▼ ディーノとバレンタインデー
「Felice San Valentino」
バサァと目の前に薔薇の花束を差し出され、思わず上半身だけ仰反った。途端に広がる薔薇の香りに胸をいっぱいにする。あ、相変わらずすごいなこの人──ディーノさんは。
ボンゴレ日本支部に彼が来日すると知らせを受けた数日前。出迎えはみょうじさんね、とボスに指令を受けた時から薄々わかってはいたけれど、出迎えの私がディーノさんに迎えられている気がする。毎度こうなのだ。
初対面時のインパクトはデカかった。「ああ、やっと見つけた。ずっと君が欲しかったんだ」と言われれば、そりゃ恋に落ちる音もする。なんたって大変なイケメンよ。イタリア流の口説き文句だと気づいて、どうにかこうにか自身を落ち着かせたものだ。
しかしそれから日本支部に来るたび花束や化粧品やスイーツなどを手土産に渡してくれるディーノさんに、だんだんと「この人本気で私のこと好きなんじゃ……」と思うようになってきた。
会えば必ずキャバッローネに勧誘してくるし、必ずディナーに連れて行かれる。甘いセリフのオプション付きだ。
最初は身分が違いすぎて「どんなお遊びだろう……」と震えていた私も、今や「どんな遊びをしよう……」とディーノさんと行く観光名所を考える始末。ボンゴレ日本支部の一介の組員とキャバッローネのボス、身分が違いすぎて震えるのは今でも変わらないけれど、一緒にいて楽しいと思えるほど気安い関係にはなった。
ディーノさんとは何度も会ったし、何度も贈り物をもらっているけれど、バレンタインデーは初めてである。今までなかなか素直になれずに──だって甘いセリフを吐かれたら返す言葉がないじゃないか──告白もできなかったけれど、この日にかこつけて私も想いを伝えようじゃないか。そう、気合いを入れて彼を出迎えた。それまでは良かった。
やっぱりディーノさんは日本とは違う、男性が女性に贈る海外流のバレンタインデーだよね。納得した。わかってはいた、いたけれど。
「なまえに似合いそうな香水を見繕ってきたんだ。嫌いな匂いだったら言ってくれ。いくつか用意した」
「あ、ありがとうございます」
「新しいネックレスも贈るぜ。前にドレスをやっただろ? それに似合うと思ってな……。次のパーティーに着てほしい。今から見るのが楽しみだ」
「あ……ありがとうございます……」
「あとチョコレートだな。最高級のカカオから作ってもらったんだ。見てくれ、ハート型。オレの気持ちだ」
「あ……ありがとう……ございます……」
チョコレートまで用意されましたか……。
両手で受け取り、はははと笑みが洩れる。固まってしまった笑顔にはどうか気づかないでほしい。
このチョコレート、いくらくらいするんだろうな。ずっしりと両手に重みがかかる。きっと頬が落ちるほど美味しいものだろう。そりゃ嬉しいよ、食べてみたかった。
──絶対私のチョコレートより美味しい……。
そりゃそうである。私はショコラティエでもないし、お金があるわけでもない。調子に乗って手作りチョコを作ったけれど、今になって「これボスレベルの人に渡していいのか?」と現実が襲ってきた。
こんな立派なチョコレートをもらった後に、「私もあります〜」と一般的ラッピングに包まれたチョコレートを渡す勇気はない。私は、ディーノさんと同じものをディーノさんに返せないのだ。
……す、少し時間を空けようかな。ディーノさんが帰る前に渡せばいいんだからさ。そうだそうだ、と自身を納得させ、「どうぞ」と彼を中に促す。
ディーノさんは「ありがとう」と頷くと、私がもらったチョコレートや花束を回収し後ろにいたロマーリオさんに渡した。え? やっぱりくれないとか? 目を丸くすると、次にはディーノさんに頬に口付けられて丸くなった目が飛び出ることになった。
「そら、手を空けたぜ。礼はハグで伝えてくれねーか?」
「……! ……!」
私がどんなに顔を赤らめ口をパクパクと動かしても、ディーノさんはニカニカと笑って腕を広げたまま動かない。ああ、もう、これだから、何も言えない。彼を私のようにときめかせるセリフなんて浮かばない。
おずおずと彼の胸に入ると、満足したように背中に腕が回ってきた。
このままじゃダメだ。流されてばかりじゃダメ。私も好きだと伝えないと。チョコレートを渡さないと!
ディーノさんたちキャバッローネを客室に案内し、ボスに報告すると「またディーノさんたちと夜出かけるの?」と日常会話のごとく訊いてきた。からかいの様子も見えなかったので単純な疑問だったのだろう。頷くと、「まあそうだよね、予定より早く来たらしいからさ、バレンタインデーだ、って」と自己解決したボスの言葉が返ってきた。早々に退室した。
部屋に戻り、キッチンに置いていたチョコレートを見下ろす。本命──ディーノさん用の箱を見てると段々気恥ずかしくなってきて、視線をそらした。……いや、これがダメだって。散々ディーノさんからもらってきておいて、チョコレート一つもロクに渡せないなんて。
ふ〜と深呼吸すると、端に置いていたチョコレートに気づいた。そうだ、雲雀さんに渡していなかったな、義理チョコ。
手作りチョコとは別に、ボス始め、幹部のみなさんや親しいファミリー用にいつものお礼として市販のチョコを購入していた。午前中に渡していたつもりが、つい雲隠れしがちの雲雀さんを忘れていた。
夜にはディーノさんたちと出かけるし、早めに渡しておかないと。見つかるかな。
雲雀さん用のチョコを手に取り廊下に出て、アジト内を探すこと数十分。倉庫から茶葉を持って出てきた雲雀さんを見つけた。
「雲雀さんよかった、今いいですか? チョコレート渡しに来たんですけど」
「……いらない」
「まあまあ、そう言わずに。抹茶チョコなら喜んでいただけるかと思って用意したんです」
倉庫の前で立ち止まって私の顔を無言で見つめてきた雲雀さんに、圧を感じて首を傾げる。山本さんにも好評だった抹茶チョコだ、和が好きな雲雀さんも食べれるんじゃないかと思ったんだけど。
「……それ、後ろの人には渡したの」
「後ろの人?」
振り返る。誰もいない。え? と再び雲雀さんを向くと、彼は軽く息を吐いて横にずれた。見えるようになった倉庫の扉からディーノさんがひょこりと顔を覗かせて、あまりの衝撃にヒュッと息を呑む。頭の先から足の先まで氷水をぶっかけられた心地であった。
「驚いたぜ、なまえは恭弥が好きだったのか」
「な」
にを、言ってるんですか、とすぐさま弁解したかったが、ディーノさんの口角は上がっているのに目が笑っていないように見えて言葉が出なくなった。ざわざわと心臓に虫が這っているような嫌な感覚。
黙った私の代わりに雲雀さんが「何を言ってるの」と口を出した。
「あなたは知らないだろうけど、日本じゃ義理が主流だよ」
「ギリ?」
「に、日本では本命とは別に友達とか同僚にいつものお礼として渡すんです」
「へえ、そうなのか」
やっと話せた。雲雀さん助け舟をありがとうございます……! ほっと一息ついて彼をチラ見すると、切れ長な視線と目が合った。
「もらっておく」流れるように手元の抹茶チョコを取られ、用は済んだとばかり雲雀さんは廊下を行ってしまった。もっと渡す場所とタイミングを考えればよかった。まさかディーノさんと一緒にいたなんて。
「ギリ……ギリか、そりゃ大変だな。同僚といったら結構な数の用意がいるんじゃねーか?」
「あ、はい、まあ……安物ですよ。個包装の物とかザラです」
「そんなに渡してるのか?」
「……あ、の、だから、ファミリーの方々に義理で」
「……イタリアじゃカップルで贈り合うことが主流だからな、まさか好きでもなんでもない男にも君が贈り物をするとは考えていなかった」
ディーノさんは雲雀さんが去っていった廊下の先を見つめながら淡々とそう述べた。微笑んでいるのにどこかしらトゲを感じて緊張が走る。空気が重い。
軽薄な女だと、思われているのだろうか。国の違いとはいえ誤解を生むのは不本意であった。
「本当にただのお礼なんですよ」
「君の気がなくても渡された方はソノ気になるぜ」
「そ、それはないですよ」
「何故そう言い切れる? なまえは魅力的だ、すぐに惚れちまうよ。オレがそうだ」
「……」
そんな奇特な人ディーノさんだけだ。けれどもう"それはない"とは言えない。言えばディーノさんを否定することになってしまう。押し黙るしかなくなり、しばらく冷たい空気が漂う。
小さく吐く息の音が聞こえたと思えば、「あーっでもそうか!」と場の空気を壊すようにおちゃらけた彼の声が響いた。
「結構オレ、なまえに好かれてると思ってたんだけどなー。恭弥にも届いてねーのか」
「……え?」
「オレは"ギリ"でもないんだろ?」
ぱ、と両手を開いたディーノさんの手には何も乗っていない。雲雀さんが持っていった抹茶チョコも、私が渡せていない手作り本命チョコもまだ、何も。
さあっと顔を青くさせた私を見て、何を思ったかディーノさんは眉を下げて目を細めると、ぽりぽりと気まずそうに頬を掻いた。慌てて何を言うか決まってもないのに声を出す。
「あ、あります、チョコ、今から……!」
「ああ、サンキュ。じゃあまた後でもらおうか」
頭を軽く撫でてディーノさんは私を通り過ぎていった。いつもはハグの一つや二つかまして別れるのに、視線すら合わせてくれなかった。
廊下の先で自分の足に突っかかって転んで「アイテ!」と洩らす所は、まあ、いつもの彼ではあったけれど。
……バカだ、私は。咄嗟に言ったところで、話の流れからして義理を渡しますと言っているようなものではないか。
胸に苦い物だけが溜まっていく。吐き出すように息をつくと、つられて涙まで溢れてしまった。
部屋に戻ると薔薇の香りが広がった。窓辺に置いてある花瓶には先ほどディーノさんからもらった薔薇を生けている。ジュエリーボックスにはネックレス、クローゼットの中には綺麗に吊るされているドレス。それだけじゃない、この部屋はディーノさんからもらった物ばかりだ。初めてゲーセンを案内した時のプリクラや、縁日で一緒に獲ったオモチャの銃だってある。
ディーノさんからもらったハート型のチョコレートを指で一つ掴み、口に放り投げた。甘さが口腔内に広がる。おいしい、絶対私のチョコはこんなにおいしくない。
でも、ディーノさんは絶対に喜んでくれる。確証は部屋の至るところに散らばっているじゃないか。
本命チョコを持ってディーノさんがいるはずの客室に向かう。ノックをして開いたが、中にはディーノさんどころか部下の人たちまでいなかった。嫌な予感がする。
アジト内を走って探すも目当ての人物は見つからず、玄関口まで走るとボスと鉢合わせた。ちょうど外から戻ってきた様子の彼は、慌てている私に気づくと「え!?」と驚愕を露わにする。
「どうしたの!? なにかあった!?」
「ディーノさんは……!?」
「ディーノさん? ああ、彼なら今ロマーリオさんたちと車で出て行ったよ……ってあ! ちょっと!」
愛想を尽かしてイタリアに帰っちゃうかもしれない。そう思うと気が気ではなくなり、ボスの言葉の途中で玄関から飛び出し外に出た。
すでに車は跡形もない。背中にかかるボスの声を振り切って、空港方面に向かって足を出した。
まだ私はもらってばかりで何も返せていない。返すどころか誤解だけ与えたままなんてまっぴらごめんだ。
あなたを魅力的に思っているのは私も同じ。会うたびに、噂を聞くたびに、強さを感じて惚れ直しているのは私の方。ディーノさんが"ギリ"なわけがない。
でもそれは、私が伝えないと伝わらない。当然だ。だから、今日に背中を押してもらうのだ。
大通りに出ると車の交通量が多く、とてもじゃないがキャバッローネの車がわかるわけもなかった。少し止まって息を切らしたまま通りの先を見る。飛び出して来たから財布も携帯だって持っていない。詰んだ。ちょっと冷静になったらわかるじゃないか。何をしているんだ私は。
しおしおと気合いが萎んでいく。いつもタイミングが合わないな。ディーノさんを諦めろと、運命に言われているようで足が重くなった。
パー、と後ろからクラクションが鳴らされ、咄嗟に振り返った。黒塗りの高級車が側に止められ、扉が開く。なんだなんだと動揺する私は、中から出てきた人にさらに驚くことになった。
「乗れなまえ!」
「え?」
腕を引かれ強引に車内に連れ込まれた。はたから見れば誘拐である。
「出してくれ」いやに焦った様子でディーノさんは運転席にいるロマーリオさんに告げた。発進する車。ぽかんとする私にディーノさんは真剣な顔をして向いた。
「ツナから連絡があったんだ。なまえが走ってアジトを出たから行ってやれって。誰か追いかけているヤツでもいるのか? 手伝うぜ」
「え、えっと」
「この車だけじゃ難しいってんなら、まだ付近にオレの部下たちもいるが……」
さっと取り出された携帯電話を見て、全力でいやいやいやと手を横に振った。
「追いかけていたの、ディーノさんです」
「え?」
「ディーノさんが……イタリアに帰っちゃうんじゃないかと思って……」
彼は「え?」の顔のまま固まり、何も発さなくなってしまった。
ロマーリオさんが一つ笑い速度を落とす。ドライブを始めたかのような運転となった。二人の様子に、彼が出て行ったのは自分の勘違いだったのかと察する。顔から火が出そうだ。
「ち、違うみたい、ですね」
「ちげーよ……なまえに今夜渡すためのマカロン買いに行ったんだ」
「まだくれるつもりですか!?」
「恭弥に負けたくねーだろ」
今度は私が「え?」の顔で固まってしまった。
ディーノさんは助手席から可愛らしいケーキボックスを取り出すと、私の膝の上にそっと置いた。うんうん、と満足そうに微笑まれる。
「なまえが誰から好かれようと、一番好きなのはオレだ。なまえの一番だってオレにさせてみせるさ」
ケーキボックスを抑える手が震える。喉が詰まって上手く声が出ない。
嫌われたわけではなかった。まだ好きでいてくれていた。どころか、とっくに一番なのに彼はまた私の好きを更新していく。
今度は私が伝える番だ。ディーノさんのような甘いセリフを吐けなくても私にはこれが、と抱えていたチョコを握り顔を上げる。ルームミラー越しにロマーリオさんと目が合った。
そうだ、二人きりではない。気恥ずかしさが生まれ、上げた顔を下げる。開いた喉から予想外の言葉が洩れてしまった。
「……私は、ロマーリオさんたちキャバッローネのみなさんには勝てなさそうです。ディーノさんを好きなの」
「なっ! ファミーリアとガッティーナは別モンだろ! ロマーリオには背中を預けられるが、キスはなまえにしかできねーよ」
「プッ! ハッハッハ!」
「笑うな!」
ハンドルをバンバンと叩きながらロマーリオさんが豪快に笑う。私以上に頬を赤くさせて動揺しているディーノさんを見ていると、緊張が解けて私までプッと笑えてしまった。口をへの字に曲げたディーノさんにうろんな目で睨まれる。
「ごめんなさい、比べるものじゃないですね」言いながら、握りしめすぎてラッピングがくしゃくしゃになったチョコレートをディーノさんに差し出す。目を瞬かす彼に「本命です」と続けた。
「……ホンメイ」
「はい。キスをしたいくらい一番大好きな人に渡すチョコです」
驚いて、目を細めて、照れくさそうに笑って、ディーノさんが私からチョコレートを受け取った。やっと渡せた。安堵と嬉しさと、好きだなと思う感情で、泣きそうになってしまった。
いや、ここで満足してはダメだ。ディーノさんは言葉でもたくさんくれた、私も伝えるんだ。もっと喜んでほしい。そればかり浮かぶ。
「お、お待たせしてすみません。私もディーノさんのことが好きです。大好きです」
「……。あ! ロマーリオ、ルームミラーが汚れてるぜ!」
告白をミラーの汚れに遮られ、え? と素っ頓狂な声が洩れた。急に汚れが気になったのか? もしかしてディーノさんも照れると他の所に目がいくタイプ? 唖然とする視界の端ではロマーリオさんが「はいよ」と鏡拭きクロスを取り出し、赤信号で止まると拭き始めた。ロマーリオさんがクロスにより見えなくなる。
それが合図だったかのように、ディーノさんは唇に一つキスを落としてきた。
21.02.28