09


「俺はゴールより先にカンザス・シティの外れに向かう」
 広げた地図の北緯39度6分24秒、西経94度40分6秒が交差する場所に赤い点を打った彼は、最短コースからわずかに外れたそちらに向かうことを夢主に告げてから旅立った。
 ある程度、自由に動ける夢主がそこに向かってもいいのだが……馬に乗れず、戦闘向きではない能力でジャイロやジョニィ、政府の手先と戦うのは無理だとすぐに却下されてしまった。なので彼女は当初の予定通りに列車でカンザス・シティに移動すると、今後のレースに必要な食料や装備品を買い揃えながら、政府所有の建物に探りを入れる日々を過ごしている。
「今夜は嵐……」
 宿泊先のホテルでボーイが他の客にそう告げるのを聞いた。彼の言うとおり、昼間はあれほど青く澄んでいた空は次第に曇り始め、夕方を過ぎる頃には激しい雨となって周囲を濡らし始めている。
 今夜は好機だと、傘を差して足早に歩く人混みに紛れながら夢主は背後にスタンドを出現させた。
 使うのはティナー・サックスという人に幻覚を見せる能力だ。使い方は色々あるが、今回は正面玄関で銃を持った警備員にひときわ強い雨風が叩きつけたように見せるだけでいい。夢主はその横をすり抜けて薄く開いたドアを慎重に押し、隙間から建物内へ潜入する。これで実に三度目となる不法侵入だが、最初よりは随分上手くなったと自画自賛したい気持ちだった。
 周囲に体を溶け込ませながら易々と階段を上り、スタッフと仕事話をするスティール氏を確認した後で上階へ向かう。最上階の広い部屋の扉に耳を押し当てると、レース前のパーティで聞いた声が響いてきた。
「アリマタヤのヨセフの地図によると、このカンザスのどこかに次の“聖人の指輪”があるはずなのだ」
 ドキッと飛び跳ねた心臓を抑え、息を殺しながら耳を澄ませる。
「必ず手に入れるよう、スタンド使いどもをこの町に呼び寄せておけ!」
 扉の向こうには大統領とその側近が控えているらしい。すぐに身を離して廊下に飾られた花瓶の影に溶け込むと、部屋から三人の男たちが廊下に現れた。
「まずは近くにいるブラックモアを呼びましょう。この天気なら彼が一番有利です」
「そうだな。リンゴォに鳩を持たせた彼の意見も聞きたい。あとで一緒に確認する」
 電話のある部屋に三人が向かったところで夢主は屋上へ続く階段を見上げた。
(鳩? 伝書鳩のこと?)
 リンゴォという人物は知らないが、その人が送った情報は重要なものらしい。壁やドアに身を隠しながら階段を上っていくと、すぐに頑丈そうな鉄の扉が見えた。鍵が掛けられていないことを確認し、ドアノブに触れようとしたところで密やかな足音が背後に迫る。
「!」
 振り向いた先に居たのはルーシー・スティールだ。彼女は顔を隠すようにフードを目深く被り、階段を駆け上がって乱れた息をどうにかして整えようとしている。夢主の気配に気付かないままドアを開け、先に外へ出て行ってしまった。
(ルーシー? 彼女がどうしてここに?)
 不思議に思ってドアから覗くと、ドライバーで鳩小屋の鍵を乱暴にこじ開け、足に包みを付けた白い鳩を胸に抱え込んでいた。
「そろそろ来る頃だ……リンゴォが鳩を飛ばした形跡は間違いなくある。ブラックモア、それはどんな情報だと思う?」
 階下からの声に驚いたルーシーが振り向き、姿を隠している夢主もそれに驚く。壁際にサッと身を寄せて、ブラックモアと呼ばれたスタンド使いと大統領がこちらに来るのを息を潜めて待った。
「どうだ? 鳩は来てるか?」
 最悪な形で三人が鉢合わせすると思ったのは間違いで、ルーシーは鳩小屋の下の隙間に潜り込んで事なきを得たらしい。あまりに突然のことで何も出来なかったが……もしこのまま見捨ててしまえば彼女はどうなるのだろう? 冷や汗が滲む背中を強く壁に押しつけながら、夢主は彼らの会話に耳を澄ませる。
「この鳩小屋、何かがおかしい。変な雰囲気です」
 二羽飛ばしたうちの一羽だけが存在し、錠前は壊された後に打ち直された形跡があること。鳩が到着したのはたった今だと言うことをブラックモアが次々に明かしていく。夢主もそうだが、ルーシーはそれ以上に気が気ではなかっただろう。
「メッセージのついた鳩だ! 何をしている、早く捕まえろ! ブラックモア!」
「はいィ……すいませェん。大統領、今追います」
 胸に抱えていた鳩を逃がし、夢主の前をすり抜けて階下へ向かうルーシーよりもスタンド使いであるブラックモアから目が離せない。彼は雨粒を足場にして空中に浮いてみせ、軽やかに移動しながら空飛ぶ鳩を難なく仕留めて見せた。
(そんな……)
 スタンド能力をそうと知って見るのはこれが初めてだ。あまりにも常識からかけ離れている。ぶわりと膨らんだ恐怖と焦りに夢主はすぐにルーシーの後を追いかけた。
「非常事態だ! 何者かがこの建物に侵入しているぞ! ビルを封鎖しろ、射殺を許可するッ!」
 館内電話に向けて叫ぶ大統領の声と、階段を上ってくる警備員たちに半ば絶望しつつ、夢主は今にも挟撃されそうなルーシーの姿を見つけて走り寄る。追い詰められた彼女が空き部屋の扉を開ける瞬間に転がり込み、ルーシーが鍵を掛ける音を背後に聞く。
「あたし何て事を! 大変な事をしてしまった! あたしのせいで彼が全てを負わされるッ!」
 その言葉に震えたのは彼女だけではない。夢主も同じように大きく震えて、とっさに左腕に嵌めたままの腕輪を掴む。
(見つかれば私も同じ……!)
 なぜここにディエゴのバレットが居るのか、ここで何をしていたのか強く問われるだろう。いや、射殺命令が出ている事を考えれば、言い訳や理由すら聞かずに殺されるに違いない。
「そうだわ、マウンテン・ティムに……」
 ルーシーは保安官の彼に助けを求めるようだ。その選択は間違ってはいないだろう。案外、上手くいくかもしれない。
 ただ一つ問題があるとすれば、夢主には彼に助けられたという恩義がある事だ。オエコモバが放った爆弾で負傷しながらも、吹き飛ばされる夢主の頭を守り、その後の手当をしてくれたのは彼だ。
 電話に飛び付いて受話器を上げるルーシーに夢主は心を決めて姿を見せることにした。
「待って!」
「!? あ、あ……そんな……」
「落ち着いて、味方よ! 私もここで見つかる訳にはいかないの」
 青い顔で目を見開くルーシーの腕を引き、二人で部屋の隅に身を寄せる。
「時間がないから細かい説明は出来ないけど、私の能力で隠してあげる。だから何が起こっても声を出さないで」
 感情のままに涙を流し、息を切らせている彼女には酷かもしれないが、それが最善だと分かってもらうしかない。
「おい、中から鍵をかけられているぞ! ここだ、この部屋だッ!」
「大統領、お下がり下さいッ! ショットガンでドアを破壊しますッ!」
 そんな大声が聞こえた数秒後、いくつもの銃声が響いてドアノブが破壊される。それと同時に窓の外に居たブラックモアがガラスを破壊しながら部屋に飛び込んできた。
「!」
 もう駄目だと目を強く閉じてしまうルーシーを背後に置いて、夢主は姿を隠す幻を継続させつつ、ティナー・サックスの力をさらにもう一度使う。これほど大勢の前で使うのは初めてだが、上手くいったようだ。
 部屋の反対側にあるバスルームの扉が今のこの瞬間に閉じたように見せる……それだけだが効果は充分すぎる程で、警備員と大統領、ブラックモアはそちらに釘付けになり、部屋の隅で二人をカモフラージュさせた花瓶立てには誰一人として見向きもしない。
「生死は問わない! 情報を流されるぞ! 下水道も封鎖しろッ!」
「後ろにお下がり下さい! ドアを破壊しますッ!」
 再び銃声が鳴り、ブラックモアを含む大勢が中へ飛び込む瞬間を見計らって慌ただしい外の廊下に出た。
「ルーシー、歩いて。これからどうするの? スティール氏のところに行く?」
「そうしたいけれど……無理だわ。もうお弁当を渡してしまった後だもの」
 入り乱れる警備員とうっかりぶつからないよう気を付けながら、二人は壁と同化しつつ静かに移動して建物から雨の降る通りへ脱出することに成功した。
「近くのカフェで雨宿りする? ここで偶然、出会ったように見せかけて……」
「いいえ、それは駄目……出来ないわ。あなたにまで危険が及んでしまう」
 意外にもハッキリとした声で拒否されて夢主はルーシーの顔を覗き込んだ。
「鳩の伝言を誰かに伝えに行くつもりなの?」
「……ごめんなさい。助けてもらったけれど、それは言えません」
 彼女の毅然とした態度にそれ以上の追求は諦めるしかなさそうだ。
「そう……でも、あのスタンド使いから逃げきるのは難しいと思う。私もあと一回しか能力が使えないから、上手く足止め出来ても一時間ぐらいしか……」
「それで充分だわ。ありがとう」
 ぎゅっと力強く手を握ってくれる彼女に夢主は助けて良かったと心から思えた。
「あの大統領と敵対するスタンド使いなら……もしかしたら力になってくれるかもしれない。今、ゴールに近付いているジャイロさんとジョニィさん、それにディエゴさんならきっと」
 ルーシーが喋らない以上、彼女の目的が夢主には分からない。それでも助けになれるのは選手の中でその三人だろう。
「……」
 お互いに目配せをして隠れていた通りの角から離れる。ルーシーはレース本部が置かれた倉庫に向かって走り込んでいき、夢主は来た道を少しだけ戻っていく。
 未だ犯人捜しをしているのだろう政府所属の建物に向けて、さらなる混乱が起きるようスタンド能力を発動させた。


 ……激しい嵐の夜が過ぎ去ると、まるでそれが嘘だったかのように空には白い雲がゆったりと流れている。
 ゴール前はすでに多くの観客で埋め尽くされ、彼らの陽気な声を聞きながら本部スタッフたちは選手用の飲み物と料理の用意に追われているようだ。辺りにいい匂いが立ちこめ、近くに浮かぶ気球から地上に向けて合図が送られると、世間話をしていた観客たちの目が一斉にゴール地点へと動いた。
「来ました! 昨夜の嵐をものともせず、選手たちがこちらに向かってきています!」
 アナウンスの声がかき消されるほどの歓声がワッと広がって、夢主の耳を痛いほどに震わせる。昨夜の怒りをどうにか鎮めた大統領がバルコニーから拍手をして出迎える姿を確認しつつ、補給所にやってくる選手たちの元へ駆け寄った。
「4thステージの着順が続々と確定して来ております! 掲示板をご覧下さい!」
 ノリスケ・ヒガシカタ、ポコロコ、ジャイロとジョニィ、ドットハーンにサンドマン……トップグループの常連客が続く中に、一人だけ欠けている者がいる。
 見過ごしたのかと振り向いてもその姿はなく、ゴール前にも彼はいない。確認する間にもホット・パンツやスループ・ジョン・Bなどの選手が次々にゴールを決めていく。そんな彼らから視線を外し、焦る気持ちを抱えてひたすら待っていると、遙か遠くからゆっくりとこちらに向かう一人の男性に気付いた。
「うそ……」
 信じられなくて目を凝らせば、見慣れたDIOの帽子に何度もブラシを掛けた馬の姿が確認出来る。馬体から外した鞍を肩に掛け、ぎこちない歩きを見せるシルバー・バレットの手綱を引きながら、ディエゴは徒歩でゴールを目指していた。それは即ち、騎乗すら望めない異常事態と言うことだ。
「ここで帝王Dioがゴールに入って来ました! 嵐でダメージを受けたのか、着順はなんと54着! 当然ながらこのステージのポイントはありません!」
 ゴールの線を歩いて踏み越えた一人と一頭に夢主はそれ以上の我慢が出来ずに駆け寄った。
「ディエゴさん……!」
 夢主の姿に気付いたディエゴは肩から鞍を下ろして彼女に押しつける。シルバー・バレットの手綱を渡たす間際、相手の耳に顔を近付けて言った。
「昨日の夜、街を出たか?」
 首を横に振るとそれは満足のいく答えだったらしく、
「だろうな。お前は馬に乗れない」
 と改めてその事を呟いた。
「シルバー・バレットに何があったんですか? この先どうすれば?」
「筋肉に少しダメージがあるだけだ。リタイアはしない」
 致命的な怪我ではないだけ救いがあるのだろう。周囲を覆う空気は重いが、鋭さと気概を失わないディエゴの強い視線に夢主は頷いた。
「このまま厩舎へ行って獣医師に診せてこい。症状を詳しく知りたい」
「分かりました。任せて下さい」
「……その前に、紙とペンをくれ」
「?」
「休む前にやることがある」
 小動物を恐竜化させた手下を使ってメッセージを送らなければならない。ディエゴはバルコニー席をチラリと振り返りながらそう呟いた。


 用事があるというディエゴと別れ、夢主はシルバー・バレットと共に大会側が用意した常駐の獣医師に会いに行く。背、肩、腰、脚と馬の体の隅々まで診た後で、軽度のこずみだと診断された。
「人間で言う筋肉痛みたいなものだ。昨日の凄まじい嵐の中をこの子は懸命に走ったんだろう。後肢がぎこちないのは筋肉が疲れ切っているからだ。今はとにかくマッサージをして疲れをほぐしてやるのが一番だね」
 そう言って手書きの診断書を渡し、運び込まれた次の馬の診察に向かってしまった。残された夢主は雨と泥と汗で汚れた星柄の白斑をごしごしと擦り、疲れた体を押してでもゴールしたことを労る。
「シルバー・バレット……お疲れ様。嵐の中でも頑張ったね」
 夢主はあふれた涙を拭いて、たっぷりの餌とご褒美のりんごや角砂糖のおやつを差し入れる。喜びか、甘えなのか胸へ長い額を押しつけてくるのを何度も撫でて、彼の走りと忠愛を褒め称えた。
 シルバー・バレットがご飯を食べて落ち着いたところで汗と泥を水で洗い流し、少しでも疲労を取り除こうと体の隅々までブラシを掛ける。丁寧にしっかりとそれを繰り返して美しさが戻ってきたところで、大勢の保安官たちが管理する馬房へ移動する。ここは鼻紋を採取して馬の交換が行われなかったか確認するためでもあり、身の安全が保証された藁の中でゆっくりと休める唯一の場所だ。
「夕方にもう一度様子を見に来るからね」
 シルバー・バレットと別れ、鞍を抱えた夢主はディエゴの姿を探しに戻る。
「ここだ」
 補給所に続く寂れた路地から声が掛けられ、足を止めてそちらを見ればディエゴとその後ろにもう一人の影があった。
「グローブと時計を無くした。代わりを用意してくれ」
 なぜかボロボロになっている右手のグローブをその場に捨てながら、ディエゴは夢主と背後の人物を振り返った。
「チームでジャイロどもを追い詰める。今から作戦を立てるが、文句はないな?」
 意味が分からず首を傾げる夢主を置いて、先ほど6位でゴールした彼が先に頷いた。
「ない。それより……まさかとは思うが、彼女もスタンド使いなのか?」
「戦闘には不向きだが、状況次第では有利に出来る」
「そうか……。では作戦とやらを聞くとしよう」
 淡々と話を進めてしまう彼らを前に夢主は疑問を口にした。
「サンドマンさんもスタンド使いなんですか?」
 夢主の丁寧な言い方に彼はフッと笑って肯定した。
「サンドマンではない。サウンドマンだ。我が部族の言葉で音をかなでる者と呼ばれている」
 よろしく、という声に続いて夢主が自己紹介する。ディエゴだけが渋面を作って二人が笑顔で握手するのを見ていた。




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