Good morning


 朝日がカーテンの向こうでわずかに顔を見せる頃、この屋敷に仕えている執事のテレンスは物音一つしないダイニングで温めたカップにゆっくりと紅茶を注ぎ入れる。
「おはよう、テレンス」
 きちんと身嗜みを整え、高校の指定である学生服に着替え終えた夢主は爽やかな朝に相応しい笑顔で挨拶をした。
「おはようございます、夢主様」
 彼女がダイニングテーブルに着くのを見計らって、テレンスは用意しておいた紅茶を差し出した。カップに口を付ける夢主に背を向けて、重たいカーテンを静かに開いていく。窓の向こうではまばゆい朝日がうっすらと街を照らし始めていた。
「今日もいい天気みたいね」
「しかし、午後からは雨になるようです。傘をお忘れ無きよう」
 テレンスの言葉を聞いて夢主はカップから唇を離し、小さく頷いた。
「じゃあ、今夜はディエゴと夕食が取れそうね」
 雨で騎手と馬の体を冷やさぬよう乗馬の練習はいつもより早く終わるだろう。夜は家族全員で夕食が取れそうだ。
「そうですね。では、ディナーは豪華に致しましょう」
 嬉しそうな表情を浮かべる夢主にテレンスはにこりと微笑みかけた。そうして二人が物静かな朝を満喫していると、掛け時計がポーンと鳴って時間を知らせる。
「ディエゴ、朝練があるんじゃなかった? 起こさなくて大丈夫なの?」
「大丈夫ではありませんが、まだ朝食の準備が残っていまして……申し訳ありませんが、代わりにディエゴ様を起こしてもらえないでしょうか?」
 テレンスは少し困った顔で助けを求めてくる。
「仕方ないわね……」
 夢主はカップを置いて椅子を引いた。テレンスはホッとした表情ですぐにダイニングの扉を開く。
「どうしてみんな朝に弱いのかしら。顔だけじゃなく、低血圧も父親譲りなの?」
 首を傾げる夢主にテレンスは曖昧に微笑む。愛する姉に起こされたいがために、家族全員がわざと朝寝坊をしているなんて彼女が真実を知ったらどう思うだろうか。
 夢主が二階に続く玄関ホールに足を向けると、この家の警備を任されているヴァニラ・アイスが静かに立っていた。
「おはようございます、夢主様」
「おはよう、アイス。今からディエゴを起こしてくるから、先に車で待っていて」
 彼の迫力ある存在感を物ともせず、夢主は前を通り過ぎて階段を軽やかに駆け上がっていった。


 いくつか並んだ白いドアの奥から三番目をノックする。返事がないので夢主はすぐにドアを開けて中に入った。そこは毎日、テレンスが掃除しているだけあって年頃の男部屋にしては綺麗に片付けられている。飾り棚にずらりと並んだいくつものトロフィーと盾は鈍い金色の輝きを放っていた。
 グラビアアイドルの代わりに馬のポスターやカレンダー、彫刻に絵画が並んだディエゴの部屋は落ち着けるようにシックな色合いでまとめられている。夢主はDioと名が飾られた乗馬ヘルメットを撫でてから窓際に置かれたベッドに近づいた。
「ディエゴ、もう朝よ。早く支度しないと朝練に遅れても知らないから」
 シーツの端から少しだけ金色の髪がはみ出している。夢主がそれに指を絡めると、素早く手首を掴まれてしまった。
「ディエゴ、起きてるなら……」
「まだ眠い」
 寝具の向こうからくぐもった声が聞こえてきた。頭をすっぽりと覆うそれを退かせると、しかめっ面をしたディエゴと目があった。
「……酷い顔ね。いつもの素敵なディエゴはどこに行ったの?」
「それが朝一番に聞かせる言葉か? まったく、いい目覚めだぜ……」
 不満げに文句を言う彼の頬に夢主は軽いキスを落とした。
「おはよう、私の可愛いディエゴ……大好きよ」
 どこまでも甘えん坊な弟はようやく険しい表情を止め、先ほどとは一転してとろけるような甘い笑みを見せてくる。夢主がその笑顔に弱い事を彼は知っていてそうするのだろう。
「ああ、俺もだ」
 唇のすぐ横にキスをしてディエゴはぐっと夢主の肩を引き寄せる。ベッドに倒れ込みそうになって夢主は慌てて手をついた。
「そろそろ起きないと朝練に……」
「分かってるさ。だけどもう少しだけいいだろ?」
 指を絡め取り、頬を擦り合わせてくるディエゴに夢主は思わず微笑んでしまった。彼にとって甘える対象は親ではなく、姉である夢主に愛を求めてくる。
「……もう」
 弟を甘やかせてしまうのが自分の欠点だ。気をよくしたディエゴは嬉しそうな笑顔を見せつつ、そのまま引きずり込もうとする。
「ダメ、朝練の方が大事でしょ。ほら起きて、起きて!」
 勢いよくシーツを捲り上げるとパジャマ姿のディエゴが露わになった。鍛え上げた逞しい胸元がまるで誘うようにちらりと見えている。姉という立場でなかったら、きっとクラクラするほど艶っぽい姿なのだろう。しかし、もはや見慣れた光景に夢主は少しも動揺することがない。むしろ、
「またそんなに着崩して……! お腹冷えるでしょ?!」
 パジャマを脱がせながら腹の心配をした。ディエゴは苦笑しつつ、次々に渡されるシャツとズボンを身に着けていった。
「ブーツはこれ? はい、ヘルメットにムチも。少し冷えるからグローブもいる?」
「そうだな」
 片手にメットとムチを持ち、ディエゴは支度が整っていく様を鏡越しに眺める。
「ほら、早く! のんびりしてると遅れるから!」
 背中を押されてディエゴは渋々と廊下に出た。階段下ではすでに執事のテレンスが立っている。
「おはようございます、ディエゴ様。朝食はこちらに」
 パンとサラダとスープが詰められたバスケットを受け取ってディエゴは夢主を振り返る。切れ長の美しい目が何かを求めるようにゆっくりと瞬きした。
「行ってらっしゃい、ディエゴ。今夜は雨らしいから早く帰ってきてね。みんなで一緒にご飯食べましょ」
「分かった。楽しみにしてる」
 頬にちゅっとキスを交わした後、ディエゴは外に待たせてあるアイスの車に乗り込んでいく。
 今からなら十分に間に合うだろう。車が門を抜けて見えなくなると夢主はほっと長い息を吐いた。


「夢主様……申し訳ありませんが、次はジョルノ様をお願いします」
 ディエゴを見送った夢主に、テレンスはそう告げてそそくさとキッチンへ戻ってしまった。
 もう一人の弟も今朝は随分とのんびりしているらしい。ディエゴのように朝練はないものの、風紀委員長であるジョルノは生徒たちの模範生であるべき立場だ。
 夢主は仕方なく降りた階段を再び上り、奥から二つ目の部屋をノックした。
「ジョルノ、起きてる?」
 こちらも返事がないのですぐにドアを開けて中に入った。ディエゴの重厚な色合いの部屋とは違って、ジョルノの部屋はとても華々しい。白を基調としたイタリア家具には繊細な花や草木が彫り込まれ、ルネサンス期に描かれた有名な複製画がポルノ写真の代わりに飾られてある。中でも特にお気に入りなのがヴェスヴィオ火山を背景に美しいナポリ湾を描いた一枚だ。夢主はその絵画の前を通り過ぎて、未だベッドの中でスヤスヤと眠るジョルノに近づいていった。
「ジョルノ、起きて」
 白いベッドフレームの上で眠るジョルノは、黄金色の髪を枕に散らしてカーテンの隙間から差し込む朝日を身に受けている。彼の長い睫毛は光を浴びて蜂蜜色に輝いていた。
「まるで……眠り姫みたいね」
 くすくすと笑いながらジョルノの前髪をそっと撫でた。
「……誰が姫ですか。僕は男ですよ」
 不服そうに唇を尖らせ、ジョルノはぱちりと目を開けた。
「じゃあ王子様に訂正するから、早く起きて着替えて。風紀委員長が遅刻だなんて許されると思う?」
 夢主がシーツに手を伸ばすと、ジョルノはそれを引き上げてクルッと背を向けた。
「嫌です」
「え?」
「こんな素敵な朝だというのに……夢主が酷いことを言って僕を傷つけるならもう起きません」
「……えぇ?」
 ジョルノはますますシーツを抱き込み、恨めしそうに睨んでくる。麗しい美貌に拗ねた子供の表情が浮かぶと心を揺するほどに愛らしい。それを計算ではなく素でやっているとしたら一流の俳優になれそうだ。
「ごめんね、ジョルノ。つい……あまりに格好良くて……」
 可愛いという単語を飲み込んで、夢主は取り繕うように微笑みかけた。彼が眠る姿をいつもお姫様のようだと思っていることは内緒にした方が良さそうだ。
「昔、一緒に人形遊びをしたときの気分が抜けきって無いみたいですね」
 ジョルノは自らシーツを剥ぎ、夢主の手を取って筋肉質な胸に押しつけた。
「僕はこんなにも男だというのに」
 さらりと長い前髪が落ちてジョルノの顔に影を作る。きらめく朝日を身に受けながら、ほんの少しだけ陰った目が夢主を真っ直ぐに射貫いてきた。
「……ご、ごめん」
 妙な色気に気圧されながら夢主はぱっとジョルノの胸から手を離した。
「分かればいいんです……さぁ、早くいつものように起こして下さい」
 もうすでに起きているというのにジョルノはそんな事を言う。夢主は小さく息を吐き、相手の頬に軽いリップ音を響かせた。
「ボンジョルノ」
 イタリア育ちのジョルノに朝の挨拶を告げると、彼はようやく満面の笑みを返してくれた。
「やはり、朝はこうでなくては……ボンジョルノ、僕の大切な人」
 綺麗な微笑みを浮かべて同じように挨拶をしてくる弟に夢主は彼の将来が不安になってくる。このままではきっと女関係で苦労するに違いない。
「さてと……僕は前髪をセットしますから、夢主は後ろ髪を編んで下さいね」
 パジャマを脱ぎ捨てたジョルノは風紀委員だというのに改造した制服をクローゼットから取り出した。素早く着替えた彼は鏡台にずらりと並ぶスタイリング剤に手を伸ばしている。夢主は時計をちらちらと見ながら、ジョルノの滑らかな後ろ髪を丁寧に編んでいった。
「おはようございます、ジョルノ様。朝食は車内にてどうぞ」
 ディエゴと同じバスケットを受け取ったジョルノは見送りに来た夢主ににこりと笑顔を見せる。
「行ってきます。ランチはいつものところで待っていますから」
「分かったわ。行ってらっしゃい、ジョルノ」
 頬を合わせた後、ジョルノはテレンスが運転する車に乗り込んだ。車が玄関を通り過ぎるのを見て夢主は長い溜息をつく。まだ姿を見せないもう一人を起こしに再び階段へと足を向けるのだった。



 主寝室である一番奥の部屋にノックをしても、やはり返事はなかった。いつだろうと入室を許されている夢主は遠慮することなくドアを押し開く。
「パパ……いい加減、起きてよ」
 ディエゴやジョルノの部屋に比べて父親であるDIOの部屋はあまりに味気ない。広い部屋には天蓋付きのベッドが中央に置かれ、わずかな美術品と本棚が部屋の隅に並べられているだけだ。夢主が朝日を遮るカーテンを左右に開き、部屋一杯に光を取り込むと、寝台の上で金色の髪が揺れ動いた。
「ディエゴもジョルノも、みんな起きて学校に行っちゃったよ?」
 ベッドに近づいて半裸姿の父親を覗き込む。柔らかな髪を片手で掻き上げた彼は部屋に差し込む太陽から嫌そうに顔を背けてしまった。
「……まだ眠い」
「ディエゴと同じこと言うのね」
 夢主はくすっと笑って乱れている美しい髪を撫でた。
「お前の父親だというのに……この私を起こすのは一番最後か」
 高校生の息子を二人と娘を持ついい歳をした大人が可愛らしく拗ねた声色で文句を言った。
「だってディエゴは朝練があるし、ジョルノだって朝礼の準備があるから」
「フン……」
 ディエゴやジョルノに分け与えた麗しい顔を曇らせると、DIOはぷいっと背を向けてしまった。
「……またジョルノみたいな事を」
 似た者親子はそうして毎朝困らせてくる。母親の居ないこの家で、唯一、母性を持つ夢主に無償の愛を求めているのだろう。どこまで自分を許し、愛してくれるのか……彼らはまるで子供のように見定めようとする。
 こちらに向けられた大きな背中をしばし観賞した後、夢主は苦笑いを浮かべながらその逞しい肩に手を置いた。 
「パパ……」
 普段よりも甘い声で耳に囁きかけると、DIOの体がぴくりと震えた。
「私が好きな物を最後まで取っておくこと、パパは知ってるでしょ?」
 形のいい耳にキスを落とせばDIOはこちらに視線を向けてくる。
「パパが世界で一番大好き」
 力任せにぎゅっと背中を抱きしめると、ようやくそれで満足したようだ。DIOは夢主に向き直って優しく頬を撫でてくる。
「それなら仕方がないな」
 にやけた顔でそう言って、太陽すらも溶かしてしまいそうな笑顔を見せた。
「じゃあ、早く起きてくれる? このままだと遅刻するんだけど……それとも電車で登校していい?」
 電車と聞いてDIOの眉がつり上がる。
「駄目だ! 年頃の娘があのような物に乗るな。痴漢に盗撮……考えるだけでもおぞましいッ!」
「でも、徐倫は電車で……」
「ジョースター家の者がどうだろうと関係ない。お前は他の誰でもない、この私の娘だぞ」
「……そこまで言うなら早く用意してよ。また遅刻したらパパのせいだからね?」
 時間は刻々と過ぎているというのにDIOは服も着ずに未だベッドの中だ。夢主は腕組みをし、さっきとは違って冷たい声で文句を言った。
「ム……分かった。すぐに支度をする」
 娘にそう言われてはこれ以上ベッドでグズグズはしていられない。DIOは素早く身を起こすと備え付けの大きなクローゼットの扉を開けて、シャツとダークスーツを取り出した。夢主もネクタイや靴をあれこれ用意しながら、これでようやく学校に行けると安堵する。
 大慌てで支度を調えたDIOと共に玄関に向かえば、有能なテレンスが二人分の朝食を用意してあった。夢主は鞄とそれらを抱えて庭先の駐車場へ向かい、エンジンキーを回すDIOの隣に乗り込んだ。
 血のように赤いスポーツカーが公道を駆け抜ける中で、夢主は執事が作ったサンドウィッチを運転席でハンドルを回す父親の口の中に押し込んでいく。
「Wrryy! また赤信号か! 渋滞はいつになったら抜け出せるのだッ!?」
「もう! だから早くって言ったのに……毎朝、ここが混むことぐらいパパも分かってるでしょ!」
「う、うりぃ……」
「いくら混んでるからって、前みたいに歩道を走るのは絶対に駄目だからね!」
 三個目のサンドウィッチをDIOの口の中に押し込みつつ、そこだけはしっかりと注意した。
 それから数十分後、夢主が学校に着く頃にはバスケットの中身はすべて無くなり、車内は食後のコーヒーの香りで満たされていた。遠慮を知らないDIOのおかげで、正門前に堂々と横付けされた派手な車は生徒たちの視線を今日も一身に受けている。
「またギリギリですね……父さん、怒られるのは夢主だって事、分かってますか?」
 正門で登校してくる生徒たちに声かけをしていたジョルノは呆れた口調で車内のDIOに話しかけた。
「……仕方がないだろう、道が混んでいたのだ」
 DIOは苦い顔をしながら言い訳をする。
「渋滞よりも父さんが早く起きないのが原因ですよ」
 ジョルノは自分の事を棚に上げて夢主のために車のドアを開け放った。
「じゃあ、行ってきます」
「む……寄り道と買い食いはするな。あと、知らぬ男にも着いて行くな、分かったな?」
「ジョルノと帰るから大丈夫だってば」
 肩を竦めて夢主が車から降りると、ジョルノはすぐにドアを閉めてDIOが向かう先を指差した。
「父さん、いつまでもそこに駐車されると邪魔です。さっさと動かして下さい」
 分かっている、と言いたげに片手を振ってDIOはするりと去っていく。轟くエンジン音が遠くなると共に、始業を告げるベルが辺りに鳴り響いた。
「何だ……今、来たのか? もう始まるぜ?」
 厩舎のあるグラウンドから朝練を終えたディエゴが二人の前に姿を見せた。
「今日は遅刻しなくて済みましたね。さ、行きましょう」
 ジョルノは爽やかな笑みを浮かべて夢主の手を引っ張っていく。
 どれほど早起きをしても結局はこうなってしまうのなら、今度は起こす側ではなく起こされる側になりたいものだと思う。遅刻常習犯として有名な夢主は、大きな溜息を吐きながら弟たちに手を引かれて再び階段を駆け上がっていった。

 終




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