小さな訪問者


 それを一番最初に見つけたのはリゾットだ。
 新聞を手に朝靄の中から帰ってきた彼は、エレベーターから降りた瞬間に違和感を感じ取った。出掛けた数十分前と何かが違うと気付き、素早く周囲に視線を向ける。広いホールの先、部屋へ続く廊下の端に、毛布が掛けられたカゴがぽつんと置かれてあった。
「……?」
 名をあげるためか、暗殺チームに挑戦しようとする無謀な輩が時々現れることがある。危険な置き土産かと警戒するリゾットの前で、不意にカゴが大きく揺れた。ふわふわの毛布の中から小さな手がにゅっと現れる。これにはさすがの彼も動揺が隠せず、黒目を見開いてしまった。
「一体……誰がここに……?」
 そんな独り言をぽつりと呟く。
 中には生まれてまだ一年も経っていないだろう赤ん坊が横たわり、無垢な目でこちらを見上げながら大きなあくびを放った。あー、うー、と意味を成さない言葉で話しかけられたリゾットは、そのカゴが置かれた部屋の番号を確認する。彼が作り出したスタンドでは無いことを祈りながら、呼び鈴を何度も押し鳴らした。


「うわぁ、可愛いね〜。お座りが出来るところを見ると大体七ヶ月ぐらいかな? ジョースターさんちの静ちゃんを思い出すなぁ……」
 赤ん坊を胸に抱えた夢主はうきうきとそんな事を話す。杜王町で保護し、アメリカに渡った静は夢主と同じくジョセフ夫妻の元で暮らすことになった。四人で楽しく過ごした日々は、彼女の中で今も温かな思い出の中にある。
「だらしねぇ親を持つと子は大変だな……。ま、生まれたからにはしょーがねぇ。男らしく責任を取りやがれ」
「可哀想になぁ……パパそっくりだぜ」
 夢主の両脇からホルマジオとイルーゾォが同情しきった目で赤ん坊を見つめて言った。
「誰がパパだ! 違うッ! 俺じゃねぇ!」
 髪を振り乱しながら叫んだのは、カゴが置かれた部屋の住人であるメローネだ。彼は大量の冷や汗を流しながら、今にもブッ倒れそうなほど青ざめている。
「そうは言ってもよぉ……」
 イルーゾォは苦笑しながら赤ん坊とメローネを見比べてみる。
 整った顔立ちにふわふわの金髪、スケベ心まで似たのか夢主の胸を撫で回していた。
「どこからどう見てもソックリじゃあないか」
「だ・か・ら、違うって言ってるだろォーッ!」
 日頃の行いが行いだけに、ヒステリックに叫んで否定しても、もはや誰にも信じてもらえないようだ。その証拠に軽蔑と呆れきった視線がメローネに突き刺さってきた。
「リーダー、頼むから何とかしてくれ! 俺、この歳で親父になるなんて耐えられねぇよ!」
「……悪いことは言わん。認知しろ。話はそれからだ」
 一番最初に拾い上げたリゾットに救いを求めるが、実に素っ気なく返されてしまった。メローネは愕然とした表情でテーブルに突っ伏し、混乱のためか泣き出してしまう有様だ。
「メ、メローネ……、大丈夫だよ、きっといいパパになれるから」
「仕事はどーする? こいつを背負いながら女を口説くのか?」
「そいつは何とも……プッ、ククク……う、動き辛いな」
 当事者じゃないからそんな事が言えるのだと、メローネは鼻水をすすりながら睨み返す。
「とにかく……監視カメラの映像を取りに行ったギアッチョが帰ってくるまで、ここで大人しく父親役をしていろ。分かったな」
 リゾットからの命令に、メローネは涙声で渋々と返事をする。
「それにしても、この赤ちゃん大人しいね。知らない人に囲まれて泣き出さないなんて」
「言われてみるとそうだな……。ホルマジオのツラを見ても平気とは珍しい」
「何言ってやがる。こいつはハンサムな俺様に見惚れてるんだぜ」
 そうだよなぁ? と話しかけるホルマジオから赤ん坊はぷいっと顔を背けた。夢主の肩口に擦り寄って、イヤイヤをするように首を振る。
「ほれ見ろ。俺の鏡を貸すまでもねぇな。赤ん坊は正直だ」
 吹き出すイルーゾォと肩を震わせる夢主、あからさまな態度にホルマジオも苦笑するしかなかった。
「じゃあ、落ち着いてる間に色々用意しておこうか」
 引っ付いてくる赤ちゃんを抱えたまま、夢主は目の前の二人を見つめ返す。
「……用意?」
「ギアッチョが帰ってきても、お母さんが見つかるまで時間が掛かるでしょ? その間、ここで預かるならオムツもミルクも何も無いよ?」
 カゴの中にあったのは身を包んでいた毛布だけだ。かろうじてベビー服は着ているが、他には何も無かった。
「いや……それはさすがに……なぁ? だって俺ら暗殺チームだぜ?」
「こんな時こそまずは警察だろ?」
 二人は同時にリーダーを見る。
「駄目だ。奴らに貸しを作ることも、弱味を与えることも許さない」
 リゾットは低い声で厳命した。汚職にまみれているとは言え、警察はいかなる理由でも頼れない。一度でも手を借りればチームの汚点になるし、何よりそれは上部が決めることだ。
 部屋に沈黙が流れる中、赤ん坊の無邪気な声だけが響く。
「こうなった以上は仕方がないだろう。夢主にベビーシッターの経験がある事だけが救いだな……。メローネは母親探しを続行し、イルーゾォとホルマジオは今すぐお前たちで買い出しに行け」
 それを聞いた二人は大げさなまでに顔を歪め、先ほどとは逆にメローネが吹き出す。
「はぁッ!? 冗談だろ!? 俺、嫌だぜ!」
「俺だって嫌だッ! そ……そうだ、ペッシ! 買い出しはいつもペッシの仕事だろ!?」
「今回は無理だ。ソルベたちと共にプロシュートのサポートに回してある」
 それを聞いて喚く二人にリゾットの一言がトドメを刺す。
「もう店は開いているだろう。早く行け」
「いや、でも、リーダー……」
 情けない顔を見せるイルーゾォに、今度はメローネが笑いかけた。
「クク……そいつはいいッ! ディ・モールト最高だ!」
「くそぉ……、代金はお前に請求するからな!」
「オムツにミルクって……、俺の柄じゃねぇよ……。なぁ、せめて夢主も一緒に連れて行っていいだろ?」
「彼女には赤ん坊の世話がある。母親と行き違いなったら余計に面倒だぞ」
 切実な願いはすぐに却下され、ホルマジオは数分前のメローネのように泣きたくなってきた。
「ごめんね二人とも……。頑張って!」
 乳幼児に必要な品物が書かれたメモを手に、彼らは足取り重く部屋を出て行った。
「あいつらがレジに並ぶ姿は見物だぜ。あ〜、写真に残せたらなぁ〜」
 他人事のようにゲラゲラと笑うメローネを無視し、リゾットは暖かい窓辺で赤ん坊をあやす夢主に視線を向ける。微笑ましい姿ではあるが、それも日が昇っている間の話だ。DIOがやってくる夜までに、この問題事を何としても片付けねばらない……リゾットは焦りと妙な使命感で胸を一杯にするのだった。



「……いつからここは託児所になった?」
 不可解そうな声はDIOのものだ。結論から言ってリゾットは間に合わなかった。さしたる進展もないまま刻々と日は傾き、焦燥するリゾットの胃を傷めながら夜はあっという間に訪れてしまった。
「それが……すぐに親を見つけ出せると思ったんだけど……あっ、ごめん、ちょっと待ってね」
 顔を真っ赤にさせたホルマジオたちが買い込んできたベビー用品を手に、夢主は慌ただしそうにリビングとキッチンを行き来している。夕食の準備はもちろん、腹を空かせて待っている赤ん坊のためだ。
「実に申し訳ない……」
 堅い声を絞り出したのは腕に赤ちゃんを抱えたリゾットだった。小さくて柔らかな相手を前に、彼は滅多に見せない緊張を強いられている。最初こそ、汚れきった己の手には過ぎた存在だ、と拒んだが、決死の思いで買い物を済ませたホルマジオとイルーゾォが逃げ出し、痺れを切らしたメローネがギアッチョの元に向かった今、リゾットしか手の空いている者はいなかったのだ。
「メローネの子だと聞いたが、奴はどこだ?」
「これまで関係のあった女に連絡を取り、全員が白だと判明した後、監視カメラの映像を取りに向かわせました」
「そうか」
 気のない返事をしながらDIOはリゾットに抱かれた赤子を見つめ下ろす。無垢な丸い目とかち合って、しばらくそのまま沈黙が流れた。
「……この私を見ても泣かぬか。大人しいな」
 吸血鬼の冷たい気配にも動じない相手に興味が湧いたらしい。DIOが指を近づけようとすると、それを見た夢主が慌てて走り寄ってきた。
「DIO、優しくそっとだよ……爪で引っかかないようにね」
「ああ、お前に触れるようにすれば良いのだろう?」
 鋭い爪先を引き、代わりに手の甲をゆっくりと近づける。密かに冷や汗を流すリゾットと夢主の前で、彼は確認するように幼い額を撫でた。
「牙もスタンドも無し……か。ごく普通の赤子だ」
 背後のザ・ワールドを消しながらDIOはそんな感想を残した。小さな指が撫でられた額を掻くのを見届けると、早くも興味が失せたらしい。
「マニッシュ・ボーイのような赤ちゃんがそう簡単に居ると思う?」
「フム……そう思うと、私は実に珍しいスタンド使いを失ったな。惜しい事だ」
 DIOはそう言って背を向け、近くのソファーに腰を下ろす。長い足を組んでリゾットから赤子を受け取る夢主の姿を眺めた。
「待たせてごめんね」
 頬でミルクの温度を確かめつつ、イルーゾォたちが買ってきてくれた哺乳瓶を赤ん坊に近づける。ちっちゃな手で抱えて飲む姿を見ていると、アメリカでお世話を手伝った静の事が思い出されて自然と笑顔になった。
「可愛いなぁ……ね、そう思わない?」
「それはお前のことだろう。いいから早く私の側に来い」
「もう……」
 夢主は呆れつつ、それでも手招くDIOに従ってソファーに腰掛けた。
「あまり抱くと情が移るぞ。そもそもメローネの子なのだろう。父親にやらせればいいのではないか?」
「あのメローネが育児なんて出来ると思う?」
「奴は便利なスタンドを持っているではないか」
「それはちょっと……使い方が違うような……」
 すぐ隣で苦笑する夢主を見つめて、DIOは先ほどと同じく手の甲でそっと髪に触れる。赤ん坊とは違う黒髪に鼻先を寄せながら耳に軽いキスを落とした。
「最初は……私とお前の子だと思った」
「毎日会ってるのに? 一日で産めるわけないよ」
 可笑しそうに笑う彼女にDIOは小さなため息をこぼす。
「残念だ。馴染みきったこの体では、なかなか孕めぬらしい。やはりカイロの時に抱いておくべきだったな」
 DIOの言葉に夢主は思い切り咳き込んだ。
「な、何を……急に……」
「子を抱くお前を見て私は確信した。必要なのは確かな証だ。そうと決まれば迷うことはない。ジョルノも家族が増える事を喜ぶだろう。早速、今夜にでも……」
 子作りを、と続けるDIOの妖しい顔に哺乳瓶がベチッっと音を立てて張り付いた。驚く二人の間から赤ん坊が険しい表情でぐいぐいと押しつけている。
「……食事中は静かにして欲しいって」
 生暖かいミルク瓶に眉を寄せるDIOに、夢主は肩を震わせてくすくすと笑う。そんな彼女につられて赤ん坊も楽しそうな声を上げた。DIOとそんな彼らを内心ハラハラした想いで見つめるリゾットだけが無言だ。
「この私の言葉を遮るとは……生意気な奴だ」
「ふふ、飲み終わるまで待ってあげてね」
 再びミルクを飲み始める赤ん坊をそっと抱え直し、夢主は小声で注意する。DIOは仕方なさそうにソファーへ背を預け、まるで幼女の人形遊びの真似事をする二人を眺める。その場には慈愛と穏やかさだけが満ちていて、さすがのDIOも口元に笑みを湛えずにはいられなかった。
「いい母親になりそうだ」
 ぽつりと漏らした言葉に夢主はもう笑いはしなかった。DIOはたしなめるように睨んでくる彼女の肩を抱き、赤く染まった頬へ甘い口付けを送るのだった。



 哺乳瓶を空にした赤ん坊の背中を叩いてげっぷさせた後、今度は大人たちの食事が待っている。髪や耳をつかんで遊んでくる赤ちゃんを抱きつつ、夢主がキッチンで料理を温め直していると、廊下の向こうから携帯の着信音が流れてきた。聞き慣れないそれはメンバーごとに音を変えてあるリゾットの物だ。
(あ……この音はメローネだ。何か分かったのかな?)
 そう思ってリビングを覗くと、普段以上に険しい表情をしたリーダーと目があった。短い会話を終えた彼は携帯を懐に戻し、焦りを滲ませながらこちらに近づいてくる。
「夢主……悪いが、俺も行かなくてはならないようだ。一人で平気か?」
「大丈夫だよ。DIOが居るから」
 その返答では彼の不安を取り除くことは出来なかったらしい。むしろ余計に心配になったようだ。
「……執事のテレンスに連絡を入れておく。どうしようもなくなれば彼を頼れ」
「う、うん。分かった」
 相手の真剣な表情に素直に頷くしかない。リゾットは夢主の肩を軽く叩き、DIOに一言残してから部屋を後にした。
「慌ただしい事だな」
「まだ夕飯も済ませてないのに……」
 窓から見下ろす歩道でリゾットは通り掛かりのタクシーを止めて乗り込んでいる。猛スピードで去っていく車を見送りながら、後で食べられるようにリゾットの食事を取り分けておく事に決めた。食器棚に手を伸ばそうとしてもう一つの腕に阻まれる。頬をむにむにと掴んでくるのは赤子の小さな手だ。
「わぁ、ちょっと待って」
 何かを伝えようとしているのか、頬や鼻を何度も掴んでくる。静の時はどうだっただろう、と必死で思い返していると背後から腕が伸びてきた。
「しばらく私が見ていてやろう」
 DIOの言葉が信じられず、夢主は何度も目を瞬かせてしまった。たっぷり五秒は固まってから、
「えっ……、いいの?!」
 と驚きの声を上げてしまった。
「ああ。だが、本当に見ているだけだぞ」
 そう言ってリビングに戻ると、ソファーに腰掛けたその足の上に赤ん坊を無造作に置く。
「落とさないでね?」
「分かっている」
 小さな相手を腕で囲うと、今度はその腕を赤ん坊がよじ登ろうとする。少しもジッとしない相手だが、DIOは淡々とした表情で好きにさせているようだ。
 最初はハラハラしながら見ていた夢主も、二人が困らず泣かないのであれば少しの間なら大丈夫と割り切ることにした。何枚もの皿を出して料理を盛りつけ、セッティングしてあったテーブルに運び、冷やしておいたワインを用意する。本来ならリゾットも居るはずだが、今夜は二人と赤ん坊だけになりそうだ。
「DIO、」
 彼らをダイニングに呼ぼうとして夢主は声を飲み込んだ。揺れ輝く金のピアスが気になるのか、赤ん坊はDIOの耳に指を伸ばしている。それを手前でスッとかわす彼の顔は無表情だ。しかしそんな様子とは裏腹に、離れた距離だけ元に戻っていく。どちらも無言だが、そんな風にして戯れる姿を夢主は身を潜めてしばらく眺めた。
(わぁ……)
 貴重な光景を目の当たりにして胸が熱くなってきた。子をあやすDIOなど、この先一生かかっても見られないのではないだろうか。
 子を想う母親を吸血鬼にした過去を考えると救いがたい甘い考えなのかもしれないが、それでも、もしかしたら……と希望を抱かずにはいられなかった。
「……いつまで見ている気だ? 終わったのなら早くこいつをどうにかしてくれ」
 隠れ見ていた夢主の気配にはとっくに気付いていたようだ。誤魔化すように笑いながら姿を見せ、DIOの隣に腰掛けてから赤ん坊に新しいおもちゃを与えて抱き寄せた。
「DIOって……意外と子供が好きなの?」
「そう見えるか?」
 DIOは牙を見せて笑った。鋭い爪や冷たい雰囲気は夢主が求める答えと真逆に位置するものばかりだろう。
「じゃあ……もしも、いい父親になって欲しいって思ったら?」
「それは随分と難しい定義だな。まず“いい父親”という言葉自体が曖昧だ。世間一般が求めるような親に、この私がなれると思うか?」
 DIOは指先で相手の赤い耳をくすぐりながら諭すように言う。自分が“いい母親”と言った事は棚に上げて、優しく頬を撫でた。
「だが……ただ一つ、確実に言えることは……酒に溺れて暴力を振るうような事はしない」
 誰のことを言っているのかはすぐに分かった。義父のように寛大で高潔な父親になれずとも、実父の過ちさえ繰り返さなければいい。
「……それで十分だよ」
 撫でてくる手に擦り寄って小さく微笑む。ゆるんでしまった涙腺を大きな手が拭い去り、笑いを刻んだ唇がそこに押しつけられる。気恥ずかしく思う夢主だが、今だけは逃げずに口付けを受け止めた。


「これはまた、とても愛らしい赤ん坊ですね」
 素直に褒める声の持ち主はDIOに仕える執事のテレンスだ。リゾットから連絡を受けた彼はいくつもの手荷物を抱えて、穏やかな夕食を取るDIOたちの前に颯爽と現れた。
「髪の色だけを見れば、まるでお二方の子供のようにも見えますが……実に残念です。まさかあのメローネが父親とは……世間はやはり無情なようだ」
 抱き上げた赤子にT・Dのイニシャルピアスを引っ張られながら、テレンスはしみじみとため息をついた。
「それで、父親はともかく母親はどこに?」
「それが……まだ見つかっていないんです。メローネも心当たりがないなんて言うし……」
「おや……それはそれは可哀想に」
 父親がアレでは母親も相当な者だろう。テレンスは心から同情する。
「ま、親がどうであろうと私にはいい機会です。クローゼットの奥に仕舞い込んでいたベビー服がやっと役に立つ日が来ましたね」
 ウキウキと話す彼が持ち込んだ紙袋は三つ。普段着にパジャマ、靴下によだれかけと様々な色と種類の衣服が詰め込まれてあった。
「うわぁ、……ねぇ見て!」
 手のひらに収まる小さな靴下を手に取って、夢主は隣に座るDIOに見せた。
「DIOの手の半分もないね。可愛いなぁ」
「何を言うか。お前の方が可愛いだろう」
 さらりとそんな事を言うDIOから夢主は顔を背ける。
「靴下と比べられても嬉しくないよ」
「では何と比べられたら嬉しく思う? 花か、宝石か?」
 DIOは相手の髪に指を伸ばして優しく撫で下ろした。
「もう……、いいから、今は赤ちゃんに集中してよ」
「フン、意志疎通の出来ない相手と何を語れと言うのだ? 私はお前に会いに来たのだ。妙な先客に驚きはしたが、テレンスが来た今、もはや自由だろう」
「そんな、テレンスさん一人に押しつけるような事なんて……」
 遠慮し、手伝おうとする夢主をその本人が押し止めた。
「いいえ、夢主様。私なら大丈夫です。どうかそのままDIO様からのご寵愛をお受け下さい」
 彼は満面の笑みを浮かべると持参した紙袋をソファーの上に倒した。ピンクにブルー、そしてイエロー、動物やおもちゃの柄が散りばめられたベビー服の山をどこか満足そうに見下ろす。
「フフ、さて……この子にはどの服が一番似合うでしょうか。ああ、こんな時にこそソニアの意見を聞きたいものです……」
 ソニアとは以前、彼が人形の中に閉じこめた魂の人物名だ。あれらと一緒にされては困ると夢主は腕を伸ばすが、何も知らない赤ん坊はベビー服を引き出してソファー下へ投げ捨てる遊びに夢中になっている。
「このデザインは嫌だということでしょうか。なかなかセンスがありそうですね」
 明るいテレンスの声に赤ん坊の笑い声が混じった。
「機嫌が良くて助かります。夢主様、私たちのことは気に留めず、どうぞDIO様をお構い下さい」
 夢主は恨めしそうに彼を見上げてそろそろと背後に視線を向ける。ソファーの背もたれに悠然と体を預け、目を妖しく輝かせたDIOが待ちかまえていた。
「執事の言うとおりだ。私を構え」
 偉そうな態度が実によく似合う。捕まったら最後と感じた彼女は、
「じゃあ、食器を片付けてからね」
 そう言ってそそくさとキッチンに逃げた。



 DIOから与えられたマンションに暗殺チームが住むようになってから、周辺一帯は彼の組織の息が掛かった管理会社が常に人の出入りを監視するようになった。それは市民の安全のためというより、君主であるDIOの安息を守る意味合いの方が強く、かつての番鳥の役割を今は無機質なカメラたちが務めている。
 だからこそ、その会社にギアッチョが怒鳴り込んでドアや窓を破壊し、脅されても大事なデータを見せることは出来ない。必死の形相でメローネが頼み込んでも結果は同じだったらしい。
「次からはあんたが直接来て欲しいものだね。それなら話はもうとっくに済んでるさ」
 壊されたカップを片付けているのは警備会社の中年役員だ。恰幅のいい彼からリゾットはチクリとした言葉をもらう。
「分かった。次からはそうしよう。それで、今朝の……」
「こっちに用意してある」
 無愛想にそれだけを言って背中を向けた。静かな廊下に残されたリゾットは、ギアッチョとメローネをひと睨みしてから彼の後を追いかけた。
「あんたが外へ出てから五分後だ」
 壁際に隙間無く並べられたディスプレイの一つを指し示す。そこにはリゾットが玄関ホールを出ていく姿が映し出されている。歩道を行く人々が早送りされてから数秒後、黒塗りの車が横付けされた。
「あっ! あのカゴだ!」
 メローネは小柄な人物が抱え込む一つの荷物を指差した。人目を気にしながらホールを抜け、リゾットが出てきたエレベーターに乗り込んでいく。
「オメーの女にこんなの居たか?」
「うーん、ちょっと遠くて分からないな……」
 メローネは画面に顔を近づけたり遠ざけたりして相手の顔を見定めようとする。
「部屋の前に切り替えた。こっちの方が判別できるだろう」
 暗殺チームが住まう階で降りた人物は長い廊下をウロウロと何度も行ったり来たりしている。部屋の番号を調べているようであり、悩んでいるようでもあった。ふいにピタリと止まると、迷いを断ち切るように頭をガーッと掻いてから各部屋を指で順番に指し示していく。
「……あァ? なんだコイツ?」
「なぁ、これ……数え歌で決めてないか?」
 呆気にとられる彼らの前で、指はメローネの部屋で止まった。ドアの前へカゴをそっと置き、用心深く辺りをキョロキョロと見回すところでリゾットが停止ボタンを押す。
「……ギアッチョ、メローネ、見えるな?」
 リゾットからの問いかけに二人は頷く。一機のプロペラ機と周囲を見張るレーダーが彼の横にフワフワと浮いているのだ。
「こいつ、ブチャラティのチームに居るガキだぜ!」
 あの赤ん坊を置き去りにしたのは、ボスの警護をミスタと共に任されているナランチャ・ギルガだった。


 一方、その頃のマンションでは……
 シャワーの音の中に主たちの楽しそうな声が混じるのを、テレンスは赤子のオムツを換えながら耳にする。一緒は嫌だと拒否する夢主を舌先で丸め込み、バスルームへ連れ去ったDIOと湯を浴びているらしい。
「情操教育としては、まだ早いと思いますが……」
 何にしても仲が良いのはいいことだ。笑いを含んだ溜息をこぼしつつ、丸いお尻を綺麗に拭いて新しい物と履き替えさせる。
「それにしても実に大人しい赤ん坊ですね。メローネの子とはとても思えません」 
 鼻水とよだれをまき散らして泣き叫ばれるよりはマシだが、それでもこれほどお行儀が良すぎるのも不安になってくる。
「ま、関係ありませんけど」
 仕えているDIOの子で無いのならテレンスに尽くす義理はない。今はベビー服の試着役になってもらうために、世話を買って出ているだけのことだ。
「さて、お風呂はあの方たちに取られてしまったので断念しましょう。ベビーバスも無いようですし……温かいタオルで体を拭く程度に留めておきますか」
 そう言って手を伸ばすと、それまで大人しかった赤ん坊が急にイヤイヤと首を振りはじめた。テレンスの手から逃れようと暴れるが、彼はそれくらいは想定済みだと言わんばかりに素早くボタンを外し、服をめくりあげた。
「おや……これは……」
 小さく丸い肩に痣がある。同じ物をいつも間近で見ているテレンスに、その意味を察するまで長くは掛からなかった。


「オメーよぉ、いくら何でもそりゃあねぇだろ。後で本人が知ったらブッ殺されるぞ?」
「じゃあ最初からミスタがやればいいだろ! 大体、あいつらの部屋が多すぎるんだよ!」
 リゾットが耳を当てた携帯電話の向こうでギャンギャンと喚く声が響いてくる。監視カメラの内容を見た後、すぐブチャラティに連絡を取ったが、彼はこの事件の解決に向けて忙しいらしく代わりに参謀のフーゴがこれまでの経緯を話してくれた。
「つまり……すべてはスタンド攻撃によるものです。金で人を雇い、上手く我々の目を騙してパーティ会場に潜り込んだのでしょう。見知らぬ男とすれ違いざま、影を踏まれたと言っていました。犯人をすぐに追いかけましたが、あと一歩の所でミスタがヘマをしましてね……、え? いい加減なことを言うな? だって本当の事だろ、ミスタ? ……そう言うわけで僕たちは犯人を追いかけています。しかし、赤ん坊を連れて行動するのは危険だ。それならと、そちらのチームの彼女が選ばれたわけです。何しろスタンド使いですし、ベビーシッターの経験もある」
 大まかな説明を聞いたリゾットはこぼれそうになる息を飲み込む。
「いくら忙しく、手が足りないとはいえ、ナランチャに説明を任せてしまったのは失敗だった。その責任は僕が取る。あんたはそのまま赤ん坊のサポートに回って欲しい。もちろんこのことは他言無用だ。誰かに聞かれても適当にはぐらかしてくれ」
「……了解した。それで、彼はいつ戻る?」
 会話が終わるのを待つメローネたちを前にリゾットは言葉を選びながら問いかける。
「遅くても朝までには」
 何かしら動きがあったのか彼の背後が急に慌ただしくなる。フーゴが早口で言い残した後、唐突にプツリと切れた。
「……で、何だって?」
「俺の子供じゃないんだよな? そうだろリゾット!?」
 睨んでくるギアッチョと腕に縋りついてくるメローネにリゾットは頷き返す。途端にメローネはへなへなと床に座り込んでしまった。
「よ、良かった〜……俺、父親にならなくていいんだァ〜」
「あぁ? これだけ大騒ぎして違うのかよッ! じゃあ、あの運んできたガキが父親なのか?!」
 ギアッチョの最もな疑問にリゾットは一呼吸の間を置いた。
 標的を赤ん坊に変えてしまうスタンド能力だとは、修羅場をくぐって来た二人も思いつかないだろう。彼は真実を飲み込んで、
「……そうだ」
 と嘘を付いた。ギアッチョは顔をしかめながら、世も末だな、なんて舌打ちをしている。誤解はいずれ解けばいい。それよりも問題なのは何も知らない夢主たちの方だ。
「俺は部屋に戻る」
 それ以上の質問を避けるように、リゾットはサッと踵を返して警備会社を後にする。
「ホッとしたけどさぁ……どこかで一杯飲まないと、ぐっすり眠ることも出来ねぇよ」
 この日、一番振り回されただろうメローネの溜息が廊下に長く響きわたった。



 誰もが寝静まった深夜、明かりの消えたリビングで静かな声が響いた。
「分かりました、ブチャラティ。もうそのまま帰ってもらって大丈夫です」
 電話口で仲間からの報告を聞きつつ、テレンスが広げた上着に腕を通す。数分前まで小さかった体は本来の大きさに戻り、ふわふわだった金の前髪はくるりと輪を描いている。
「色々と大変だったようですね」
 服を用意してくれたテレンスの一言に、ジョルノは長い後ろ髪を編みながら振り返った。
「ええ、本当に……とんでもない一日でした。気を緩めていた自分が腹立たしい」
「本来なら記憶も薄れていくものですが、そこはさすがにジョルノ様ですね」
 テレンスの褒め言葉にジョルノは肩を竦めるだけだ。
「単に少し遅れて僕のスタンドが発動しただけですよ。それに、こうなると分かっていたら自我なんて無い方が良かった……」
 頬を赤らめ、屈辱さに唇を噛む彼にテレンスは同情する。言葉は通じず、ベビー服を着せられ、哺乳瓶からミルクを飲まされていたのだ。他人に抱っこされても泣かなかったのは、中身が青年のジョルノで状況を理解していたからだろう。オムツや着替えなどは最初こそ嫌がったが、きっとすぐに諦めてしまったからだ。
「実は僕の意識があったなんてこと、ブチャラティやミスタたちにはもちろん、パードレや夢主にも秘密ですよ」
 口止めのために鋭く射抜いてくるジョルノに、テレンスは深々と頷いてみせる。
「心得ておりますよ、ジョルノ様」
 忠実な執事の言葉と態度にジョルノは心の中でホッと息を吐く。赤ん坊から青年へ変化し始めた自分の側にいたのが彼だけで本当に良かった。もし、夢主に抱かれてミルクを飲んでいる時や、暗殺チームの誰かが顔を覗き込んでいる場だったら……想像するだけでも恐ろしい。
「気を落ち着けるためにも、何か飲まれてはいかがです?」
「そうだな……何でもいい、頼むよ」
 一礼してキッチンへ向かうテレンスを見送って、ジョルノはソファーに深く身を預ける。体が元に戻ったということは、追跡していたブチャラティたちがスタンド使いを再起不能にしたのだろう。もし、まだ生きているのだとしたら、腹いせに二、三発は殴りたいところだ。
(それだけで僕の気が済むかは……尋問次第かな)
 物騒なことを考えるジョルノの耳に、コーヒー豆を挽く音が聞こえた。次いで少し離れた寝室の扉が内側からガチャリと開かれる。
「ム……、ジョルノか」
 中から出来たのはDIOだ。数時間前、赤ん坊のジョルノを眺めて寝落ちした夢主を抱え、ベッドルームに向かった本人だった。
 彼は少し寝乱れた髪を掻き上げながら、妖しい口元を緩ませて言った。
「何だ、もう元に戻ってしまったのか」
 ギクリとするジョルノを愉快そうに見下ろし、ニヤニヤと意地の悪い笑いを隠そうともしない。
「バレて……いたようですね」
 端正な顔を歪めつつ、絞り出すかのようなジョルノの声にDIOは自身の左肩に指を這わせた。
「一目見たときから分かっていたさ。忌々しくも、この体から分かたれた血筋はお互いに引き合っているからな……」
 ジョセフや承太郎たちがDIOの気配を察知できたように、DIOも彼らの気配を知ることが出来る。精度は大ざっぱながらも正確で、同じ部屋に居れば簡単に分かってしまう。
「それ以前に私とお前は親子だ。残酷なほどそっくりだったぞ」
 DIOは星形の痣を一撫ですると、堪えきれなかった笑いを静かに響かせた。キッチンからこちらを心配そうに覗いてたテレンスや、それまで仏頂面だったジョルノもこれには驚いてしまった。肩を震わせて笑うDIOの姿をこれまで目にした事がなかったからだ。その上、相手が何気なく放った一言がジョルノの複雑な心の表面をくすぐっていく。
「笑われても仕方がないとは思いますが……、どうか秘密にしておいてくださいよ。特に寝室で眠る彼女には」
 頬を赤らめて忠告する息子に、父親はもっともだと大きく頷く。
「そうだな、事実を知ればあいつも驚く。お前を抱いてミルクを与え、オムツを替えたとなれば……腰を抜かすのではないか?」
 そう言ってDIOは笑い声を大きくする。ジョルノはふくれっ面を見せながら……しかし、最後にはとうとう自分も堪えきれずに吹き出してしまった。


 朝日に追われるように帰って行った恋人を、暖かなベッドの中から見送った夢主は二度寝の心地よさを思う存分に味わっていた。しかし、リゾットが外から帰ってくる音を聞いてもはや反射的に体が目を覚ます。
「わ、もうこんな時間……!」
 時計を確認しつつ急いで起きてリビングに向かうと、リゾットは出しっぱなしだったミルク缶と漂白中だった哺乳瓶を片付け始めていた。
「えっ、どうして? あの赤ちゃんは?」
 朝の挨拶も忘れて問いかける。彼は一瞬、表情を曇らせた後、すぐに元に戻して説明を付け加えた。
「あれから調べてすぐに分かった。全ては些細な行き違いによるものだ。メローネは潔白だし、赤ん坊は母親の元へ戻した」
「お母さん見つかったの?」
 夢主のホッとしたような顔にリゾットは頷きを返す。
「礼がしたいと言われたが、これ以上は関わらない方がお互いのためだろう。俺が断っておいた。すべてが急だったからな、お前に知らせる事が出来なかった。すまない……」
「そんな、いいよ。無事に見つかったならそれで……」
 と言いつつも次第に表情が固くなっていく。一日とはいえ胸に抱いてあやし、世話をしたのだ。情が湧いて当然だろうとリゾットは思う。
「じゃあ、みんなが来るまでに片付けようか。後でメローネにも謝らないと……」
 緩む涙腺を押さえながら夢主は片付けを手伝い始める。そんな後ろ姿を申し訳なさそうに見つめながら、リゾットは事実を上手く隠し通せたことに安堵した。本当の事を言うわけにはいかない。知っているのはボスとブチャラティたちだけだ。今回のことは紙に残されることなく、各自の胸で機密処理が行われるだろう。
(俺も早く忘れなければ……)
 コーヒーを飲んでゆっくりしたいと望むリゾットの耳に、玄関扉を乱暴に開け放つ音が届いた。仲間たちからカフェのごとく扱われるこの部屋についてはもう諦めてあるが、さすがに今朝くらいは静かにして欲しいと叶わぬ願いを思う。
「ボンジョルノ、ホルマジオ。いつもより早いね。どうかしたの?」
 飛び込むようにして現れたホルマジオを、夢主は驚きながらも出迎える。
「どうしたもねぇよ! こいつを見てくれッ!」
 彼は手に持っていた小さなカゴを見せてくる。まさかのデジャビュにリゾットは手に持っていたミルク缶を落としそうになった。
「これって……?」
 ふわふわの毛布で覆われた中からにゅっと手が飛び出してくる。
 ただし、今度は人の手ではなかった。覗き込む夢主とホルマジオの目にはピンク色の肉球が映っていた。白や茶色の毛で全身が覆われた五匹はニャアニャアとか細い声で助けを求めるように鳴いている。
「か……可愛い〜っ」
 一瞬で笑顔になる夢主とは逆にホルマジオは渋面を作った。
「部屋で飼ってるあの猫が産んだの?」
「残念だがあいつは雄だ。それに別に飼ってる訳じゃねぇ。自由気ままな野良猫さ。寝泊まりも好きにさせてるからな……それが猫好きに見えたんだろうな……。朝起きたら俺の部屋の前に捨てられてるなんてよぉ……」
 溜息を吐いて肩を落とす彼だが、無邪気な子猫に視線を戻すと途端に頬が緩んでしまうらしい。そうして困りながらも満更ではないホルマジオを、猫好きだと思うのは仕方がないだろう。
「ねぇ、この子猫たち抱いてもいい?」
「別にいいけどよぉ〜……こいつらどーするよ? さすがにこんな数、一度に飼えねぇぞ……」
「じゃあ、しばらく預かって、その間に飼ってくれる人を見つけようよ。こんなに可愛いかったらきっとすぐだよ」
「そうかぁ? ……ま、こうなった以上はしょ〜がねぇか……」
 腕をよじ登ってくる子猫を撫でながらホルマジオは口癖を呟く。何事も明るい方に考えた方が健全的だ。
「そういう事だリゾット。悪ぃな」
 いつの間にかこの部屋で預かることになってしまったようだ。子猫を抱き上げる二人から笑顔を向けられてリゾットは額を押さえた。人の次は猫の赤ん坊……暗殺チームが住まうフロアは便利屋か何かと誤解されているらしい。
「ここで預かるのは一週間までだ。後はお前が世話をしろ」
「おう、リーダー。任せとけ」
 安請け合いをするホルマジオと共に、見捨てられずに済んだ猫たちの鳴き声が響きわたった。
 後日、「何だ、次は子猫か……。暗殺チームとあろう者が慈善事業でも始める気か?」とDIOに笑われてしまい、リゾットは苦い表情を浮かべる事しか出来ないのだった。

 終




- ナノ -