目が覚めた。
いや、覚めていないのかもしれない。取り敢えず目を開いた感覚はある。
ただ、暗い。
そこは黒で塗りつぶされていた。
綺麗な黒。どんなに瞬きしようが、そこにあるのは、黒。地面もなく、ただふわふわと、その黒の中に浮いていた。
「■■■■■」
喋った言葉まで黒。いやこれはおかしいでしょ。
「言葉が被ったから勝手になかったことにしちゃった。ごめんね」
どこからか女性の声がした。少し幼さの残る、どちらかというと少女の声。
「びっくりした?」
「当然。急に声が聞こえてくるんだもん」
「そりゃそうだよねえ。足音のオプションでもあればまだよかったんだろうけど」
はじめまして、とその少女は笑う。手が肩に触れたような感覚がした。彼女には見えるのかな、私が。
「私は魚氷って言うんだ。普段はここでずっと一人なんだけど、人がくるなんて珍しいな」
「そうなんだ、私は……あれ?」
私も名前を名乗ろうとして、気付く。名前が思い浮かばない。
「あれ?私の名前ってなんだっけ?」
「ん?あなたに名前なんてないよ。ここに来た時点で普通は消えるもの」
「え?」
ちょっと感覚が分からない。名前が無くなる、ってどういうこと?
「ここは深海だよ。天井も底もない、深海。ここにあるものは全部存在を失うんだ、ここが深海になる前からいた私だけを除いて、何もかも」
「深海?」
「そう。といっても、形容みたいなものだけどね」
彼女はそう言って笑う。形容だとしてもここが何処だか分からないことに変わりはないから問題は無いか。
何も無い場所。私はなんでこんな所に居るんだろう。
「ねえ、魚氷ちゃん。私はいつから此処に居たの?」
「そんなの私には分からないよ。何せ何も見えないから」
「そう?でも不思議だな、気が付いたらこんな所に居るなんて」
ここへ来る前には一体何をしていたのだろう。感覚に頼り目を閉じて考える。厄神となった以上どうしようもなく死ねなくなった私と狐になった彼は、ようやく誰にも縛られず永遠に一緒に居られるようになって。ついに最悪のハッピーエンドを迎えることができたと思っていた――はずだったのに。
「……探しに行かなきゃ」
ぽつり、と小さく呟く。魚氷ちゃんはそれに反応して「何を?」と笑いながら訊いた。
「私と一緒にいたはずの男の子だよ。はやく見つけてあげないと」
「見つける?どうやって?」
「きっと叫び続けていれば見つかるよ」
「この深海にいるとは限らないよ?」
「でも――」
「諦めなよ。愛なんてものは所詮まやかしでしかないんだから。それに、仮に声で居場所が分かっても、どう近付くの?ここには光がないから移動する方向が分からない。浮いているから移動する方法も分からない」
ここには光が無い。私は目を開いて、絶望した。そもそも地面もないから自分が上を向いているのか下を向いているのかすらわからない。頭が痛くなる。自分は今どうしているのだろう。
「光も同じまやかし、というかここでは感じているもの全てがまやかしと言えるだろうね。全てが意味を為さない。感情すらも」
ね、と魚氷ちゃんは狂ったように笑った。こうも言った。ここは熱くもあり寒くもあり天国であり地獄だと。あまり感覚に左右されない正体不明に包まれたどうしようもない世界だと。
「そもそも人間はあくまでハードウェアでしかなくて、ソフトウェアなんて存在しない。全ては電気信号とそれにより分泌される元素記号の塊で判断される。それを感情だの感覚だのってパッケージしたところで本質は変わらない。意味なんて少しも無いんだよ」
「だからってこんな場所が」
「ここに来た人皆言うんだよね、それ。でもぐちゃぐちゃの『何か』だけが残るとかなんだかいい世界じゃない?苦しかったり苦しくなかったり、憎かったり愛してたり。ここは唯一無から有が生まれる場所なんだよ」
彼女は笑いながら言う。耳を塞ぎたくなった。でも塞げない、頭がどこにあるのか、腕がどこにあるのかも段々分からなくなっていく。感覚が、消えていく。
「堂々巡り未来永劫繰り返しだよ、ひとりで泳いでやがて旭を浴びて――泡に消える」
そんな夢を見たい?私は嫌だなあ、天井も底もないこの世界にずっと閉じこもって居ればいいんだよ。そうすればそんな輪廻からは外れる。誰も私を認識しない、認識しないから居るか居ないかも分からない。私も私を認識できない。
そこには何も無い。誰もがそう思う場所に、ずっと引き籠る背徳感。それはとても素敵なことだ――彼女は言った。私にはまず背徳感が理解できません。
「それでも私は夢を見るよ、それが私の日常だから」
「ふーん。まあ、そんなに見たいのならいいんじゃないかな……でも、こんな場所で夢なんて見てどうするの?」
「きっとどうにかすれば出られるでしょ、入口があるなら出口もある」
「あればいいね。今までここに来た人たちはそのうち消えちゃったからどうなったかは知らないけれど」
まあ、頑張ってよ。彼女はそう言って最後に笑った。私はあらぬ方向へ向かって既にどう動いているのかも分からない身体で無理矢理海水を掻き分け泳いだ。それが水面に続いていることを信じて。
「そうだ、ついでだから教えてあげるよ。幼いころ子守歌に母が歌っていてくれた、かわいらしい迷子の歌なのだけれど」
――薄い呼吸と共に耳を劈く、悲鳴のような声が遠くで聞こえた気がした。
悲しいようで苦しいようでどこか幸せな、あらゆる感情がぐちゃぐちゃに混ざったような。
まるで、この海のような歌だった。
「今は自分で自分の為に歌っているんだ。そうしないと私が私になっちゃうからね」
小さく笑う彼女の声。
私はその歌から逃げるように深く息を吸って。
泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで 泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳いで泳い で
ねえ。
わたしって、なんだっけ。
あは。
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魚氷に上り 耀よひて/あさき
こういうモブ小説が溜まってます。とても。
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title bkm?
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