01


 路地裏で猫たちが縄張り争いをする物音で目が覚めた。
 カーテンの向こうに広がる暗闇からふわりと生ぬるい風が吹いてくる。
「はぁ……」
 近くに置いた携帯電話を手に取ってみればデジタル時計が午前四時を表示している。
 ぼんやりと光る待ち受け画面には承太郎と徐倫、それから花京院と夢主が並んで写っていた。アメリカの水族館を訪れた時のことだ。はしゃぐ徐倫と夢主に承太郎は呆れ、彼の妻は笑い、花京院は微笑んでいた。この写真はその時、奥さんに撮ってもらった記念の一枚だった。
「承太郎、花京院……ごめんね」
 彼らの顔を見る度にそうやって謝ってしまう。ジョセフの家に住まわせてもらい、花京院と共に財団の仕事をして、徐倫の勉強を見たり遊び相手になったりした……この二年間、夢主は彼らの世話になりっぱなしだ。
 そんな風に優しく見守ってくれる彼らの目を盗んで夢主は今、イタリアのナポリにいる。


「この件はすでに康一くんに任せてある。春休みになると同時にイタリアへ向かってくれるそうだ。お前が行く必要はない」
「そんな……どうして? 康一くんが行くよりも私が行った方が簡単に済むのに!」
 デスクを挟んで口論する二人をそれまで傍観していた花京院が夢主の肩にそっと手を置いた。
「相手がどんな奴かも分からないのにあなたを行かせることは出来ません」
「だけど……典明」
 「花京院くん」ではなく「典明」と呼ぶように教えられてからもう一年以上が経つ。夢主は上司であり親友の花京院をジッと見上げた。
「まだ幼いとはいえ、あのDIOの子供なんですよ? そんな彼に夢主を会わせたくない」
 彼ももはや「夢主さん」とは呼ばなくなった。心を許しあう大事な仲間だと思ってくれるのは嬉しいが、花京院は承太郎と同じ意見のようだ。
 財団の調査で今年になって分かった新事実がある。DIOの子供「汐華初流乃」の存在だ。夢主がいくら彼は危険な存在ではないと力説しても、どうしてそれが分かる? と逆に聞かれてしまっては口を噤むしかなかった。
「でも……私のスタンドを使った方が……」
 尚も食い下がろうとする夢主に、二人は揺るぎない視線で首を横に振る。
「駄目だ」
「駄目です」
 同じように言われて夢主は肩を落とした。
「お前はいつになったらDIOの呪縛から解かれるんだ?」
「僕の腹に穴を開けるようなのが彼の父親ですよ? 絶対に駄目です」
「だけど……」
 押しても引いても彼らは首を横に振るばかり。そのうちジョセフの養子になった二歳になる静の子守りと、徐倫の勉強を見るように言われて夢主は渋々と承太郎の研究室を後にした。
「どうして徐倫のパパはあんなに頑固なんだろうね……」
 青い壁紙が貼られた徐倫の子供部屋はまるで海の中にいるみたいだ。海洋学者の承太郎の影響か、部屋のあちこちには海の生き物たちのぬいぐるみが転がっている。その中で一番大きなクジラを捕まえた夢主はそれをむぎゅっと抱きしめながら抗議した。
「ダディの頑固さは今に始まった事じゃないわ」
 九歳になった徐倫は長く伸ばし始めた黒髪をいじりながら、自分よりも幼い行動をする夢主を見て笑った。
「……典明まで反対しなくてもいいのに……」
「典明もダディに負けず、頑固で過保護だもん」
 くすくすと笑いながら彼女は算数のプリントを解いていく。
「どうしたら行けるかなぁ……イタリア……」
「そんなに行きたいの?」
 あの二人が反対する事ならそれは余程のことなのだろう。徐倫はペンをくるくる回して柔らかなクジラの頭に埋もれる夢主を見た。
「ねぇ、どうしてその子に会いたいの? ダディや典明の言うDIOって人、夢主にとって何なの?」
「なにって……言われても……」
 次第に赤くなる夢主の顔を見た徐倫は同じ女としてすぐにその心を察したようだ。
「あー! そっか好きなんだ! でしょ!? キスはもうしたの?」
 目を輝かせて聞いてくる徐倫に夢主はぶるぶると首を横に振るだけだ。
「えー!? じゃあ告白は?」
「まさか……!」
「ウソッ! 片思いなの?! もっと詳しく教えて!」
 興奮する徐倫を何とか落ち着かせながら宿題を見たのが二週間前の話だ。
 夢主は彼らの目を盗んで、こっそりとイタリア行きの飛行機に乗り込んだ。連れ戻される事が分かっているので承太郎たちからの着信は拒否するようにしてある。本当に悪いと思っている。お叱りは後で思う存分に受けるつもりだ。
 彼がボスになれば簡単には会えなくなるだろう。だからどうしてもそうなる前に会っておきたかった。
 汐華初流乃……ジョルノ・ジョバァーナ、その人に。



 露伴のスタンドのおかげで夢主は語学に不自由しない。三日間寝込んだ甲斐があるというものだ。
 空港ではもちろん、バールやレストランでもまるで地元人のようになめらかなイタリア語で話す夢主を、誰もが驚き上手ですねと褒めてくれる。おかげで夢主は道に迷うことなく、メニューに何が書かれてあるかすぐに理解できた。
 だからこうしてネアポリス中・高等学校の校務員に対しても臆することなくジョルノの居場所を聞くことができる。
「ジョルノ・ジョバァーナ? ああ、あの子なら別の学校へ転校したよ」
 と返された時、夢主は自分の耳を疑った。
「え? 転校!? どうして!?」
「家の事情らしいよ。詳しいことは私にもちょっとわからないなぁ」
 口を開けて唖然とする夢主を可哀想と思ったのか、その人はジョルノが暮らしていた寮まで案内してくれた。しかしそこにあったのは中に何も入っていない作り付けの家具たちだけだ。
 美しい装飾が施された寮のドアをくぐり、正門へと続く道を夢主はとぼとぼと歩いている。
 彼女の横を幼さの残る学生たちが楽しそうに笑いあい、歴史を感じる校舎や青い芝生が待つグラウンドへと駆けていく。その後ろ姿をぼんやりと眺めながら夢主は暮れゆくナポリの夕日の中で立ちつくした。
「ジョルノ……どこにいるの?」
 学校にいるとばかり思っていた彼はここにいなかった。聞けば転校したのだという。これは一体どういうことなのだろう?
 ポケットに手を突っ込めば中でカサリと音がする。悪いとは思ったがスタンドを使い、ジョルノの家の住所を教えてもらったのだ。その場所が書かれたメモを夢主はじっくりと眺めた。たとえ本人が居なくても家族なら彼の行き先を知っているだろう。
(……もしかしてもう手遅れだったりする?)
 ジョルノはギャングスターになってしまった後なのだろうか。康一くんから遅れること二週間。夢主がもたもたしている間に彼はボスの座に就いてしまったのかもしれない。
(とにかく……ここでジッとしていても始まらないよね。明日、この住所に行って彼の家族に聞いてみよう……)
 沈む夕日を見ながら、一度、ホテルへ戻ることに決めた。
 アメリカからイタリアまでの旅費を夢主は財団で働いて貯めたお金を当て込んでいる。ジョセフの家では何不自由ない暮らしだったおかげで結構な額だ。
 今頃、承太郎は居なくなった夢主に気付いているだろう。財団の情報網を用いなくても彼なら夢主がイタリアへ行ったと感づいているはずだ。
「承太郎、怒ると怖いからなぁ……典明もそうだけど……」
 こんな勝手な真似をした夢主を二人は怒鳴りつけるに違いない。しかしこうなった以上、このままDIOを探す旅に出るチャンスかもしれなかった。
 ホテルへ戻る途中、ケーキとパンが並ぶ素敵な店で美味しそうなものをいくつか買い込んだ。手にそれを持ってほくほくしながら部屋に帰ってきたが……入った瞬間、幸せな気分がブッ飛んでいった。
 自分の荷物が床の上にばらまかれている。服も下着も、あらゆる物全てだ。お金は手元にしっかりと持っていたので無事だが、そんなことはどうでもいい。買ってきたケーキとパンが入った袋を放り投げ、夢主は鞄に飛びついた。
「嘘でしょ……ッ!」
 夢主は散らかる衣服と小物を退けて露伴からもらった旅行鞄を開いた。
「ない!? どうして!? あれ一枚しかないのに!」
 箱に入れてタオルに巻いて、何があっても大丈夫なようにしておいた写真立てがなかった。
「お金ならともかく、どうして写真を……」
 中を見たら金にはならないことなどすぐに分かりそうなものだ。うち捨てられ、破かれた跡もないのでこの荷物を漁った誰かが持ち去ったのだろう。
「これを探しているのか?」
 愕然とする夢主の背後でその犯人が声をかけてきた。
「ぎゃあっ!」
 突然のことに大声を上げる夢主の目の前に白と黒の縞々のズボンをはき、黒い頭巾を被った長身の男性が姿を現した。
「う、あ、……ッ!!」
 名を叫び出しそうになって夢主は慌てて口を押さえた。
(リゾット・ネエロ……!?)
 暗殺チームのリーダーが夜を思わせる黒目の向こうから夢主をじっと観察してくる。
 夢主の体にどっと冷や汗があふれ出た。相手の刺すような殺気を正面から受け止めてしまったせいだ。
(あわわ……)
 腰を抜かしてその場にへたり込んでいく夢主を彼は長いこと見つめて呟いた。
「指令の女に間違いないな」
 承太郎に負けないほど低くて渋い声だった。こんな状況でなければうっとりと耳を傾けていただろう。
(指令って……?)
 目の前のリゾットは夢主を指令の女と呼んだ。誰かから命令を受けてここへやって来たのだろうか。
 彼に下される命令の内容を想像して夢主は真っ青になる。リゾットは暗殺チームのリーダーなのだ。もしかして彼に殺されることになるのだろうか……怯える夢主にリゾットは手を伸ばしてくる。
思わず身を震わせると、
「動くな」
 と釘を刺されてしまった。
「何故ボスの身辺を探っている?」
「え?」
 リゾットの言うことが分からなくて夢主は聞き返した。
「聞き込みをしただろう。ジョルノ・ジョバァーナを知らないかと」
「し、したけど……え? ボス……?」
「知らないで聞いたのか?」
 リゾットは意外そうに黒目を見張った。
「どういうことなの?」
「彼は新たなパッショーネ……ギャングのボスだ」
 リゾットの言葉を聞いて夢主の時が止まった。頭の中は一瞬で真っ白になった。
「……本当に知らなかったようだな」
 顔にその驚きが出ていたのだろう。リゾットは間抜けな顔でぽかんとなった夢主に小さく笑いかけてきた。



 ジョルノがパッショーネのボスに就いたと聞かされた夢主は思わずリゾットの足をまじまじと見てしまった。
 彼はしっかりと地面に立っている。鈴実のように体が透けているようには見えない。確かな存在感を感じる証拠に、リゾットは生きた温かい手で呆然と見つめてくる夢主の腕を取った。
「生きてるの?」
「何のことだ?」
 二人の会話は全く噛み合わない。
(ジョルノがボスになったのにどうしてリゾットが生きているの……?)
 彼はディアボロの手によって殺されてしまうはずだ。彼だけでなく彼が率いる暗殺チーム全員が死んでしまう。いや、もう死んでいるはずなのだ。それなのに何故か夢主の目の前にリゾットが存在する。その事実に戸惑いが隠せなかった。
「スタンド使いか?」
 夢主を無表情で助け起こしたリゾットは自身の手にメタリカを出現させた。小さな生物らしきものが声をあげながら蠢いている。夢主はそれを一目見てごくりと喉を鳴らした。磁力を操り、体内から鉄分をハサミやカミソリとして取り出す恐ろしいスタンド能力だ。
「見えているようだな……」
 夢主のその反応で彼は確信したようだ。
「お前のスタンドを見せろ。ただし攻撃しようとするなよ。最も……ここまで近づいてもスタンドで身を守ろうとしないということは……戦闘向きではないのだろうが」
 単に怖くて何も出来なかっただけだが、そう思ってもらえるのなら好都合だ。夢主は仕方なくを装って一番無害なスタンド、パール・ジャムを発動させた。叫びながら夢主の周りを浮遊する小さなトマトたちをリゾットは興味深そうに見ている。
「能力は何だ」
「えっと……料理で健康になること……」
 夢主の言葉にリゾットは不可解そうに眉を寄せた。
「料理?」
「食材にスタンドを混ぜて、その人の体の悪いところ……肩こりとか虫歯を治す事が出来ます」
 その言葉を受けて沈黙するリゾットを夢主はそろそろと見上げてみる。
「ボスを捜す理由は?」
「ジョルノに会って聞きたいことがあるんです。彼の父親のことなんですけど……その人の消息について、なにか知っていることはないかそれだけを聞きたくて……」
 リゾットは痛いほど真っ直ぐに見つめてくる。夢主もその眼光に負けじと視線を返した。淀みのない、決意にあふれるその目にリゾットも嘘をついているようには見えなかったのだろう。
「なるほど……お前の言いたいことはわかった。指令にはお前を保護しろとある。嫌でも俺たちと共についてきてもらうぞ」
「え?」
(俺たち? 保護ってどういう事?)
 夢主が困惑していると、リゾットの背後からにゅっと顔を覗かせる者がいた。
「こいつか? リーダー」
 天然パーマに眼鏡をかけた男性が夢主を上から下まで見て言った。
(ギアッチョ!?)
 彼もまた生きているらしい。地に着いた足を動かして、夢主の散乱した荷物を手当たり次第に鞄の中へ突っ込んでいく。
「あ、あの、何を……?」
 服や下着がくしゃくしゃになろうとも一向に構わないようで、ギアッチョは押し込めるだけ押し込むとジロリとこちらを睨んできた。
「……」
 黙っていろと言うことなのだろうか。夢主がリゾットに視線を戻すと、急に膝から下に力が入らなくなった。
 あ、と思う間に体が傾き、床に向かって顔を打ち付ける瞬間、ギアッチョに助け起こされた。
 と思ったら……
「え、ちょっ……んぐっ」
 手際よく夢主の手と足をロープで縛り上げ、叫び声を出さないように口にはガムテープをベタリと貼り、仕上げとばかりに目隠しまでされてしまった。身動きが取れず、喋ることも出来ず、視界を塞がれたうえに真っ暗な目の前がくらくらと揺れて気分までも悪い。
(これって貧血……?)
 リゾットがスタンドを使ったのだろう。何も出来なくなった夢主をギアッチョがひょいと肩に担ぎ上げた。
「とりあえず俺らのアジトまで来てもらおう」
 夢主の荷物を持ったリゾットは何事もなかったかのようにホテルのドアを閉め、静かな廊下を歩いていく。夢主を抱えたギアッチョと共に非常階段を使って地上に降りていった。


 人目につかない裏口から外に出ると、すぐに待たせてあった車の中へ夢主を押し込んだ。
「ほらよ。奥に詰めな」
 どさりと体を放り込まれた先で夢主は誰かの体にぶつかった。
「痛ぇな……もっと優しく扱ってやれよ」
 そんな声が頭上から聞こえてきて夢主は揺らぐ頭で残りのチームメンバーを思い描く。
 リゾットとギアッチョが生きているのなら他の彼らも生きているのだろうか。イルーゾォやホルマジオ、ペッシも生きているとしたら……
「こいつが例の女? ふーん……」
 そう言って夢主の頬をつねってくる。誰かの膝上に頭を置き、身動ぐことも出来ない夢主の頬をぐいぐいと引っ張ってきた。そうされても文句の一つすら言えない状況だ。不意にその相手からふわりと素敵な香りが漂ってきて夢主の頭はさらに朦朧とし始めた。
「プロシュート、指令の女だ。手を出すなよ」
 リゾットが笑いを含みながら言った。
(プ、プロシュート兄貴!)
 頬をつまんでくるこの手はプロシュートのものらしい。夢主は一瞬にして硬直した。そして目隠しされたことを大いに悔やんだ。あのブチャラティを追い詰め、最後まで兄貴らしい心意気を見せつけてくれた彼を素直にこの目で見たいと思った。
「おい、詰めろ」
 ギアッチョが夢主の足を抱えて座席の下へとずらす。身動きの取れない夢主はプロシュートの膝上から転げ落ちそうになった。
「ギアッチョ、もう少し考えて放り込め」
 ずり落ちていく体をぐいっと抱え、プロシュートは夢主を助け起こした。右側に色男のプロシュート、左側にキレたら怖いギアッチョに挟まれて夢主は嬉しいやら、怖いやら、息苦しいやらで訳が分からなくなってきた。
 静かに車が走り出すと車内は夢主のくぐもった呼吸音だけが木霊する。誰も喋ろうとはしない。
(承太郎……)
 思わず承太郎の名前を呼んでみたが彼には内緒でここへ来たのだ。助けは期待できなかった。
 そうして何分か車を走らせていると次第にスピードが落ち、車はどこかの歩道に乗り上げて停車した。
「降りろ」
 ギアッチョにぐいと引っ張られて車の外へ連れ出される。とはいえ、両手足を縛られた状態だ。歩道にへたり込む夢主にギアッチョは舌打ちした。
(ギアッチョがこうしたくせに……!)
「おいおい、大丈夫か、シニョリーナ」
 笑いを含んだ声が聞こえたかと思うとプロシュートにぐいっと体を助け起こされた。彼はそのまま夢主を抱えてどこかの階段を上っていく。
「むー!」
「ハハ、怒ってるぞ。それとも叫び声か? まさか俺に抱えられて喜んでるのか?」
 そのどれも違う! と夢主は封じられた口の奥で叫んだ。自分で歩くから足の紐を解いて欲しい、そう言いたかったのだ。
 そのうちガチャリとドアが開く音がして夢主はどこかの部屋に通された。ぽすんと柔らかいソファーが夢主の体を受け止めてくれる。プロシュートの腕から解放されたのはいいが、未だに続くこの危機的状況をどうやって乗り越えていけばいいのだろう……
 それでも、ジョルノがボスになったというのなら……こちらから会いに行けないというのなら……彼らを通じて話すしかない。ある意味これはチャンスかもしれないと夢主はふらつく頭の中で思う。
(覚悟を決めなきゃ……何があっても大丈夫なように……)
 手足を縛られ、口にはガムテープと目隠しまでされている状況だ。それでも夢主は揺るがない決意を胸に秘めてソファーの上でこれから起こることに身構えた。




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