07


 水と薬のセットが置かれることの多いサイドテーブルに、今は銀色に輝く写真立てと淡いピンク色をした折りたたみタイプの携帯が並んでいる。
 数日前、全ての紙に目を通し拇印を押した書類を花京院のところへ届けに行った時のことだ。
「夢主さん、これを持っていて下さい」
 そう言って渡されたのがこのピンク色の携帯電話だった。
「いつでも連絡を取れる方が僕らも安心ですからね。近くの店で承太郎が選んできました」
 寡黙な大男がピンク色の携帯電話を購入する姿はそれはそれは不気味に見えただろう。その時の店員の態度を想像して夢主は密かに笑った。
「ありがとう……でもいいのかな? 私、月々の支払いなんてまだ出来ないけど……」
「ふふ、安心して下さい。財団側でもあなたの身の上はよく分かってます。支給品ということで気にする必要はないですよ」
「……何から何まで面倒みてもらって……ごめんなさい」
 夢主はぺこりと頭を下げる。こんなに良くしてもらっているのに、夢主は彼らに隠していることがある。決して話すわけにはいかないその罪悪感に苛まれて胃の辺りが痛くなってきた。
「そんな……どうか謝らないで」
 花京院の手によって夢主は下げた頭を持ち上げられる。
「僕はあなたを助けたい」
 穏やかな視線で見つめられて夢主は思わずドキリとしてしまった。
「困った時は連絡して下さい。何でも相談に乗りますからね」
 そんな事を言われては花京院の優しさに甘えて、全てを彼に話してしまいたくなるではないか。きっと財団の力を借りればDIOがどこにいるかなんてすぐに見つけ出せるのだろう。
 夢主は携帯を握りしめながら、それだけは出来ない、と言葉を呑み込んだ。
「ありがとう、花京院くん」
 いつかは自分で探しに行かねばならない。夢主はにこりと笑顔で礼を言いながら、心の底でそう決意した。
 夢主がサインした書類を東京目黒にある財団支部に届けるために花京院は杜王グランドホテルを後にした。そこで色々と工作して夢主の身分を固めてくれるらしい。嘘でも偽りでも、この世に生きる証を作ってくれる花京院に夢主は深く感謝した。それが出来上がり次第、また町へ戻ってくるという。
 携帯をパカッと開き電話帳に登録された名前を確認する。承太郎と花京院、二人だけだ。ジョセフは携帯の使い方が分からないし、まだ高校生の仗助や康一たちは持っていないという。無遠慮に干渉される携帯を嫌う露伴も同じだ。だから夢主のメモリーにはこの二人しかいない。
「すごく贅沢な携帯だなぁ……」
 彼らとボタン一つで会話が出来るなんて夢のようだ。何を話していいのか分からないし、そもそも大した用事もないのでその番号にかけたことはないが、彼らと繋がりが持てたことは何だか嬉しかった。
 あの承太郎が夢主のために携帯を選んでくれたということも驚きだ。会う機会が増えたからか前に比べて承太郎に対する恐怖も少しはマシになってきたように思う。
 携帯を元の位置に置き、今度は写真立てを手に取った。
 微笑むDIOと自分を見るたびに心の中に嵐が渦巻くようだ。様々な記憶と感情に流されてそれが行き着く先すら見えない。
(DIOに会いたいな……)
 単純にそう思う。しかし、会ってどうしたらいいのだろう。
 出来ることなら寝室を後にするときに聞いたあの言葉を問いただしたい……
 けれど夢主には分かっている。胸を苦しく締めつけて離さないあの言葉は、自分をDIOに繋ぎ止めておくための戯れ言に過ぎないのだ。あのDIOが愛を囁くなど、あってはならない事なのだから……
「はぁ……」
 窓の外でザアザアと降り続く雨のように夢主も思いきり泣きたくなった。
 爽やかな五月は終わりを告げ、今や梅雨が始まる六月だった。



「参ったなぁ……どうしよう……」
 ドシャドシャと凄い勢いで空から雨が降ってきている。
 もはや常連となった亀友デパートから外に出て少し歩いたところでこの天気だ。雲行きが怪しいことは知っていたが、あと少しくらいなら大丈夫だろうと軽く考えていた自分を叱ってやりたい。
 やはり店で傘を買うべきだった……後悔しても遅いがそう思わずにはいられない。
 シャッターが閉まった店の軒先で夢主はそうして足止めを食らっている。一歩でも足を踏み出せば瞬く間にずぶ濡れになるだろう。少し先にカフェ・ドゥ・マゴのきらびやかな照明が見えるが、そこに辿り着く頃には濡れネズミだ。
「あーあ、止むまで待つしかないかぁ……」
 両手に抱えた食料品はそれほど重くはないものの、ずっと持っていても疲れないほど軽くはない。あとどれくらい降り続けるのか……しゃがみ込みたくなる気持ちを何とか抑え込み夢主は真っ黒な空を見上げた。
(仗助くん達が通りかからないかな……もちろん康一くんでもいいけれど、由花子ちゃんに見られたら雨の中で死闘を繰り広げる事になりそうだし……露伴なら傘なんて差さずにそこら辺でタクシー拾って帰っちゃうんだろうな……)
 食材と共にお菓子と本を買い込んだせいで夢主の財布の中身は寂しいすきま風が吹いている。カフェで熱いコーヒーすら飲めるかどうか怪しいものだった。
 しみじみと雨を眺めていると、不意にバシャッと雨水を踏みしめる音がした。
「おい」
 夢主が声の方に振り向けば、泥が跳ねようとも一向に構わないらしい真っ白なコートを着込んだ承太郎が青い傘の下に立っている。
「承太郎……!?」
 慣れてきたとはいえ、こうして不意に姿を見せられると思わずビクリとしてしまう。そんな相手をどう思ったのか承太郎は小さく溜息を付いて雨宿りをする夢主の前に立ちはだかった。
「こ、こんにちは……その節はどうも……」
 高いところから見下ろされて夢主はしどろもどろに挨拶をする。
「あの、携帯電話……ありがとうございます……それで、えっと……」
 それから言葉が続かなくなった。承太郎を前にして何か言わなくてはならないという強迫観念に駆られるが、そもそも話す話題があまりに少ないのだ。会話をしようと思えば思うほど夢主の頭の中は真っ白になっていく。
「い、いいお天気ですね……」
「……大雨だぞ」
「……」
 そうだった。だからこそこうして雨宿りをしているのだ。馬鹿なことを言ったと夢主は首まで真っ赤にしながら項垂れた。
「入っていくか?」
 承太郎はずいっと青い傘を夢主に向けて差し出してくる。その言葉に驚いた夢主は反射的にぶるぶると首を横に振った。
「雨が止むまでそこでそうしているつもりなのか」
「……露伴に電話して迎えに来てもらいますから」
 夢主は携帯を取り出して露伴の家の電話番号にかけた。その間も承太郎は夢主の前で立ちつくしている。妙な圧迫感を感じて、だらだらと汗が流れてきた。
(露伴! 出てよ、もう!)
 けれど彼は家にいないのか、いくらコールしても電話に出ることはなかった。仕方なく通話を切って承太郎をちらりと見上げる夢主に、彼は何を思ったかその白いコートを脱いでバサリと投げつけるではないか。
 コートの下から恐る恐る顔を覗かせた夢主へ承太郎は低い声で言った。
「ツラを貸せ」
 体育館裏へ呼び出されてカツアゲされる生徒の気持ちが今ならよく分かる。
 立ち尽くす夢主の頭にコートを広げた後、承太郎は背中を押して雨が降る歩道へ連れ出した。
 途端に容赦なく雨が降り注いでくる。青い傘の下、体格の大きな承太郎と並んで歩く夢主は護送される容疑者の心地になりながら無言で彼に着いていった。


 雨で濡れた歩道に柔らかな光を映している。ドアベルがカランッと鳴った後、ウェイターと承太郎の会話がカチコチに固まっている夢主の耳に入ってきた。
「いらっしゃいませ。喫煙席と禁煙席がございますが」
「禁煙でいい」
 夢主の体を覆っていた白いコートを取り払い、店の入り口にあったコート掛けにひっかける。ぽたぽたと滴がいくつも落ちて乾いた床を濡らしていった。
「おい」
 店の入り口で直立不動になっている夢主に承太郎が声を掛けてきた。
「カフェ・ドゥ・マゴ?」
 露伴にランチを奢ってもらい、承太郎と始めて出会ったところだ。
「それ以外のどこだと思うんだ?」
 承太郎は不思議そうに夢主を見下ろしてくるりと背を向けた。土砂降りの道路が見える禁煙席のテーブルにどかりと腰掛ける。夢主は慌ててその向かい側に座った。
「ご注文は?」
「……コーヒー」
「ええっと……」
 財布の中身を確認しておくのだった。亀友でいくら使っただろうか、と頭の中でせわしなく計算してみる。
 沈黙が続く中、夢主がどれを選んでも足りなさそうなメニュー表に頭を抱え込んでいると、見かねた承太郎が代わりに注文した。
「紅茶付きのケーキセット」
「わかりました」
 承太郎から注文を受けたウェーターはさっさとその場を去っていく。
「あの、承太郎……実は……お金が……」
「俺のおごりだ。気にするな」
 夢主の言葉をバッサリと切り捨てて、承太郎は口の端で笑った。
「あ、ありがとう……」
 思わず両手で拝みたくなってくる。
(ツラを貸せって言われた時はどうなることかと思ったけど……)
 まさかカフェで承太郎と雨宿りすることになろうとは……コートを貸してくれたのも狭い傘の中で夢主が雨に濡れないためだったのだ。
(嘘だろ、承太郎……!)
 何時から女に対してそんなにも優しくなったのだろう。夢主は込み上げてくる恥ずかしさと喜びに相手の顔が見れなくなった。
「殴りかかって悪かったな」
 ぽつりと言った言葉に夢主は思わず視線を向けた。承太郎はまっすぐにこちらを見て謝罪してくる。
「露伴の家での事だ」
「あ……ううん……私こそ……」
 承太郎の言葉を破ってスタンドを出したのは夢主の方だ。殴られても仕方ない行動だった。
「私こそ色々とごめんなさい。勝手なことばかりやって……迷惑をかけて……それに、それに何より……」
 彼らがあれほどに命を賭けて戦った宿命の敵を、夢主はあろう事か助けてしまった。血を吸わずにはいられない、人間を支配することを望んでいたあの人を。
「DIOを……」
 名前を口にした瞬間、喉がきゅうと引き絞られていくようだ。胸に熱い何かが込み上げてきて言葉にならなくなった。
 唇を震わせながら押し黙ってしまった夢主に承太郎は片手で制した。
「もういい……それ以上、無理に言わなくていい」
 喉元にまで出かかった言葉をごくりと呑み込む。この世で最大の秘密を夢主は再び心の奥底へ沈めていった。
「……」
 言えば承太郎は必ずDIOを倒しに行くだろう。ジョースター家としてもスタンド使いとしても、見捨ててはおけない存在だからだ。そうと分かっていながら夢主は危うく彼に全てを喋ってしまいそうになった。
 承太郎の吸い込まれそうになる目から視線を外し、夢主は冷や汗が背中を流れ落ちていくのを実感した。
「コーヒーと紅茶のセットになります」
 沈黙する二人の前に、熱い飲み物とチョコレートがたっぷりかけられたケーキが運ばれてくる。
「わぁ、いただきます」
 熱い紅茶を飲み、ケーキを頬張る。もう余計なことは言いたくないとばかりに夢主はそれらに集中した。


 ……書類を抱えた夢主が露伴の運転する車に乗り込んで杜王グランドホテルを後にしていく。それをロビーから眺めている承太郎は隣に立つ花京院を見下ろした。
「DIOに関することを聞き出せたかって?」
 承太郎の視線の意味するところを花京院はすぐに察知した。
「聞き出せた、と言っていいのかな……聞いた僕にも色々と信じがたい話ばかりだったからね。でも、これだけは確かだよ」
 花京院はジッと見てくる承太郎に向けて静かに言った。
「夢主さんもDIOもお互いを想い合っていた。少なくとも僕はそう思うし、きっと間違いじゃない」
「……その根拠は?」
「聞きたい? もうほとんどのろけ話だったけど……それに耐えられるかな、君は……」
 花京院は楽しそうにくすくすと笑っている。
 一体、それはどんな内容だというのか、承太郎は複雑な顔で花京院の話の続きを促した。
「僕の感じたとおり、夢主さんはDIOのお気に入りだったみたいだね。あのDIOとピラミッドや博物館を見に行ったりしたらしいよ。しかもDIOの方から誘ったって……信じられるかい? 寝るときはいつも一緒にいて、二人で静かに本を読んだり談笑したり、時には街へ買い物に出掛けたそうだ。指先から少しだけ吸血されることはあっても殺されることはなく、むしろたくさんの贈り物に困っていたみたいだね」
 花京院の言葉を信じるとすれば、やはり夢主はDIOの女であったのだろうか。しかし、彼女は自分で綺麗な体だと主張していた。男女の関係ではないと真っ赤になって叫んでいた。
「僕の知っている恐怖しか感じなかったDIOとはまるで違う。別人のそっくりさんでもいたのかな、って思うほどだよ」
 花京院は夢主と露伴の姿が消えた玄関先を見つめて言った。
「今のところ聞き出せたのはそれくらいかな……有益な情報じゃなくてすまない」
「いや……」
「DIOの事を話す時の夢主さんは寂しげで……でも、とても輝いていた。彼女の中でDIOはまだ生きているんだ。不死身の吸血鬼だし、僕らと違って死ぬところを見てないから……無理もないよ」
 熱い紅茶と甘いケーキを食べる夢主を前にして承太郎の脳裏に花京院とのそんな会話がよぎった。
 雨の中、身を震わせながら立ちつくす夢主を見て思わずここへ連れ込んでしまったが、夢主にとっては迷惑だったかもしれない。
 承太郎はコーヒーを飲みながら止むことのない空を眺めた。
(こいつをどうしたものか……)
 美味しそうにケーキを頬張っている彼女をどう扱えばいいのだろうか。
 財団本部に連れ帰るのは簡単だ。住む家と仕事を与え、スタンド能力はあっても平凡に暮らしていける環境を作ればいい。それからゆっくりと時間を掛けてDIOを失った傷を癒していけば、そのうち女の幸せも掴めるようになるかもしれない……
「んー、美味しい……甘くて幸せ……」
 そう言ってケーキを食べるのんきな顔の下で、一体どれだけの涙を流したのだろう。
(やれやれだぜ……)
 承太郎は苦笑しながら夢主のために紅茶とケーキを追加注文した。




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