アニータの場合


 木陰に設置されたベンチに腰掛けていると噴水の水音に混じって子供たちがはしゃぐ声が聞こえてきた。隣のベンチでは中年の親父が二組、トトカルチョについて延々と話し込んでいる。腕を組んで歩き、キスをする恋人たちをくすんだ眼鏡の奥から眺めて今年で85歳になるアニータは皺だらけの顔に苦笑を刻んだ。
「あらあら、不倫だなんて……」
 ぽつりと呟いたその言葉を隣で水を飲んでいた友人が拾い上げた。
「なぁに、どうかしたの?」
 目尻に皺を寄せて興味深そうにこちらを見てくる。彼女は何よりも世間話が大好きだ。
「何でもないわ。ただの独り言よ」
 言葉を濁して眼鏡を一度取り外す。バッグから取り出した布で綺麗にして耳に掛け直した。汚れを拭った眼鏡が映し出すのは街の人々のざわめきだ。
「あら、誰かしら? 私たちに手を振ってるみたいだけど……」
 通りの方から大きく手を振る東洋人の女性が見える。隣には不機嫌そうな顔をした青年が眼鏡の縁を上げてこちらをジロリと鋭く睨みつけてきた。
「この間、一つ向こうの通りに越してきた子よ。前に話したでしょう? あの子に料理を教えているの」
 アニータは風で乱れた白髪を撫でて整えながら彼女に向けて手を振り返した。その後、隣の青年と共に少し向こうにある店に入っていく。
「あらまぁ! あの子がそうなの?!」
 興味深そうに二人を目で追いかけてその後ろ姿をジロジロと眺める。密かな噂になっている張本人が目の前にいたのだ。やや興奮気味に友人はアニータの耳に口を寄せてきた。
「私が聞いたところじゃあ、再婚相手の兄と同棲生活してるそうじゃない! それも大家族なんですって? 近所に住む奥さんがあの若さで可哀想にって同情してたわ。本当なの?」
「そうねぇ……確かに大家族のようね。いつも分量が倍だから……」
 この間も買ってきたばかりのスパゲッティがあっという間に無くなり、大慌てでスーパーに買いに走った事を話していた。材料をメモするノートには9人もの個人名と共に彼らの好き嫌いが細かく書かれてあった。アニータはお粥にメロンに氷、生ハムにチーズが一体どんな意味を持つのか不思議に思っていたが、それは一緒に暮らす仲間の名だと最近知ったところだ。
「ま! じゃあ本当なのね? でも……この間、ブチャラティと一緒に歩いているところを見た人もいるのよ。大丈夫かしら?」
「ブチャラティなら大丈夫でしょう? きっと街のことを教えていたのね。彼女、優しいからこの街ではいいカモだもの」
「でも……ブチャラティはギャングよ?」
 辺りを見回してより一層、声を潜めて話しかけてくる。アニータはふふっと笑って肩を竦めた。
「ブチャラティの人柄を忘れたの? 彼に任せておけば安心よ」
 事も無げに言うアニータを友人はそれでも心配そうに見つめた。
「まぁねぇ……それはそうだけど……あら、もう出てきたわ。隣にいるのは誰かしら?」
 さっきの眼鏡の青年と、今度は金髪の美青年に挟まれて噂の東洋人が姿を見せた。背の高い彼らと話をするため、常に顔を上に向けて話している。
「首が疲れそうね」
 そう言って笑う老婦人たちの前で彼女は小さな出っ張りに足を躓かせてしまった。転ぶかと思いきや、すぐに両側から腕が伸びてきて体を支えられているではないか。
「まぁ、いいわね若いって……」
「ふふ、真っ赤になって照れてるわ。シャイなのね」
 長身の美男子が再び転けないように差し出す手をどうするべきかで悩んでいる様子だ。見かねた隣の眼鏡が問答無用で彼女の手をぐいっと引いて歩いてしまう。
「おいおい、ギアッチョ。そんなに急ぐと夢主がまた転けてもしらねぇぞ」
「うるせぇ、プロシュート! テメーはいちいち格好付けんなッ」
 そんな会話が通りの向こうから聞こえてくる。くすくすと笑う老婦人に彼らは気付くことなく、足早に歩道を歩いていった。


 さらさらと迷いのないイタリア語を綴るノートには所々がトマトやオリーブオイルで汚れてしまっている。それだけキッチンでそのノートを広げていたのだろう。アニータは自宅のアパートに招いた夢主を前に次々と料理のレシピを教えていく。シチリア生まれが居るとのことで今日はその郷土料理がメインだ。
 ナスを丸めて詰めたインヴォルティーニ、ナスやトマト、ズッキーニに酸味を加えて煮たカポナータ、パスタ・コン・レ・サルデというイワシのパスタ……羊のリコッタチーズを使った甘いドルチェのカッサータとカンノーロは特に外せないだろう。甘党と聞いては尚更だ。
「あなたが書くアルファベットはとても綺麗ね。読みやすいからコピーを取りたいくらいよ」
 そう言って褒めると嬉しそうな照れ笑いを浮かべる。
 そこでふと、この部屋まで彼女を送り届けた男性を思いだしてアニータは手に持っていたカップをソーサーに置いた。
「今日、あなたを送ったのは誰かしら? 初めて見る顔だったわ」
 聞けばイルーゾォという名の青年らしい。昼前に見た二人とはまた違った雰囲気だった。
 他に知っているのは銀髪で背の高い黒目の兄と、剃り込みを入れたガラの悪い男、露出の激しい金髪に、べったりとくっついている二人組とパイナップルのような髪型の若者だ。これでノートに書かれてある9人全員を見たことになる。
「それで誰があなたの恋人なの? 金髪の王子様? それとも眼鏡の騎士様? まさかアイマスクの遊び人じゃあないわよね?」
 アニータの言葉を受けて文字を綴っていたペン先がノートから飛び出していった。そんなんじゃないです、と首を大きく横に振る彼女にアニータは微笑みかけた。
「そうね、あなたのお兄さんが目を光らせているものね」
 クスクスと笑うと再びペンを握り直して文字の続きを書き始める。夢主の顔は真っ赤だ。
「書き終えたら今日は一緒にカポナータを作りましょうか。それとカンノーロもね」
 素直な返事を聞きながらアニータはお茶のお代わりをカップに注ぐ。
 実のところ……彼女が言うリゾットが兄で他の青年たちが家族だとは少しも思っていない。彼らは街を支配するギャングの一員で、彼女は何らかの事情でそこに囲われて暮らしているのだろう。ブチャラティとも繋がりがある夢主をアニータは眼鏡の奥から優しい目で見つめた。
「今の生活は楽しい?」
 ええ、もちろん、とすぐに返事が返ってくる。眼鏡越しに見る相手の心には一点のシミも、汚れもなかった。心の底からそう思っているらしい。誰と暮らしていようとそれが何よりだ。


 日が落ち、一緒に作った料理が並ぶテーブルの上には花が飾られてある。料理の多くは夢主に持って帰らせたので一人暮らしのアニータが夕食として食べる分だけが残されてあった。道路に面した窓からは高級車に運び入れられるバスケットがちらりと見える。運転手らしい人物が料理を詰め込んだそれらを置き、後からやってくる彼らのために後部座席のドアを開けるのが見えた。
 一度、こちらを振り仰いで手を振る夢主にアニータも同じく手を振り返す。彼女が座席に乗り込むと、その後に続いて金髪の青年がスッとこちらを振り返った。麗しいその人物を見るのはこれが初めてだ。月明かりの下で白い肌が際立って見える。冷たい目をしたそれと視線がかち合ったのは一瞬ですぐに車に乗り込みドアを閉めた。
「……王子様でも、騎士様でもなかったわね……」
 心を惑わす魔王のような相手にアニータは溜息をついた。
『大好き』『愛してる』『折角の逢瀬を……』『夜は誰にも邪魔はさせぬ』
 そんな二人の想いが眼鏡の縁から次々に溢れてくる。アニータは心を見通すことが出来る眼鏡を一度外して、近くにあった布で拭き取った。愛があふれていたガラスは再び眼鏡としての役割を取り戻したようだ。
「心が読めるというのも時には困りものね……」
 こういった能力を持つ者のことを彼らはスタンド使いと呼ぶらしい。スタンド使い同士は引き合う運命ならば、夢主と知り合った事も必然なのだろう。
 遠ざかる車内からまた愛の囁きがこぼれてくる。アニータは苦笑して、ギャングと魔王に取り囲まれながらも平穏で幸せそうな彼女に静かな微笑みを送った。

 終




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