を掴んでくれた清光は、よほど咄嗟にだったのだろう、私の上半身をガッシリと支えてくれていた。細身と思っていたけれど、意外と筋肉質なんだ。そりゃそうだ、私には振るえない刀を軽々と操っている。
ドクドクドク、いつもとは違う焦ったような速さで清光の心臓は鳴っていた。大層驚かせてしまったらしい。
「俺もびっくりしたー。よそ見してたから、ごめんね。短刀たちの鬼ごとがあんまり楽しそうで………………」
「あ、ね。私もそれでよそ見して……清光?」
庭にやっていた清光の視線がカチリと固まったと思えば、ゆっくりとこちらに向けてきた。その顔も短刀たちに向けていた微笑みのままであるが、口角が引きつっている。
むに。ちょうど胸に置かれていた手が動いた。
こ、こいつ、何気に人の胸を揉みおって。慌てて離れようとする前に、助走をつけて走って来る音が聞こえた。
ドカン!!!!!!
「あーーー!? むっ……!? ご、ごめっ!! あるっ、あ、主ごめん違うから!!」
爆発音と共に耳元で断末魔が響き、清光は目も眩むような速さで私から転がり離れた。
とはいえ私も至近距離で手榴弾を食らった身である。彼の謎の行動を気遣う余裕はなく、その場でへたれこむこととなった。
「触ってない! いや、触っ……不可抗力っていうか! 掴む場所がたまたまそこだっただけっていうか! うわ俺クズだね! 違う! ほんとごめん!」
「わ、私は大丈夫……清光落ち着いて」
ドッコンバッコンと、大きめのゴミ箱を床に叩きつけているような音が高速で清光から聞こえる。な、なんて鼓動だ。今までに聞いたことがない。いくら人の胸を揉んだからといって、そんなに心臓に負担をかけてしまって大丈夫だろうか。
大きな音により痛む頭を抑えながら、やっと清光の表情を窺う。真っ赤になったかと思えば次には真っ青に変わるその顔。わなわなと震えている彼の手は、視界に入れないようにか、あらぬ方を向いていた。
「いや、いやいや、主が落ち着きすぎでしょ、俺にむ、……ね、触られたんだよ。もっとさぁ」
「まあ減るもんじゃないですし……」
「……」
床に何度も叩きつけられていたゴミ箱は、今度はタライと化してバァンと床に落ちた。
グワングワン揺れる心音と共に、清光の表情も文句を言いたげなそれに変わる。な、なんて忙しない。私は耳を塞ぎたくても塞がないように必死だというのに。
しばらく悩んだけれども、取り返しのつかないことになっては遅い。苦い顔をして黙り込んだ清光の腕を引いて、さっき出たばかりの医務室へと戻ることにした。黙ってついてきてくれた彼は、医務室へと辿り着くと訝しげに首を傾げる。
「え、なに、なんで医務室? 俺 傷負ってないけど」
「ヒトにはね、目に見えない病というのもありまして」
「それは……知ってるけど。別に俺、どこも悪くないよ?」
そうは言うが、先ほどよりは落ち着いたけれど、やはり未だに鼓動は速い。
清光が嘘をつくコだとは思っていないが、気持ちを押し殺してしまうコだとは思う。初期刀だから本丸の誰よりも張り切ってもらって、苦労をかけてきた。苦労もかけりゃ心労もかかる。私は首を横に振った。
「信じないわけじゃないけど……ちょっと気になることがあるから、私を助けるためだと思って」
「え……」
「お願い」
「……わかったけど」
今度はザワザワと清光の心臓が騒いでいる。私がいやに深刻そうに言ってしまったのが理由だとはわかるが、どうしても不安が顔に出るのは仕方がない。
神妙に医務室に入ると、先程同様机の前に座り図鑑を見ていた薬研が振り返って目を丸くした。
「どうした大将、加州を連れてきて。まだ心配だってのか? 異常ないって言ったろ?」
「え待って主、なにそんな心配してたの? 俺ほんとどこも悪くないけど?」
「だ、だってさっき……赤くなったり青くなったりしてたし」
「それは」
赤くなったり青くなったり、それは私の胸を触ってしまったからかなとは思う。礼儀を知っている清光だ、粗相だと考え動揺してしまったのだろう。
しかしここ最近頻脈だったり心臓の音が大きいから絶対体調悪いでしょ、本当は不安なことがあるんじゃないの、なんてまさか言えるはずがない。考えすぎならばそれでいい、しかし気づかない人ではいたくない。
清光は口を噤み、畳の縫い目、天井のシミ、そして私の目を見て、しばらくして息を大きく吐いた。
「あーもーわかったわかった、好きなだけ調べりゃいーよ。そしたら主も安心するんでしょ」
「確かに、加州の言う通り主を安心させるのも俺らの役目だ。いっちょ調べるか」
「じゃ、よろしく薬研」
着物をはだけさせ胸を出した清光に、ぎくりと頬を強張らせた。な、なんて綺麗な肌なんだ。手入れの時には必死で治していたものだから、そういえばじっくりと見たことがなかった。
これはセクハラではない、と誰にともなく言い訳をしながら薬研の隣、清光の目の前に座り直す。一瞬私を目で追った彼だったが、気を取り直すように薬研を促した。聴診器を取り出した薬研は慎重に清光の音を聴いていく。
「……ちょ、主見すぎ」
「あ、ごめん」
そんなこと言われても見てしまうものは見てしまう。
肩から右胸にかけてついた先日の戦闘での傷は綺麗に治っている。お腹に深々と槍の傷を負って帰ってきた時は、ひっくり返ると思ったな。審神者に就任して間もない頃、何本も刺さった矢の傷が治らなければ、清光の身体が穴ぼこだらけになるんじゃないかと泣いた日もあったっけ。
きめ細やかな肌には今やそんな勲章などどこにもないけれど、私の心には刻んでいる。全部頑張ってくれた証だ。
そうやって目に見えるものは全て治してきても、見えないものは何もできないのだろうか。だったら私のこの特殊効果ともいえる、心臓の音が聴こえることは、なんの役に立つのだろうか。
「……加州」薬研の低い声により、思考から現実へと引き戻される。ひたすら見つめていた清光の裸から薬研の方へ向くと、彼は清光をじっと見ている。その視線を追って清光を見れば、目がバッチリと合った。
ドックン、一際大きな音が鳴る。一定の音の心臓はおそらく薬研だと思うので、この暴れ回るような心音は清光だ。聴診器をあてている薬研なら聴こえるだろう、と窺うと、やはり薬研は加州から目を離さない。ほんの少し眉を寄せて、低くつぶやいた。
「あんた、もしかして」
「え、なに? やっぱ変な病とかある? 怖いんだけど……」
「そ、そんな」
「……はは。なに、心配いらん。普通のことさ」
「え?」
聴診器を外してにんまりと笑った薬研は、もう一度「普通だ普通」と繰り返すと、もういいかとばかりとっとと聴診器をしまってしまった。
私と加州は顔を見合わせ、納得いかない旨を薬研に伝えたが、彼は肩をすくめると私たちを医務室から追い出したのだった。
とにもかくにも、普通のことらしい。突然太鼓のように激しく心音が鳴っても、頻脈が続いても、刀剣男士にとっては普通……納得いかないところはまああるけれども。
「少しは安心した?」
微笑む清光の顔を見ると、余計な心配をして驚かせてしまったかと反省する。
縁側を歩く彼の後ろをついていくように足を出せば、いつのまにか歩幅を合わせた清光が隣に並んだ。
「うん、ごめんなんか。お騒がせしたね」
「まーびっくりはしたけどね。主の心配が嫌だとは思わないよ。何もなくてよかったね」
いいコなんですこのコ……。自分のことより主の心配しちゃうコなんです……。
熱くなってきた目頭を抑え、何度も頷く。取り越し苦労だったようだ。自分がこんなにも親バカ気質だとは思わなかった。
「清光は」
「うん?」
「あまり顔に出さないから、……最初からずっと頼りきりだし、無理させていることもあるかなって」
「え? 無理な時はわりと顔に出るけどね、俺。遠征の後とかめちゃくちゃ疲れてるしー」
「そういうのではなく……」
「ま、主にはかっこ悪いとこ見せてらんないでしょ」
笑いが混じえられた言葉に、弱みを見せてもいいのになとほんの少し思ったことは否めない。
確かに、どんなに傷を負ってきても、どんなに心臓がうるさくても、清光は辛くないとばかり笑っていた。それはかっこつけていたのか。
「可愛くないとこは?」「論外!」即答で返される。どんな姿も見たいと思うのだが、これは男士にはない気持ちなのだろうか。
「清光はどんな時でも可愛くてかっこいいと思うけど……」
「だから、こう、たまにはかっこ悪いとこも見せてよ」なんて矛盾したことを言いながら清光に向いたが、隣にいたはずの彼の姿はなかった。
そういえば振り向く前に一際大きな太鼓の音が聴こえたなと、縁側の周りを探せば、曲がり角から落ちたのか庭に倒れ込んでいる清光がいた。
「きっ清光ーーー!?」
「だ、大丈夫、ごめん、角曲がりきれなかった」
「そんな猛スピードで歩いてなかったよ!?」
ふらふらになりながらも縁側に上がってくる清光。
サンドバッグにジャブを何発も入れ込んでいるような心音を響かせているが、これも普通なのか。なるほど、確かにこれが清光のベストテンションなのかもしれない。
戦場でオラオラ言いながら刀を振るっている時も、私が作ったわらび餅を食べている時も、同じ心音な理由は清光にはそれがベストテンションだからか。