第三章「彼女の世界」



「ただいま」
「……お邪魔します」

数分後、彼らは約束通りクルークの家に帰っていた。
目の前には至る所に本棚が置かれ、その中心にぽつんと机と椅子がある部屋。
なんともいえない光景ではあったが、彼女には何故か楽しいと思えた。
……何故、なのだろう。
答えは彼女が知る訳もなく、勿論クルークも知らない。
何かがここで起こっていたのだろうか。
彼女は記憶が空っぽな自分をまた恨めしく思い、深いため息を吐いた。
こんなにもどかしい気持ちは初めてだ。
それはただ単に記憶がないからかもしれないが。

「ナマエ、ボクの部屋はこっちだよ。そっちはボクの書斎だ」
「書斎……?」
「あ、だからそっち行くなって!」

彼はとっさに部屋に入ろうとしたナマエの服に付いていたフードを引っ張る。
ナマエは「ぐえ」と変な声を出しながらそのままクルークの方に引き戻された。
……息が苦しい。
一瞬だけ感じた苦しさを、何故か不思議に思う彼女が其処に居た。
どうして不思議に思うのだろう。
それ自体が不思議であるが、彼女は深く考える前にクルークの後に付いて行った。
そうしてたどり着いた部屋は先ほどとは違い、いかにも一般的な家庭のリビングのようだった。
薄水色の壁紙に茶色いフローリング、その上には青くて丸いラグが敷かれガラステーブルとソファが置かれている。
プラズマテレビも完備されており、右奥に置かれたベッドもいかにも寝心地が良さそうだった。
どうしてこんなに家具が取り揃えてあるのだろう。
理由は昔、此処に彼ともう一人――ナマエが住んでいたからだった。
それは五年程前の話でありその二年後には彼女も家を造りそこに住まうようになるのだが、正直今はまだどうでもいい話である。

「ここがキミの部屋だ。ボクの部屋は反対側にあるから、何かあったらすぐ聞きに来なよ」
「分かった。……ありがとう、クルーク」
「え!?あ、いや、うん……」

彼は突然名前を呼ばれたことに驚き、少し頬を赤く染める。
過去のあいつでは絶対にあり得ないことだ。
ボクのことなんてずっと「貴様」とか「お前」とかって呼んでたのに。
一瞬、以前と比べかなり大人しくなった彼女が愛しく見えたのは気のせいだろうか。
ナマエはそんな彼の思考を悟れぬまま、ただ微かに微笑むだけだった。

「じゃ、じゃあね。何かあったらすぐ」
「了解」

彼は真っ赤になった顔を逸らして短めにそう言い、そしてすぐに部屋のドアを閉めた。
それからこの部屋を支配するのは、静寂。
彼女は何も言わず、動かず、ただその場所で突っ立っているだけだった。
ただそのままで、少し自分について考える。
……何故、身に覚えが無いというのにこんなに懐かしく想えるのだろう。
不自然な懐かしさと淡い頭の痛み。この二つは関係しているのか。
そして、彼のあの悲しげな表情と赤い顔はなんだったのか。
やはり、もどかしい。

「……はあ」

結論は出ない。
彼女はもう一度深いため息を吐くと、近くにあった白いソファにそっと腰掛ける。
そうして目を閉じると、心地よい静けさと闇が自分の思考を融かしていく。
疲れてしまったのだろうか。
少し瞼を開き時計を見ると、まだ七時を回ったばかりだった。
寝るには少し早すぎる。
……かといって、特に起きている理由もない。
むしろこのまま起きていても余計に考え事をして迷うだけだ。
全ての決着は夢でつく。深層心理はそこでしか触れられない。
深層心理は、自分の真実を正直に晒してくれる。
なら、それでいいじゃないか。
彼女はこくりと頷き、そのままソファに身を委ねて意識をかき消した。
また明日考えよう。
そのような能天気な考えができるのは、一体いつまでなのだろう。

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