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校舎裏に呼び出された及川は、何度も聞いた告白に慣れたような笑顔で「ありがとう」と返した。
先日彼女と別れフリーとなった彼の噂は一日と待たずして校内に広まる。やれチャンスだとばかり、恋心を秘めていた女子や友達の位置から彼女の称号を狙っていた女子などが及川を呼び出し告白をしていった。
しかし及川の答えは決まって「バレーに集中するんだ」であった。
彼女と別れても新しい彼女がすぐにでき、一部のグループから陰口を囁かれるほどには校内を騒がせていた彼。珍しい返答であった。
部を引退するまでは恋愛にうつつを抜かすことはないということなのか、及川のバレー部内での実力を知っている者は納得したし、及川自身もその選択に違和感は抱かなかった。彼女を作る気が湧かないのである。
告白をしてくれた女の子の背中を見送り、及川はそのまま校舎を背にしてしゃがみこんだ。青い空を気持ち良さそうに鳥が飛んでゆく。
──今の子、可愛かったな。
及川も年頃の男であるので、異性の顔や仕草に視線をやってしまうことはよくあることであった。
しかしもったいないことをしたかも、と思いこそすれ、彼女を追いかける行動には移さなかった。
最近の自分はいつもこうだ。交際していた彼女のことを考える時間は少なくなり、街で美女に声をかけられてもその気にはならない。及川は頭を抱えた。もしかしてもしなくても……俺っておかしくなった……?
岩ちゃんに感化されたのかもしれない! あの鈍感カタブツに! 及川は閃く。けして自分の男としての本能が薄れたわけではないと言い訳をして。
バレーと恋愛は別物として割り切っていた及川だが、ここにきてバレーに意識を全て費やす時がきたのだろう。そう、及川が悟りながら校舎の壁に頭を付けたところであった。
「俺、みょうじさんのこと好きなんだ。付き合って」
ハ〜〜〜!? なに俺を差し置いてなまえちゃんに告白してんの!?
そこからの及川の行動は早かった。瞬時に立ち上がり校舎の陰から声がした方へと顔を覗かせる。聞こえた通り、みょうじが男子生徒に告白されていたので及川は再び内心でハ〜〜〜〜!? と大きな声を上げたのであった。
みょうじは驚いたように目を丸く男子生徒を見上げていた。それを認識した及川は、掴んでいた校舎の壁を割る勢いで握り込む。あの子の視線は俺に向けられていたのに!
身体を煮えたぎらせる感情に突き動かされるまま及川は陰から飛び出してしまいそうであったが、「あの……」と控えめな声が耳に届いて制止した。
「ごめんなさい……私、いま誰ともお付き合いをするというのはその……思っていなくて」
別に自分に言われたわけではないのだが及川は彼女が発した「ごめんなさい」に打ちひしがれた。壁に手をつき、もう片方の手で顔を覆う。
いや、悲しむ所ではない。喜ぶ場面だろう。みょうじは誰を選ぶとも言ってなく、目の前の男子生徒に奪われる心配が霧散したのだ。ズキズキ痛む心と安堵を抱え、及川はもう一度そっと二人を見やる。
「……みょうじさんも及川が好きなの?」
「えっ」
なんてことを聞いてくれるんだ! 突如出てきた己の名前に、及川は耳を大きくした。みょうじを見つけたあの日から、彼女が自分の話題をしているところを見ていなかったので、これはチャンスだと前のめりになる。みょうじが及川をどう思っているのか、岩泉や花巻らに頼んでも引き出せない話題だ。
「好きっていうか……」
気まずげに視線を落とすみょうじを見て、及川はスン……と世界の音が止むことを知った。
いや、別にね? なまえちゃんに好かれてるだなんて全然思ってなかったデスヨ。
彼女は誰にでも優しいし、誰にでも「努力の天才」やら「一緒にいるともっと楽しい」やら言うし、バレンタインチョコも渡すのだ。きっとそうだ。及川だけではない。それは好意からくるものではない。
そこまで考えて及川は完全に跪座した。青い芝生を虚無の表情でじっと見つめる。なぜ彼女は自分のものではないのかとさえ思った。
「あ、憧れなの。及川くんをずっと見ていたいの」
耳に届いたささやかな声に、及川の瞳の中に光が灯る。次にはぶわぶわと熱が燃え滾り、耳まで赤くさせた。鼓動が速い。手が滲む。これは一体なんだろうか、この興奮は試合とはまた違うが、なんとも心地よい。
そっと陰から二人を覗く。はにかみながらも背筋を伸ばしながら男子生徒に向いている彼女を見ていると、次第に眩しくなり見ていられなくなった。咄嗟に目を細める。今日はサングラスを持っていない。
「別にいいよ」
「え?」
「及川見ててもいいから付き合おうよ。あいつが好きってわけじゃないんだろ」
「え、あの」
「そのうち俺のこと好きにさせるから」
目が点となったのはみょうじだけではなく及川もであった。強い、あまりにも精神が強い男子生徒である。というよりもみょうじの断りが控えめすぎて意図に気づいてないのではないだろうか。
いるよねそーいうやつ……と頬を引きつらせていた及川だったが、男子生徒がみょうじの手首を掴んだ瞬間目の色を変えた。
「ちょっと!!」
「え?」
「え?」
咄嗟に飛び出した声と身体。二人の視線が一気に突き刺さったが、もう後には引けなかった。
及川はズカズカと近寄ると、繋がれていた手を引き離す。もちろんみょうじを自身の体で隠すようにだ。
「……ちょっとぉ〜、女の子に無理やりは及川さんどうかと思うなぁ」
「おっおっおいか、おい、おいか」
「いやなまえちゃん息して! しゃべって!」
驚きで引くように呼吸をしているみょうじの背を軽く叩き、深呼吸を促す。どうにか一時しのぎでも落ち着いたみょうじは、改めて「及川くん……!」と頬を染めた。
彼女の丸い瞳がこちらを向いている。みょうじの視界いっぱいに自分が映ったことを確認すると、及川はにっこりと笑んでようやっと男子生徒に向いた。
「なんか大事な話? してるみたいだけどゴメンネ。俺がいた方が潔く諦めもつくかなと思ったんだけどどう?」
みょうじに向けた笑顔とはほど遠い笑みを浮かべた及川を見てビクリと肩が震えた彼女がいたのだが、二人は構わずバチバチと火花を散らす。
男子生徒は自分が当て馬になっているのだとは実感してしまったが、ここですごすごと引き下がっては腹の虫が収まらなかった。なんせ目の前で不敵に笑む及川は──……。
「なに、及川はみょうじのことが好きなの?」
男子生徒はみょうじが好きなので、彼女が及川を見ていることに気づいていたが、及川からはその気持ちが感じられなかった。それなのにみょうじを弄ぶように接する男に、男子生徒は不満を露わにした。
たとえ彼女が自分を見なくとも、悪い男には引っかかってほしくないといういじらしい心情であった。
対して及川は、「エッ?」と素っ頓狂な声を漏らしたのだから今度は男子生徒が目を点にする。
「俺が………………なまえちゃんを好き………………?」
まるで初めて学んだ日本語であるかのように呟かれた。
「な、な、なに言ってるんですか! もう! そんなことあるわけないよ!」
「俺が……」
「ごめんね及川くんなんでもないよ! あの、とりあえず、お付き合いできません、ごめんなさい」
「なまえちゃんを……」
「ああ、わかった。……及川とも付き合わないんだろ」
「好き……」
「つっ! 付き合わないよ! そんな! 無理だよ!」
「む……っ!!」
『無理』という漢字が及川の頭に落下する。そんな及川の様子を見て、男子生徒はフンと鼻を鳴らして満足そうに去っていった。
残されたのは肩で息をきらしているみょうじと、無理が響いている及川である。両者とも気づいていないがとんだ修羅場である。
しばらく沈黙が続いたが、意を決してみょうじは口を開いた。
「あの、ごめんなさい、及川くんがいるって気付いてなくて。場所、変えればよかったね」
「なんで? 俺がいなかったらなまえちゃんあいつのものになってたよね」
予想外に冷たい声が響いて及川は口を手で覆った。
なんだろう、なまえちゃんといると心が洗われるはずなのにどろどろと汚い感情が渦巻いてしまう。これが「好き」というのか? こんな汚いものを彼女に向けたらば、眩しくて純真な彼女を汚してしまう。それは本意ではないはずなのに、底に眠る欲が期待している。嫌われたくは、ないんだけど。
「そうはならないとは思うけど、でも及川くんが来てくれてちょっとホッとしたよ」
「あ、ちょっとじゃない、いっぱい」焦ったように、照れたように、にっこりと笑んだみょうじを見て、及川は今まで渦巻いていた黒いものが一瞬でジュワッと浄化された気分に陥った。あまりにも神々しくてつい両手を合わせてしまった。「え!? なんで拝む!?」かわいらしいツッコミが入った。
「好き」だとか、「付き合う」だとか、確かにみょうじにそうは思えない。考えられない。
無理、というのもまあわかる。
及川は男子生徒に掴まれていたみょうじの手首をそっと手に取った。自分よりも細くて握りこんだら痕が付きそうな柔いそれ。
この手首をつかんで笑顔にするのも泣かせるのも、自分がと思ってしまうのだ。誰にも譲ってやるものかと、ふつふつ煮えたぎる。
これはなんというのかな、君も知らないんだろうな。
及川は慌てふためくみょうじの手首をつかんだまま、校舎の陰を出るのであった。
20.03.09