05


 ナポリの夜景を船室から眺めながら眠りに落ちたのが昨日の夜のことだ。
 スッキリと晴れた空と青い海が写り込む窓を見て、メローネは大きなあくびをついた。
「あと少しでパレルモかぁ……」
 下船時刻まであと一時間もない。朝食は済ませておきたかったが、今から食堂に行って慌てて腹に詰め込むのはいい案とは思えなかった。出来ることなら朝はのんびりと過ごしたい。すぐ近くに可愛い女の子がいて、くすくす笑いながら自分のくだらない話を聞いてくれるのが望ましい。
「あーあ、いいよなぁ……リーダーは」
 シチリアに行くなら行くと、もっと早くに言って欲しかった。もちろんメローネだってここ数日の休暇は楽しかったが……少しだけ損した気分だ。
 ベッドからゆっくりと起き上がったメローネは、備え付けの小さなシャワー室で湯を浴びて目を覚ます。伸びた髭を剃り、乱れ飛んだ髪を時間を掛けて整えたら黒いライダースジャケットにライディングパンツ、それにブーツを履いてヘルメットを片手に抱え込んだ。
 入港のアナウンスが流れる通路を歩いていると、観光客の中でも若い女性陣たちから向けられる熱い視線を肌身に感じ取る。思いの外、長旅になったのでいつもより重装備だが逆にそれが良かったらしい。
「やだぁ、格好いい……」
「モデルかな?」
 その言葉に気を良くしたメローネが「チャオ」と声を掛ければ、きゃあっと声を上げて喜んでくれる。
(リーダーに呼ばれてなかったら相手したのに……残念)
 船が入港を終えて乗客や車を次々に降ろしていく中、メローネも車両甲板に出て愛車のバイクに跨がった。荷物は最低限で身軽なものだ。一番最後に船を出るとメローネはすぐに速度を出して車と歩行者を次々に追い抜いていく。迷うことなく高速道路に乗って、あとはもうリゾットたちのいる別荘に向けてひたすら走り続けた。


「メローネ、今すぐ来れるか?」
 そんな第一声を聞いて反射的に携帯を取ってしまったことを後悔する。
「え、なに? 急にどうしたのさ?」
「……今すぐ来れるか」
 電話越しに聞くリゾットの低い声はほとんど脅し文句だ。いいから来い、と言っているに等しい。
「何かあったの?」
「シチリアの例の別荘に居る。夢主の様子がおかしい」
 それだけを言い残して通話は切れた。メローネは携帯画面を眺めながら濡れた髪をガシガシとタオルで拭く。身に着けているものは数時間前に脱いだ勝負パンツ一枚で、廊下の向こうに見える寝室では疲れて眠りに落ちた女の顔がちらりと見えた。
「……それなら仕方ないか」
 一夜限りの相手に今後の予定をどう切り出そうかと思っていたが、リーダー直々の命令なら諦めもつくというものだ。連絡先を書いたメモを冷蔵庫に貼り付けて、さっさと部屋を後にしたのが一日前の話だ。
 ミラノからバイクを飛ばしてナポリへ、そこから夜行船に乗ってメッシーナ海峡を渡り、青い海に囲まれたシチリア島へやってきた。昨夜はたっぷりと寝て体を休ませたので気力体力ともに充分だ。
「あっ! クソ、水着買うの忘れたなー」
 視界が開けた瞬間、飛び込んできた海の地平線に向かって無念そうに呟く。
 十日ほど前にギアッチョが運転し、四人を乗せた車と同じ道筋を辿りながらメローネは徐々にバイクの速度を落としていった。別荘地帯の路地を抜けて一番奥にある大きな建物へ乗り込んでいく。
「はぁ〜、やっと着いた……」
 門を抜け、車の横に長旅を終えたバイクを停めるとすぐにヘルメットとジャケットを脱いだ。照りつける熱い日差しと潮風が何よりも心地いい。待たされるのが嫌でベルを何度も鳴らすと、バンッと大きな音を立てて扉が勢いよく開いた。
「テメー! 何で来やがったッ!」
「リーダーに呼ばれたからだよ。はい、ギアッチョにお土産〜」
 持っていた汗臭いヘルメットとジャケットを気難しい同僚に押しつけると、間髪入れず外に向かって勢いよく放り出されてしまった。メローネはその間にするりと中に入り、ここまで呼びつけた本人に声を掛ける。
「リーダー、ミラノからわざわざ来てあげたよ。あとこれは領収書」
 高速道路と船の料金、それからガソリン代が書かれた領収書をテーブルに置いて辺りを見渡した。釣り具の手入れをしているペッシ、ワイン片手にテレビを見ているプロシュート、浜辺では日光浴をしているイルーゾォの姿がある。
「何だ、チームのほとんどが来てるじゃん。俺も誘ってくれれば良かったのに」
「一番最初に休みを取ったのはテメーだろうが。誘うも何も、その場に居なかった野郎に文句言われる筋合いはねぇぞ」
 しかめっ面のギアッチョに文句を言われてメローネは肩を竦める。
「それで? 様子がおかしいっていう俺の可愛いお姫様はどこにいるんだ?」
 その質問にリゾットは海を指差す。寝転んで肌を焼くイルーゾォのその先で、海面から勢いよく顔を出して息継ぎをする夢主の姿があった。普段では見ることの出来ない肌を惜しげもなく晒し、大きく息を整えた後でまた水中に潜っていった。
「うっ……水着……最高じゃあないか」
 メローネの視線はそこに釘付けになる。今すぐ近くにいって無遠慮に眺めてやりたい。嫌がる様子もまた最高にベネだろう。
「四日前からだ。日中はああして潜り続け、俺が上がれと言わない限り夢中になっている」
「海が好きなんだろ? 別にいいじゃあないか」
 まさかそれだけのことで呼ばれたのか、とメローネは溜息をつきたくなる。
「そう思うか? 指がふやけ、水を取るのも忘れるほどだぞ? 今日も朝早くから海に潜り続けている」
「ふぅん……で、その理由は?」
「それが分かっていればミラノから呼んだりはしない」
 どこかムッとしたような声にメローネは驚きを持ってリゾットを見つめ返した。
「えっ、本人に聞けばいいじゃないか」
「もう何度も聞いた。そしてその度に何でもないとはぐらかされた」
 眉間に皺を寄せるリゾットをメローネはまじまじと見つめる。同室で暮らす二人は傍目から見てもとても仲が良い。大人しい彼女と口数の多くないリゾットは他のメンバーの誰よりも性格の相性が良かったのだろう。いつ部屋に行ってものんびりとした空気が流れていて、最初こそ戸惑ったものの今ではそれが普通になっているほどだ。男女の枠を越えた親子や兄妹のような付き合いからして、何でも話し合える理想的な関係だとメローネは勝手に思っていたが……どうやら違ったようだ。
「リゾットや俺にも言えねぇコトなんだろーぜ」
「ギアッチョは分かるとして……まさかプロシュートも?」
「何で俺は分かるんだよ」
 舌打ちをするギアッチョを置いてメローネは驚いた顔でプロシュートを見る。自分よりも女の扱いに長けた彼で無理なら、後はどうしようもない気がするのだが……
「あいつは妙なところで気を遣うことがあるからな……チームの迷惑になると思い込んでいるのか、それとも俺ら男には言えないことか……そのどちらかだろうぜ」
「……いまさら遠慮など……」
 リゾットが物悲しい顔つきになるのを見てメローネは頬を掻く。いつの間にかリーダーも表情豊かになったものだ、と感心さえした。
「それなら俺がここに来たからって何も変わらないと思うけど……」
 メローネだってチームの一員だし、髪は長くとも男だ。やっぱり無駄足じゃないか、と座り込みそうになるのをギアッチョが足で蹴って遮った。
「テメーなら何でも聞けるだろーが」
「えっ」
「その分厚いツラの皮が飾りじゃねぇところを見せてくれ」
 ワイングラスを掲げて笑うプロシュートにペッシが大きく頷いている。ギアッチョとリゾットも同意見のようだ。
「俺ってそんなに図太く見える?」
 これでも繊細なんだけど……と呟くメローネを全員が無視した。プロシュートはさっさと行けと浜辺を指差すし、ギアッチョとペッシもそれを急かすように追い立ててくる。リゾットからは「頼んだぞ」と念を押されてしまった。
「ちぇっ……何だよ、ズルいよなぁ〜」
 嫌な役を無理矢理に押しつけられたような気分だ。メローネは渋々とテラスへ向かった後、ブーツを脱いで熱い砂を素足で踏みつける。イルーゾォが寝転ぶパラソルへ小走りで移動し、そのままの勢いで海に飛び込んだ。
 汗が流れ落ち、幾分さっぱりした心地でザバザバと海水をかき分ける。特に何もない浅瀬でシュノーケリングを楽しむ夢主に近付いて、その無防備な背中を指でこちょこちょとくすぐってやった。
「おーい、いつまで潜るつもり? 泡になって溶けても知らないぞ〜」
「!?」
 水中でゴボッと息を吐きながら慌てて起き上がる彼女に、メローネはにっこりと笑顔を見せる。
「メローネ!? びっくりした! いつ来たの?」
「今来たとこだよ。いや、それより……俺の方がびっくりだ」
 可愛い水着と日に焼けた肌に目を奪われつつ、水中眼鏡とシュノーケルを外した夢主の顔を見てメローネは眉を寄せる。
「どうしたんだよ、それ……」
 なるほどこれではリゾットたちが心配するのも無理はない。彼女の目の下には大きなクマが作られ、唇は紫色で顔色も決して良い方ではなかった。
「何かさぁ、痩せてない? ご飯ちゃんと食べてる?」
「た、食べてるよ……」
 慌てて視線を逸らし、顔を隠すように水中眼鏡を掛けようとするその手をメローネは掴む。シュノーケルと共に海面へ落とした後、力尽くで引っ張って浜辺へと歩かせた。
「メローネ? 私、まだすることが……」
「そんなの後でいいだろ」
 何度も海を振り返る夢主を無視して別荘内へ押し込める。リビングでリゾットたちが居たたまれない表情をするので、つい文句が出てしまった。
「もっと早く呼べよッ!」
 シチリアでのんびり過ごしているとばかり思い込んでいた自分を殴りたくなる。こんな顔色で夏を楽しんでいる訳がない。メローネはそのまま引っ張って二階にある夢主に割り当てられた部屋の前まで彼女を連れて行った。
「メローネ、痛い……」
「ごめん……強く掴みすぎたね。でもさ、こうでもしないとまた泳ぐつもりだったでしょ?」
「それは……」
 そわそわと落ち着かない様子にメローネは呆れを通り越して怒りが込み上げてきた。
「体もこんなに冷え切ってる……それなのにリゾットは見て見ぬ振りしてるのか?」
「ううん、何度も上がれって言われたけど、私がもう少しってワガママいったから……リゾットは悪くないよ」
「そう? じゃあ君のせいだ。でもさ、少しは自分の体を気遣ったら? 酷い顔だぞ」
「そんなに?」
「ああ。死にたてのゾンビみたいだぜ」
 そう言って部屋を開けようとするメローネの手を夢主が上から押さえつけた。
「心配かけてごめんね……少し休むから」
「本当に? こっそり抜け出たりしない?」
 力なく笑って頷いてみせる相手をメローネは険しい表情で見つめる。すでに何度も抜け出しているのだろう。そのことが直感で分かった。
「じゃあ、また後でね」
 ドアを小さく開けて部屋に入り、すぐに閉めようとする。そんな夢主の様子に苛立ったメローネは扉の間にサッと足を挟みこんで力尽くで押し開いた。
「メローネ!?」
 押し止めようとする夢主を無視して部屋の奥へ入り込む。そして自分の目を疑った。
「……これ、どうしたの?」
 無言で俯く夢主から室内に視線を戻してもう一度聞きたくなってくる。ベッドのシーツは剥ぎ取られ、服という服が引っ張り出されている。化粧品や小物はテーブルの上に転がされて、旅行鞄はひっくり返っていた。
「まさか泥棒?」
 もしそうなら随分と勇気のある盗人だ。暗殺チームが滞在していると知った上での犯行なら、なおのことその勇気を讃えてやりたい。
「ち、違うの! これは……その……」
 夢主の言葉の続きをメローネは無言で待つ。違っても違わなくても、とにかく説明して欲しかった。
「泥棒じゃなくて……自分でしたの」
「夢主が? 何で?」
 言葉に詰まる相手の顔を覗き込んだメローネはまた自分の目を疑った。ぽろりとこぼれ落ちる滴を受け止めて、呆然とその泣き顔を見つめる。
「……えっ? えぇッ! うそだろ……?」
 怒ったり照れたり笑ったりする顔は何度も見てきたが、これだけは初めてだ。恋人に泣かれる以上の罪悪感と気まずさに、メローネの胸が刃物で刺されたように痛くなる。
「ごめんね、俺が悪かった……!」
 すぐに片膝を折って祈るようなポーズで謝罪する。そんなメローネの手に次々と涙が落ちてくるのを見て今度は彼の方が顔色を悪くする。
「本当にごめん! 君を泣かせるつもりじゃなかったんだ……でも、まさかそこまで思い詰めてるなんて……」
 メローネは焦った表情でもう少し言葉を選ぶべきだったと後悔する。不甲斐ない仲間たちと歯切れの悪い夢主に怒りが湧いて、つい責めるように言ってしまった。
「どうしてこんな時にDIO様は君の側にいないんだ?」
 その名に夢主の体が震えるのを見てメローネはやはり、という確信を持つ。怒りと溜息をどうにか飲み込んだ後、相手の手をしっかりと握って視線を合わせた。
「大丈夫、みんな最初は不安になるものさ。誰だっていつも来るものが来なかったら落ち着かなくなるよ。でも、だからって無理に体を動かしたらダメだ。まずは確認することが大事だと俺は思う。今からバイクに乗ってすぐに買ってくるから、それまで大人しく待ってくれ」
 怖いほど真剣な表情のメローネに気圧されて夢主は何も言えなくなる。ただ涙を拭って彼の言葉を聞いた。
「恥ずかしいとか気まずいなんて誰も思わないよ。コンドーム買うのと一緒さ。いや、むしろ喜ばれるのか? まぁそこは店員次第だけど……とにかく、近くの薬局で買ってくるからそれを試した後でも遅くはないだろ? 一緒に病院に行くのは俺でもいいけど……この場合はリゾットが適任かもね。だってチームの中で一番の年長者だし、何よりリーダーだもんな。DIO様に知らせるのも俺より都合がいいはずさ」
「……? ??」
 不思議そうな夢主の表情にメローネも同じ顔で見つめ返す。
「……病院? 何の話?」
「え? だから、君が生理来なくて焦ってるって話だろ?」
 山に向かって叫ぶように声を大きくして言ってやりたい。流した涙も返して欲しい。
 しかし様々な反動から夢主は上手く声が出せず、むせび泣きながら床にへたり込んだ。
「ちがう〜……メローネのばかぁ〜」
 情けない声でそれだけを言って顔を覆い隠す相手に、メローネは間抜けな顔を浮かべながら小さな背中を見つめる。
「違うって……えっ、……違うのぉ? 何で? 男には言えない女の秘密なんて他に何があるんだよ?」
「ゆびわ……なくしたの……DIOからもらった指輪なのに……」
 理解するまで何秒かかっただろう。メローネはしばらく呆けた後でくたくたと全身の力を抜いた。
「指輪……、指輪かぁ……なるほどね……」
 涙に濡れた彼女の手をちらりと見る。いつも身に着けて手入れを欠かさない金の腕輪だけが煌めき、この前の同棲生活で新たに贈られた指輪の輝きがそこに無かった。
(夢主にとっては一大事だよなァ)
 メローネの記憶の中でもピアスやネックレスなど様々な貴金属は贈られていたが、あのDIOが自ら箱を開けて明確な意思でもって左指に通したものは他にない。本人が寝ている間に有無を言わさず嵌めてしまうのは卑怯な気もするが、起きていたらいつもと同じように金庫に入れられるだけと分かっていたのだろう。
「でもさぁ……あのDIO様だぜ? 指輪の一つや二つぐらい気にしないと思うけど」
 むしろ贈る理由が出来たと喜びそうなものだ。
「DIOが良くても私がイヤ」
「だからって一人で探すこともないだろ?」
 少しずつ涙が収まってきた夢主の頭をそっと撫でる。
「少しは俺たちを頼ってくれよ……俺らが仲間ってこと忘れてる?」
 すぐに首を横に振る相手を愛しく思いながら、メローネはリゾットの居たたまれない表情を思い出す。あれは焦りや呆れ、ましてや怒りでもなく、困っている時に頼ってもらえない寂しさからくる表情だったのだ。
「薬だろうとゴムだろうと生理用品だろうと、喜んで買いに行くよ。君は可愛くて、泣き顔も最高にクる僕らの宝物なんだから」
 そう言っていつもの挨拶のように頬へ口付ける。
「……メローネ」
 慰めの言葉ならもっと他にもあったはずだ。しかし、その一言で張っていた力の全てが抜け落ちてしまい、夢主は泣き笑いの表情で相手が差し出す手を取った。




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