14


 その日はとても蒸し暑い夜だった。
 遠くでネオンが輝くのを視界に収めながら、館の執事として主に仕えている彼は閉じられた扉と窓を次々に開ける作業を繰り返している。暗い廊下に月と星の明かりが届くと、血で汚れたタイルが酷く目に付いた。それは拭いても拭いても元を絶たない限り際限なく流れてくる。
「アイス、女の死体を片付けて下さい」
 階段を降りていた彼は執事の声に足を止めた。
「このままだとDIO様の靴が血で汚れてしまいます」
「確かに……そうだな」
 重々しい声を発し、血を半分以上抜かれて死んだ女の亡骸を片手で持ち上げた。背後の何もない空間へ無造作に投げ捨てると、ガオンッと音を立てて死体は粉々に砕かれてこの世から消え去った。
「あなたのスタンドは便利ですね」
 クスッと笑う執事にアイスは無表情のまま背を向けた。
 開け放った窓から砂漠の砂を含んだ風が吹き込んでくる。館内の蒸し暑さはその風によって少しは穏やかになっただろうか。アイスと共に暗がりへ消えていこうとした執事を、不意に上階から呼び止める声がした。
「テレンス」
 名を呼ばれただけで背筋が凍り付くようだ。一瞬で暑さを忘れた彼は階段下から上を見上げた。
「用がある。アイスも来い」
 二人は顔を見合わせた後、すぐに足を踏み出した。
 二階の植物園では枯れかけた花々を前に彼らの主である美しい男性が背を向けて佇んでいる。
「DIO様、お呼びでしょうか」
 さっと片膝を付く部下たちを呼びつけた本人は振り返ろうともしない。
「アイス、警備の方は問題ないな?」
「それはもちろんでございます。何か不手際でも……?」
「テレンス。今日、私が寝ている間に誰か訪ねてきた者は?」
「マライアとエンヤ婆、それから彼女の息子のJ・ガイルが来ましたが……」
 二人の報告を受けてDIOは長く沈黙した。痺れを切らしたテレンスがそっと顔を上げると、DIOの足の向こうに一人の女が枯れた花壇で横になっている姿が目に飛び込んでくる。
「! もしや侵入者ですか?」
 テレンスの声にアイスも顔を上げ、見知らぬ女を睨んだ。
「我が妹はどうやらスタンド使いだったらしい」
 DIOは喉の奥でクックッと愉快そうに笑うと片膝を床に着けた。つい先ほど虹色の唇を持ったスタンドに抱かれて彼女はDIOの前に現れた。夢主と会うのはおよそ百年ぶりになるだろうか。
 崩れ落ちた屋敷は壊滅状態で、人を超えたディオだけが生き残ることが出来た。火葬されたジョースター卿と共に夢主も逝ったものだと思いこんでいたのだ。
「DIO様? 今、何と……?」
 聞き間違いかと首を傾げる部下たちにDIOは二度も説明する気になれない。
「アイス、食料の女どもの血を全て抜き取って今すぐ処分しろ。テレンスは水とタオルを私の部屋に持ってこい。……行け」
 冷徹な声の命令に二人は返事をし、足早に部屋を出ていく。その足音が消えてからDIOはそっと腕を伸ばした。煙に炙られ、煤でひどく汚れてはいるが口と鼻から確かな呼吸音がある。その生きた吐息に耳を傾けつつ黒い頬を撫でた。
「夢主」
 物心ついたときから呼びあっていた名だ。劣悪な環境の中でも、裕福なジョースター家に引き取られてからも、百年が過ぎた現代でも、ディオの乾いた心を潤す事が出来るのは幼なじみの彼女だけだった。
「起きろ。何時まで寝ているつもりだ?」
 優しい手つきで肌に触れながら目覚めを促す。あの時と同じ翡翠色のドレスを着た夢主はその声に目蓋を震わせてぱちりと目を開けた。目の前で笑みを湛えているのが誰なのか、すぐには理解できなかったようだ。
「? ……ディオ?」
 炎で焼けた喉を震わせ、かすれた声で名を呼んでみる。
 そうだ、と言うようにDIOは笑みを深めた。
 体を起こそうとする夢主をDIOは両腕に抱え上げた。焼け焦げたドレスがふわりと広がって布擦れの音が部屋に響く。
「もしかして……ここは地獄?」
 戸惑いと怯え、それから確かな歓喜が目の奥で輝いていた。夢主がどうやってスタンドを身に付け、何故DIOが復活したこの時代にやってきたかなど、彼にはもはやどうでもいい事だ。
「ああ、そうだ。ようこそ……と言うべきか?」
 DIOの言葉を疑うことなく素直に信じたらしい。夢主は嬉しそうに微笑んでいる。
「素敵なところね……。だけど少し……目のやり場に困ってしまうわ」
 夢主は抱えられた腕の中で辺りを見回した後、ほんのりと頬を染めながらDIOの剥き出しの上半身をつついた。その拍子に手の中で握りしめていたハンカチがひらりと床に落ちていく。DIOは汚れたその布切れに小さなバラの刺繍があるのを見つけた。様々な記憶の中で、深く埋もれていた思い出がフッと脳裏に浮かび上がってくる。
「執事にお前の好きな紅茶を用意させて、しばらく昔話を語るとしよう」
「……地獄なのに執事がいて紅茶があるの?」
 目を丸くさせる夢主にDIOは愉快そうに肩を揺らして笑った。
 館のどこか奥深いところでガオンッと鈍い音が響いている。タオルと水差しを手に執事はすぐに部屋に現れるだろう。
 DIOはゆっくりとした足取りで階段を上り、冥府よりも暗い寝室の扉を開いて夢主と共にその中へ姿を消した。

 終




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