八年越しの恋


 春休みを迎えた空港内は海外旅行に浮き立つ人々の楽しそうな声を響かせている。スーツ姿の花京院はそんなロビーに背を向けると、早々に搭乗手続きを済ませ、アメリカへ向かう旅客機のゲートをくぐり抜けた。
「毎回、嫌になるな」
 そうぽつりと呟いた後、自嘲の笑みを浮かべる。実は飛行機があまり好きではない。十七歳の時、共に危険な旅をしたジョセフ・ジョースターが二度も飛行機を墜落させた……からではなく、ここは彼にとって常に別れを意味する場所だからだ。大好きな人の後ろ姿や見送る笑顔をこれまで何度見てきた事だろう。
「向こうはまだ夜か……」
 荷物を頭上の収納棚に押し込み、指定席に腰を下ろした花京院は小さな窓から青空の先を思う。ニューヨーク郊外に暮らすジョセフの邸宅はまだ明かりを落としていないはずだ。食事を終えた彼らはいつものリビングで人気のドラマやバラエティを見ている頃だろうか。きっと彼女もジョースター夫妻と共にテレビ番組を楽しんでいるに違いない。
 花京院は仕事の予定が書かれた手帳を懐から取り出し、最初のページをそっと開いてみた。そこには承太郎の母・ホリィを救うため、DIOの居るエジプトへ向かった七人の集合写真が挟まっている。承太郎、ジョセフ、ポルナレフ、アヴドゥルとその腕の中にイギー、それから花京院と夢主だ。
(……あれからもう八年)
 まだ十七歳の高校生だった自分は、同じスタンド使いの夢主と知り合った事で人生が一変した。空条家の座敷で肉の芽を抜かれた直後、血が滲む額に包帯を巻いてくれたのが彼女で、それが出会いであり全ての始まりだった。
「大丈夫? 頭痛がするなら言ってね。ジョセフさんにお薬もらってくるから」
 そう言って気を落ち着かせるための緑茶を差し出してくれた。花京院は承太郎の侠気と共に、その時感じた夢主の手の温もりが忘れられないでいる。
「あなたもスタンド使いですか?」
「そうだよ。花京院くんと違って成り立てだけど」
 後から聞いた話だが別世界からやって来たという彼女は、イギーを捕らえようとするアヴドゥルの前にパジャマ姿でふらりと現れたという。興奮するイギーに間違って攻撃された際、偶然にもスタンドが開花したらしい。どこにも行き場のない身を、それ以降はジョセフと財団側が預かる事になった。
 その後、ポルナレフとイギーを旅の仲間に加え、車で山岳や街中を走り、ラクダで砂漠を渡り、時に飛行機を墜落させ、沈む潜水艦から脱出しつつ、幾度も敵の攻撃を迎え撃った。カイロで待ち構えるDIOと戦い、奇跡的にも全員が生き残った訳だが……花京院にとってはむしろ、その後の方が大変だった。
 家族や学校への説明はSPW財団が代弁してくれたものの、学校の行きも帰りも女生徒たちに囲まれて質問攻めにあい、遅れた学業を承太郎と共に補習を受けて取り戻す日々が待っていた。
「あら、承太郎に花京院くん!」
 体中を覆うスタンドが消え、元気になったホリィは玄関先を掃いていた箒を振り回しながら向かってくる。
「お帰りなさい。パパとアヴドゥルさんならいつもの座敷にいるわ」
 頬にキスをしてくる母親を承太郎は仏頂面で迎えてから家の中に上がり込んでいく。花京院も苦笑しながらその後に続いた。
 隅々まで手入れされた庭を横目に承太郎と花京院は奥の座敷を目指す。広い縁側では日向ぼっこを楽しむイギーとその隣でお茶をすする夢主の姿があった。二人と目が会うと、持っていた湯飲みを置いて微笑みかけてくる。
「お帰りなさい。学校はどうだった?」
「どうもこうもねぇよ……補習ばかりで嫌になるぜ」
「今日も僕たちだけ居残りですよ」
 そんな愚痴を聞いて夢主はくすっと笑う。イギーは大きなあくびを放った。
「なんじゃ、二人とも。帰ってくるのが遅いと思えば居残りか!」
「いいじゃないですか。平和な事ですよ」
 畳の上であぐらをかいたジョセフとアヴドゥルは、夢主と同じく茶を飲んでいる。広い座卓の上にはポルナレフからの手紙と彼が映り込んだ写真が置かれてあった。
「ポルナレフは元気そうだな」
 承太郎は座敷に上がり込んでその写真を手にする。パリの美しい街並みを背に、両側へ女の子を並べた彼はご機嫌のようだ。
「休暇には遊びに来いってさ。ポルナレフが街を案内してくれるらしい」
 花京院は手紙を一通り読んで承太郎にそれを手渡した。
「そいつは楽しみだ」
 口の端で笑う親友に花京院もつられてしまう。そんな彼らが畳の上に座るのを見て、夢主はお茶の準備に取りかかった。
「はいどうぞ。ホリィさんが買ってきてくれたお茶菓子もあるよ」
「ありがとう」
 花京院は湯気の立つ湯飲みに穏やかな日常を実感する。
「全員が揃ったところで……実は今日、財団から連絡があっての、カイロのあの館は取り壊される事になった」
 不意にジョセフが放った言葉にその場の空気がわずかに張り詰める。承太郎はズズッと茶をすすりながら言葉の続きを待った。
「内部のあらゆる物はすでに財団本部に持ち帰っておる。これから色々と調べる事になるじゃろう。まぁ、それは研究員に任せるとして……我々は普段の生活に戻るだけじゃ」
 ジョセフの言葉にアヴドゥルが頷く。
「そうですね。私もハンハリーリで占い師の仕事を再開しようと思っています」
「うむ。わしらも早々にニューヨークに戻るつもりじゃ。スージーのご機嫌を直さねば、一生、Tボーンステーキが食べられなくなるわい」
 わしら、と聞いて花京院は縁側を振り返った。
「夢主とイギーの身は引き続きわしの家で預かる。そうじゃの?」
「はい。すみませんがお世話になります」
「なんの気にするな。部屋は余っておるし、スージーもお喋り仲間が帰ってきて喜ぶじゃろうよ。イギー、お前の好きなコーヒーガムもたくさん用意してやるぞ。近所には犬好きが多いしガールフレンドも選びたい放題じゃ」
「良かったね、イギー。ガールフレンドだって!」
 夢主はその頭を撫でてやる。うるせぇなぁ、というような目で睨まれたが、尻尾がぴろぴろと揺れているので満更でもないのだろう。
「そうですか……アメリカへ」
 ぽつりと呟く花京院を承太郎は帽子の鍔先から窺った。
「何だか寂しくなりますね」
 ポルナレフはすでにフランスへ帰国したし、アヴドゥルやジョセフ、夢主にイギーもこの国から去ってしまう。あれほど共にいたのに、急にバラバラになってしまうのが物寂しく感じた。
「そうじゃの……しかし、お前たちはそうも言っておられんだろう。楽しい大学受験が待ち構えておるぞ」
「ええ、まぁ……」
 花京院も承太郎もジョセフの言葉に曖昧な表情を浮かべる。補習を受ける今、あまり聞きたくない単語だ。さらに勉強漬けの日々がやってくるかと思うとウンザリする。
「ともあれ、わしらは今週末に日本を発つ。それまでは日本の観光に大忙しじゃ。なぁ、アヴドゥル!」
「ジョースターさん、また繁華街に行くつもりですか?」
「羽伸ばしじゃよ、少しくらい楽しんで何が悪い」
 むしろ開き直ったジョセフにアヴドゥルは苦笑するばかりだ。
「このクソジジイ……」
 呆れる承太郎と花京院の後ろで、夢主はイギーの背中を撫でながらくすくすと笑った。


 日本のお土産を詰め込んだキャリーケースを引きながら、夢主とアヴドゥルは人が行き交う空港ロビーに立っている。昨日、夜遅くまで酒を飲み、繁華街を渡り歩いてきたジョセフがトイレから戻ってくるのを待っているのだ。
「大丈夫かな、ジョセフさん」
「承太郎と花京院に任せておけば問題ないでしょう」
 そうして待っている二人の元に顔色が少しマシになったジョセフと、祖父の荷物を抱えた孫とその親友が戻ってきた。
「ウーム……吐き気はおさまったがまだ頭痛がするわい。夢主、これは治せんかのぉ?」
「怪我ならスタンドで治せますけど、頭痛はちょっと無理だと思いますよ」
「そうか仕方ない。薬を飲んでおこう」
 買ってきた水で錠剤を流し込み、ジョセフはふーっと息を吐いた。
「まったく、いい歳こいて二日酔いとはな」
 承太郎はジョセフの荷物を置き、やれやれと肩を竦めた。側にいる花京院も笑うしかない。
「夢主さん、これ機内でどうぞ」
「わぁ、ありがとう」
 花京院からいくつかの雑誌を受け取って夢主は礼を言った。ニューヨークに着くまで十二時間はかかる。これだけあればいい暇潰しになるだろう。
「何だ、私には無しか? 花京院」
 アヴドゥルに言われて花京院はあっ、と口を押さえた。
「すみません、買ってきます!」
 慌てて駆けていく彼にアヴドゥルとジョセフは小さく笑った。
「花京院のためにも本当なら日本に住まわせたいんじゃが……まぁ、こればっかりはのう」
「そうですなぁ。向こうで国籍を作ってしまいましたからね」
 イギーを入れたペットケージを覗く夢主から少し離れ、ジョセフとアヴドゥルは顔を見合わせてボソボソと喋った。承太郎は売店に向かった花京院を目で追って、何とも言えない表情を浮かべる。旅の間に育んだ淡い恋の結末はここで終わりを迎えそうだ。
「すみません、アヴドゥルさん。どうぞ」
 花京院は大量の雑誌を買い込んで彼に手渡す。アヴドゥルは笑ってそれらを受け取り、荷物の中に押し込んだ。
「さて、ではそろそろ行くか」
 腕時計を確認したジョセフが腰を上げると、アヴドゥルも夢主もそれぞれの荷物を手にする。
「承太郎、花京院、元気でな。学業に励めよ」
 アヴドゥルの言葉に学生たちは頷く。
「二人とも元気で。またね」
 次に会えるのは何時になるだろう。長く濃密な時間を過ごした彼らとの別れは感慨深く、気を緩めると夢主は泣き出してしまいそうだ。涙を堪えつつ、搭乗手続きを始めるジョセフに遅れないようペットケージと荷物を移動させようとすると、花京院に勢いよく腕を掴まれてしまった。
「あの……! 手紙を書いてもいいですか?」
「手紙?」
 目元にまだうっすらと傷跡を残す花京院を見上げて聞き返す。
「近況を報告したいと思って……同じスタンド使いだし、旅の仲間だし、それに……初めて出来た友人だから……駄目ですか?」
「もちろんいいけど、字が汚くても笑わない?」
「絶対に笑いません」
 断言する強い口調と共に真剣な顔で返されてしまった。夢主はじゃあ、とメモ帳を取り出すがジョースター邸の住所を記憶していない事に気付く。
「あ、ジョセフさん、ニューヨークの住所って……」
「ん? 何じゃ、住所がどうした?」
 手続きの手を止めてジョセフが振り返る。花京院は居ても立ってもいられず、夢主の手からメモを奪うとそこに勢いよく自宅の宛て名を書き込んだ。
「ここに送ってもらえれば必ず返事を書きますから」
「ありがとう、花京院くん。向こうで少し落ち着いたら近況を書いて送るね」
「はい……」
 ニヤニヤと笑うジョセフとアヴドゥルを視界に入れないよう、花京院は前髪で彼らを遮る。見下ろした先に笑顔を浮かべる夢主を見れば、落ち込みかけていた心が浮上するのが分かった。
「皆さん、お元気で」
 軽く手を振る花京院と無言で見つめてくる承太郎に見送られて、アヴドゥルは再びカイロへ、ジョセフと夢主とイギーはアメリカ行きの搭乗口に笑顔で消えていった。
「……」
「……承太郎、頼むから何も言わないでくれ」
 真っ赤な顔を隠そうとして隠しきれていない友人に、承太郎は何とか唇の端で笑うだけにとどめた。


 花京院と承太郎が学業に励む頃、海の向こうに渡った夢主もジョセフやスージーの手伝いをしながら財団でその力を使う事になった。彼女の相棒はイギーで彼のやる気を引き出すのが仕事よりも大変だと、時々手紙で愚痴っている。
「イギーを羨ましいと思う日が来るとはね」
 毎日を夢主と共にジョースター邸で暮らすあの犬が妬ましい。補習を終え、通常の授業を受ける最中でも、ふと彼らを思う。
「それほど羨ましいなら会いに行けよ。もうすぐ夏休みだ。いい機会だろ」
 昼休みにぺちゃくちゃとお喋りを繰り返す同級生を置いて、花京院と承太郎は人の輪から離れた静かな中庭で昼食を取っている。
「ああ……うん……夏期留学は考えているが……」
 英語を習いに行くのは建て前でただ彼女にひと目会いたいだけなのだ。しかしそれではあまりに動機が不純すぎて、心配をかけた親に申し訳なく思う。
「ホームステイ先を迷ってるのか? 一件だけ最高のヤツを知っているがどうする?」
「それは……いや、でも……」
 戦闘では素晴らしい判断力を見せる彼でも、恋愛ではそれが発揮できないようだ。
「ジジイに言えば隣の部屋を用意してくれると思うぜ」
「……承太郎」
 恨めしそうな顔で睨まれて承太郎は堪らず吹き出してしまう。大きく肩を揺らした後、笑いを口元に残しつつ花京院に尋ねた。
「会いたいのか、会いたくねぇのか、どっちだ?」
「そんなの! 会いたいに決まってるだろ!」
 今でも時々、あの頃の夢を見る。砂漠で毛布に身を包みながら夜空を眺めてみんなで談笑した事、焚き木の向こうでおどけるポルナレフを笑う夢主の笑顔、海水でずぶ濡れになった服を絞る彼女の細い腕やチラリと見えた肌など、とてもじゃないが忘れる事など出来ない。
「なら、迷う必要はねぇな。さっさと申し込んで荷造りに励んだ方がいいぞ。向こうで男を作られねぇうちに」
「……」
 再び恨めしそうに睨まれて承太郎は笑う口元を煙草で隠した。
「ジジイには俺から言っておくか?」
「君がそこまで言うのなら、頼もうかな」
 どこかムスッとした声に、承太郎はまた笑いがこぼれそうになって煙草のフィルターを強く噛みしめた。

 結局その夏は承太郎が勧めるホームステイ先で厄介になる事になった。将来のためならと親は心配しつつもアメリカに送り出してくれたし、花京院を空港で出迎える夢主を見れば、どうしても心が浮き立ってしまう。
「花京院くん、久しぶり! もしかして背が伸びた?」
「さぁ、どうかな……自分ではよく分からないけど」
 花京院はだらしなくにやけてしまう顔を片手で覆って答える。
「いつも二人して制服だったから私服姿がすごく新鮮だね」
「そうですか?」
「うん。荷物、半分持つね。向こうで運転手のロータスさんが待ってるから着いてきてくれる?」
「あ、はい。あのジョースターさんは?」
「奥さんのスージーさんとお仕事だって。夜までには戻るから安心して。今日は私とロータスさんが案内するから大丈夫だよ」
 ジョセフは気を利かせたつもりなのだろうか。花京院はちらりと思うが、もうどうやっても緩んでしまう頬を修正するのに必死でそんな事はすぐに頭から消え去ってしまった。
 一ヶ月半ほどお世話になるジョースター邸は実にすんなりと花京院を迎え入れてくれた。夢主の隣に割り当てられた部屋は家具付きで文句の付けようがないほど広くて快適だ。緑色の芝生が広がる庭ではイギーがのんびりと過ごしているし、初めて会うジョセフの奥さんも人当たりが良くて話しやすかった。
「あなたがカキョウイン? あらぁ、まぁまぁ! 夢主ちゃんも喜ぶわ。これからよろしくね」
 ムフフと意味深な含み笑いを向けられても花京院は咳払いをして誤魔化すしかない。
「じゃあ、まずはこの家のルールからね。ここでは日本語禁止。夕食はだいたい七時頃かしら。夜に出歩くのは感心しないから門限は九時までよ。その分、みんなでテレビや映画、ゲームを楽しみましょう。同じ語学学校の子でも家に招く時はロータスに一言お願いね。ええっと、後は何かしら」
 スージーは用意しておいたメモを老眼鏡の向こうから眺める。
「出かける時はボードに一言書いておく、じゃろ?」
「ええ、そうよジョセフ。今言おうとしてたの……まぁそんなところかしら。細かいところは夢主ちゃんに聞くといいわ。ニューヨーク生活を楽しんでね」
 花京院はジョセフとスージーに丁寧に礼を言い、それからその隣に立つ彼女に視線を移す。
「私も英語はまだそれほど上手じゃないけど、お互い頑張ろうね」
 そう言われて高揚していく自分を押さえるのに苦労した。
 後から振り返っても、生きてきた中で一番素晴らしい夏休みだったように思う。休日にはセントラルパークを散策したり、メトロポリタンで絵画を眺めたり、タイムズスクエアに行ってブロードウェイ・ミュージカルを四人で楽しんだり、平日は語学学校で授業を受け、様々な友人を作っては会話を繰り返していた。
「今日はどうだった?」
「授業の後、みんなでランチを食べに行きましたよ。これがすごい量で驚きました。それから図書室に行って……」
 キッチンに並んで皿洗いをしながら花京院は日々の出来事を語っていく。相づちを打つ夢主の横顔を眺めるのが最高に幸せで楽しかった。
 そうしてあっという間に夏が過ぎ、花京院はアメリカのお土産を詰め込んだキャリーケースを押して出迎えられた空港にやってきている。今度は見送られる側だ。
「花京院くん、元気でね。また手紙書くから!」
「いつでも遊びにいらっしゃい」
「承太郎にもよろしくのぉ」
 夢主とジョースター夫妻に笑顔で見送られて、花京院は再び日本に戻ってきた。
「どうした、浮かねぇ顔だな。会えて一緒に暮らせたんだろ?」
 アメリカ土産を受け取った承太郎は沈み込む花京院の頭を眺める。空条家の庭先ではホリィが底抜けに明るい歌を歌っているのが聞こえてきた。
「僕はまだまだ学生だって事がよく分かったよ……」
「? 告白したんじゃねぇのか?」
「まさか。彼女は僕より年上で、臨時とはいえSPW財団のアメリカ職員だ。高校生の僕が告白なんて出来るわけがない」
「……そうか」
 花京院の言いたいことは分かる。承太郎は長いため息を吐く彼に、
「諦めるか?」
 と聞いた。それまで俯き加減だった花京院は勢いよく顔を上げて、濁りも迷いもない目でこちらを見つめ返してきた。
「僕はアメリカの大学に進学する。向こうで学んで、就職先を決めるつもりだ」
 承太郎はニヤリと笑い、視線で花京院の話の続きを促した。
「それで……それから交際を申し込むよ」
「気の長ぇ話だな。それまでに男が出来たらどうするつもりだ?」
「それならそれで奪うまでだよ、承太郎」
 強い意志が花京院の目から窺える。彼はきっとその言葉通りにするだろう。進学も恋も諦めず、いつか必ず全てを手に入れるに違いない。
「お前らしいな……頑張れよ、花京院」
 承太郎からそんな言葉が返されるとは思っておらず、花京院は素直に驚いてしまう。そして急に照れくさくなって美しい日本庭園へ視線を移した。耳まで赤くなっている花京院を承太郎は静かに笑う。ホリィが歌う明るい恋の曲がまるで応援歌のように響いていた。


 高校を卒業すると同時にアメリカの大学へ入学を果たした花京院は、以前のホームステイ先ではなく寮生活を選んだ。優しいジョースター夫妻や夢主にどうしても甘えてしまうし、そもそも彼らの邸宅と大学には距離がある。大学寮で暮らしつつ英語や生活に慣れていき、相手がスタンド能力を持っていなくても色々と話し合える友人が出来るほどになった。
「いつでも会えるのに手紙を書く必要あるのか?」
 と同じ寮生に揶揄されても、これだけは止めるわけにはいかなかった。
「そうかな、結構いいものだよ。字に感情が出て、会話以上に相手のことがよく分かる」
 ロマンチストだなと笑われても花京院は否定できない。恐らく彼の言う通りだろう。夢主から届く手紙を未だにドキドキしながら読んでいる。毎回、改めて恋をするような気分だ。送られてくる手紙の枚数が増えると共に、想いを少しずつ積み重ねていくのが幸せだった。

「何じゃ、まだ告白しておらんのか!」
 卒業を控えた春先、昼飯をおごると言うジョセフに誘われて花京院は郊外にある落ち着いたレストランに来ている。進展のない彼らに周囲の方がやきもきしているようだ。
「よし、わしがちょいといい事を教えてやろう。よいか花京院。女性を口説くにはな、押しの加減が大事なんじゃ」
 参考になるのかならないのか、よく分からない経験談を聞きながら花京院は苦笑混じりでランチを平らげた。
「まぁ、安心せい。夢主に男の影はおらんよ。仕事一筋じゃ。年頃だというのに」
「そうですか」
 その言葉が嬉しくて顔がついにやけてしまう。
「休日くらいは学業も仕事も忘れて年相応のデートでもしたらどうじゃ。タイミング良くここにチケットが余っておるぞ、好青年よ」
 これを渡すために呼んだらしい。ジョセフはニヤッと笑って今話題のミュージカルのチケットをテーブルに置いた。
「いいんですか?」
「もちろんじゃとも。わしがボケる前に早くお前さんたちの結婚式を見せてくれ」
 ジョセフの言葉に花京院は笑って、ありがたくそのチケットを受け取ることにした。


 部屋の中には様々な模様の服が飛び交って大洪水のように色があふれている。ベッドからずり落ちる衣服を鏡越しに見た夢主は、今回も後片付けが大変だなぁと他人事のように思った。
「ううん……そうねぇ、こっちの柄物の方がいいんじゃないかしら。ああでもこのシンプルな白も捨てがたいわ」
 花京院と会う前日はいつもこんな感じだ。夢主は鏡の前に立って、スージーが選ぶ服を言われるがままに身に着けていく。
「雑誌を参考にして流行の服も買ってきたけれど、ちょっと派手かもしれないわねぇ。花京院はこういうの嫌いかしら?」
「うーん……もっと落ち着いた色の方が好きだと思いますよ、多分」
「そうよね。遊園地に行く訳じゃないし、大人のデートにはこっちの方がいいわね。じゃあ今回はこれにしましょ!」
 まるでスージーがデートをするような気合いの入れようだ。少女のように喜ぶ彼女から服を受け取ってハンガーに掛けると、選ばれなかった他の服たちをクローゼットに戻す作業に取りかかった。
 その後ろ姿をスージーは老眼鏡の奥から見つめて短い溜息を吐く。
「毎回思うのだけど、デートを喜ばないのはあなたが照れ屋さんだから? それとも義理やお情けで付き合っているの?」
「えっ!?」
 夢主は服を畳む手を止め、驚いた表情でスージーを振り返る。
「だって、あなた少しも嬉しそうじゃないわ。それなのにどうしてデートに行くの? 花京院はいい人そうに見えるけど、本当は女たらしなのかしら?」
「いえ、まさか! 花京院くんはとても真面目ですよ」
「じゃあなぜ?」
 スージーの鋭い目にたじろぎつつ、夢主は持っていた服に視線を落とす。それは前回、美術館へ誘われた時に着た服だった。
「確かに彼ってば、まるで子犬のようで遊び相手にはちょうどいいものね」
「スージーさん!」
 夢主はぎゅっと眉を寄せて、このお茶目で時に恐ろしい夫人を見つめ返す。彼女は笑ってすぐに発言を撤回した。
「うふっ、冗談よ、冗談! あなたの気持ちは分かってる。でもお互い好きなのに、どうして進展しないのか不思議なのよ」
 寄せた眉を今度は下げて、夢主は机の上に置いた花京院からの手紙の束を見つめた。彼が高校生だった頃から日付順に並ぶそれは定期的に届く報告書みたいなものだ。学校や家庭であったこと、承太郎との会話の内容、大学に入学してからは授業や寮での出来事を花京院は丁寧な筆跡で淡々と書き連ねていく。時々、写真も同封されて、そこに写る彼はこちらに笑顔を向けて立っていた。
「私も本当は嬉しいです。でも……花京院くんは若いし、私は年上だし……大学には気の合う可愛い子がたくさんいると思うから……」
「まぁ、まだ始まってもいないのに別れを気にするなんて愚かな事よ」
 スージーは俯く夢主の頭を優しく撫でて、情けない表情の相手に微笑みかけた。
「ホームステイの時から見てきたけれど……本当に焦れったいわねぇ。でも、どちらの気持ちも分からなくはないわ。花京院は安定してからあなたを幸せにしたいし、あなたは頑張る彼の邪魔になりたくないのよね? それは好きだから、なんでしょう?」
 夢主は少し間を置いてから頷いた。旅をしていた時から花京院はとても優しかったが、それが恋心から来るものだなんて当時は想像もしなかった。
 あまりに真っ直ぐなその気持ちを知ったのは彼がアメリカにやってきてからだ。
 きっかけは本当に些細な事で、イギーの散歩中に夢主が転けそうになった際、体を抱き止めてくれた後で花京院の様子がおかしくなった。目を合わさず、口数も少なく、手が触れただけで飛び上がってしまう彼に完全に嫌われたのだと思った。それを泣きながらジョセフに相談すれば、ブハハッと大爆笑の後、
「な、何を言うかと思えば……ッ! それは逆じゃ! 花京院はお前さんの事が好きなんじゃよ。エジプトへの旅でも夢主ばかり見つめておったし、いつも側におったじゃろ。目を怪我した花京院の付き添いに夢主を選んだのもそのためじゃ!」
 笑い転げるジョセフを前に驚きと戸惑いと喜びが混ざり合い、赤くなったまま一言も返すことが出来なくなった。それから彼を意識し始めて手紙の内容や誘いに一喜一憂し、今では確かな恋を自覚するまでになった。
 けれど……やはり同年代の女の子の方が話が弾むだろうし、危険を共にくぐり抜けた一時の感情に過ぎないのでは? と思うし、誠実な彼にはもっと素敵な人が見つかるだろう、と夢主の心の中はそんな思いで一杯だ。
「花京院も告白くらいしてもいいのに。真面目というよりただの頑固者だわ!」
 スージーは呆れたように笑う。夢主は曖昧に微笑んで、これ以上からかわれないうちに用事を思い出したふりをして部屋を後にした。


 友人たちが就職で苦労する中、花京院はジョセフのコネと推薦で世界で最も有名なSPW財団の一員になることが出来た。それを狡いとは思わない。ここでは実力とチャンスがすべてだし、なりふり構ってなどいられなかったからだ。
 しかし、今ではそれを少しばかり後悔している。五年ほど日本の財団支部に行って欲しいと言われたときは、思わず目の前が暗くなる思いだった。
「五年……」
 日が落ちたレストランの向かい席で、ぽつりと繰り返す夢主の表情に花京院は息を飲む。一瞬、とても悲しそうな顔をして、それを打ち消すように笑顔を浮かべるのだから、どう捉えていいのか分からなくなった。
「……いいなぁ、ご飯が毎日食べれて。温泉にも入りたい放題だね。色々と変わっていると思うけど……頑張ってきてね」
 そんな応援をされても花京院は少しも嬉しくない。泣いて引き止めてくれた方がどれほど嬉しいだろう。日本や世界の情勢は変わっても二人の関係は友人のままなのだろうか……花京院は思わず項垂れそうになる。
「実は私も部署の移動があって……そろそろジョセフさんの家から出ようと思っているの。長い間、お世話ばかりかけて心苦しいし、それに言葉を覚えた今、いい機会だと思って」
 夢主からそんな話を突然聞かされて花京院の頭の中は真っ白になった。
(五年も会えず、夢主さんは家を出て別の場所で暮らす……)
 きっとどちらにも新たな出会いがあるだろう。それは良いことだが、今の二人にはとても不味いことのように思えた。
「今はまだ分からないけど、住む場所が決まったら……」
 手紙で知らせるという言葉を夢主は慌てて消した。長くやりとりをしてきたが今回はあまりに決定的だ。このままではどちらの将来も辛いだけになるだけだろう。まだ始まってもいないのに、というスージーの言葉を思い出しながら、
「あっ、でも、すぐには見つからないかな。あのイギーと一緒だから」
 苦く笑ってそう言葉を濁した。
「夢主さんはそれでいいんですか?」
 低くなる声を自分でも抑えきれない。花京院は眉を強く寄せて相手を見つめ返した。彼女は手紙を書くつもりは無いらしい。ジョセフの家を出たら会うことも無くなるのだろう。
「だってこれ以上ジョセフさんの厄介になるわけには……もう十分、話せれるようになったし」
「そうじゃなくて、僕と会えなくても平気なんですか? こうして会話をしたり、どこかへ遊びに行ったり……僕は楽しかったけれどあなたには苦痛でしかなかった?」
「ううん、まさか! 楽しかったよ、でも……」
「僕はあなたに会いたい一心でここにやってきた。毎日、片時も忘れずに想っています。あなたが好きで、僕は……」
 そこまで一息で言った後、ウェイターが近くを通った事で理性を取り戻す。夢主は驚いた表情のまま椅子の上で固まり続けていた。これほど一緒にいても言葉にしなければ伝わらないのだろうか。もどかしい心の内をすべてさらけ出す勇気に、花京院はぎゅっと拳を握りしめる。
「つまり、僕は……あなたが好きで仕方がないんです。旅の仲間ではなく、恋人としてこれからを一緒に生きていたい」
 側にいたウェイターと隣の席の客が耳をそばだててこちらの様子を窺っている。花京院は彼らの存在を無視して夢主をひたすらに見つめ返した。周囲の視線や空気に気付いた彼女は、可哀想な程におろおろと慌てふためき、赤くなる顔を隠した。
「あの……はい……」
 長い沈黙の後で、小さく頷いた相手に花京院は腕を伸ばす。緊張で震える夢主の手を握りしめると、確かな温もりが胸に伝わって笑顔がこぼれた。
 野次馬たちの祝福がホールに響き渡る中、花京院は胸に感じる暖かさに酔いしれて、長く幸福なため息を吐いた。

「遅い! 遅すぎるくらいじゃ! まったく、わしらをハラハラさせおって!」
「本当よ、もう見てられないくらいだったわ。ドラマでもここまで引き延ばす作品はないくらいよ!」
 二人がジョースター夫妻に交際の報告をすると、なぜか怒られてしまった。
「すみません、ジョースターさん」
 花京院は素直に謝った後、隣で苦笑いする夢主と手を繋ぐ。
「それで、これからなんですが……」
 この家を出るという夢主の引っ越し先について彼は考えていた事を話し始めた。


 日本から空を駆け抜けてきた飛行機がケネディ空港に降り立つと、花京院は再び人であふれる空港ロビーにウンザリしなければならなかった。日本に行ってもこちらに帰ってきても、こればかりはどうしようもない。分かってはいるのだが、何度もここで見送られてきた側としては辛いものがある。
「おーい、花京院。こっちじゃ!」
 歳には勝てぬと、杖を持ち始めたジョセフが待合いのロビーで大きく手を振っている。花京院は手荷物を引きながら彼の元に向かった。
「ジョースターさん、出迎えありがとうございます。しかし、足の方は大丈夫ですか?」
「平気じゃ、気にするな。それよりも日本はどうじゃった?」
「ええ、承太郎もホリィさんも変わらずに元気でしたよ。ジョースターさんによろしくと、お土産も渡されました」
 それを聞いたジョセフは皺だらけの顔に笑顔を浮かべる。初めて会った時よりも逞しくなった花京院の肩を叩いて、これまでの苦労を讃えた。
「わしよりも会いたい人がおるじゃろ。さっきスージーと店に入っていったが、もうすぐ戻ってくるハズじゃ」
「店に?」
「久しぶりにわしの家に泊まったはいいが、忘れ物ばかりでの。昨日は上着を、今日は口紅を持ってくるのを忘れたと大騒ぎじゃったわ。今頃、大慌てで化粧直しでもしとるんじゃろ」
「それはそれは」
 花京院とジョセフは笑い合って女性陣たちが戻ってくるのを待つ。
「早く会いたいと何度も繰り返しておったぞ。嬉しいか、花京院?」
「ええ、もちろん。僕も早く会いたくて気が狂いそうでしたから」
「この愛妻家が、のろけおって! 数年前の花京院に教えてやりたいくらいじゃ!」
「いえいえ、ジョースターさんには負けますよ」
 肘で脇腹を小突かれても花京院の笑みは消えず、ますます深まるばかりだ。ジョセフは呆れたように、けれど優しい目で彼を見上げて白く伸びてきた髭を撫でた。
「まったく……しかし、まぁ……出張の時はいつでも預けに来い。スージーもわしも、話し相手が多い方が楽しいからの」
「僕としてはいくら仕事でも、一人で行くなんてお断りしたいところですけど」
 五年も離れる事に比べたら大したことではないが、どうせなら二人がいい。それなら何度も振り返ることも、泣きそうな声で見送られる事もない。別ればかりの空港も少しは好きになれるだろう。
「あらやだ! 到着が遅れるって言うからのんびり買い物してたのに!」
 両手に荷物を抱えたスージーがジョセフの隣に立つ花京院を見て声を上げた。
「えっ!? うそ!」
 同じく多くの荷物を持った夢主が目を丸くして驚いている。花京院はつやつやと輝く新色の口紅を塗った相手に笑みを浮かべ、腕を大きく広げて夢主の体を抱きしめた。
「ただいま」
「お、お帰りなさい」
 荷物ごと抱きしめられて夢主は恥ずかしそうにその胸に顔を埋めた。一週間ぶりに感じる花京院の温もりについつい笑顔になってしまう。頭と頬を撫でられて何だか子供のようだが、今は嬉しい気持ちで一杯だ。背後でジョセフとスージーが笑う声は聞こえない事にした。
「それじゃあ、早く僕らの家に帰りましょうか」
 花京院は抱擁を緩めると、夢主から荷物を受け取ってしっかりと手を繋ぐ。ひやりと冷たく感じた左手の指輪を、花京院は自分の手のひらで温めた。
「おいおい、わしらとのランチはどうなる!」
「そうよ、花京院。キューピッドの私たちをお忘れなく!」
 ジョセフとスージーが二人を挟むようにして取り囲む。この夫妻に二人が敵うはずもない。素敵なレストランを知っていると熱弁をふるうスージーの後ろを、二人は笑いあい、寄り添いながら着いていった。

 終




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