09


 ジョースター卿は手に持った一枚の書類をじっくりと眺めた後、おもむろにペンを取った。
「本当によろしいのですか?」
 書斎に通した専属の弁護士が再度確認するように声を発した。ジョースター卿は彼をちらりと見て静かに微笑みかける。
「構わんよ。彼らは恩人の子供たちだ。私が引き取ることに何も問題はないだろう?」
「ですがジョースター卿。私が調べたところによると、その恩人は盗みは働く、子供は殴る、どうしようもない悪党ですよ。そんな人物の子供を引き取るなどあまりに人が良すぎます。ましてや息子のディオだけでなく、何の縁も、それこそ恩すら無い小娘まで養子にするなんて……」
 深い溜息を吐く彼の目の前でジョースター卿は気にした風もなくサラサラとペンを走らせ、自分の名を書類に記した。それを見た弁護士は何か言いたそうにしていたがすぐに諦めたようだ。
「ジョースター卿の意志が変わらない以上、私がどうこう言っても仕方ありませんね……」
 彼は養子縁組の書類を鞄にきちんとしまい込み、腰掛けていた椅子から立ち上がった。
「数日で認可が下りるでしょう。では、またその時に」
「遠いところいつもありがとう」
 固い握手をすると、弁護士は軽く頭を下げて書斎を出て行った。
 ジョースター卿はデスクの上に置いたままのパイプを口にくわえ直し、深く吸い込んで吐き出した。ゆるゆると煙が消えていくのを見つめた後、引き出しから恩人の手紙を取り出す。差出名にダリオ・ブランドーと書かれたそれにはその人の品性を現すように汚い文字が並んでいる。
 先ほど弁護士が言った言葉がちらりと浮かんできて、ジョースター卿は溜息を付いた。体罰以上の事をあの二人が受けていたのかと思うと涙すら込みあげてくる。ディオや夢主を怯えさせないためにジョースター卿は鞭を二つに折って捨てた。手紙はまだ読み終えていない本の間に挟み、引き出しへと戻した。
「息子二人と娘が一人か……」
 妻を亡くしてからジョナサンには寂しい思いをさせてきた。急に家族が増えることを素直に喜んだのもその寂しさ故だろう。ジョースター卿はパイプを吹かしながら次にディオと夢主を思った。頭のいいディオは人の役に立つ素晴らしい青年になるだろうし、花のように愛らしい夢主はきっと素敵な女性になるに違いない。
 彼らが巣立っていくその日までしっかりと手元で育てていくつもりだ。たとえダリオ・ブランドーがどのような人物でも、ディオと夢主が本当は血の繋がらない他人だとしても、受けた恩を返すことは紳士として当然であるべきだ。
 パイプの中の灰を捨て、新たに煙草を詰めるジョースター卿の耳に遠くからピアノの旋律が流れてきた。雇った家庭教師の教えの下で夢主は懸命に音を奏でているようだ。その音に誘われるようにして書斎を出ると、階段の下から優しく間違いを諭す家庭教師の声が耳に届いた。
「お嬢様はよく頑張っておられます」
 彼もこの音に誘われたのか、長年仕えている執事は手すりから下を眺めて言った。
「そのようだな」
「こうして見ていると……時々、奥様を思い出してしまって」
 しみじみと語るその口調にジョースター卿も亡くした妻の姿を思い描き、若い家庭教師に重ね合わせた。自分たちの間に娘がいたらおそらく同じように並んでピアノを弾いたに違いない。
 「お母様」と呼ぶ娘に「なぁに?」と優しく返事をする妻、そこにジョナサンとディオが加わって外から帰ってきたジョースター卿を笑顔で出迎えるのだ。
「……」
 しばしの間、ジョースター卿は脳裏を埋め尽くす素晴らしい夢想に浸った。
「ただいま!」
 スクールから帰ってきたジョナサンの声が玄関に響く。
「おかえりなさい、ジョナサン」
「おかえりなさいませ、坊ちゃま」
 ピアノを止めて夢主と家庭教師が彼を出迎える。
「ただいま」
「おかえりなさい、ディオ」
 後からディオもやってきてホールは賑やかな声に満ちた。
「ジョースター卿、お茶の時間になさいますか?」
 執事に聞かれてジョースター卿は深く頷いてからパイプの火を消した。
「うむ……庭の見えるバルコニーでたまにはゆっくりとしよう」
 二階に佇むジョースター卿に子供たちは気付いたようだ。次々に「お父さん」「お父様」と声を掛けてくる。
「お帰り、二人とも。学期末のテストはどうだったかね?」
 その言葉を聞いてジョナサンは曖昧な笑顔を浮かべるのに対し、ディオは余裕の笑みでこちらを見つめ返してくる。
「夢主も練習はそれくらいにしてみんなでお茶にしよう。さぁ、おいで子供たち」
「……うわぁ、どうしよう」
 テストの点を聞かれるのではないかと冷や冷やしながらジョナサンは父の言葉に従って階段を上っていく。
「それではお嬢様、続きはまた明日に」
「はい、先生」
 パタンと鍵盤の蓋を閉じる家庭教師を置いて夢主はディオに駆け寄ると、不安そうに話しかけた。
「お父様に間違えたところ聞かれたかしら?」
「気にするな。お前の腕が未熟な事はここにいる全員が知ってる」
 ディオにクスッと笑われて夢主は少しだけ唇を尖らせる。
「ほら、来いよ。お父さんを待たせるな」
「うん」
 ディオが差し出した手を掴んで夢主もジョナサンの後を追いかける。そうして三人が階段を上ってくるのをジョースター卿は笑顔で眺めていた。


 暖かな陽気の中、ひらひらと蝶が舞い飛ぶその向こうで焦げ茶色の馬が草を食べている。青空の下で尻尾を振る姿を見ていると穏やかな気持ちになってきた。
「こっちにおいで、ニンジンあげるから」
 捻挫した右足を庇いつつ、夢主はゆっくりと動いて手に持ったおやつを見せた。乗馬を習い始めた彼女のためにジョースター卿が買い与えてくれた馬だ。大人しい性格の雌馬は夢主の呼びかけに応えてすぐに近づいてくる。差し出されたニンジンをあっという間に食べ終えると、清らかな丸い目に幼い少女を映した。
「せっかくいい天気なのに。つまらない」
 長い鼻面を撫でながら夢主はそう愚痴る。まだ痛みが引かない右足を恨めしそうに見下ろして小さな溜息を吐いた。
 貴族のたしなみとして乗馬訓練を行うジョナサンとディオを羨ましそうに眺めてた頃が懐かしい。その熱心さを見かねたジョースター卿が、
「夢主も乗馬を習ってみるかね?」
 と言ったのが全ての始まりだ。歓声を上げて喜ぶ姿にジョースター卿は柔らかな笑顔を向けてくれた。しかし順調だったレッスンは馬の足下を走り抜けた鼠によって滅茶苦茶になった。驚き暴れる馬から振り落とされた夢主は大きな怪我こそ無かったものの、右足を痛めてしまったからだ。
「早く治らないかな」
 治ったらまたレッスンを受けたい。そう願う夢主にジョースター卿は今度はいい顔をしなかった。妻を亡くした馬車の事故を思い起こさせてしまったようで父親は曖昧に言葉を濁すばかりだ。
「夢主、怪我はどうだい? 無理をしたら駄目だよ」
 そう言って馬上から話しかけてきたのは真新しい乗馬服に身を包んだジョナサンだ。手入れされたブーツがつやつやと輝いている。濃い茶色の馬に乗った彼は乗馬帽の下から心配そうに見つめてきた。
「だけど、ここでじっとしてるのも飽きちゃった」
「そっか、確かに見ているだけじゃつまらないだろうね」
 血の繋がりのない夢主をジョナサンは兄という新たな役割を真面目に果たそうとしてくれる。
「そうだ! 僕の馬に相乗りするといい。向こうに君の好きそうな花畑があるから連れて行ってあげるよ」
 何を考えているか分からないディオとは違い夢主は大人しくてとても素直だ。喜びも悲しみも偽ることが出来ない。今もぱっと笑顔になって身を乗り出してくる相手がジョナサンは素直に嬉しかった。
「本当? いいの?!」
 馬に乗りたくて仕方なかった夢主は右足を庇いつつ喜んでジョナサンに近づいた。
「おいおい、勝手な事をしてまたお父さんを悲しませたいのか?」
 そこへ割り込んできたのはディオだ。彼も新品の乗馬服を身に着けて目が眩むほどに真っ白な馬に跨っている。春の日差しを受けて輝く金髪を揺らし、乗馬帽の下から二人に冷たい視線を向けてきた。
「それは……」
 彼の口から出たお父さんという言葉に夢主は見る間に項垂れてしまった。深く眉を寄せて心配してくれたジョースター卿を思い出すと、事故とはいえ心は罪悪感で一杯になる。
 そんな風に肩を落とす夢主を馬上から見下ろしつつディオは数日前の事故を思い出した。
 落馬は一瞬にして命を失う危険がある。それほど速く走っていなかったため彼女は無事だったが、もしも打ち所が悪かったら……と思うと改めてゾッとするほどだ。
「ディオ、どうしても駄目?」
 夢主から縋るように見上げられてディオは眉をぴくりと揺らした。こんな風に頼られる事が何よりも弱い。まるで庇護を求める幼鳥と、守り甘えさせる親鳥のようだ。そしてそれを幸福に感じるのだから己はとんだマヌケだと思う。
「はぁ……少しだけだぞ」
「! いいの? ありがとう!」
 仕方なさそうなディオの言葉に笑顔を取り戻した夢主は、スポーツで鍛え上げた腕に軽々と持ち上げられ、ディオの前へ横座りに腰掛ける。
「また落ちるなよ」
「大丈夫。ディオこそちゃんと歩かせてよ」
 背中を支えてくれるしっかりとした腕を感じつつ、夢主は馬のたてがみを優しく掴んだ。そうして二人を乗せ、馬はゆっくりと歩き始める。
「……」
 隣で成り行きを見ていたジョナサンはどこか不思議な気持ちが渦巻くのを感じた。これまでディオから嫌がらせを受け、時に激しい喧嘩をしてきた彼が妹にだけそうした一面を見せるのも意外だが、何よりも……
「どうした、ジョジョ。君が案内してくれるんだろう?」
 これまでの確執がまるで嘘のようだ。ディオは何事もなかったような表情で親しげに名を呼んでくるではないか。それに伴いこれまであったジョナサンの不利な噂はいつの間にか消え去っていた。
「ああ、うん……こっちだよ」
 ジョナサンは馬の腹を蹴って彼らの前に歩み出る。エリナやダニーの件は未だに引っかかっているものの、証拠のないディオを疑う事は出来なかった。
「結構、揺れるね」
「フン……なら降りるか? 厩舎で大人しく待っていろよ」
 ジョナサンの数歩後ろで夢主は首を横に振り、降ろされないようにとディオの胸にしがみつく。
 そんな幼い態度を笑うディオを見てジョナサンは彼を疑惑する自分の醜い心を恥じた。こうして改めて見ると勉強もスポーツも出来て、妹想いのいい兄ではないか。父親のような紳士になるためにもこれまでの事は水に流し、友として接してくるディオと新たな友情を築くべきだ。
「ねぇ、二人とも。今度の週末にラグビーの試合があるだろう? 観戦しに行く父さんに頼み込んで、僕らも連れて行ってもらおうよ」
「ラグビーか……それなら夢主、お前が頼んでみろよ」
「私が?」
「どこにも行けなくてつまらないって言ってただろ。丁度いいじゃあないか」
「うん、それがいい! 父さんも君の頼みなら聞き入れてくれそうだ」
 早くも試合を見に行けるとジョナサンは喜んでいる。どこかに行きたいと願っていた夢主は少し考えてから彼らの意見に賛同した。
「じゃあ一度、お父様にお願いしてみるけど、もし断られても落ち込まないでね?」
 夢主は不安そうに言うが、ジョースター卿が娘に甘いことはもはや屋敷中の誰もが知っている事だ。きっと連れて行ってくれるだろう。そんな確信を持ったジョナサンは笑顔で何度も頷いてみせる。
 のんびりと歩く馬の足音と、三人の楽しそうな喋り声が緑の草原にいつまでも響いていた。


 昨夜の吹雪が嘘のようにピタリと止み、淀んだ雲の隙間から数日ぶりの青空が姿を見せた。それを眩しそうに眺めるジョースター卿のもとにメイドの一人が熱い紅茶を運んでくる。
「ありがとう。今日のように寒い日はこれに限るな」
 ジョースター卿は朗らかな表情でそう言うと、ウィスキーの小瓶を傾けて紅茶の入ったカップに数滴垂らした。向かいに座るディオのところまでその香りがふわりと漂ってくる。自分の限度と適量を知り、酒に呑まれることのないジョースター卿はディオの実父とは大違いだ。
「ディオ、君も少しやるかね?」
「いえ、僕にはまだ早いですよ」
 嗅ぎ慣れた酒の匂いに薄汚いパブでの生活が脳裏に浮かんで消えた。ディオはその不快感を押し込めながらチェスの駒を進める。暖炉の火が揺らめくリビングで、ディオは生活のための賭ではなく純粋なゲームとしてジョースター卿とチェスを楽しんでいる最中だった。
「さて、次の手はどうしたものかな」
 ブランデー入りの紅茶を一口飲んでジョースター卿はボードの上を眺める。しばし考え込むジョースター卿と砂糖を入れた紅茶を飲むディオの耳に、突然、外から弾けるような笑い声が届いた。大きな窓の向こうは一面が雪に覆われた庭園だ。春には美しく咲き乱れていた花々も今は冷たい白雪の下に埋もれてしまっている。
 そんな中、針葉樹に積もっていた雪が外で元気に遊ぶジョナサンと夢主の頭の上に落ちてきたらしい。二人はひとしきり笑った後で、分厚いコートから雪を払い落としていた。
「ジョナサン、大丈夫?」
「夢主こそ平気かい? お互い帽子まで真っ白だね」
 ジョナサンの大きな手が毛糸で編んだ帽子を撫でる。ぱらぱらと落ちていく雪がくすぐったかった。
「追いかけっこは引き分けね。次は何して遊ぶ?」
「じゃあ、雪だるま作ろうか」
 ジョナサンの言葉に夢主はぱっと笑顔を浮かべた。
「庭中の雪を集めてお父様やディオが驚くぐらい、すごく大きいの作りましょうよ」
「よーし、まかせて!」
 ジョナサンは手袋をはめた手で小さな雪玉を作り、それを転がしながら少しずつ大きくしていった。夢主も彼と一緒になって雪だるまを作ることに夢中になっている。時々、勢いがつきすぎて派手に転けて笑い合う二人を、ジョースター卿とディオがしばらく眺めていた。
「二人とも大騒ぎだな」
 ジョースター卿は庭ではしゃぐ二人を見て苦笑する。愛犬のダニーを亡くし、ふさぎ込んでいたジョナサンも今ではそれを乗り越えたようだ。まるでダニーの代わりを務めるように明るく振る舞う夢主が癒しになったのかもしれない。
「雪が珍しいのでしょう。ロンドンでは馬車のためにすぐ掻き出されてしまいますから」
 わずかな青空の下、子供らしく遊ぶ二人を見てディオは溜息混じりの言葉を吐いた。雪でのんきに遊ぶほど広い庭もその余裕もなかった……そんな風に今と昔をいちいち比べてしまう自分に嫌気が差してくる。
「どうりで夢主が楽しそうなわけだ」
 二つ目の雪玉を転がす息子と愛娘を眺めつつジョースター卿は紅茶を飲む。そのうち雪を見るのも嫌になるくらい本格的に降り積もってくるだろう。そのわずかな合間をああして楽しんでいる二人に笑みがこぼれた。
「風邪を引かないといいのだが」
 鼻を赤く染め、白い息を吐く二人を見て父親はぽつりと呟く。
「……」
 ディオはジョースター卿の心配をよそに、どこか苛ついた表情でチェス駒をボードにカツンと叩き付けた。


 三段重ねの大きな雪だるまに今夜も容赦なく雪が吹き付けている。ジョナサンが巻いたマフラーは凍りつき、夢主が鼻として用意したニンジンにはいくつものツララが伸びていた。
 数日前、家の者が熱を出したとの知らせを受けて医者が街から駆けつけた時、貴紳と名高いジョースター邸は咳と鼻水の音で満たされていた。
「どうぞ、こちらです」
 医者を執事が奥へと案内する中、風邪を邸内に流行らせてしまった夢主は小さな肩をさらに狭めて部屋から廊下を窺った。誰もいない廊下を足早に走り抜けて一番奥の主寝室をそっと覗き込む。
「どうやら熱も下がりきったようですし、明日からは普通に生活しても大丈夫ですよ」
「そうか、それはありがたい」
 医者とジョースター卿のそんな会話が聞こえてきて夢主は心底ホッとする。
「よかった……」
 雪にまみれてジョナサンと遊んだ翌日、二人は高熱を出して倒れた。看病をしてくれたメイドに執事、ジョースター卿とディオにまでウィルスは容赦なく襲いかかったようだ。
 夢主とジョナサン、それから体力のある若いメイドと執事がいち早く快復した今、邸内から病を追い出すことが何よりも重要な事だった。
「ですがジョースター卿、無理は禁物です。薬を飲んでどうか安静に」
「分かっているよ。ありがとう」
 医者が部屋を去る気配がして夢主は暗い廊下に身を隠す。医者と執事が一階へ去ると夢主は暗がりから出て、とぼとぼと自室を目指した。帰り際、ジョナサンの部屋から明かりが漏れている事に気付いたが今はとても声を掛ける気にはなれなかった。元気になった彼は受けられなかったテストのために猛勉強をしているところだ。そこを通り過ぎて夢主はディオの部屋にそっと潜り込んだ。
「ディオ?」
 潜めた声で名を呼んでみる。いつも灯されている明かりは落とされ、読書を楽しんでいる姿はない。寝台の上で目蓋を閉じたディオに近づき、夢主はその額に乗った濡れタオルを静かに手に取った。
「ごめんね、ディオ……」
 風邪をうつしてしまった負い目から夢主はここ最近、彼の顔を正面から見る事が出来なかった。密かに詫びた後、タオルを水の張った桶に浸してぎゅっと絞る。それを再び額に戻して夢主はディオの寝顔を眺めた。
 幼い頃から見てきた馴染みある顔だ。殴られて口の端を切っても彼の目は濁るどころかますます凄みを帯び、研がれた氷刃のように美しい。生意気な小僧だと誰もがあかしたがった鼻はスッと伸び、他人を嘲笑う不敵な唇は凛々しく引き結ばれている。
 ふわりとした金色の髪を枕に散らして眠るディオを夢主は改めて見つめ直す。貴族に引き取られなくても、彼ならば舞台の花形役者として有名になれたかもしれない。そんな事を想像して夢主は小さく笑った。
「……ぅ、」
 ディオが身動いだ瞬間、額からタオルが滑り落ちる。それを受け止める夢主の手首をディオが勢いよく掴んできた。少し潤んだ目が実に辛そうだ。病に伏しているディオの姿に罪悪感が重くのし掛かってくる。
「夢主……」
 アイツは? と呟きかけたところでディオはすぐに口を閉じた。酒臭い誰かの帰宅を確認する必要はもう無いのだと気付いたからだ。ジョースター邸の豪華な室内と可憐なネグリジェに身を包む夢主の姿を目に映し、ディオは頭を振ってゆっくりと身を起こした。
「大丈夫? お水、飲める?」
 ディオの背中を支え、用意されてあった水差しからグラスに水を注いだ。
「はい、どうぞ」
 差し出された水をディオは一息で飲み干す。二杯目を注ごうとするのを制して、ディオは空のグラスをサイドテーブルに戻した。
「何か食べたいものは?」
「いいから……部屋に戻れよ。また風邪を引いても知らないぞ」
 落ちたタオルを自ら額に乗せて気怠げな息を吐く。ディオがそう言っても夢主は側を離れず、真剣な表情で謝ってきた。
「ごめんなさい……ディオもテストで忙しいのに風邪なんかうつしちゃって」
「別に、これくらい平気だ。それにジョジョとは違ってテストはすでに終えてある」
 ディオが慰めるように言っても夢主は表情を曇らせ項垂れるばかりだった。
「おい……よせ」
 昔から見てきた泣き顔も今だけは目にしたくなかった。ジョナサンと楽しそうに遊ぶ姿を見てからというもの、ディオの胸の奥で行き場を無くした黒い炎が揺らめいている。
 身も心も幼い夢主を守り、頼られることが当たり前だと思っていたことが一瞬にして覆されてしまった。自分以外の誰かと親しくする夢主を見るのが酷く辛い。そう思ったのもあの日が初めてだった。
「夢主」
 溜息混じりのディオの声に夢主はこぼれ落ちそうになっていた涙を袖で拭う。
「お前……もし俺が死んだらどうする?」
「! そんなに重病なの?!」
 夢主は驚き、大きく目を見張った。
「馬鹿、たとえばの話だ。俺が死んでも今ならジョースター卿が養ってくれる。広い屋敷で好きな物を食って平和に暮らしていける……そうだろ?」
「嫌よ……もしもなんて考えたくない」
 どこか怒ったような表情で首を振る相手にディオはクッと笑った。
「じゃあ、死ぬ、死なないは別として……この家から出て行ったらどうする?」
「え!?」
「早とちりするな。大人になってからの話だ」
 何故急にこんな話をするのかさっぱり分からない。話を早く切り上げて安静にさせた方がいいと思う夢主の心をディオの言葉が次々に切り裂いていった。
「嫌……! 絶対に嫌ッ!」
 両方の二親が亡くなってあの狭い部屋に取り残されたのはディオと夢主だけだ。今まで挫けなかったのは、常に前を向き、進み続けているディオのおかげだと思う。そうでなくてもこれ以上、身近な人を失いたくはなかった。特にディオとは幼馴染みの友人で誰よりも心を許し、信頼する相手から離別を言い渡されたら……
「おい、だから……聞いているのか?」
 止まっていた涙が決壊し、震える夢主の手や床にぽたぽたと落ちていく。わぁっと泣き始めた彼女をディオは慌てて抱き寄せた。泣き声を耳にしたメイドに駆け込まれては困った事になる。
「ディオのいじわるっ、酷いことばっかりいって……!」
 涙で汚れた顔をディオの胸に押しつけて腹立たしげに背中を叩く。
「おいおい、病人だってこと忘れてるんじゃあないか?」
 わざとらしい咳をするディオに夢主は背中を叩くのを止めた。大して痛くもない拳が解かれ、今度は労るように撫でてくる。
「ごめんなさい……」
 渋々と謝ってくる夢主の体を抱いてディオはその柔らかさに安堵する。彼女の中で自分の位置は決して揺るぐことがないだろう。きっとディオが家を出て行くにしても、死ぬにしても夢主は必ず追いかけてくるに違いない。そんな妙な確信すらディオは感じた。
「お前が俺をどれほど大事に思っているかよく分かった」
「……あ、あのね、違うのよ……だってディオは、その……」
 何だか淡い恋心まで見透かされているようで夢主は焦りながら訂正する。
「ああ、分かってるさ。お前は俺にとってたった一人の妹だ」
 ジョースター邸で毎日繰り広げられている偽りの家族ごっこもいずれは終焉を迎えるだろう。自分の手で家名を握りつぶすその日まで、この茶番劇に付き合わなくてはならない。ディオは額を夢主の首筋にすり寄せ、その少し冷えた肌を心地良く思った。
「……」
 一方、ディオの言葉を真正面から受け止めた夢主は今までで一番深く胸をえぐられて、肺から全ての空気が抜け出してしまった。ディオの背中から手を落とし、窓の外で輝く月をぼんやりと見つめる。
 あまりに悲しくて、もはや涙すら出てこなかった。




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