岸辺露伴ナポリへ行く


「ああ! 携帯に出てくれて助かった! 僕だ、岸辺露伴だ。実は今、非常に困ったことになっているんだ。──は? 本物の岸辺露伴かって? あのなぁ! 正真正銘、僕だよ! 声だけでも分かるだろ? ピンクダークの少年を描いている漫画家の“岸辺”が他にもいるなら教えてもらいたいね! いや……今はそんなことを言ってる場合じゃあないんだ。今から伝える場所に来て欲しい。君の助けが必要なんだ……なにしろ今の僕は雨でずぶ濡れの一文無しでね。財布にパスポート、携帯とクレジットカードまで盗まれてしまった。手元にあるのはグッチのバッグと飴が一つきり……信じられないくらいついてないよ。他の誰かに助けを求めたくても何も出来ない。本当に、本当に困ってる。……そこで君だ。何とか携帯番号を思い出して一か八か掛けてみた。出てくれただけで涙が出るほどありがたいよ。だって君は異国で困り果てる友人を見捨てるほど薄情じゃあないだろう? あの夏の杜王町で僕が行き場のない君をひととき預かったようにね。──ん? ああ、もちろんだとも。そうしてくれるととても助かる。それで僕が今いるところだが……実はフィレンツェのトスカーナ州にある田舎のホテルなんだ。住所は──」
 そんな電話を掛けた翌日の朝、雨の上がった田舎道を一台の車が走り抜けてくる。雲間からの光を浴びて輝くオープンカーだ。
「やっと迎えが来たか」
 ホテルの庭先でコーヒーを楽しんでいた露伴の前で勢いよく停車すると、すぐさま中から見知った顔が飛び出してきた。
「露伴! どうしてこんなところに? 荷物がないってどういうこと? 怪我してない? 無事なの?」
「君も元気そうで何よりだよ」
 大急ぎで支度をしたらしい軽やかな装いに跳ねた髪、左腕には自身では外せないという呪いのような金の腕輪を身に付けている。杜王町で知り合い、別れた時よりも表情は豊かだ。日本旅行の際に感じたよそよそしさも今はなく、ただ安否を尋ねるその顔が懐かしかった。
「話は後でしよう。少々、込み入ってるからな。悪いが先にホテルの支払いを頼む」
「あ……うん、分かった。任せて!」
 駆けていく彼女と入れ違いに、露伴は唯一の荷物であるグッチの鞄を手に車の後部座席へ乗り込む。
「やぁ、ボンジョルノ! 会うのは二度目だね。日本の漫画家サン」
「トニオさんの店に一緒に来てた仲間か。名は確か……メローネ?」
「そうさ。覚えていてくれるとは嬉しいな」
 左右非対称の髪型に露出の多い服装、そして今でもこちらを値踏みするような視線。一目見たら忘れられない存在感ゆえに露伴はもちろん覚えていたし、何ならしっかりとスケッチも取ってある。
「またお前か。嫌な予感はしてたが大当たりだな」
 舌打ちと共にくせ毛の髪をガリガリ掻きながら赤縁の眼鏡をかけた男が睨んでくる。日本で出迎えた際、色々と読み込んで知っているがこうして正面から話すのは初めてだ。
「オイ、ギアッチョ。挨拶くらいしろよ。有名人なんだぜ?」
「うるせぇ、誰がここまで運転してきたと思ってやがる」
「グラッツェ、大いに感謝するよ。無事に帰国できたらお礼くらいはするさ。そこは安心してくれ」
「ケッ! 元彼だか何だか知らねーが俺らに気安く話しかけんな」
「……は?」
 元彼、と聞こえた気がしたが露伴の気のせいだろうか。スタンド能力のおかげでイタリア語は流暢に話せているはずだが、日本語にない表現は妙な翻訳がされるのかもしれない。
「お待たせメローネ。間に合った?」
 そこへフロントで支払いを終えた夢主が大急ぎで戻ってくる。露伴が無遠慮な態度で彼らを困らせていないか、それによってキレやすい運転手と喧嘩をしていないか心配だったためだ。
「間に合ったとも。俺としてはこのままゆっくりトスカーナを満喫したいところだが、ギアッチョは早くナポリに帰りたいみたいだ」
「無理言ってごめんね、ギアッチョ。後でメローネと交代していいからね」
「こいつが嫌だって泣き叫んでもそうするから安心しろや」
 露伴の隣へ夢主が腰を下ろすと同時にギアッチョはアクセルを勢いよく踏み込む。ぶわりと大きな風が四人の髪を撫で付け、車体は大きくUターンして来た道を再び駆け抜けて行った。


 フィレンツェからナポリまで車で約五時間。途中、休憩を挟み、運転手を変えながら車はひたすらイタリアの南へと向かう。
「だいたいの話は分かったよ。それにしたって君のような漫画家は他に知らないなぁ。変わってるってよく言われないか?」
「リアリティは何にも勝るものだからね。僕は妥協なんて一切する気は無い。ただまぁ、パスポートと財布を盗られたのは痛かったな。だがそれすらいいネタになると思わないか?」
 今後、漫画内で出すかは分からないが、スリに遭った間抜けな観光客のキャラは余裕で描けそうだ。運転中のメローネに露伴がそう話しかけると相手は笑いながら肩を竦めた。
「俺なら嫌だけど、泣いて落ち込まれるよりはマシかもな」
「僕のことなら心配いらない。何度か危ない目にあってるがどれも上手く切り抜けてきた。君らもそうだろ?」
「まーね。スリも盗みも強盗もそんなのナポリじゃあ日常さ。事件にもならない。でも……」
「?」
「夢主は君のことすごく心配してたよ。警察に任せればいいって言うリーダーに頼み込んで、俺らと一緒にトスカーナまで迎えに来たんだから」
「ふぅん……そうか、それは悪いことをした」
 夜が明けきらない時間から車に乗り込み、露伴の無事な姿を見るまで不安だったのだろう。スタンドを持ってはいても身ひとつで雨の中にいたと知ればそう思うのも無理はない。
 車の振動でいつしか眠ってしまった彼女の心労など気にも留めてなかったが、露伴は今になって少しだけ急かしすぎたことを反省した。
「ありがとう。助かったよ」
 車のシートに深く身を預けている夢主の頭を軽く撫でてやる。バックミラー越しに感じるメローネの探るような視線が気にはなったが、相手はイタリア人だ。これくらいのささやかな触れ合いなど気にも留めないだろう。
 そう判断した露伴は、このときの行動を後々になって深く後悔することになる。


 美しい地中海に彩られたナポリの街はどこを見ても芸術的で多くの人で賑わっている。四人を乗せた車が暗殺チームたちが暮らすアパートに到着したのはそろそろ夕方に差し掛かる時間帯のことだった。
「戻ったぜ」
 運転に疲れ果てたギアッチョの声に室内の空気がピンと張り詰める。
「ただいま〜、お土産なくてごめんなさい」
 夢主の声だけが明るく響くそこへ露伴が足を踏み入れると、一斉に視線を向けられるのが分かった。
「お、おかえり。えーっと……」
 髪を逆立てながらも一番おとなしそうな青年がチラチラとこちらを見てきた。
「あー……僕は岸辺露伴。日本の漫画家だ。今回はとても世話になった。礼はするから安心してくれ」
 そう話す露伴の姿は、ギザギザのヘアバンドと両耳にはGペンのピアス、雨と泥で汚れたグッチのジャケットにグッチのシャツ、グッチのネクタイ、グッチのズボン、グッチの靴、そしてグッチのバッグ。ここまで全身をブランド品で固めておきながら嫌味にならないのは、スタイルの良さと整った顔を持っているからだろうか。
「やっぱりあの時の漫画家か。日本で会ったな」
「ようこそ、イタリアへ。そして災難だったみたいだな」
 メローネと同じく、トニオの店で会ったソルベとジェラートがくっつきながら露伴に話しかけてくる。
「ああ、今回ばかりは本当に参ったよ。来る時は君たちの世話になるとは思わなかったが、これも縁かな」
「あんた、よくその格好で生きて帰れたな。相手が女スリだったからか? 命まで取られなかったのはマジで幸運だぜ」
 そう言ってゲラゲラ笑う剃り込みの男に、
「漫画家ってのは意外と儲かるんだな。俺も絵を描いて全身グッチにしてみるか」
 あからさまな嫌味と嘲りを長髪をいくつか結んだ男に投げかけられる。露伴がムッとする間もなく、今度は金髪の美丈夫が吸っていた煙草を消しながら立ち上がった。
「やりたきゃやってみろ。一歩でも外に出た途端、アホに絡まれるのがオチだぜ」
 なぁリゾット、と彼が振り向く先でひときわ異彩を放つ大男が物陰に佇んでいた。大きな黒目に浮かぶ赤い目が露伴をその場に縫い止める。同じ大男でも承太郎たちとは明らかに育ちの違う佇まいだ。
「岸辺露伴……会うのはこれで二度目だな。杜王町在住の漫画家で彼女の恩人だと聞いているが、間違いないか?」
 思わず聞き惚れそうになる低い声にどこか憂鬱そうな気配が混じっている。その理由が分からず露伴はただ頷き返した。
「間違いないよ。杜王町で助けてくれたのが露伴なの。迷惑なのも分かってて住まわせてくれたんだよ」
 弁明する夢主の言葉に露伴以外の全員が息を呑んだ。
「お前ら一緒に住んでたのか?」
「一つ屋根の下で? 若い男女が?」
「あー、やっぱりそうなんだ?」
 何を勘違いしているのかメローネはニヤニヤといやらしい表情を浮かべて笑った。
「迷惑だと分かってて許可するか? 下心アリじゃあなきゃ嘘だぜ。なぁそうだろ? 漫画家の先生よぉ?」
 口元は笑っているのに目が据わったままの長髪がなれなれしく露伴の肩に腕を回して聞いてくる。言いたいことは分かるが、それらすべてを説明するにはフィレンツェから移動してきたばかりの露伴にとってあまりに面倒なことだった。
「君に助けを求めたのは間違いだったかもな……。ま、そんなこと今更言っても遅いし、パスポートも金も無いんだから仕方ないんだが」
 相手の腕を退け、露伴は彼らの視線すら無視して空いたソファーにどっかりと腰を下ろした。
「そんなくだらないことを聞くよりもっと他に言うことがあるんじゃあないか? 僕は名乗ったし、客として招かれてる。お茶の一つでも出したらどうだい?」
 見るからに堅気ではない九人もの強面に囲まれながらこの言い様だ。これほど豪胆な客が今までいるだろうか。一同が顔を見合わせ、思わず吹き出したりその態度に眉を寄せる中、夢主だけがお茶の準備をしにキッチンへ飛び込んだ。


「あんたが描いてる漫画ってのはイタリアじゃあ読めねぇのか? エロい姉ちゃんが出てくるなら読んでみてぇな」
 名はホルマジオと紹介された剃り込みの男がビール片手に話しかけてくる。露伴は淹れ立てのコーヒーに口をつけながら彼をジロリと睨み返した。
「英語、フランス、イタリア語にも翻訳されている。とは言え、この辺りの本屋で手に入るかは僕の知らないところだ。それに君はエロスさえあればいいのかもしれないが、僕の漫画にそんな要素が必要かと問われれば違うだろうな。もちろん話の都合上、女性が脱ぐことが必然的でどうしても求められるなら描くかもしれないが……」
「分かった分かった、つまりエロはナシってことか。この漫画家先生は妙に理屈っぽいよなぁ〜参るぜ」
「それより俺はこの鞄の方が気になる。グッチのバッグにスタンド能力? そんなふざけた事があり得るのか?」
 プロシュートだと紹介されたモデル雑誌に出てくるような男が、祖母から受け継ぎ修理されたグッチの鞄を覗き込んでいる。彼の横に座ったペッシという若者も興味深そうに見ていた。
「意思のある刀を見たことあるから、きっと作った人がスタンド使いだったんじゃない?」
 ティラミスが詰められた大きなガラス容器を手に、キッチンから姿を見せた夢主がその疑問に答えた。
「わざわざグッチってのが納得いかねぇ。別にそこらへんの鞄でもいいだろ」
 彼女の後ろから酒のつまみを載せた大皿を運ぶイルーゾォが胡散臭そうにバッグを見て言った。
「材料を厳選し、一流の職人が作るからこそ何かが宿るのだろう。とはいえスタンドである以上、何らかの制限はあるはずだ」
 彼らから容器と皿を受け取り、テーブルに置きつつリゾットはそう答える。簡単な紹介を終えた後、酒と甘味とコーヒーの香るリビングにいるのは暗殺チームの五人と夢主、それから客としてくつろぐ露伴だけだ。
 運転で疲れているギアッチョとメローネは休憩を取りにそれぞれの部屋へ、ソルベとジェラートには露伴の貴重品の行方を追いかけてもらっている。観光客の盗品を売り捌くには必ずどこかでパッショーネを介して売買される。それなら組織の情報網を使って追えば再発行するより早いと考えてのことだった。
(今すぐにでも帰国させたいところだ。お互いのためにも、あの方のためにも)
 リゾットはティラミスを切り分けながら、のんびりと居座る露伴を見てため息をつきたくなった。この他愛ない話をさっさと切り上げ、彼をタクシーに押し込んで空港へ届けることが出来たならどれほど楽で喜ばしいだろう。
「ところで……」
 コーヒーカップをテーブルに戻した露伴は、ようやくソファーに腰を落ち着かせた夢主に顔を向けて話しかける。
「今日の夜の話だが、僕はどこに泊まればいいんだ?」
 この際、贅沢は言わない。今座っているソファーで寝てやってもいい。が、できれば近隣のホテルの中でそこそこいい部屋を押さえてくれれば尚ありがたい。そんな希望を持ちながら問いかけた言葉に、相手はこう答えた。
「え? もちろんここでいいよ。ちょうど私の部屋が空くから好きに使ってね」
「「は?」」
 と答えたのは露伴とリゾットだ。
「他に部屋がなくて……ごめんね、私の部屋で。でも夜はテレンスさんの手伝いがあるから居ないし、丁度いいかなって」
 寝具はきちんと洗ってるから綺麗だよ、なんて間の抜けたことを言う彼女に露伴は眉を寄せる。ちらりと他のメンバーを見れば、彼らは笑ったり苦笑したり呆れたりと様々だが誰も止める者はいないらしい。
「まぁ、いいんじゃあねーの? そこら辺をウロチョロされるよりマシだろ」
「俺は野郎に部屋を貸す気なんてねぇし、お前がそう言うなら問題はねぇかもな」
 ホルマジオとプロシュートは笑いながらも賛成のようだ。
「リーダーが一緒なら、まぁ……」
「デカい鏡もあるし、俺もリゾットがいるなら文句は……ないが」
 ペッシとイルーゾォは渋りつつも最終的な判断をリゾットに委ねる気のようだ。
「俺は……彼女がいいなら構わないが」
 どうする気だ? と問うような視線をリゾットから受けて、露伴はフッと鼻を鳴らした。ソファーでも金を借りてホテル泊まりでもいいが、こんな機会でもなければ彼らを間近で観察することは出来ない。もはや職業病と言っていいほどの好奇心が出会った時から疼き出している。それを後押ししてくれるのが部屋の主なのだからこれ以上のものはないだろう。
「言っただろ? 外に出ても無一文なんだぜ? 断るわけがない」
 意外そうな顔をするリゾットに露伴は爽やかに笑いかけた。


 日が沈みきったナポリ湾に響くのは、停泊中の客船からこぼれる楽曲と夜を楽しむ人々の笑い声だ。それらを眼下に望む屋上で、露伴はイタリアワインを片手に“本”を読んでいた。
「タイトルをつけるなら“ある暗殺者たちの一生”といったところか?」
 実に興味深い、とのめり込むようにしてページをめくる。夢主や康一が見ればすぐさま駆け寄って注意するところだが、残念ながらここに彼らの姿はなかった。
「少年誌に載せるにはちょいと刺激が強すぎるかな」
 イタリア料理が並ぶテーブルで乾杯したのが二時間前。食後のデザートや追加の酒を手に、眺めがいいからと屋上のテラスに連れて来られた。夢主との日本での生活をもっと詳しく教えろと詰め寄ってきた彼らに、先手必勝でヘブンズ・ドアーを仕掛けたのは言うまでもない。
 露伴の両隣の席で本になったイルーゾォとホルマジオから目を離し、ペッシとプロシュートに書かれた文字を追いかける。幼少期から現在に至るまでに素早く目を走らせながら、次の短編はバディ物もいいな、と密かに思った。
「これで全員か」
 リゾット、ギアッチョ、メローネ、ソルベとジェラートの記憶はすでに日本で読んでいる。食事と酒と気楽な会話で警戒をわずかでも解かせることに成功し、暗殺チーム全員を本にした達成感に露伴は微笑んだ。
「僕への攻撃は出来ないと書けただけでも充分だ」
 彼らの凶悪なスタンド能力を体験してみたくはあるが、九人全員を相手にするなど馬鹿げている。それなりにもてなしてくれた彼らにも失礼だろう。露伴は空になったワイングラスを置いて、今起きたことを忘れさせると共に、そのまま酔い潰れてしまうようスタンドで書き込んだ。
「さて、そろそろ寝るか」
 ナポリの美しい夜景も、厳つい男たちの顔も見飽きた。散々な昨日と慌ただしい今日とで体はまだ疲れている。あくびをしながら階下へ繋がる螺旋階段を降りていくと、まるで待ち構えていたかのようにリゾットが廊下の奥から姿を見せた。
「食事は終えたか?」
「ああ。みんな酔い潰れて上で寝てる。僕も疲れたから今日は休ませてもらうよ」
 そう言って露伴は夢主から教えてもらった部屋のドアを押し開く。なぜか窓は塞がれているが主寝室らしく広くゆったりとした作りだ。彼女の私物は極端なまでに少なく、ベッドシーツも真っ白でまるでホテルの客室のように整えられていた。
「彼女は相変わらずバッグ一つで生活してるのか?」
「“キシベ”の名が入った物ならそこにある。彼女の物持ちのよさには感心するところだ」
「ふぅん。しかし一人で寝るには無駄にデカいな。寝相でも悪いのか」
 一時、ソファーで寝させていたこともあったが、無理をさせたのかもしれないと今になってふと思う。が、すぐに背後のリゾットから訂正が加えられた。
「いや、そんなことはないだろう。時々、あの方が泊まっていかれる。そのためのサイズだ」
「あの方?」
「聞かされていないのか? DIO様だ。彼女の恋人で今現在とても懇意にされている。誰であろうと……たとえ恩人だろうと間に入る余地はないぞ」
「DIO?」
 どこかで聞いたことのある名だ──、露伴は眉を寄せてしばらく考え込む。思い起こしたのはその昔、承太郎が倒したという宿敵の存在だ。日本で彼女の記憶を読んだ際、吉良の幽霊騒ぎでそれどころではなかったが確かに書いてあった。彼女が生かして逃し、ナポリで再び出会って恋に落ちたと。
「あいつの頭の中はどうなってるんだ? 恋人と過ごす寝室にこの僕を押し込んだのか?」
「そう言うことだ。元とはいえ恋仲だった者には辛いだろう。リビングのソファーなら自由に使っていいぞ」 
 また翻訳がうまく機能していないようだ。一体、彼らは何をもってそう思うのか? 露伴は主寝室のドアを閉めながら、いい加減訂正するべきだとリゾットを振り返る。
「あのなぁ、言っておくが……」
「ところで」
 露伴の言葉を遮ってリゾットのやや大きな声が廊下に響き渡る。
「俺のチームにはワインで潰れるような奴はいない」
 スッと細められる黒目が何より不気味だ。
「あいつらに何をした? 答えないのであれば、」
 失言に気付いた露伴が半身を引くと、その分だけリゾットの腕が伸びてきた。堪らず、
「ヘブンズ・ドアーッ!」
 と露伴が叫べば、瞬時に相手も反応する。
「メタリカッ!」
 2人の声と共にそれぞれのスタンドがその場に飛び出すと、リゾットは本に、露伴は腕から生えてきたいくつかのカミソリによって血を流した。
「くそッ、前に読んだ時、攻撃できないと書いておけばよかった! ……だが、知っているだけでも正解だったな」
 リゾットの能力を理解しているのと知らないのとでは対処に違いが出る。喉からカミソリを吐き出す惨事にならなかったのは、単に運が良かったのか、もしくは夢主の知り合いを殺すわけにはいかないと手加減してくれたのだろう。
「まあいいさ、これで暗殺チームリーダーの過去をもう一度読むことができる!」
 怪我したことも忘れて露伴は興奮そのままに身を乗り出す。
「相変わらず仕事の成功率は100%か。そりゃすごい。……ん? 何だこいつら本当に僕を彼女の元恋人だと思い込んでいるのか? 誤解の元は……メローネからのメール? 確かに運転中でも携帯をいじり倒してたな。DIOとかいう吸血鬼がアメリカから帰国する前に僕を帰らせたいみたいだが、そこまで気にするほどの事か? というか、マジで吸血鬼なのか! ……気にならないと言えば嘘だが……いや、今は彼の仕事内容の方が先だ」
 本の奥からドロリと滲み出てくるような、実に血生臭い暗殺方法に目を走らせる。少年誌に載せるネタとしてはこちらも過激すぎて無理だが、彼の生い立ちから今に至るまでの心理や思考は漫画作りの参考になる箇所がいくつもあった。
「ふぅん、さすがにこの道で知られるだけの男だな。感心するよ」
 主人公の敵役としてはもちろん、共闘させてもいいし、ラスボスから離反させて戦わせてみるのも面白そうだ。
 そうして露伴が床に倒れこんだリゾットの記憶を熱心に読み進めていると、不意に玄関先が騒がしくなった。
「あー腹へったー! それに寝過ぎて頭痛いよ。おーい、夢主? 薬どこだっけ?」
「テメーで探せや。俺は先に飲んでるぜ」
 別の部屋で休んでいたメローネとギアッチョが戻ってきたらしい。露伴は舌打ちしつつ、この状況を見られるわけにはいかないとすぐ側にあったドアノブをひねって中に飛び込んだ。
「あれ? リーダー? 廊下の真ん中で突っ立って何してんの?」
 メローネに話しかけられてリゾットは瞬きをした。
「……? 話をしていた……はずだが?」
 ぼんやりする頭を押さえてリゾットは目の前のドアを見つめる。つい先程まで露伴と会話をしていたように思うが記憶違いだろうか。
「あ漫画家先生の寝るとこ、ここになったんだ? いいよなー広くて。きっといい匂いもするんだろうなぁ」
 メローネの声をドアを挟んだところで聞きながら、露伴は目の前に構える大きなベッドに目をやった。再び舞い戻ることになった主寝室は静かで清潔そのものだ。
「寝具に罪はない、だろ?」
 自分に言い聞かせるように呟き、露伴は靴を脱いでベッドに腰掛ける。腕に負った傷は浅かったので服で適当に拭い、あとは自然治癒力に任せることにした。
「それより次は“吸血鬼”だ! 暗殺チームってだけでもワクワクしたが……こいつはヤバいぞ! 承太郎さんとの戦いも読めるかもしれない! こっちが知りたくてもあの人は喋ってくれないだろうからな」
 今なら夢主がいるし、押し切れば紹介だってしてくれるかもしれない。何しろ自分は恩人で好奇心で動く漫画家だと知っているのだから。
(彼女が隠したがる気持ちも分かる。ジョースター家にとっては災いそのものだろう。だが僕にはそういった因縁は関係ないし、最高のネタとしてこいつには絶対に会いたい! 上手くいけば話くらいは聞けるかもな。駄目でもスタンドを使えばいい。バレたってさっさと帰国すれば問題にはならないぞ)
「ああ! 実に楽しみだ!」
 露伴は興奮気味に叫んでベッドに勢いよく横になる。会えた時に何を質問するべきか、それを考えているうちにいつしか眠りに落ちていた。



 深い眠りの後でふと目が覚めた露伴は、一瞬、どこにいるか分からなくなるほどの暗がりの中で身を起こした。うっすらと輝くサイドテーブルの時計が朝の八時を示していなければ、もう一度ベッドに突っ伏しただろう。
「ああ、思い出した。ここは彼女の部屋か」
 吸血鬼と暮らす、という意味を今まさに体験していると思えば悪くはない。
「やはり太陽が弱点なのか? 暗闇の方が落ち着くのならここは最高の環境だな」
 手探りでドアを見つけて外に出てみれば、驚いた顔のメローネの姿があった。
「ボンジョルノ! 今起こそうと思ったところさ。こっちに朝食用意してあるから来なよ」
 派手な服装とえげつないスタンド能力からは想像できないほど気さくな青年だ。露伴はリビングに向かう前に部屋を振り返ってみた。昨夜はそれほど気にならなかったが窓は厳重に塞がれ、どっしりと重たいカーテンが外界を遮っている。世界はすでに朝を迎えているというのにそこだけが夜を残していて異質で奇妙な空間だった。
「さっきソルベたちが帰ってきたよ。先生の貴重品見つけたってさ。よかったね」
「おお、昨日の今日で返ってくるとは流石だな」
 リビングに向かうとそこにはすでに仲間たちが揃って朝食の最中だったようだ。それぞれから朝の挨拶を受け、露伴も流暢なイタリア語で返事をする。
「アンタの顔写真付きのパスポートと財布、携帯、それから未使用のキャッシュカード。こいつで間違いないか確認してくれ」
 そう言ってジェラートはテーブルの上に品物を並べる。確かに盗まれた露伴の私物そのものだ。
「悪いが、財布の中の現金はもう使われた後だった」
「そいつはまぁ仕方ない。油断してた僕も悪かったし。最悪、一つも見つからないことを考えていたからな。まさか全部手元に戻るとは思わなかった。助かったよ、本当にありがとう」
 素直に感謝する露伴に、ソルベとジェラートは何てことないと言うように手をヒラヒラと振る。
「ただいま〜」
 と、そこへ昨夜から姿を見せなかった夢主が帰ってきた。
「あっ、貴重品全部見つかったんだ? 良かったね」
「彼らのおかげさ。君にももちろん感謝している」
「いいよ、そんなの。杜王町での生活を考えたら、こっちがまだ感謝したりないくらいなのに」
 申し訳なさそうに笑う夢主の背後からリゾットが姿を見せる。彼の手にあるのは淹れ立てのカプチーノだ。
「朝食はどうする?」
「ご飯はお昼と一緒で……私、少し寝てくるね」
 そう言ってあくびを放ちながらあの暗い私室へ入っていった。
「今から寝るのか? 彼女は一体何をしに外へ出かけたんだ?」
「あー……DIO様のお迎えに張り切ってるみたいで……執事のテレンスさんと料理の特訓をしてるんだ。内緒だよ」
 露伴の質問に、同じく淹れ立てのカプチーノを人数分トレーに載せて運んできたペッシがこっそりと教えてくれる。
「料理? 真夜中にか?」
「夜通しじゃあないと思うけど……残りの時間はDIO様と電話してるはずだよ。毎晩、掛かってきてたし」
 気まずそうな表情をするペッシに、露伴はたしかチーム全員が妙な勘違いをしていたことを思い出す。
「フーン、仲がいいんだな」
「そりゃまぁ、その……」
「君から見てもDIOサマってのはいい男か?」
 無言で何度も首を縦に振るペッシに露伴はしばし考える。この暗殺チームをまとめているのはそのDIOという男だ。パッショーネの頂点に立つボスの父親でもあるという。その若きボスにも会ってみたいがそれは彼らが許さないだろう。今回そちらは諦めるとしても……
「へぇ、そんなにか? 彼女には世話になったし、一度くらい僕も会ってみたいな」
 露伴の発言にリゾットは眉を寄せ、カプチーノを飲んでいた仲間たちの何人かが大きく咳き込んだ。
「おい、本気か?! いや、正気か?」
「止めとけ馬鹿! 最悪、殺されても知らねーからな」
「お前、絶対に自分からトラブルに突っ込んでいくタイプだろ!」
 ホルマジオにイルーゾォ、ギアッチョまでもが呆れかえった声を投げかけてくる。
「うっわ度胸あるねー。俺なら絶対止めるけどな」
「相手を知らねぇから言えるんだろ」
「会って後悔してからじゃ遅いと思うけど」
「せっかく取り戻した貴重品が無駄になりそうだな」
 メローネにプロシュート、ソルベとジェラートまで気乗りしないようだ。だが、そう言われれば言われるほど露伴はますます気になって仕方なかった。
(あの時を止められる承太郎さんと互角に戦って、こいつらをまとめる吸血鬼……気になる! 気にならないハズがないッ)
「パスポートは手元に戻っただろう。観光したければローマにでも行くといい」
 リゾットの静かな忠告にそれまで騒いでいた仲間たちの声がぴたりと止む。
「いや、それはまた今度だ。せっかくナポリにいるのに楽しまないなんて損だろう? 何より僕は君たちにまだお礼をしてないんでね」
 今すぐ帰れと言わんばかりの相手に露伴は無事戻ってきたクレジットカードをひらりと揺らす。今やチーム全員に“攻撃は出来ない”と書き込んでいるので強気のままいくことにした。
「山を二つ三つ買うより安いもんさ。日本の漫画家がどれほど儲けているか、教えるにはいい機会だ。僕にお礼を返させてくれないか? 後悔はさせないつもりだ」
 フフンと鼻を鳴らす露伴にリゾット以外のメンバーは目を輝かす。はぁ、と短いため息が流れたことによってナポリ観光は決定事項となってしまった。


「……それで、この荷物?」
 夕方近くになって寝室から出てきた夢主は、リビングにあふれる様々な品物を見回した。ブランドロゴの入った紙袋はあちこちで乱雑に倒れているし、ごちゃごちゃと寄せ集められた男性化粧品や香水はテーブルの上から今にも落ちそうになっている。朝には確かに無かったはずのトレーニングマシンが鎮座するのを見て、頭を抱えそうになってしまった。
「すまない。止めたんだが……」
 至極申し訳なさそうなリゾットだが、最新のトレーニングマシンを自宅で使える、という欲望に負けたのは彼だ。
「しょうがねぇーよなぁ〜、どぉーしてもお礼がしたいって言うんだぜ?」
 半年分はありそうなワインとビールが詰められた棚の前でホルマジオはにこにこ顔だ。
「ジム代もバカにならねーし。堅気がいるとどうしても集中できねーし。丁度いいじゃあねーか」
 そう言って嬉しそうにマシンの説明書を読んでいるのはギアッチョだ。
「いやー、俺も止めたんだけどさー。こんなにたくさんお礼されちゃあ、文句も言えないっていうか……」
 いかがわしい雑誌を最新のゲーム機とパソコンの上に載せつつ、メローネは爽やかに笑いかける。
「漫画家が儲かるってのはマジなんだな。甘く見てたぜ」
「俺も破産させるつもりで言ったんだが、顔色一つ変えなかったぞ、あいつ」
 イルーゾォとプロシュートは散乱する服や革靴の中から振り返って言う。ソルベとジェラートはここに入りきらない品物を片付けに行き、ペッシは特製の釣り竿に夢中になって早くも夜釣りをしに行っているらしい。
「いつも無理させてたならごめんなさい」
 組織とDIOから充分な見返りをもらっていると思ったが、この喜びようを見るに違ったのだろうか。いつの間にか再び節約生活を強いるほどだったかと、夢主が心配すればリゾットは慌てたように訂正した。
「待て、違う。金なら前に比べれば過剰なほどある。ただ……」
 これまでの貧苦な生活から抜けきれていないだけだ。追いやられ、押し込められ、首輪をつけられていた頃からは想像も出来ないほど豊かになった。だが、その分だけ慎重にもなる。組織の中には未だ恨みを抱いている者もいるので、あまり派手に動き回ると目をつけられてしまうからだ。
 ……とはいえ、リゾット自身もこれほど物欲があったことを改めて自覚することになった。他人の、しかもどこの裏組織にも属さない印税という綺麗な金はあまりに魅力的すぎた。
「別に構わないだろう? 僕がしたいからやっただけの事だ」
 露伴は露伴で、あちこちの書店から珍しい図鑑やイタリアの美術書を大量に購入したようだ。山積みの本の間から顔を出しはにっこりと笑いかけてくる。
「ああ、君にも贈り物はある。仲間外れにするわけにはいかないからな」
 そう言って大きな紙袋を見せてきた。夢主が恐る恐る中を覗き込むと……なんと大量の漫画本だ。しかもすべてピンクダークの少年の単行本だった。
「これって!?」
「あるところにはあるんだな。日本語、イタリア語、ついでにフランス語に訳されているカラー本もすべて買ってきた。僕のサインもしてある。最新刊も読みたいだろうと思ってすでに日本から発送してあるぞ」
「ええ!? うそっ! ありがとう、露伴!」
 思いがけないサプライズに笑顔になってしまう。飛び上がって喜ぶ夢主を見て露伴も嬉しそうに笑った。
「(原作者として読者に)そうやって目の前で喜んでもらえるのが一番だな。君(と康一くんのようなファン)に出会えたことは、僕の(漫画家)人生にとって何よりも代えがたい最高の出来事だよ」
 いくつかの言葉を省いた露伴の台詞に、夢主以外の声が静かになった。
「ねぇ、今すぐ読んでもいい?」
「もちろん構わないが……その代わりあとで君の恋人に会わせてくれないか? DIOという男に」
 突然すぎる申し出に夢主は漫画を抱いたまま息を呑む。いつかは知られることだし、ヘブンズ・ドアーを持つ露伴の前で取り繕うにも限界はある。
「DIOに会いたいの?」
「ああ。彼らから聞いたところによると、とても変わった性質の持ち主らしいな。心配しなくても僕はただ知りたいだけさ。誰かに言いふらしたり、秘密を暴露する訳じゃあない。君もそこは分かっているだろう?」
 露伴は自身が描いた漫画の表紙をトントンと叩いて、ただ純粋に好奇心を満たしたいのだと示す。
「……」
 この様子だと、すでに暗殺チームの何人かは本にしているのだろうか。いや間違いなく読んで知っているのだろう。夢主は無言でしばらく悩んだが、露伴の表現者としての真剣な姿勢だけは信頼できると思っていた。
「ダメって言っても無理みたいだし……いいけど……何が起こっても責任取れないよ。血を吸われるくらいは覚悟してもらわないと」
「ほう! 吸血鬼への献血か、ゾッとするな!」
 その場の全員が引きつった顔をする中、露伴だけがワクワクした様子で楽しんでいる。
「それで、いつごろ会える?」
「今夜、アメリカから帰ってくる予定だけど……」
「いいタイミングだ! さっそく会おう!」
 こうなる事をすでに予想していたのだろう。いつの間に買ったのか新品のカメラとスケッチブックを手に、早くも準備万端といった姿だ。驚き呆れる夢主だったが、初めて会った時から変わらない露伴らしさに思わず吹き出してしまった。


「──これはこれは、珍しいお客様ですね」
 やけに丁寧な挨拶の後、テレンスと名乗る執事に露伴は出迎えられた。チームと暮らす豪勢なアパートから坂を上って数十分、ナポリの街中とは打って変わった静かで緑あふれる住宅街の一角にその屋敷はあった。広い玄関ホールの先にあるのは、名だたる絵画と磨かれた西洋甲冑、アンティークの美しい花瓶にはみっしりと美しい花が詰められている。
「ふうん、DIOという男はイギリス生まれか」
「知ってたの?」
「それくらい本にしなくても分かる」
 それなりの貴族階級にいたことも何となく分かった。八十歳を迎えるジョセフとの因縁を考えれば、今から百年以上前の時代で生きていた人物なのだろう。
「急な訪問ですまない。ここの主人に話を聞きたくて会いに来たんだ」
「DIO様にお会いになりたい? それはまた奇特で命知らずな……いえ、何でも」
 あからさまに面倒そうな表情をした後で短く咳払いをして誤魔化された。
「ごめんなさい、テレンスさん。短い間だけだから」
「久しぶりに会うのを今か今かと楽しみにされていた夢主様がそれで良いのであれば……私に異存はございません」
 咎めるような視線を向けられても露伴は引き下がる気はない。
「話が済めば邪魔者はすぐに消えるさ」
「それなら、どうぞこちらでお待ちを」
 通された客間で露伴は遠慮なくソファーに腰掛ける。すぐにカメラを取り出して薄暗い室内にフラッシュを焚いた。
「意外と普通だな。もっとこう……」
「血まみれの美女でも転がってると思った? それは昔の話だよ」
 過去にはあったのか、と露伴は笑う夢主を見つめて思う。
「あれは酷かったですね。処分するのは簡単でも、汚れた廊下を掃除するのは一苦労でした」
 カーテンを開き、月明かりを取り込む執事までもが彼女の話に乗って二人でくすくす笑い合っている。
「オイオイ、僕をからかうのは止めてくれ。リアリティってものがあるだろ。人はそんな簡単にバラせない。庭に埋めたって臭いとかですぐに分かるんだぜ」
 露伴のもっともな意見に夢主とテレンスはしばし目を合わせた後で冗談だと訂正する。すべてを亜空間へ消し去るスタンド使いがいたなど、知るよしもない露伴は彼らのその曖昧な顔つきにフンと鼻を鳴らして再びカメラを構えた。
「屋敷内を見学しても?」
「それは許可できません。カメラの使用もこの部屋だけに限ります」
「仕方ない……無理を言ってるのはこちらだからな。従うよ」
「それはどうも。お暇ならゲームでも用意しましょうか?」
「ゲーム?」
 吸血鬼に臣従する相手とのゲームとは一体何なのか。気にはなるが賭け事に夢中になるとろくな事にならないのはこれまでの経験が物語っている。それに、今そんなことに関わっている場合ではないだろう。
「今は遠慮しておこう。僕はここで大人しく待つから仕事に戻ってくれ」
「おや……それは残念。では夢主様、私はキッチンで最後の仕込みをしておりますので何かあればお呼び下さい」
 そう言ってテレンスは去って行く。何とも不思議な執事だが、これで露伴は自由に動けるといっていい。
「さて、邪魔も入らない今のうちに色々撮っておくか」
 許可された室内をあちこち動き回ってカメラに収めていく。広く大きなソファーに冬には火を灯すだろう暖炉、誰かと語り合いながら作っていたらしい未完成のボトルシップ、それらを撮り溜める露伴を夢主はのんびりと見守った。
「ん? 車が入ってきたぞ」
 ナポリ市内を見下ろす大きな窓から夜景を撮っていた手を止め、敷地内のロータリーでエンジンを切った一台の黒塗りの乗用車を見る。これに乗っているのかと露伴が振り返って夢主に聞くより先に、彼女の姿はそこになかった。
「お帰りなさい」
 弾んだ声が響く玄関ホールに露伴が慌てて足を向けると、そこにはロックスター顔負けの派手な服を着た大柄な男が夢主を腕に抱く姿があった。
「アメリカはどうだった? みんな元気?」
「ああ、変わりない」
 たったそれだけの会話なのにどちらも甘い成分を含んでいるようだ。にこにこと嬉しそうな表情の彼女を微笑みながら見つめる男──DIOとかいう吸血鬼は、露伴の想像よりも随分と人間的で穏やかそうな印象だった。
「リゾットから報告を受けたぞ。なんでもこの私を訪ねてきた客人がいるとか」
 こちらに顔を向けるやいなや、それまでの美しい笑みはかき消えて、屑肉でも値踏みするような冷たい視線が露伴に突き立てられた。
(ああ、やはりそうでなくては)
 あの承太郎を追い詰められるのは、これくらい冷酷で傲慢でなければならない。それでこそ吸血鬼だし、人外となった者のあり方だろう。露伴が一人興奮気味に納得している前で、夢主は笑顔で紹介する。
「杜王町でお世話になった漫画家の岸辺露伴先生だよ。DIOも知ってるでしょう? ピンクダークの少年を描いてるの」
「お前の好きなあの本か……。詳しいことはすでに聞いている。何でもスタンド能力のある鞄を所有しているとか」
「亡き祖母の形見さ。修理してからその能力は無くなったよ。残念なことをしたと今でも思う」
 露伴はカメラを手にしたまま二人に近づき、肩を竦めながらそう告げる。
「ほう、それは確かに残念だ。今その鞄はどこに?」
「僕が持っている。客間にあるから中身を出してよければ見てもらって構わない」
「ではそうしよう。この先生にしばらくスタンド講義をしてもらおうではないか」
 DIOがちらりと廊下の奥にいるテレンスに目をやれば、
「夢主様、この後の夕食会はどうやら一席増えそうな予感がいたします。少々、手伝っていただけますか?」
「えっ、でも……いいの?」
「構わん。話をするだけだろう?」
「ああ、ぜひお願いしたい」
 不安そうにDIOと露伴を交互に見るが、二人からそう言われれば仕方がない。意外と気があうのかも? と思いつつ、導くテレンスに従って夢主はキッチンへ向かうことにした。
 彼らの足音が遠ざかりドアを閉める音が消えたところで、露伴はそっと息を吐いた。目の前に見えるのは黒い羽飾りが付いたジャケットにラメ入りのインナー、先の尖った鰐皮の靴、DIOという自身の名を入れた装飾品はきらりと輝き、夢主がいつも身に付けている金の腕輪の片割れがそれらと擦れて高い音を立てた。
「貴様が岸辺露伴か……。あいつが世話になったようだ。感謝する」
 言葉とは裏腹な低い声に、微塵もそんな気持ちはないという本音が見てとれた。
「それで? 私のこれまでの人生を知りたいと聞いたが」
「取材を……申し込みたい。もちろん答えられる範囲で構わない」
 得体の知れない禍々しさが目の前で渦を巻いているようだ。それらを振り切るように露伴が声を絞り出すと、DIOはフッと可笑しそうに笑った。
「それだけの能力がありながら随分と謙虚ではないか。遠慮はいらない。私にそれを見せてみろ」
 DIOの背後にスタンドが出現するの見て、露伴もなりふり構わずヘブンズ・ドアーを飛び出させた。余裕で待ち構える相手の秀麗な顔にすぐさま亀裂が入り、パラパラとページ音を立てて本へと変貌する。
「!」
 露伴がやった! と思った次の瞬間には元の顔に戻っていた。
「近距離型にしては少々パワー不足だ。スピードはなかなかのものだな」
「ヘブンズ・ドアーッ! 奴を本にしろ!」
 再びDIOの顔がバサッと本へと変わる。能力は間違いなく有効で、相手が吸血鬼でもそこに変わりはないようだ。ただ、そこへ書き込むはずのヘブンズ・ドアーの指先が後一歩のところでどうしても届かない。
「本になるというのは奇妙な感覚だな」
 薄く笑うDIOの背後からスタンドが繰り出された瞬間、抵抗する間もなく少年の姿をしたヘブンズ・ドアーの両手が掴み上げられた。
「これは!? スタープラチナと同じ! 時間を止めているのか!」
「まったく……どうしてこうも鬱陶しい羽虫が寄ってくるのか」
 実に面倒そうに、露伴の目の前へとスタンドを押し戻す。
「このままへし折られるか、両腕とも切断するか、どちらか選ばせてやろう」
 先ほどから止まらない冷や汗がその言葉でさらに露伴の背中を濡らしていく。冗談で言っているのではなく本気だ。正気のまま狂ったことをしようとする相手に、露伴はこの場から夢主を遠ざけた理由をようやく知った。いや、一目見た瞬間から分かってはいたが……、こいつは飛び切りにヤバい相手だと、今この時になって深く理解した。
「よせ、待ってくれ!」
 とても人間業とは思えない凄まじい力が手首に加わって、骨がミシミシと音を立てている。さすがに顔を青くさせた露伴が叫んでみるが助けは望めない状況だ。
「──とはいえ……お前は彼女の恩人で、続きを楽しみにしている漫画の原作者だ……命拾いしたな」
 不意にあっさりと解放され、露伴は無傷で自身の手首を取り戻す。
「だが、私に攻撃した報いは受けてもらうぞ」
「!?」
 痺れて痛む腕を庇いつつ露伴は数歩下がったところでDIOを睨みつける。暗がりの中で目を細め、悪魔のような笑みを湛える相手に露伴は吐き気すら覚えた。
「なに、簡単なことだ。その能力を使って欲しい人間がいる」
 ゆっくりと伸びてきた手に露伴は堪らず叫び出していた。



 昼間に比べて深夜の空港ターミナルはとても静かだ。家族が待つ市内へ戻る者、これからビジネスで搭乗する者、子供の姿はなく大人だけが足早に歩いている。そんな中を露伴もグッチのバッグと共にチェックインカウンターを目指していた。
「君らが僕を止めようとした理由が分かったよ」
 駐車場からここまで斜め後ろをぴたりと着いてくるリゾットを振り返り、露伴は少しやつれた表情でそう言った。
「これを見てくれ」
 服の袖を捲ると、そこには大きな手で掴まれた痕がくっきりと残っている。
「マジで切り落とされると思った。相当焦ったし、実際ギリギリだったな」
「忠告はしたぞ」
「だがあれ程とは言ってないだろ? 彼女は自分がどれだけヤバいのに引っ掛かってるか、分かってないんじゃあないか?」
「分かっていたとしてもすでに遅い。それよりただの友人だと、なぜすぐに明らかにしなかった?」
 メローネから『わぁーお! 車の中で抱き合ってる! 元彼だ! 修羅場だ!』とやけに楽しそうなメールを受け取った側としてはそこだけが納得いかない。
「最初は聞き間違いだと思ったんだ。あとから本気でそう思ってるって知ったが、訂正する暇がなかったんでね」
 君らに攻撃できないと書き込むついでに過去を読むのに忙しかった、と本当のことは言えず露伴は言葉を濁す。
「……まあいい、日本行きのチケットだ」
 無造作にリゾットから手渡された航空券を受け取り、一時は無くして戻ってきたパスポートに挟み込んだ。
「グラッツェ、ファーストクラスとは気前がいいな」
「“恩人”をさっさと帰らせろとのご命令だ。一番早い便の中でキャンセル席がそこだけだったというのもある」
 それから、と赤い液体の入った小瓶をリゾットは露伴の目の前に掲げて見せた。
「?」
「これはお前の血だ。これを元にどこに居ようと猟犬のように追い詰めて始末する事ができる。口は災いの元だと知れ」
 メローネが持つ自動遠距離型のスタンドを使うのだろう。読んで能力を知っている露伴はそう思うと共に、あることにも気が付いた。
「じゃあ、あの時の攻撃はわざとか! 僕の血を採取するための! さすがだな、抜け目がない!」
 目を輝かせて褒める露伴にリゾットは眉を顰める。殺すと脅しているのにそれが通じない相手はこれほど厄介とは知らなかった。
「あのなぁ、この僕が君たちのことをペラペラ喋るとでも? 心外だな! でもそいつで君らが安心できるならそれでいいさ。そんなことより僕は一刻も早く帰りたい。思いついた話を今すぐ原稿用紙に描きたくて仕方がないからな」
 チャオ! と気安い別れの挨拶をして露伴は振り返ることなく去って行く。搭乗手続きと荷物検査を終えると離陸準備をする機内へ入り、案内された席に着いた。
 あれほど撮り溜めたカメラは現像されることなくどこかに消えたので、露伴の記憶でしかもはや彼らを思い出せない。
「今回のイタリア旅行も色々あったな。楽しかったのは間違いないが……このネタを漫画に活かすにはあまりに荒唐無稽すぎるか?」
 空港内で適当に買った鉛筆とノートに、まだ記憶に残っている人物や室内の絵を写真代わりに描きながらそんなことを思う。
「編集者はどんな文句を言うかな」
 ニヤニヤ笑いながら鉛筆を走らせる露伴だったが、ふと真顔になって彼女を思う。
(それと……、悪いな。本当にすまない)
 満たされた好奇心の中にじわりと罪悪感が滲み出る。しかし筆が進み、飛行機が離陸する頃には何もかも忘れて作業に没頭する露伴だった。




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