▼ マーモンの唇がほしい
ヴァリアーという組織は卓越した超人が多く、事務だけに精を出す私なんぞ呑気に歩いていればそれは彼らの通行の邪魔にもなる。
アジトの廊下の曲がり角、突如視界に出現したマーモンくんに勢いよく突撃してしまった。
運が悪いことに呑気に歩いていればただぶつかるくらいで済んだものを、私はドタバタと駆けていたのでそのスピードごとマーモンくんに体当たりをかましたのである。
マーモンくんは私よりも華奢なので猪がぶつかってくればそれは堪えきれず倒れ込んでしまうのも道理。
つまり、ええと、私はマーモンくんを下敷きに、そしてあろうことか勢いで彼の唇を奪ってしまったのであった。
「……」
「……」
すぐさま退くといった行動すら取れず、たっぷり10秒ほどは間を空けてすごすごと彼の上から降りる。
マーモンくんはその間微動だにしていなかった。倒れたといっても外れないマントにより表情も窺えないが、大方小娘に奪われたキスも挨拶ぐらいに思っているのだろう。
だが私は違う。口元を覆って無言で虚無を凝視していると、マーモンくんがおずおずといった様子で「あの」と口を開いた。
「……悪かっ」
「プニプニしていた」
「は?」
ところがマーモンくんの様子に構えないほど衝撃を受けていた私はといえば、稚拙な感想を洩らすことで精一杯だったというわけだ。
広い廊下に座り込んだまま我々は顔を見合わせる。
「マーモンくんの唇、すごく柔らかかったんですけど……どんな保湿ケアしてるんですか? リップは何を使ってますか?」
「ちょっと……」
「すみません私自分の唇ガサガサでコンプレックス抱えていまして! もう一度触ってもいいですか!?」
「ダメだよ。ちょっダメって言ってるだろ!」
ボンゴレ独立暗殺部隊であるヴァリアーは、いくら事務仕事といえどもヴァリアー・クオリティーを求められるため下っ端である私はほぼほぼ不眠不休で働いている。
おかげで美容なんてもってのほか、鏡を見たらかろうじて残っていた乙女心が死ぬ生活を送っていたというのに、直属の上司であるマーモンくんの唇はプルプルでプニプニであった。気づかなかった。いや、あえて目をそらしていたのかもしれない。まさかこんなにも理想な唇が側にいたなんて!
自分の唇と触れたことで比較し、より柔らかさがわかってしまった。もう一度触りたい……と指を伸ばしたが、寸でのところでパシリと叩き落とされる。
「君わかってるの? 僕とキスしたんだよ」
マーモンくんにしては幾分か低い声を向けられ、一瞬驚いたもののすぐに頷いた。
「はい、おかげで目覚めました」強く言うと、息をのむ音が聞こえる。
「私もそんなプルツヤリップになりたいです! ご教授いただけませんか!」
「…………」
ヒビ割れて血が滲むことも、皮が剥けることも、口紅が上手く色乗らないことも無縁な唇に私はなりたい。拳を握って意志を伝えると、重い重い息を吐いたマーモンくんは、ここまでバカなんて思ってなかった、となかなかにキツイことを言いながら頭を抱えた。
たまに処理しきれなかったりすると彼は急に騒ぎ始めるので動向を見守る。しばらくすると話す気になったのか、マーモンくんはいつものふてぶてしい様子で私に向いた。
「特に何もしてないよ」
「またまた」
「専用美容液でマッサージしてビタミン配合リップバーム使ってラップパックで保湿してるぐらい」
「結構してる!」
ヴァリアーの幹部も美容力を保つために努力をするのかと少し親近感がわいた瞬間である。
サッとメモ帳を取り出し、どこのメーカーか訊ねたが当たり前のように「高いよ」と告げられた。プルツヤリップの持ち主なので忘れていたが、そういえばマーモンくんは口を開けばお金。
今月の給料を思い出しながらも泣く泣く支払いを約束し、そうして私はマーモンくんを先生として唇ケアに精を出すこととなった。
揃えた専用美容液やバームを使用して二週間も経つと少し弾力と潤いが変化したような気がする。それだけで心が躍るし、殺伐としたアジト内も花畑のように見える。やはり美は日常を豊かにする。
自分の指先でしばらく感触を楽しみながら談話室を開けると、マーモンくんがソファに座りホットレモネードを飲んでいた。そうだ彼は本日休暇だった。
「マーモンくん! 見てください修行の成果です!」一応師匠であるため報告に彼の前へと立つと、口をムの字に曲げていた彼が鼻をうった。
「どうかな。見た目では変わってるように見えないけど」
「そ、そうですか? 乾燥も減ったと思うのですが……」
彼が素直に人を褒めることは滅多にないためいつもならば気にしないのだが、期待していただけに努力が実ってないように言われると落ち込みもする。
確かにマーモンくんと比べると二週間程度頑張ったところで微々たる変化だろうが、特にこの、皮剥けなどが減ってきたと思うのだ。
マーモンくんにずずいと迫り唇を指差して注視を促すと、彼は力強くソファの背もたれに身体をしならせた。
「柔らかさ増しましたし」
「……!」
「潤って見えません?」
「……な、な……!」
「少しはマーモン先生に近づけましたかね!」
「…………」
わなわなと唇を震わせていたマーモンくんは、糸が切れたように肩を落とした。突然降り注いだ暗雲に心配でおそるおそると彼を覗き込むと、長い息を吐いて「わからない」とつぶやかれる。
「僕は唇で一度しか触れていないんだ。比較するならもう一度しようよ」
「え?」
「キス。タダでいいよ」
彼から『タダ』という言葉を聞いた瞬間、自分は何か彼のスイッチを押してしまったのだと気づく。
怒って、しまったのだろうか。何故だろうか。一応授業料もしっかり支払ったので成果を報告しているだけなのだが、何か癪にさわってしまったのだろうか。
嫌な予感がしたのでそっと離れようとしたが、さすがヴァリアー幹部、ガッシリと手首を掴まれていた。つ、つよい。
「さ、さすがにそれは」
「ム、どうして? 一回したじゃないか」
「あれは事故で……」
「君が言う憧れの唇に触れられるけど」
「ゆ、指で」
「変わる前の君の唇を知っているのは僕のここだけだから」
ほら、成果を報告してくれるんだろう。
自身の唇を指でなぞったマーモンくんに、背筋がぞわりと粟立つ。弱みを握られた気分だ。美容の話で盛り上がっていたかと思えばなんだこれは。
彼はこれでも直属の上司のため指示を拒否するならばそれ相応の理由がいる。しかしそれもことごとく跳ね返されたため、冷や汗を多量に流しながら承知するしか道はなかった。
「わ、わかりました……ラップでしましょう」
「は?」
懐からミニラップを取り出す。今となっては常備である。
それを唇に貼り付け、再度マーモンくんに向いた。緊張を誤魔化すように固く目を瞑り、お願いしますと口にしたつもりがラップの制限により言葉にはならず。
何度目かの息を吐かれた。冷静に考えて何をやっているんだろうな私は。急に羞恥が募ってきたが、掴まれた手首を軽く引かれ反射で目を開いてしまう。眼前にマーモンくんが迫っており、次にはラップ越しに唇が付いていた。
「……」
「……」
や、やっぱりマーモンくんの唇は大変柔らかい! 私なんぞとは比べ物にならない。段違いだ。しっとりしていてマシュマロのようで、変態のような感想をいうならば『気持ちいい』である。
まだまだ修行が足りないな、しかし改めて目標に向かって頑張る気力が湧いてきた。彼に感謝をするため離れようと、掴まれていない手で肩を押したがびくともしなかった。
おかしい、と思った時にはマーモンくんの唇が私のそれを食んできた。感触を確かめるような押し当てる動きから、口を軽く開き上唇と下唇を分けて食まれる。
結構な驚きだったので肩が跳ねたが、その肩を掴まれマーモンくんへと引き寄せられた。
「ふ、ん、ふ」
もういい、わかった、君の唇に敵わないのはわかったしマーモンくんもわかったでしょ!? いつまでくっついているんですか!? ていうかその動きはなんですか!?
隙間をなくすほど唇をまるごと食べているマーモンくんへの抗議で何度も肩を叩くが、その細い身体のどこにそんな力があったのか全く離れようとしなかったので、数分間彼が満足するまで私の唇は確かめられるのであった。
息も絶え絶えな私の前を歩くマーモンくんはご機嫌な様子である。
結局酸欠になりかけた私を察し、「やっぱり変わったなんて、よくわからなかったよ」などと言ってのけた彼に、二度と成果を報告しようなどとは思わないぞと誓った。
「わからなかったから、定期的に確認しようかな。君の性格だからサボることもあるだろうし」
「えっ!!」
「最初にリップケアを言い始めたのは君だよ」
振り返りながら地獄の宣告を言い放ったマーモンくんに、赤くなればいいのか青くなればいいのかわからず咄嗟に唇を抑えてしまった。
「ラップでもいいよ」と鼻を鳴らしながら再び前を向いた彼に羞恥が募る。
ラップ越しでもあそこまでするだろうか。
あれでは本当にキスをしているような……いや、相手は謎が多いマーモンくん。ヴァリアー幹部内でも手加減せずお金をせびる彼だ。しかも「いい唇になったぞほら見ろ」と面倒な絡みをしたのは私である。
そもそも曲がり角でぶつかってマーモンくんの唇を奪った身であって、セクハラと訴えられないだけまだマシ──……。
ぴたり、と前を歩くマーモンくんが止まる。廊下の曲がり角の手前で足を止めた彼は、後方の私へと腕を伸ばし身体をずらした。
直後に曲がり角から爆速で出現したスクアーロさんがこちらを一瞥することなく廊下を駆けていった。
さすがヴァリアー幹部、音もなく走ることなど容易いのか、気配もないから全然気づかなかった。
「まったく、危ないな。わざとぶつかって慰謝料でも取ればよかった」
「び、びっくりしました……足音も聞こえなかったのによくマーモンくんわかりましたね」
「人の気配を読むことなんて簡単だろ」
「そうで」
すか、ね、と浮かべた苦笑いは途中で止まる。
思い出すのは彼とぶつかって、私が唇を奪ってしまったあの日のことだ。私は、ドタバタと、猪のごとく、駆けていなかっただろうか。
その場に立ち尽くし微動だにしない私を見て、マーモンくんは「やれやれ、やっとか」と何度目かの息を吐くと、憧れの唇をにんまりと上げたのであった。
「なまえからは慰謝料取らないよ。君の安月給よりかは価値のあるものをもらったから」
「わああ」
20.03.06