プロローグ



桜の舞う、静かな森。
彼女は、その中でただ立ち尽くしていた。

「……確か、この辺りだよね」

手に持っていた壊れた懐中時計を見ながら、彼女は静かに目を閉じる。
もうすぐ、日の入りの時間だ。
そんな時間だというのに、彼女は何をしようとしているのだろうか。
見かねて、深緑色の魔道師が彼女に手を差し伸べる。

「ナマエ、もうそろそろ帰ろうよ」
「黙ってレムレス。あと少しだけだから」

不服そうな声を上げながら、彼も彼女の隣で立ち止まる。
……彼の目に映るのは、大きな桜。
ただそれだけだ。
それだけだというのに、彼女は何を考えているのだろう。

そもそも、今の季節は冬、だ。
冬に咲く桜、これ以上にこの世の理から外れた存在など無い。
彼はますます訝る。何故此処に桜が咲いているのか。それに何の意味があるのか。
彼女に問おうとしたが、なんとなく聞いてはいけない気がした。

「……きた」

ピクリ、彼女が少しだけ動く。
七時二十五分丁度、日の入りの時刻だ。
同時に桜が一気にざわめき始める。

「ねえ、何をするつもりなの?ナマエ」
「記憶の浄化。リセットだよ」
「え――」

いきなり何を言い出すんだ。
止めようとした瞬間、彼女は何やら呪文を呟く。
すると――

――彼女の体は薄紅色に輝き始めた。

「ナマエ!なんでそんなことをするんだい!?」
「仕方ないんだ。……知ってはいけないことを知ってしまったから」

彼は彼女の体に触れようとする。
が、その手はただ虚空を切るだけだった。……彼女の体は透けていたのだ。
何を知ってしまったのか、どうしてそれを知ってしまったのか。
聞きたいことは無数にあるが、今問うべきことは。

「それは……キミは何を知ったの?」
「教えられないよ」

彼の口から出たのは、それだった。
勿論結果が得られるわけではない。分かり切っていた。

彼女は一つ呟き、自分を腕の中に閉じ込めようとするレムレスから離れる。
そして、目頭に涙を浮かべながら、にっこりとほほ笑んだ。

「ごめんね。でもこの夢を目覚めさせるその時には――」


――レムレスに、ちゃんと告白するから。


彼女の言葉は、彼に届く前に空に融けて消えてしまった。
それは桜の下の夢となり、今も醒めることはない。

彼は嘆いた。
彼女の言葉の意味は、さっぱり分からなかった。
どうして、自分を頼ってくれなかったのだろう。
記憶を消すしかなかったのだろう。

『ナマエ……』

最後に呟いたその声は、桜のざわめきに紛れて消えた。

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