犬も喰わない


 闇に包まれた館の奥で、餌の女に突き立てた指をDIOは無表情で引き抜いた。血と精気を吸い取られて床に伏していく姿を、辺りに散らばった金塊と美術品だけが眺めている。
「フム、どうも物足りぬ……」
 廊下のカーテンで汚れた指を拭った後、DIOは暗がりの中でぽつりと呟いた。
 食欲は満たされても何かが足りない。首を傾げながら廊下を歩いていると、執事のテレンスがトレーを手に反対側からやってきた。紅茶と甘い菓子の香りがする事から、夢主のために用意したものなのだろう。
「おや、DIO様。お食事はお済みですか?」
「ああ。夢主はここか?」
「先ほどからこちらで爪の手入れを行っておられます」
 テレンスが押し開いたリビングに歩を進めると、彼の言う通り、この館の女主人である夢主がソファーに腰掛けていた。
「あら、DIO。もうお腹は一杯になったの?」
 笑みを湛えて振り返る彼女を見てDIOは何が不足していたかを知る。遙か遠い過去、自分と同じ存在にした夢主は最初で最後の恋人であり、枯れる事のない美しいバラの花そのものだった。
 彼女を愛でて、育て、摘み取ったのは己だ。百年を経ても変わらぬ愛情を向けられた時、DIOは目眩がするほど歓喜したものだ。
「いや、満腹とは言い難いな」
 そう言って身を屈め、夢主の背後から腕を回して抱きしめる。彼女の肌は滑らかでとても柔らかい。抱き心地の良さを味わいながら、髪が掛けられた耳にちゅっとキスをした。
「まだ足りないの? 少しは我慢したら?」
 そう言いながら、鋭さに磨きがかかった爪先にフッと息を吹きかけた。
「我慢など無意味だ。それに……私が欲しいのは血ではない」
 その言葉に夢主が横を向くとひどく緩みきったDIOの顔があった。彼は時々、こうしてべったりと甘えてくる。
 お茶の用意をしてくれたテレンスなどは、恋人同士の甘い空気が漂うのを察知して静かに視線を下げている。
「キスでもして欲しいの?」
「そうだな。濃厚なヤツを頼もう」
 早くも目蓋を閉じて、整った唇を寄せてくる彼に夢主はにこりと笑って思い切り手を振り下ろした。
「……!?」
 頬から鼻に鋭い痛みが走り抜けて、DIOは驚いた表情で夢主を見つめる。
「悪いけど、そんな気分になれないの」
 装飾が施されたガラス製の爪ヤスリを夢主はテーブルに向かって投げつけた。吸血鬼が持つ圧倒的な力を受けたそれは湯気の立つティーカップの横に音を立てて突き刺さる。
「……どうした、何を怒っている?」
 これが夢主以外の者ならこの場で八つ裂きにしているところだ。頬から流れ落ちる血を舐めて、DIOは腕の中で冷たい表情を浮かべる夢主を見下ろした。
「分からない?」
 聞かれてもDIOには相手の怒る理由が何一つ思い浮かばなかった。
(珍しく本気で怒っているらしい)
 分かったのはそれだけだ。どちらかと言えば大人しい彼女だが、一度、怒りに火がつくと鎮まるまで時間が掛かる。二人とも譲らない性格な上に、人外の力を持っているので痴話喧嘩はいつも大惨事だった。
「分からぬ……月のものか?」
 夢主の肩がぴくりと震えた瞬間、今度は反対側の頬が切り裂かれていた。
「次に同じ事を言ったら……その首、引き千切るから」
 冷え冷えとした夢主の声がDIOの鼓膜をくすぐった。怒りに満ちた目が何よりも美しいと思うのだから、惚れた弱みというのはまったくどうしようもないものだ。
「一人にさせて!」
 ドアを指し示されて、DIOは仕方なく身を引く事を決めた。
 去り際に後ろ髪を撫でてみても振り払われてしまう。空虚感を深めながらDIOは渋々とドアを閉めるしかなかった。


「あいつは何を怒っている?」
 同じく追い出されてしまったテレンスを振り返りながら、DIOは不満げに呟いた。もう一度考えてみるがやはり理由は分からない。
「さぁ、何故でしょう?」
 テレンスは首を傾げるばかりだ。迷路のような女心を男が理解するのはあまりに難しい。彼らは溜息を吐いた。
「あっ、もしかして……」
 テレンスはある事を思い出した。すぐにDIOが視線で問い詰めてくる。
「今朝の事を怒っていらっしゃるのでは? 夢主様より早く寝室に招いた女が居ましたよね? 廊下に投げ出されたところをじっと眺めておられましたが、それが原因では?」
「……すると、何か? 夢主は嫉妬をしていると?」
「それはまぁ、恋人でしたら他の女が自分より先にベッドに潜り込んでいるのは、よい気分ではないでしょう」
 テレンスの言葉にDIOは口元を覆った。食事としてこれまで何人もの女を寝室に招いたが、その度に夢主は心を痛めていたのだろうか。いつも気のないふりをして、無視を決め込むその裏で、怒りと涙を堪えていたのだと思うと頬が緩んでしまう。
「DIO様、何を喜ばれているのです。これまで溜め込んでいた分、夢主様の怒りは相当なものですよ」
「うぅむ、機嫌を直すにはどうしたら良いだろうか」
「定番ですが好きな宝石か、服でもお贈りになられたらどうです?」
 どこか嬉しそうなDIOにテレンスはそう進言した。
「フム……」
 悪くない案に足取り軽く去っていくDIOを、テレンスは一礼して見送った。この様子だと今回の喧嘩は家具や壁を壊す事もなく、早めに解決されそうだと彼は安堵した。


 広く硬い胸に顔を埋めて、わぁわぁと子供のように夢主が泣いている。その背中を撫でて慰めるべきか、それとも触れずにいるべきか、ヴァニラ・アイスはもう何十分も迷い続けていた。
「夢主様……」
 困り果てたアイスの声が弱々しく響くばかりだ。呼び出されて部屋を訪れてみれば、力任せにソファーに押し倒されてしまった。大男のアイスでも吸血鬼の力には勝つ事が出来ない。その上、涙を見せられてはもうお手上げ状態だった。
「酷いと……酷いと思わない!? 勝手にこんな姿にしておきながら、DIOは私を一人残していったのよ。そりゃあ、ジョナサンとエリナにもう一度会えたのは嬉しかったけれど、彼の体を奪うなんて!」
 アイスは流れ落ちていく涙に心を痛めた。仕えるべき主君はDIOだが、彼と同じ存在の彼女も敬愛すべき方だ。アイスはハンカチを探したが見あたらず、諦めてただ自分の胸で受け止め続ける事を選んだ。
「DIOは勝手なのよ! いつもそう! この間も私のお気に入りを殺しちゃうし、服はこっちが似合うとか言って私のコレクションを全部捨てちゃうし、それに、それに……! ああ、思い出すだけでも腹が立ってくるッ!」
 鋭く尖った爪がアイスの皮膚を引っ掻いた。血の香りに気付いた夢主がすぐに力を緩めたので、肉をえぐり取られずには済んだようだ。
「……ごめんなさいヴァニラ」
 力加減を忘れ、思わず熱くなってしまった事を恥じる。夢主は滲み出た血を指先にすくい取ってぺろりと舐めた。
「ねぇ、酷いと理不尽だと、あなたはそう思わない?」
 涙で濡れた目でこちらを見上げてくる相手にアイスはしばらく息を呑んで魅入った。主が同じ存在にしてまで手放したく思うのは当然だ。見つめられると何もかも捨てて、彼女の言う全てに同意してしまいそうになる。
「それでも愛していらっしゃるのでしょう?」
 すぐさま夢主はむっと眉を寄せた。その返答がお気に召さなかったのか、爪先が再びアイスの皮膚を浅く引っ掻いていく。
「DIOの部下であるあなたに相談したのが間違いだったわ」
 相談と言うより、ただひたすら愚痴を呟いていたように思うが、アイスは申し訳なさそうに眉尻を下げるしかない。
「夢主様は一体、何にお怒りなのですか」
 悪の威厳と風格、全てにおいて完璧なDIOの何が気に食わないのだろう。どれほど餌の女を囲っても心はただひたすら一人にだけ向けられているというのに。
「知りたい? 口にするのも腹立たしいけれど、知りたいのヴァニラ?」
「夢主様さえよろしければ」
「……そう」
 理由さえ分かれば喧嘩を収めることが出来る。主たちを想い真っ直ぐに見つめてくる彼の視線を受けて、夢主は楽しそうに微笑んだ。
「じゃあ、教えてあげる代わりに涙を舐めて綺麗にして」
「……」
 アイスは一瞬だけ戸惑う表情を見せたが、すぐに意を決したらしい。身を起こす夢主をソファーに置いて、彼はその前に跪いた。涙を拭う代わりに夢主の手をそっと引き寄せると、その鋭い爪先に唇をぽつりと落とす。
「あなたって本当に、いい意味でクソ真面目よね」
 主の恋人に舌で触れるような無礼を出来るはずもない。小さな口付けで許しを請う彼に、夢主はしばらく呆れた後、くすっと笑いかけた。


「夢主」
 名を呼ばれて読んでいた雑誌から視線を上げると、数時間前にこの部屋から追い出したDIOが立っていた。
「……何か用?」
 夢主は冷たい口調で返事をした。二人きりの部屋には淹れ直した紅茶の香りが漂っている。
 まだ怒っていると見たDIOはそれ以上は何も言わず、静かに近づいて女の細い首に触れた。
「これは?」
 冷たい感触に胸元を見下ろすと、大粒のイエローダイアモンドが輝いていた。揃いなのか、耳にも同じ宝石のピアスが飾られてしまった。
「早く機嫌を直せ」
 髪を撫でるDIOに夢主は溜息を飲み込む。
 彼に理解を求める方が愚かなのだろうか。それともDIOの好みで選ばれた宝石に服、それらを結局は身に着けてしまう夢主が優しすぎるのだろうか。
(私も少し大人げなかったかしら)
 DIOは何も知らないのだ。夢主が大事にしていた香水を戯れに身に着けても、本人はそんな些細な事などもう忘れているに違いない。
 だが親友のエリナが愛用した香りを、彼女からすべてを奪ったDIOが身に纏う事が夢主にはどうしても許せなかった。引っ掻く程度で済ませただけ、何と寛大なのだろうと自分を褒めてやりたいくらいだ。
 夢主は雑誌を閉じてテーブルに置くと、やるせない想いをかき消しつつ、ゆっくりと後ろを振り返った。
「DIO」
 名を呼んで手を伸ばせば、DIOは手首から腕にかけて次々に唇を落としてくる。アイスの慎ましいキスが懐かしく思うほどだ。
「痛かった?」
 切り裂いたはずの両頬は何事もなかったように治っている。DIOの青白い頬を撫でながら聞けば、彼はうっすらと微笑んだ。
「お前の心の痛みに比べれば大したことはない」
 本当かしら、と少し疑うような夢主の表情をDIOは正面から見つめ直す。
「次からは寝室で食事は取らぬ。お前も早く私の隣に来い」
 そう言った後、愛おしそうにこめかみや頬、耳と唇を啄んでいく。どこか嬉しそうに抱きしめてくるDIOに、夢主は目を瞬かせているのだが……充足感に酔いしれる彼は気付かなかったようだ。

 終




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