03


 朝靄に覆われた墓地の一角に木の実をくわえた小鳥が近づいてくる。墓前に供えた花束の前に降り立つのを見下ろした瞬間、わずかな空気の流れを感じ取ったのか見えない影に怯えるように飛び去っていった。
「……戻るか」
 振り仰いだ靄の先に太陽と青空を見て目を細める。今日もまた暑くなりそうだ。
 死者たちの眠りを妨げぬようリゾットは自身の姿と共に靴音も消してその場を後にする。
 誰もいない教会の裏から表通りへ。開いて間もないバールから嗅ぎ慣れたコーヒーの香りが漂ってくると、それまで忘れていた空腹を思い出す。いつもなら店に寄っていくのだが、仲間たちが用意をして待っているとあってはそんな気にならない。
 次第に賑やかさを増していく街を眺めながら、リゾットは海沿いに建てられたいくつもの別荘地帯を抜けて、中でもひときわ豪奢で異彩を放つ屋敷の門を押し開いた。
(いつかは説明するべきだろうか……)
 木々の中に隠された高圧電線、目立たぬよう配置された数々の防犯カメラが敷地の内外に向けて目を光らせている。リゾットだけが登録してある指紋、虹彩、声紋のチェックを受けてようやく玄関扉を開く事が出来るのだ。セキュリティーが万全なのはいいとして、地元の良識ある人間なら決して近づかないこの建物について、チームの一員である彼女に教えるべきだろうか……リゾットが思い悩んでいると、リビングの方からイルーゾォとギアッチョの騒がしい声が響いてきた。
「リーダーはいつ帰ってくるんだ? せっかくいれたコーヒーが冷めちまう」
「俺が知るかよ。今日も花束持って出掛けたんだろ? なら、帰ってくるのは昼過ぎじゃねぇのか」
「確かに……女の所に行ってじゃまた明日、なんてさすがにリーダーでも言わねーよな」
 どうやら二人の中で盛大な勘違いがあったようだ。リゾットはわずかに驚くが、すぐに納得した。花束を持って毎日外に出掛ければそうした勘違いを生むのは当然だ。どこへ行くのかは教えなかったし、そのつもりもなかった。
「リゾットにも春か……どんな女だと思う?」
 イルーゾォに聞かれたギアッチョは近くにあった雑誌を手にとった。
「こんなのはどうだ? 好きそうじゃねぇか?」
「あぁ〜、分かる……それっぽいよな」
「胸がデケーのが好きそうだよな」
「俺は胸より尻派だと思うぜ」
「ならこんなやつか?」
「いやいや、こっちだろ」
 どうやら広告塔のモデルを勝手に当てはめて考えているようだ。背後に忍んでいたリゾットは笑いを堪えつつ、雑誌をめくってあれこれと論争する二人を眺めた。
「お帰りなさい、リゾット」
 と、そこへキッチンから声が掛かった。ギアッチョたちが慌てて雑誌を隠すのを耳にしながら、リゾットは食器の片付けを終えた夢主に向き直る。
「ただいま」
 これまで何度も交わしてきた挨拶すら愛しく思うのは、ここが生まれ故郷のシチリアだからだろうか。リゾットは夢主の肩を優しく抱き、頬を触れ合わせて軽いリップ音を響かせる。少し屈んだまま相手の顔をのぞき込むと、何度やっても慣れないのか照れたようにはにかむ彼女と目があった。
「今日もいい天気だ」
 リゾットは素早く夢主の全身を観察して、外傷や疲労などの違和感がないかを調べる。
「少し、顔色が悪いように思うが……」
「そう?」
「気分は悪くないか?」
「大丈夫。頭痛も吐き気もないよ」
「それならいいが……あまり室内に閉じこもるのは良くないぞ。外に出て日差しを浴びた方がいい」
 ついこの間まで暗闇に閉ざされた生活をしていたのだ。未だ青白い肌がどこか痛々しく、リゾットが気に掛けるのも仕方がないだろう。
「でも……あまり肌を焼きすぎると痛くなるでしょう?」
「白いよりはマシだ。焼いた方が健康的に見える」
 日焼け止めよりも日焼けオイルの方が圧倒的に多く売れる国柄だ。海水浴に来ている男女ともに綺麗なミルクチョコレート色になることを望んでいる。
「それとも何か予定があるのか?」
「特に……、読書はするつもりだけど」
「では後で付き合ってくれ。目の前に海があるんだ、少しは泳いだ方がいいぞ」
 目を丸くする彼女にリゾットは笑いかけた。無理矢理にでも外へ連れ出さなければ本当に病気になってしまいそうだ。太陽が出ているのにあえて暗がりを選ぶなど、あまりに不健康すぎる。
「水着は持ってきたな?」
「うん、一応……」
「決まりだな。準備が出来たら声を掛けてくれ」
 夢主の肩をぽんと叩いた後、なぜか愕然としているイルーゾォたちの横を抜けてソファーに腰を下ろす。テーブルの上には甘いパンにコーヒーと果物、すでに朝食の用意は出来ていたようでそれらに手を伸ばしながら新聞を開いた。
「じゃあ、ちょっと用意してくるね」
 体調はどこも悪くはないのだが……リゾットにこれ以上の心配は掛けたくはない、その一心で夢主は海に出ることを決めた。素直にエプロンを外し、二階の部屋へ向かう夢主の背中が見えなくなるのを待ってからイルーゾォが身を乗り出してきた。
「何だよリーダー! そんなのありかッ!? 俺だって誘うの我慢してたんだぞ!」
「? 別に誘えばよかっただろう」
「それが出来れば叫んでねぇよ!」
 太陽とのんびりした空気、ついでに可愛い夢主に癒やされれば傷を負った心も劇的に快復するだろう。しかし色っぽい水着姿を拝みたいと思う反面、DIOの凍えるような視線が脳裏にちらつくイルーゾォにその勇気は持てなかった。
「それよりいいのかよ。あいつと海で泳いでる場合なのか?」
「どういう意味だ。ギアッチョ」
「俺は別にどうでもいいけどよォ、メンドクセー修羅場はごめんだぜ」
「本命にバレたらどーするんだ。俺らは取り持たないぞ」
 ギアッチョとイルーゾォの言葉にリゾットはどう返せばいいか分からなくなる。新聞を折りたたみながら苦笑すると二人は驚き、顔を見合わせてそれ以上は口を噤むことに決めたらしい。
「チッ、これだから色男っつーのはよぉ……」
「リゾットまでプロシュートみたいになったら世界の終わりだな」
 あまりにも余裕のある態度に見えたのだろうか。二人は聞いた自分たちが馬鹿だったというように手を振って視線を外してしまう。
(訂正するのも面倒だが……)
 このまま勘違いさせておくのも厄介だ。とはいえ、それは今すぐでなくても大丈夫だろう。誤解を解くのは休暇を終えてからでも遅くはない、そう判断したリゾットは朝食をゆっくりと取りながら、夢主がやって来るのをただ待つことにした。


 遠浅の青く澄みきった海岸沿いにいくつかのボートが停泊している。釣りやダイビング、遊泳を楽しむ彼らの声はここまで届くことはないが、休暇を大いに楽しんでいる様子は遠目にも分かった。影が海底に映るほど透明度が高いので、熱い日差しを受けた彼らの船とその姿はきっと空中に浮いているように見えるだろう。
 寄せては返す白い波打ち際に腰を下ろし、そんな夏の光景を眺めていた夢主の手元にさらさらと砂がこぼれてきた。それをすくいながら顔を上げると、子供が作るような砂山を挟んだ向こう側にリゾットの姿があった。
「……ごめんね、リゾット」
「何を謝ることがある?」
 園芸用のスコップで砂を山に盛り立てていたリゾットは首を傾げて問いかける。
「だって暗殺チームのリーダーなのに……」
「まるで子供みたいだと?」
 髪を後ろに撫でつけた彼はクッと笑って顔に皺を作った。そんな仕草の一つ一つが成熟した大人の男性であることを改めて示しているようだ。無駄なく鍛え抜かれた逞しい体がすぐ目の前にあって、夢主はどこに視点を置けばいいか分からなくなる。あまり長く見つめていると顔だけが日に焼けてしまいそうだった。
「気にすることはない。俺は俺で楽しんでいるぞ」
 そう言って太い腕を砂山の中に突き入れると、瞬く間に緻密な砂城が出来上がる。驚く夢主の前でゆっくりと腕を引き戻す。手品の種明かしをするように彼は開いた手のひらに自身のスタンドたちを出現させた。
「わぁ、メタリカ!」
 ロォォードとかすかな鳴き声を放つ小さな集まりに目を輝かせる。
「触っても平気?」
「ああ」
 許可を得て指先でメタリカをつついてみる。小さな手にあちこち触れられてくすぐったかった。
「可愛いなぁ……一つくらい欲しくなっちゃう」
「そう思うのはお前だけだ」
 相手の体内から攻撃する残酷なスタンドの感想としては、少々不釣り合いだ。リゾットは困ったように笑って砂山に手をかざす。
「俺の能力はもう知っているな?」
「鉄を操って磁力を作り出すんだよね」
「そうだ。慣れない頃は俺も苦労した。思い通りに動かせず、実験台となった相手を酷く苦しませたものだ」
 明るい太陽の下での暗い告白に、夢主はそれらを想像してごくりと息を飲む。
「スタンドは精神力。揺るがない何かを持っていれば、傷つくことはあっても簡単に負けることもないだろう」
 砂地に混じった鉄がメタリカに操られて幾何学的で美しい模様を次々に描いた。
「だが……俺たちの世界で暮らす限り、いつ何が起こるか分からない」
 殺人や強盗、あるいは吸血や不幸な自動車事故……憂いを含んだため息をこぼしながら、彼はスタンドを消して砂鉄で作られた砂の紋様を崩した。
「リゾット?」
「いや……何でもない。忘れてくれ」
 そう言われてもいつもと違う表情が気になってしまう。夢主は相手の顔を窺いながらふとイルーゾォの言葉を思い出した。
「もしかして……彼女に何かあったの?」
「彼女?」
「イルーゾォが言ってたの。毎朝、花束を持って出掛けてるでしょ? あれはシチリアにいる恋人に渡すためだって……」
 誰よりも早く起きて物音を立てずに別荘を出ていく。すぐに帰ってくるときもあれば、昼まで帰ってこないこともあった。きっとランチや久々の逢瀬を楽しんでいるのだろうとイルーゾォたちが囃し立てるのを耳にしたのだ。
「ごめんなさい。私と同じ部屋だなんて……その人が勘違いしないといいんだけど……」
「それは無理な話だ。寝室は別だが、残りは共有スペースだ」
「そ、そうだよね……」
「同じソファーでテレビを見て、朝も夕も一緒に食事を取っているわけだからな。休日には何度か二人だけで出掛けることもある」
「居心地が良すぎて忘れていたけど、やっぱり駄目だよね」
「いや、それで構わない。俺もお前といるのは居心地が良い」
 リゾットの真面目な顔つきに夢主は唖然となってしばらく言葉を失った。
「かまわない? えッ……それでいいの?!」
 思いがけないイタリアの恋人事情に目眩を覚えていると、リゾットが口元を隠しながら盛大に吹き出した。肩を震わせて笑う珍しい姿を夢主は驚きを持って見つめ返す。ひとしきり笑ったところでリゾットは呼吸を整え、
「イルーゾォの誤解だ。俺に恋人はいない」
 そう言ってスッと立ち上がった。それ以上の質問を避けるように背を向けると、押し寄せる波をかき分けて海の中に足を踏み入れていった。
(じゃあ誰に花束を?)
 それを改めて聞けるような雰囲気ではないことくらい夢主にだって分かっている。職業柄ゆえか必要以上に多くを語らない彼の事だ、私的なことを聞かれるのは尚更に嫌だろう。
(あ……)
 恋人ではない誰かへの花束……様々な場面を思い描く夢主の脳裏にリゾットが裏社会と関わることになった理由を思い出す。確信を持った夢主は彼と砂遊びをした時以上に申し訳なく思った。
「気持ちがいいな」
 背後で気まずそうに表情を曇らせる夢主を置いて、リゾットは海水を足でかき混ぜながらぽつりと呟いた。熱い日差しに逆らうように水温はまだそれほど高くはない。風は暖かく、波も穏やかだ。海水浴をするには最適な日和に、彼は目を細めて髪を掻き上げる。黒のサーフパンツ一枚という心許なさはあるが休暇で来ているのだからそれこそが正しい姿だろう。
「どうした。泳がないのか?」
 リゾットが振り返った先で夢主はまだ砂浜に佇んでいた。相手の困り顔に泳げないのだろうか、とそんな疑問が浮かぶが、ベガスではプールに来ていたことを思い出す。
「……リゾット、ごめんなさい」
 聡い彼女は誰に花束を捧げているのか気付いてしまったようだ。気にするな、と言っても気にするのが夢主という人物だ。リゾットは代わりに微笑んで手を差し出した。
「掴まるといい。ここはまだ浅いが、急に深くなる箇所がある」
 その言葉に促されるようにそっと手を伸ばしてきた相手を見つめる。華やかで可愛らしい水着が目に眩しい。強い日差しから身を守るために薄い羽織り物を着ているが、そのせいでちらちらと見える素肌を余計に意識してしまう。しなやかな姿態と柔らかな肌は、吸血鬼でなくても触れたくなるだろう。
(海は失敗だったか……)
 DIOに愛されて日に日に艶めいてゆく夢主のその姿に、リゾットは年頃の娘を持つ父親の気持ちを味わされるようだ。
「おーい! ずるいぞ、二人だけで!」
「くっそ重てぇ……! 誰だよこんなモン買った奴は!」
 派手なサーフパンツ姿のイルーゾォとギアッチョが盛大に喚きつつ、寝転んで使うラウンジフロートと数本のパラソルを抱えてテラスから浜辺へ降りてくる。
 辺りに響く彼らの賑やかな声にリゾットたちは笑って、繋いだお互いの手を優しく握りしめた。




- ナノ -