▼ キス魔な財前
昨今のコンビニスイーツは日々進化を遂げている。
美味しさは当然として、つい手に取ってしまうデザイン、ふらっと寄って買える利便性。毎月更新される新商品に、お弁当のお供として選べるコスパの良さ。専門店にも引けを取らないコンビニのおかげで、仕事後のボロボロなこの身体も回復することができる。
──はあ〜! ガトーショコラにミニパフェ……たい焼きにチーズケーキにどれにしよう!
駅近のコンビニのスイーツ売り場で目を爛々と輝かせる。ウッ、今日も光って見える。
仕事終わりのこの時間を狙ってるのか、いつも陳列棚にはびっしりと数々のスイーツが並んでいる。どれも美味しそうで選べないくらいだ。
隣のスーツのおじさんも顎に手を当てて凝視しているし、もう反対隣のお兄さんだってしばらく棚の前から動いていない。真ん中を陣取りながら、私も内心で涎を垂らしつつ吟味していた。
ふと、新発売! とポップが立てられているスイーツに目が止まる。白玉ぜんざいだ。
それを認識した瞬間、脳内にぶわっと浮かんでしまう顔がある。中学の時のクラスメートの財前くんだ。彼も白玉ぜんざいが大好きだったなと、それを見るたび思い出してしまう。
もう何年と会っていない。
それもそうだ、私は中学三年の卒業を機に東京へ引っ越してしまったし、今この大阪に戻ってきたのも数ヶ月前。成人してしばらく経つし、街中で偶然会ったとしても気づかなかったりして。
財前くんのことだから、それはもうイケメンに磨きをかけてるんだろうなあ。なんて、乙女心を擽るクールな表情を思い出していると、白玉ぜんざいの気分になってきた。
よーし、今日はきみに決めた。残り一つの白玉ぜんざいに手を伸ばすと、横から伸ばされた手と重なった。
え、少女漫画。
タイミングが良すぎて手を引っ込めるのも忘れて横を見ると、さらに王道な少女漫画を見ることとなった。
「ん、みょうじ?」
「ざ……!」
財前くんだ。中学時代の面影はそのまま、年齢を重ねることで得られる色気、かっこよさを纏っている財前くんがそこにいた。
突然の邂逅に開いた口が塞がらないのに、彼が紡いだ自分の名字に一瞬誰かと思ってしまうくらいには驚いた。覚えていたんだ、私のこと。
「久しぶりやん。いつこっちに戻って来たん?」
「す、数ヶ月前……仕事で少しいることになって」
「へえ。おかえりなさい。懐かしいな」
黒のタイロッケンコートに身を包んだ財前くんは随分と上品なイメージに更新された。髪も中学時代ほどワックスを使っていないのか、彼が小首を傾げると合わせるように揺れる。少し身長も伸びたようだ。
対して私といえば、仕事終わりのボロボロ姿。髪もメイクも今日の終わりを迎えているので、おそらく、多分、いや絶対、彼の目に入れていい人物ではない。
せっかく会うならもっとキチッとした時に会いたかったよ!
「白玉ぜんざい、買うとこやったん?」
「え、あ、うん。財前くんも変わらず好きなんだね」
見た目はレベルアップしてるけれど、食の好みは私の知っている財前くんでホッとした。
「まあ」と頷く彼に一つ笑い、いまだにぜんざいに重なっていた手を抜け出すように外す。
「どうぞどうぞ。私は違うの買うので」
「……あ、ほなら美味いとこ行こか」
「え?」
「久々に会うたんやし少し話そうや。ぜんざいめっちゃ美味いとこ連れてったんで」
「え、と」
「この後用事あるん?」
「用事はない、けど」
ぜんざいから手を離し、早々にコンビニの出口へと向かう財前くんの後ろ姿を唖然と見守る。
と、突然の展開すぎて理解が追いつかない。数分前まで今夜の晩ご飯の弁当とスイーツを探していた私には別次元のようだ。
ついてくる気配がない私に振り返り、しばらくして思い至ったように「ああ」と財前くんは口を開いた。
「元カレと話すん嫌な人?」
その単語が石となってゴーンと勢いよく頭に降ってきた。元カレ、元カレ、元カレ……とエコーがかかる。彼に再会してから私は何度も時が止まることになってしまった。
中学三年、運良く財前くんとお付き合いすることになった私は、けれどその数ヶ月後には東京への引っ越しによって遠距離恋愛の現実と向き合わされる羽目になった。
今ほどSNSが流通しているわけでもないし、元々数ヶ月の交際期間でも頻繁に連絡を取り合っているわけでもなかった。
恥ずかしくて校内でおちおち話すこともできなかったし、中学生というだけあって「相手が自分のことを好き」という気持ちだけで満足していたから、じゃあいざ離れますと言われるとその気持ちだけでお付き合いが継続するとも思えなかった。
なにより、財前くんを狙っている可愛い女の子が山ほどいた。傍にいない彼女なんて壁にもならず、財前くんはたくさん女の子に囲まれるだろう。そう思うと不安でいっぱいで、要するに、遠距離恋愛なんて絶対に無理だと悟ってしまった。
ので、私は、もったいないことに交際期間数ヶ月で財前くんと別れて、灰になって東京に越すことになったのだ。
一方的に別れを告げた時の財前くんの顔だけが思い出せない。ボロボロに泣いた視界ではどんな表情だったのかわからず、去っていった財前くんの背中すら滲んで瞼の裏に焼き付けることができなかった。
そんな苦い思い出ごと「元カレ」の一言で復活させてくれた財前くんは、今現在平然とした様子でカルーアミルクを飲んでいる。可愛いもの飲むんだね。……。
「え!? 白玉ぜんざいは!?」
「最後のデザートな。とりあえずここのてっちり美味いから食っとき」
私が感情に浸っている間に連れてこられた先は鍋を謳う居酒屋だった。個室に通され、財前くんとてっちり鍋を挟んで向き合う状態。
た、確かにメニューのデザート欄に白玉ぜんざいはあるけども……! 騙された感が拭えない。
不信な気持ち丸出しで財前くんを見つめれば、彼はてっちりを口に含みながら手で覆いつつ笑った。
「堪忍。なかなか一人で鍋食べれへんやん」
「ま、まさかお鍋食べたいがために私をここに……」
「みょうじやって一人やと鍋食えへんやろ」
「もっと最適なお友達がいるのでは」
「ぜんざいもあるしええやん」
ぱくぱくと食を進めていく財前くんは、言葉通り鍋が目的で私を引っ張ってきたようだ。別になにを期待していたわけでもないが、ほんの少し脱力した。
彼の言う通り一人暮らしをしていると段々と億劫にもなるので、こうして鍋を誰かと突けるのは悪くない。さらにはイケメンを眺めながら食べる鍋。もう二度と味わえないだろう光景を有り難むことにする。
「それにしてもよくわかったね」自身の緊張をほぐすように努めて明るく声を出した。
「財前くん、もう私の顔なんて忘れてると思ったよ」
「それはお互い様やろ」
「私は白玉ぜんざいを見ると財前くんを思い出すから、実は手を伸ばす直前まで浮かんでたんだ。そうしたらご本人登場で」
タイミング良かったね、と笑いが洩れる。箸を止め、私をじっと見てきた財前くんは美形もあいまってか何を考えているかよくわからなかった。
「みょうじ、変わらへんからすぐわかった」
ぽつりと呟かれた言葉にウッと胸が痛む。確かに垢抜けないとは自分でも思うが、中学の頃よりか少しは変わっていてほしかった。
東京に行って恋も何度かしてきたし、仕事で世間に揉まれもした。ちょっとは大人になったと思うんだけどな。
「甘いもん見とる時のゆっるゆるな顔」
「そ、え、嘘」
まさかのそれ。
「そ、それは財前くんもそうでしょ。ていうかいつから見てたの!?」
「俺隣に立ってたやん。ずっと」
「え、あ、あー、あのお兄さん財前くんだったの。もう、やだ声かけてよ。少女漫画みたいな出会い方しちゃったじゃん。手が触れ合ってドキン……ってさあ」
「いやそれは単純にみょうじにぜんざい取られたなかったからやな」
「ぜんざい狂だなあ」
お酒が入ると別れた相手といっても話が弾むようで。現在の仕事や元四天宝寺中の今、大阪の新しくなった街などについて話していれば、あっという間に時間は経っていった。
特に財前くんが飼っている犬の話題になると、隣に来てスマホ内の画像を見せてくれる溺愛っぷり。元々撮影センスが高かったけれどさらに腕は上がっていて、肩を並べるという緊張すら忘れて動画に見入ってしまった。
なんだか交際していた時よりも楽しく話せている気がする。別れたことなんてなかったかのように、ただ単に元同級生として思い出話に花を咲かせられている。もしかしたら友達になれるかもしれない、なんて淡い希望がむくむくと芽を出した。
「みょうじは彼氏とどうなん?」
動画を終えてスマホをテーブルに置いた財前くんは、隣の私を見下ろしてきた。もう何杯目かわからないほど甘いお酒を飲み続けているからか、とろんと目を潤ませている。
よ、酔っている! あの財前くんが酔っている。私も顔が火照るほどにはお酒が回っているが、財前くんの方が弱いんだ。
なんだか可愛いな……と微笑ましく思っている場合ではない。痛いところを突かれたので、素直に苦笑いで返した。
「いないよ」
「作る気ないん?」
「作りたくても作れないというか……単身赴任してるくらいだし……。財前くんこそ彼女は──いたら私とこんなところで飲んでないか」
「まあ……せやな」
「え、本当にいないの? さらにかっこよくなってるから女の子が逃すわけないのに……理想高いんじゃ」
ないの、まで言いそうになって黙る。数ヶ月とはいえ私の告白を受けて付き合ってくれた財前くんだ。彼女の理想は高くないだろう。
作る気がないのかな。不思議に思って彼を覗き込めば、唇を重ねられた。一、二秒の後離れた彼は「高いかもな」と続ける。
「みょうじは理想通りやった」
「……」
「シメどっちにする? ラーメンの気分やからラーメンでええ?」
「……」
「すんませーん。シメのラーメン二玉」
その後はあまり記憶にない。普通に会計して、普通に店を出て、普通に連絡先を交換して出会ったコンビニで別れた気がする。目的のはずであった白玉ぜんざいを頼んだ記憶すらない。
ハッ、と気づいた時には部屋に帰ってきていた。よろよろと覚束ない足取りでベッドに倒れ込む。服に皺が付くことも厭わない。ドッドッドとうるさい心臓を抑え込むことに必死だった。
──え、き、キスされた?
さらっと自然に流れるように、キスをされなかったか? 全然ムードもなにもないし、全然話題も関係なかった。そこに唇があったので同じ唇で合わせてみました、みたいな軽さがあった。
初めてでもないので今更カマトトぶるつもりはない。が、なぜこんなにも動揺しているからって相手が財前くんだからである。どうして!? なんで!? が浮かんでは消えない。ずっと頭に張り付いている。
ポン、と通知の音が入って、きゅうりに驚く猫のように飛び起きた。画面には先程別れたばかりの財前くんの名前が表示されている。
『今日はおおきに。また飲も』
…………夢かな。夢な気がする。平然としすぎているので、キスなんてなかったのではないかと思う。
私の願望? 希望? 熱望? 久しぶりに元カレ(と呼べるほどの関係でもなかったけれど)と会ったので幻を見た? そうだ。間違いない。
飢えているんだ。なんて女。深層心理で財前くんとキスがしたい、と思ってしまったのだろうか。
なんだか財前くんを汚してしまったようで、ごめんねと複雑な気持ちを抱えながら「こちらこそありがとう」と返信をした。いや、これはキスの妄想を見させてくれてありがとうの礼ではなく。
次に飲みに誘われたのはその二週間後であった。
今度は仕事終わりは終わりでも、最初から夜に財前くんと飲むとわかった上での一日。メイクも直したし、先日ほどボロボロではない。気がする。
前回と同じ居酒屋の前で立つ財前くんを発見すると、思わず「う」と身構えてしまった。イケメンが私を待っている、という勝ち組の錯覚は私の脳をバグらせてくれたのだ。
顔を歪める私を遠目に気づいた彼が、スマホを持つ手で振る。慌てて駆け寄った。
「ごめん、待たせて」
「いや。来おへんと思った」
「え、なんで」
「前回帰り際、心ここにあらずやったし」
「え、えーっと、ごめん。ぜんざいの味よくわからなかったなー……て」
正直あの時のキスが夢か現か確かめたかったのは、ある。鎌をかける私に彼は気付いていないのか、「急に味覚音痴になったんちゃう?」と鼻で笑うと店の扉を開けてくれた。
やはり夢。こんな平然としている彼がキスをするわけがなかった。
そもそも彼の周りには私以上に可愛い子なんてごまんといるだろうし、もしかしたら人違いしただけかも……。
なんて高を括っていた私は再び口を塞がれたことで霧散する。
最近乾燥続きだから指も割れちゃうよ、という話題で「どんなん」と彼に手を取られてから早かった。そのまま腕を引かれてキスをされ、「ああほんまや……痛そうやな」と続けられた感想。痛いのは頭だ。彼の突拍子もない行動に頭痛がする。
「ざ、ざ、ざいざい財前くん」
「ん」
震える声に返事した彼の顔は、またとろんとしていた。火照ってはいないけれど目が揺れている。声色もどことなくまどろんでいる。これは……確実に酔っている。もしかして、もしかして、だ。
「財前くんって酔うとキス魔になるんじゃ」
「試してみる?」
テーブルを回ってやってきた財前くんに、うわー! と慌てて反対へと回り込む。しかし個室は二人用なのでとても狭く、逃げる場所などない。あっという間に行く手を彼の腕に遮られた。
「気をしっかり持って財前くん! 私です! みょうじなまえです!」
「嫌?」
覗き込むように見つめられ、ぐ……と詰まってしまった。垂れた前髪の間から揺れる瞳が捉えてくる。金縛りにあったかのように身体が止まる。
好きだったのだ。中学時代だけど、子どもだったけど、でも本気で好きだった。キスだって憧れていたし、それどころか手を繋ぐこともままならなかった。話すだけでも呼吸がしづらくて、それほど好きだったのだ。だから。
「嫌、ではな……けど……!」
「……ん」
本音を言ってしまったから、押しのけるほど拒絶できなかったから、つまりこれは私の過失だ。再び財前くんのキスを受け入れてしまった。
唇を押し付けられて、ゆっくりと離れていく。財前くんの瞳は焦点が合わないし、鼻が触れるほど近い。彼の吐く息が唇に当たり、ハッと我に返った。
バチン。頬を叩く音が鼓膜に響く。
財前くんが目を丸くした。突然目の前で己の頬をビンタする女がいればそれもそうである。
「私も……気をしっかり持つので……財前くんも水を飲もう……!」
「……」
テーブルの上の水を引っ掴んで彼に押し付ける。しばらくしてから受け取ってゴクゴクと飲み始めた彼に、これで頭が冷えますようにと願うばかりだ。
とはいえまだ彼の腕の中にいる。早く抜け出さないと心臓がお陀仏になってしまう……とヒヤヒヤしていれば、個室の扉が開いて「おまたせいたしました」と店員さんが入ってきた。
「白玉ぜんざいお二つ……あ、すみません」
「いえ! 大丈夫です! お待ちしてました!」
チャンスとばかり彼の腕の下から抜け出し、店員さんから勢いよくぜんざいを受け取った。私と財前くんをちらちらと見てきた店員さんは、頭を深く下げて扉を閉めていく。広がる沈黙。
「あ、あの……ぜんざい食べよう」
「……おん」
二人して黙々と白玉ぜんざいを食す。やっぱり味なんてわからない。美味しいなんて嘘じゃないの。こんなに無味なぜんざいなんて食べたことがない。
財前くんは真顔だったが先ほどよりか頬の赤みが消えている気がする。もしかして酔いが醒めてきたのだろうか、とおずおずと覗き込めば、ふと目が合った。
「すまん。酔ってた。殴るなら俺殴ってや」
「あ、やっぱり酔ってたんだ」
「怖かったな」
「怖くは……ドキドキしたというか……」
「え?」
「そ、それにしても酔うとキス魔になるって財前くん大変じゃない? 飲み会とかもそうなの?」
私もお酒が回っているらしい。ぽろっと本音が洩れてしまいそうな口を噤み、慌てて話題を変えた。
財前くんほどの顔面力で酔うとキス魔になるだなんて、絶対に生きづらいはずだ。勘違いしてしまう女の子(私を含め)続出だろうし、なにより財前くんの唇の価値が下がってしまう。それはもったいない!
心配しながら訊ねると、財前くんは白玉を咀嚼しながら「あー……」と視線を下げながら頷いた。
「まあな。迂闊に飲み会にも参加できへんねん。しばらく行ってなかったからキス魔になってまうんも忘れとった。堪忍な」
「ううん。……つらいね。たくさん飲みたい盛りだろうに……」
同情の視線を向けると、財前くんがぎゅっ……と眉を寄せ目を瞑った。その顔色は心なしか青い。
私がもし酔って関係の浅い男の人にキスしてしまったら、それはショックだし相手の人にも申し訳ない。好意があると勘違いされても困るし、それを利用されて責任を迫られたら参ってしまう。
直せるものなら直したいよね……とうんうんと頷く。涙ぐましい。
「……。……まあ、せやな。うん。飲めへんのはつらいわ。ダチとも飲めへんし」
「もしかして男の人にもしちゃうの?」
「謙也さんにしようとしたって後から聞いて口削ぎ落とそうと思ったわ」
「ああ……」
お酒が入ると性別構わずキスしようとしてしまうらしい。それは相当だ。彼のキスを狙ったり、笑い飛ばしてくれる人ならまだいいかもしれないが、今後接待などの重要な飲みの席でもそのような行動に取ってしまったら財前くんの首が危うい。
「せやから協力してくれへん?」
「え?」
「今みたいに俺がキスしようとしたら目覚ましてほしいねん。あ、殴るんは俺にな。何度か繰り返したら酔うてもキスしたらあかんて身に染みると思うわ」
「そ……」
「嫌?」
まただ。またその顔。覗き込んでいるから若干上目遣いになっていることも、気付いてないのだろうか。数年経って彼がこんな顔もするのだと初めて知ったし、私が弱いのだとも初めて気づいた。
しばらく考えた後「わかったよ」と拳を握る。
「私ができることなら……でも、やるなら本気でやるからね。財前くんの顔が腫れるくらい殴るから」
「怖」
そうして始まったキス魔対策。二週間に一度仕事の終わりに財前くんと飲みに行く日は、より一層気合いを入れた。楽しみにしているわけではない。これは人助けだ、そう、財前くんが困っているから……!
居酒屋の前に立つ財前くんに、やあと手を挙げる。私の気合いに圧されたのか、彼は片眉を上げて訝しげな視線を送ってきた。
「元気ハツラツやん。なんやいいことでもありました?」
「ううん! 絶対財前くんにキスされないぞと思って」
「……頼もしいな」
オロナミンCの気力は、財前くんがお酒を飲んだことによりバキバキに打ち砕かれた。
いつのまにか眼前に迫っていた綺麗なお顔を咄嗟に殴ることなんてできず(よく考えたらそれはそうだ)、出来たことといえば自分の口を守るように両手で覆うこと。次の瞬間には手の甲に口付けた財前くんに、ひいいと泡を吹いた。
「ざい、財前くん! 出てる! キス魔が出てるよ!」
「……ん」
「目を覚まして!」
「……邪魔やなこれ」
かすれた声で呟かれ、これ? と疑問符が浮かんだ次には両手を引き剥がされた。露わになる口。エッとひっくり返った声は、財前くんの唇に押し留められてしまった。
また、されてしまった……! 止めることができず、アア〜と自責の念が脳内を駆け巡る。
ガッシリ手首を掴まれているため今更ぶん殴ることもできないし、なによりやんわりと唇を食まれると力が抜けてしまった。
次こそは。絶対に負けない。財前くんにもそうだが自分自身にもだ。
そうさらなる気合いを入れた後日、今度は作戦を考えてみた。マスクである。
彼がお酒を飲み始めたらマスクを付ける。そして彼が迫ってきても両手を掴んでしまえば、マスクを外してキスなんてできないだろう。阻まれて止まった彼にビンタをする、これだ。
脳内で完璧な作戦を立てて臨んだ試合。やはり酔ってキスをしようとしてきた財前くんに、急いでマスクを装着する。彼の両手首も掴んで封じたので、これでどうだ! と目を輝かせたのだが、眼前の彼はパカと口を開けた。
器用にマスクの鼻部分を噛み、下に引っ張られる。緩慢な動きがやけに魅惑的で、思わず息を呑んでしまった。ぼけっとしてる私はそりゃ格好の得物だろう。キスをされて我に返り、アア〜と頭を抱えた。
つ、次こそは大丈夫。なんたって人目がある。
今までは個室だったからだめだったのかもしれない。酔っていてもさすがに公衆の面前であったなら、気もそぞろになるだろう。そう考えて彼にバーを紹介してもらった。
マスターの目の前のカウンターに座り、財前くんは差し出されたカルーアミルクのグラスを傾け氷の音を鳴らす。
「俺ビンタされるん、人に見られなあかんのか……」
「で、でもこれで身に染みると思うから」
キスしてきた男に張り手する女、という修羅場を目の前で繰り広げられるマスターには申し訳なさが募る。なんて余裕を持っていられたのもそれまでで、再び財前くんに唇を塞がれた時には、逆に私の方が周りの視線を気にすることとなった。
バーのカウンターは失敗した。距離が近すぎた。簡単に腰を抱かれて密着したおかげで、ビンタの手すら制限される。
視界の端でマスターが素知らぬ顔でグラスを拭き続けているのが見えた。助けを求めたら財前くんが犯罪者扱いされそうであったため、しばらく半泣きで受け入れるしかなかった。
次こそは、次こそ、次には──……。
そう日々を繰り返す間に気づいたら唇のケアを続けていたし、新しい化粧道具も揃えていた。仕事後疲れてすぐ寝ていた生活は、ストレッチや食事に気をつけることで心なしか肌ツヤが良くなったし、恋愛コラムが特集されている雑誌が床に広がっている。
冷や汗が背中を伝った。目をそらしていた現実がのしかかっている。
これはもう、誰が見ても期待しているでしょ。財前くんと飲みに行ってキスされることを期待している女の行動でしょう。
キス魔を禁止しようという会が、むしろそれを望んでいるだなんて彼が聞いたらドン引きも間違いなし。財前くんは困っているっていうのに私ってやつは、と頭を抱えた。
ビンタの一つもかませられないし、財前くんもそろそろ「……この会やる意味あるん?」と思っていてもおかしくない。
悶々と悩んでいても財前くんの飲みの日は来てしまう。私と財前くんは何度目かの居酒屋でテーブルを挟んだ。
いつまでもこんな宙ぶらりんなことを続けていいわけがない。今日こそは絶対にビンタする。なんなら財前くんがお酒飲んだ瞬間に叩く。そう危険な思考を抱いたところで、財前くんは届いたカルーアミルクに手を付けず、ぽつりと呟いた。
「……みょうじに言わなあかんことがあるんやけど」
「えっ」
やっぱり「この会やる意味あるん?」だ。わかる。全然役に立ってないものね、私。
膝の上で拳を握り、宣告を待つ。どんな叱責も受けようと思って真正面からじっと財前くんの言葉を待った。
彼は口を半開きで止まり、すっと視線を下にずらす。しばらく経つもいつまでも言葉が出ず、はあと重い息だけ洩れた。
「やっぱなんでもないわ。乾杯」
「乾杯しません! 言って!」
グラスを携えこちらに傾けてきたので、咄嗟に自身のグラスを持って避けた。
何か言いたそうなのに言葉に出さない財前くんの表情は、とても見慣れたものだった。
付き合っていた期間に何度も何度も見た。きっと、私に対して要望とかツッコミとかあったんだと思う。忍足先輩や、一氏先輩には切れ味鋭いナイフで突き刺していたのに、私には何も言わずに最後まで付き合ってくれた。一方的に別れを告げたあの時だって、「わかった」とそれだけだった。罵倒されてもおかしくなかったのに。
「財前くん、中学の時も思ってたんだけど、私にも吐き出していいんだよ」
彼が目を丸くして瞬く。
「文句とか、してほしいこととか、ずっと言わないでいてくれたけどさ。我慢しなくていいというか……財前くんの言いたいことが私の聞きたいことだと思うんだ」
今回のキス魔のことだって、言いづらいことだったろうに話してくれて嬉しかった。全然協力できていないけど。
もう学生ではない。たくさんの人と知り合い、それなりに気遣いもできるようになったし、わかるようにもなった。わからない人は知り合うことで理解ができるようになる。心情が読みにくい財前くんだって、読めなきゃ教えてもらえばいいと思うのだ。
「言わなかったんとちゃう。言えなかったんや」
カラン、と氷を響かせて財前くんはグラスの縁を指でなぞる。それを視線で追っていた彼は、今度はゆっくり私に向けた。
「先輩らにもよお可愛くない口や言われてたし、性格も良くないん自覚しとったし、なに話しても傷つけそうやった。嫌われたなかったんやな」
当時を思い出したのか、自嘲の笑みを浮かべる財前くんに今度はこちらが目を丸くした。
そう思っていたのか。そんな素振り、少したりとも見せなかったのに。
口数が少ない彼の本心を初めて知って、唖然と、口から呆けた息が洩れた。財前くん、ちゃんと私のこと好きでいてくれたんだ。実感がなかった。だから今知れて良かった。その頃に知っていたらもしかしたら、とまで考えて、戻れない過去を頭を振ることで払った。お酒も飲んでいないのに喉が焼けてくる。
「つまらん彼氏やったやろ。ごめんな」
「財前くんは可愛いよ」
「なんやねんそれ。そこ返してほしかったんとちゃうわ」
不満そうに目を細めた財前くんに思わず吹き出してしまうと、彼も私につられてか口角を上げた。
その笑みが今まで見たこともないくらい穏やかだったものだから、私の知らない財前くんを感じるとともに、ストンと落ちてしまった。喉どころか頭まで焼ける。心臓を絞るには充分すぎた。
私はまた、またか。
「……や、やっぱり財前くんを引っ叩くなんて無理」
「は?」
互いに驚愕に目を見開く。自分でも驚いたが、出てしまったものは仕方ない。財前くんに純粋な協力はできないのだ。下心でいっぱいの私が、彼にビンタなどできるはずがない。
「今まで叩けなくてごめん……でもきっとこれからも私は財前くんに手なんて出せない……!」
「(なんて謝罪されてんねん俺)」
「私じゃなくて誰か……」
最後まで言葉にならなかった自分に嫌気が差す。
財前くんが他の人にキスするなんて嫌だと、傲慢にも思ってしまった。私のものではないのにだ。顔を俯かせ反省する。
協力もできない私はもうきっと一緒にお酒を飲むこともない。無理と言っておきながら、すぐに後悔が襲ってきた。もう会ってくれないだろうか。SNSトークのやり取りは、続けていいのかな。ああほら傲慢を重ね続けてしまう。
「みょうじ」
顔を上げると、財前くんがちょいちょいと指先で手招きをしていた。そして内緒話をするかのように手を口元に当てる。なんだろう……と思い、テーブルに身を乗り出して耳を傾けた。
瞬間、ガッと顎を掴まれる。その次には熱に唇を覆われた。
いつもとは違う荒々しい塞ぎ方に驚いて口を開くと、強引に舌が捻じ込まれてきた。咄嗟に引くもあっという間に絡め取られ、息を奪われる。
──え、え、なんで、どうして。
ぐっと顎に力が込められ、痛みに顔をしかめて思わず彼の胸を全力で押し返した。反動でテーブルの上の皿の音が響き、財前くんは後ろの壁に背中を付ける。それ以降、私の荒い息の音だけが広がった。
「代わりなんかおらん」
射抜くような視線で睨まれ、背筋が冷えた。頭が混乱して言葉が浮かばない。財前くんが何をしたのか、なんでしたのか、なんて言ったのか、理解など当分できるはずがなかった。だって、彼はまだお酒が来てから一口もそれを飲んでいなかった。
コートと鞄を引っ掴んで慌てて個室を出る。
喉が焼けた。頭も焼けた。舌までもがピリピリと火傷したように熱い。