07


 明かりはすべて落とされて、窓から差し込む月の光だけが寝台で眠る女の姿を照らし出している。ベッドサイドには携帯と半分ほど減った酒瓶が置かれ、強いレモンの香りがそこから漂ってきた。シチリア産リモンチェッロと銘打たれたそれに手を伸ばし、DIOは口をつけて呷ってみる。
「強いな」
 ウォッカやスピリタスなど度数の強い酒にレモンの皮を漬けて風味を移したものだろう。程よい酸味と何よりも爽やかなレモンの味が美味しい。甘いシロップも加えられているのか、水で割って飲めばさらに美味しい一杯となるはずだ。
 DIOは湿った唇を舐めて酒瓶を戻した。付き合いで酒はたしなむ程度の彼女が、寝床にまで持ち込むほど気に入ったようだ。気分が高揚した時などは特に飲んでしまうので、そのせいでもあるのだろう。リゾットの話からその理由を察したDIOは薄く笑った後で、横向きで眠る夢主の額を撫でた。
「しばらく見ないうちに焼けたな」
 寝衣から覗く肌に指を滑らせて、その変わり様を確かめる。足首から太股、手首から肩へ……青白かった肌はまるで火に焙られたパンのように、ほんのりとした小麦色になっていた。ちらりと見える水着の跡が毎日のように海で泳いだことを教えてくれるし、生地で隠れていた部分との差が妙な色気を湛えているように見えた。
「……うーん」
 誘われるようにDIOが指を這わせていると、くすぐったさに夢主は身を捩って離れようとする。寝返りを打って仰向けになった相手の首にネックレスが輝いているのが見えた。細い鎖に通されたのはDIOが贈った指輪だ。また無くすことを恐れたのか、サイズの合わない指よりも確かな方法で身に着けることを選んだようだ。
「……これは?」
 しかしそれ以上に気になったのは、まるで幼子が抱くぬいぐるみのように胸に抱えた男物のシャツだ。着ていた本人が見間違うはずもなく、それは確かにDIOの物だった。
「私を枕に眠るとは……随分と可愛いことをするではないか」
 夢主が起きていたらどんな言い訳をするだろう。それを最後まで聞いてみたいが、泥酔して眠る相手は一向に起きる気配がなかった。すぐに諦めたDIOは靴と上着を脱ぎ捨てて、空いたベッドの隙間に身を横たえる。いつも以上に手狭だがそんな事は気にもならなかった。
「……DIO?」
 ベッドが沈む気配に気付いたのか、とろとろに寝ぼけた声で名を呼ばれる。DIOは返事をせずにただ視線を合わせて顔を覗き込んだ。
「指輪……あったよ……」
 だらしない笑顔を浮かべてまた眠りに落ちていく。腫れぼったい目元に残る涙の跡がここ数日のすべてだろう。DIOは声を飲み込んで笑みだけを浮かべる。
(この私が気付かぬわけがないだろう)
 リゾットに言ったことは本当だが、ほんの少し嘘も混じっていた。サイズが合わないなど、夢主の指に通した瞬間に分かっていたことだ。あえてそのままにしたのは、後日、店に向かう口実を手に入れたかったのと、彼女の反応が見たかったことがある。
 それからもう一つ……何よりもDIOの事を強く意識させることだ。その点に置いては紛失したことで目的は達したと言えるだろう。
「早く私のものになれ」
 身近に居ても不安になるように、離れれば離れただけ恋しく想うように、その乱れる心のすべてを手中にしておきたい。獲物を捕らえる蛇のような輝きを目に宿しつつ、DIOは鎖を解いて指輪を手にする。
 人はただの石である宝石に様々な意味を与えて思いを込めるが、DIOはそんなものよりも物質的に繋げておきたいだけだ。リゾットが懸念する以上の執着心を持って、再び左手の薬指に指輪を通す。一般的に見れば婚約した証だが、それだけではあまりに心許なく、何より物足りなかった。
「愛を深め、心を受け入れる……それも永遠に」
 石を用意させた宝石商の言葉にDIOは新たな意味を込めて復唱する。
 再び輝きを戻した指に口付けを捧げたあとは、夢主を抱いて朝日が昇るまでのわずかな逢瀬を惜しむことにした。


 窓の外に広がった青い海が少しずつ離れていくのを寂しく感じながら、勢いよくスピードを上げて追い越し車線を駆け抜けていく。揺れる車内では来た時と同じメンバーが揃ってはいるものの、全員が海を見るどころではない顔色でぐったりとシートに体を預けている。
「気分はどうだ?」
 ハンドルを握ったリゾットは助手席の夢主に話しかけたつもりだったが、先に後部座席に座ったギアッチョが口を開いた。
「最悪だぜ……気持ち悪ぃ」
「言うなよ、俺だって気持ち悪い」
 ホルマジオたちが持ち込んだアメリカ土産を飲めるだけ飲んだらしい。生きた屍と化したメンバーの中で、DIOが居るからとあまり口をつけなかったリゾットだけが二日酔いを免れたようだ。
「そんな調子で明日から動けるのか?」
 苦笑混じりの声に誰も返事をしなかった。今頃はジェラートたちも同じように唸っているだろう。バイクで来たメローネと運転役のペッシは酒が抜けるまで、未だ別荘で休養中だ。自分たちももう一日くらいは休暇を伸ばすべきだったか……、とわずかに悔いながらリゾットはアクセルを踏み込む。
「うぅ……私も気持ち悪い」
 なくし物を見つけた喜びのまま、勧められる酒を次々に飲んでしまった。リモンチェッロが美味しすぎたのも一つの原因だっただろう。気に入って買い込んだ瓶が後ろでカチャカチャと音を立てるのを夢主は青い顔で聞く羽目になっている。
「すごくいい夢を見たのに……」
 DIOが忘れていったシャツを抱いて寝たのが良かったのだろう。嬉しさのあまり何も考えられなくなっていたことも一つの要因かもしれない。朝、波の音で起きた時にふわりと漂ってきたDIOの残り香に、夢主は幸せな気持ちと妙な寂しさを覚えて泣きそうになってしまった。
(これも早く直さないと)
 ネックレスが外れていた時はまたかと大いに焦ったが、どうやら首か喉を掻いた時に外れてしまったらしい。一体どんな偶然が起きたのかは本人にも分からないが、また同じ指に嵌まっているのを見た時はしばらく何も言うことが出来なかったくらいだ。
(ああ、でもDIOに何て言えば?)
 何度も無くすのは嫌だから、と言うのは違う気がする。サイズが合っていないのは彼も知っていることだ。その内に直してもらおうと言っていたが、DIOと宝石店なんて気が引けて仕方がなかった。
「悪いリゾット……俺、もう無理」
「次のサービスエリアで休憩するか」
 イルーゾォの深刻な声にリゾットがそう返事するのを聞いてホッとしたのもつかの間、車が更に加速したのを体で感じ取る。ウッと口元を押さえた後ろの二人のためにスピードを落としてやりながら、少しでも気分が良くなるように陽気な音楽を流すラジオをかけてやった。
(色々あったが、いい休暇だった)
 故郷の青い空と海に癒やされたのは確かだ。久しぶりの墓参りも出来たし、夢主の体調を治すことにも成功した。ちょっとしたハプニングはあったが、今となっては愉快な思い出話だ。
 リゾットは遠ざかる海に早くも来年の夏への思いを馳せながら、パレルモへの道を走り抜けていった。

 終




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