暗殺チームとおはよう


 朝早く、イルーゾォがあくびをしながら歯を磨いていると鏡の向こうから夢主が手を振っているのが見えた。まだパジャマ姿の彼女はイルーゾォと同じくこれから身支度をするのだろう。彼は洗面台に手を付いて目の前の鏡に頭を突っ込んだ。
「おはよう、夢主」
 鏡の世界から現実世界へ。そこはリゾットと夢主が暮らす部屋に通じている。イルーゾォが乱れた髪を掻きながら夢主に挨拶をするとクスッと笑われた後に細い腕が伸びてきた。
「おはよう、イルーゾォ」
 肩に手を置いて柔らかな頬を合わせてくる。イルーゾォが何が起こったのか分からずに呆然としていると、両頬でちゅっと軽い音がした。
「今日から私も暗殺チームの一員だよ。よろしくね先輩」
 そう言って夢主は笑い、タオルを抱えてバスルームを後にした。
「……マジかよ」
 チームの一員になる事よりも夢主の挨拶の方が大問題だ。少年のように頬を染めたイルーゾォの口から歯ブラシが外れ、カランと音を立てて洗面台の中に転がった。


 仕事の報告に来ていたソルベとジェラートは思わぬ夢主の出迎えに目を剥いて驚いた。
「何だ、どーした? 酒でも飲んでるのか?」
「シャイだった夢主はどこに行った? あれはあれで面白かったのに……」
 そう言いつつも何だか嬉しそうに二人から挨拶を返された。夢主は両側から挟まれてぐぇっと妙な声を出してしまう。
「イタリアに慣れようとしてんのか? 涙ぐましい奴だな、お前……」
「いい心掛けじゃないか」
 二人は夢主の頭をぐしゃっとかき混ぜて満面の笑顔でリゾットの部屋を去っていった。


 廊下ですれ違ったイルーゾォの様子がどうも変だった。首を傾げつつ、ホルマジオがリゾットから借りた金を返しに部屋を訪れるとすぐにその理由が判明した。
「オイオイ、何だ、どーした……?」
 おはよう、と夢主から挨拶があるのはいつものことだ。だが今日に限って彼女はふんわりとした抱擁と優しいキスまで頬にしてくるではないか。驚きのあまりホルマジオは持っていた小銭を床の上に落としてしまった。
「そんなに驚かなくても……ただの挨拶でしょ?」
「いや、まぁ、そうだが……」
 ついこの間まで夢主はチーム内で預かっているいわば客人のようなものだった。それが今や組織に入団し同じチームに配属されてしまったのだからホルマジオだって驚くだろう。親しくならないようにと言葉だけの挨拶で一線を引いていたのに、いつの間にかそれが無くなっている。そうでなくても握手をするのが精一杯の彼女にしては大進歩だ。
「なんつーか……お前の挨拶は……色々と問題だな」
 きっとこの後、ギアッチョやメローネにも同じ事をするのだろう。彼らの反応を想像すると笑いがこみ上げてくる。
「問題って……どこか間違ってた?」
 不安そうに見上げてくる夢主をホルマジオはぎゅうっと抱きしめた。風呂が大好きな夢主からは石鹸の香りがする。ホルマジオはまだ剃っていない髭をざりざりと頬に触れ合わせて派手なリップ音を響かせた。
「勢いが足りねーよ。これくらい力を入れてハグするんだな」
「そ、そっか……分かった……」
 頬を染めて頷く夢主にホルマジオはニヤニヤとした笑みを向けた。


 ホルマジオから指導を受けた夢主は朝食を食べにリゾットの部屋へやってきたギアッチョの前に立ちはだかった。すぐにキレて怒るギアッチョの事だ、失敗した時の事を思うと足が震えてくる。
「アァ? んだよ、何か用か?」
 寝起きの彼は特に機嫌が悪い。夢主は何だか妙な試練を受けている気分になってきた。
「あ、あのね、ギアッチョ……お、おはよう!」
 挨拶を噛みつつも夢主は両手を広げてギアッチョに飛びついた。ホルマジオのハグを思い出して力一杯に抱きしめる。そのままの勢いでギアッチョの頬にちゅっと二回キスをした。思わぬ行動に驚いたギアッチョは眼鏡がずり落ちそうになるのにも構わず、次の瞬間には叫んでいた。
「お、お前……! いきなり何しやがるッ!」
「ひぇぇ、ごめんなさい!」
 パッと体を離し、その場から逃げようとする夢主の手をギアッチョは咄嗟に掴んだ。
「そんな挨拶の仕方があるか! このヘタクソッ!」
 怒鳴りながらもギアッチョは夢主の体を抱きしめて素早く頬を合わせた。
「ケッ!」
 それが終わると夢主の体を放り出し、椅子にどっかりと腰を下ろしてしまう。
 リビングで様子を見ていたホルマジオは愛らしい挨拶を受けて悶絶するギアッチョに気付く。笑いを堪えようとしても上手くいかず、結局は盛大に吹き出してしまった。


「……自信なくしてきた……」
 ギアッチョに怒鳴られて夢主は落ち込んでしまったようだ。リゾットはそんな彼女のためにチョコレートが入った箱をテーブルの上に置く。キレたギアッチョと笑い転げるホルマジオが去った部屋で二人がお菓子に手を伸ばしていると、ノックも無しにメローネが飛び込んできた。
「悪い、寝坊した! 俺の朝飯まだある?!」
「今起きたの? もうすぐ十時だよ?」
 呆れつつも夢主は彼の分の朝食を取りにキッチンへ向かう。再びカプチーノの香りが部屋に満ちていく中でリゾットはソファーに座ってテレビを付ける。メローネはいそいそとダイニングテーブルに着いて、夢主が運んできた朝食とカプチーノを両手で受け取った。
「グラッツェ! 君はディ・モールト可愛くて素敵な女性だ。まったく、このカプチーノに溶かして飲んでやりたいくらいだよ」
 メローネの言葉に夢主は笑って彼の肩に手を置いた。
「おはよう、メローネ。すごい寝癖とよだれのあとがあるけど……メローネも格好いいよ」
 片方の頬だけ触れ合わせてそっとキスをする。ごく自然に上手くできただろうか……そう思って相手を見ると、思わぬ事にメローネは数秒ほどその場に固まってしまった。
「……何だよそれ……ッ!」
 メローネはカップを置いて勢いよく立ち上がると、不安そうに見てくる夢主をがばりと抱きしめた。
「教えられた通りにしたのに……どこが駄目だったの?」
「駄目じゃない! 全然、まったく、駄目じゃないさ! 何だよ言ってくれれば俺が教えたのに! 俺だって夢主とキスとハグがしたくてずっと我慢してたんだぜ!? 何か先越されたって感じで悔しいなぁ……!」
 メローネはぎゅうぎゅうと抱きしめて夢主の頬にぶちゅうと濃厚なキスをしてくる。その上、ベろりと頬を舐められて夢主の全身に鳥肌が立った。
「夢主、さっきの挨拶もう一回やってよ! あんな少女みたいなキスされたら……俺もう堪んないよ!」
「わぁ!? ちょっと嫌だ、メローネ!」
 挨拶どころか普通にキスを求めてくるメローネの顔に夢主は爪を立てた。
「だから言っただろうメローネにするのは止めておけと……」
 リゾットがメローネの首根っこを掴んでバリッと二人を引き剥がす。
「さっさと食べて部屋に戻れ」
 冷たい鉄の声で命令されてメローネはチェッと言いながら渋々と椅子に腰を下ろした。


「おはよう、ペッシ」
「お、おはようッス……」
 真っ赤に熟れたパイナップルになってしまった舎弟をプロシュートは呆れ顔で眺めた。ガキじゃあるまいし、挨拶のキスとハグ程度でどうしてそこまで照れるのか彼には理解出来ない。
「どういう風の吹き回しだ? シャイなお前が珍しいじゃねぇか。メローネの入れ知恵か?」
「ううん、少しでもイタリアに慣れようと思って……それにチームのみんなともっと近づきたいなって思ったから……」
 ペッシと同じく頬を染めている夢主の様子ではまだまだ慣れるのには時間が掛かりそうだ。客からチームの一員になったという夢主はペッシの後輩ということになるだろう。こんな虫も殺せないような女が新入りだなんてプロシュートには納得がいかない。それでもリーダーのリゾットは彼女をここに置くことを認めてしまったようだ。日に日に夢主の私物がリゾットの部屋に増えている事からも、彼もこの生活を気に入っているらしい。
「新人か……まだリゾットの女の方がマシだと思うがな……」
 プロシュートはギャングの世界に飛び込んできてしまった夢主に向けてため息を付いた。
「まぁいい……オイ、こっち向け」
 夢主は彼の言葉に従って素直に体を向ける。見上げるとプロシュートの凛々しい顔が少しだけ優しくなった。今日もきっちりと結い上げている髪には一つも乱れたところがない。プレスされたスーツを着た彼からは甘く爽やかな香水が漂ってくる。
「おはよう。いい朝だな」
 ホルマジオよりも優しく、ギアッチョよりも強く、絶妙な力加減で抱きしめられる。メローネのように舌で舐めるような事はせず、シェービングを使って剃った滑らかな頬をぴたりとくっつけてきた。プロシュートの首筋からふわりといい香りがして夢主はくらくらと目眩を起こしそうになる。
「プロシュート……」
 誰よりもスマートで誰よりも色気のある挨拶に夢主はもう真っ赤になるしかない。
「あ? 何、ボサッとしてやがる。次はお前の番だぞ。ほら、さっさとしろ」
 軽く腕を開いてプロシュートはそこに飛び込んでくるのを待っている。何度か躊躇っていると、相手の顔が険しいものに変化した。
「テメェ……ペッシには出来てもこの俺には挨拶もナシか?」
 夢主は慌てて首を横に振ってプロシュートのスーツに腕を回した。ぎゅっと抱きしめて、屈んで待っていてくれる彼の白い頬にちゅっと口付ける。
「お、おはよう……プロシュート」
 緊張のあまり声が震えてしまったが、プロシュートは特に気にした風でもなくフッと目元を緩めて笑った。
「フン……まぁまぁだな。お前の挨拶にはまだ照れがある。それが無くならねぇ限り合格点はやれねぇな」
「そんな……」
「これから毎日挨拶するんだ、すぐに慣れるだろうよ」
 夢主の頭をぽんと撫でて、プロシュートはペッシを連れて颯爽と部屋を出ていった。
「これから毎日……」
 呆然としている夢主に傍目で見ていたリゾットは困ったような笑みを浮かべる。
 ハグをして頬を合わせるまではいい。問題はその後だ。頬に唇は付けず、音を鳴らすだけでいいことを誰一人として訂正しなかった。きっと誰もが優しく押し付けられる初々しいキスを楽しんでいるのだろう。

 終




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