04


 カーテンの隙間から差し込んでくる朝日が眩しくて夢主は光から逃げるようにして寝返りを打った。その向こうにも輝くような光を見つけて不思議に思う。夜遅くまで起きていた体は重く、意識はまだ心地いい夢の中を漂っていたが、それが何なのか確かめたくて目蓋を開いた。
「……ジョルノ?」
 ほどけた前髪を枕に散らし、上着を脱いだシャツ姿で眠るジョルノが二つ並んだベッドの片方で寝息を立てていた。あどけない表情が愛らしくまるで天使を見ているように美しかった。
 恋人なら一緒の部屋で寝るようスージーに言われても、シングルベッドしかなかったために夢主はジョセフが夫婦喧嘩の際に使っていたソファーベッドを引っ張り出してそれで夜を過ごした。高低差のある少し離れたところから彼を眺めてわずかに頬を染めつつ、夢主は深い眠りに落ちた彼から目をそらし、ゆっくりと身を起こしてカーテンに手を伸ばす。夜遅くまで帰ってこなかったジョルノはきっと疲れているだろう。彼の睡眠を邪魔しないよう外からの光と自らの足音を消して部屋を後にした。
「おはよう」
「おはようございます、ジョセフさん」
 バスルームで着替えた後で一階に降りると、いつものように香り豊かなコーヒーを飲むジョセフの姿があった。テーブルに置かれた亀から体を半分出したポルナレフが同じようにカップを傾けている。
「よぉ、早いな」
「ポルナレフさんもおはようございます。あの……ジョルノはいつ帰ってきたんですか?」
「ん? ああ、足音を聞いたのは1時過ぎだったな。時差ボケもあるだろう。今は寝かせてやるといい」
 やはり起こさなくて正解だったようだ。彼の言葉に頷いて夢主はキッチンにいるスージーの元へ向かった。彼女と朝の挨拶を交わした後、ダイニングテーブルに朝食を置き、ベビーチェアに座る静の隣に腰掛けた。スプーンを使うようになった静はミルクをびちゃびちゃとこぼしながらフレークを食べている。
「おはよう、静ちゃん」
「おあよっ」
 つたない言葉がやっぱり愛らしくてどうしても笑顔になってしまう。彼女と遊んで世話をして、スージーたちに挨拶をしてから花京院と共に仕事に出かける……ついこの間まであったそんな日常が懐かしく、再びここに戻ってこれた事を素直に嬉しく思った。


 ジョルノがゆっくりと浮上していく意識に身を任せていると、窓の外から楽しそうな笑い声が耳に届いた。見慣れない天井に花柄のシーツと枕、ここがナポリの自分の部屋ではないことに改めて気付く。
「ああ……もうこんな時間か」
 身に付けたままの腕時計を見て昼が近いことを知る。裏切り者の片を付けた後、ここに帰ってきてから随分と長く眠り込んでいたようだ。客間はナランチャに取られて使えず、仕方なくポルナレフの亀の中で一夜を明かそうと思えば、花京院から報告を聞いて戻ってきたジョセフが呆れた声で二階を指差した。
「何を言っとるかと思えば……夢主の部屋なら階段を上がって左じゃ。わしらとは部屋も離れておる。気を遣うことはないぞ」
 静かにドアを開けて入った夢主の部屋はスッキリと片付けられていた。簡易ベッドで体を丸めた夢主を見下ろしつつ、ジョルノは以前、彼女が寝起きしていたらしいもう一つのベッドに近づいた。すぐ目に付くところに、
“お疲れ様、ジョルノ。遠慮せずに私のベッドを使ってね”
 というメモが残されていて、ありがたく思う気持ちの裏で少しだけ残念にも思ってしまった。
 崩れてくる前髪を掻き上げたジョルノは窓に近づき、風に揺れるカーテンに手を伸ばして左右に開いた。不動産王と言われるジョセフの邸宅には多くの花と木々が植えられた広い庭が付いている。そんな手入れされた芝生の上では可愛い服を着せられた女の子が小さな足でボールを蹴っていた。
 ぽーんと蹴られたボールは手を広げて待っていた夢主とは別の方向に転がっていく。取りに行こうとするその前に大きなあくびを放つナランチャがふらりと姿を見せた。
「よぉ、ジョルノはまだ寝てんのか?」
 そう言いながら転がってきたボールを足で止めると、ナランチャは器用につま先で持ち上げて膝上でリズミカルなリフティングをしてみせた。
「えー! すごい!」
「しゅごい−!」
 二人が拍手を送って手放しに褒め称えると、ナランチャは照れ笑いを浮かべて今度は頭だけでリフティングを繰り返す。ボールは一度も地面に落ちず、足先、膝、頭を移動して最後にはエアロ・スミスの両翼で空高く跳ね上げ、ストンと落ちてきたそれを背中でキャッチした。
 再びわぁっと歓声が上がるとナランチャは嬉しそうにニッと笑ってから静にボールを返した。
「ナランチャってサッカー選手だったの?」
「いや、暇な時にボール蹴って遊んでただけさ。これくらいミスタも出来るんじゃねぇの? ガリ勉のフーゴは無理だろうけど」
「ねぇねぇ、やって! ひこうきのやつ!」
 キラキラと輝く目にナランチャを映し、静は幼い手を伸ばして彼にボールを向けた。
「飛行機ってお前……もしかしてこのチビッコ……スタンドが見えてんの?」
 ナランチャの驚きに夢主は小さく笑って頷く。
「こう見えて静ちゃんもスタンド使いなんだよ。怒ると何でも透明にしちゃうから気をつけてね」
「へぇー! マジで!? スゲーなお前っ!」
 感心する声を上げたナランチャが静の頭をわしわしっと撫でると、彼女はそれまでの愛らしい笑顔をかき消した。母親のスージーが丁寧に整えてくれた髪をぐちゃぐちゃにされて静は明らかに不機嫌顔だ。
「う〜……」
「あっ、駄目! ナランチャ、女の子だから……」
 夢主が慌てて抱き上げ、乱された髪を手で整える。
「え? あ、わりぃ……俺、どーしよ……」
 涙目になっていく少女に夢主とナランチャが焦っていると庭の向こうでワンッと犬が大きく吠える声がした。声に驚いたナランチャが振り向くより先に、圧倒的な力の突風が彼の足をすくい上げる。
「うぉ!?」
 地面に突き飛ばされて仰向けに転がった彼の目の前で夢主のスカートが大きくひるがえった。ちらりと見えた白い下着に目を奪われていると、胸の上に勢いよく毛玉がのし掛かって来るではないか。
「うぇっ! な、何だ……ッ!」
 胸を押されて苦しむナランチャの顔に生暖かい息がかかる。見れば白黒の毛を持った犬が唸り声を上げ、こちらを警戒するように見下ろしていた。
「犬?! おい、こいつ……!」
 犬の背後に個性的なスタンドが宙に浮いて立っている。
「イギーって言ってね、ジョースター家で飼ってる犬だよ。見ての通りこの子もスタンド使いで静ちゃんのお守り役なの。噛まないから安心して」
 めくれ上がったスカートを恥ずかしそうに直した夢主はお座りをさせたイギーの前に静を降ろした。彼女はそれまでの怒りを忘れて犬に抱きついていく。
「いぎー、あそぼー」
 静は地面に転がったボールを手に取って庭の反対側へ力任せに投げた。イギーは警戒を解き、勢いよくボールを追いかけていく。
「犬のスタンド使い……? すげぇ、そんなのまでいるのか?」
 芝生から起き上がったナランチャはボールを追いかけて遊ぶ二人の姿を見て呟く。夢主は彼の背中から汚れを払い、笑いかけながらあれこれと詳しく説明をした。
「……とても楽しそうですね」
 白い窓枠に寄り掛かったジョルノはそんな彼らの姿を二階から眺めた。広い邸宅と庭、元気に遊ぶ子供と犬、正義感あふれる裕福な老夫婦……完璧すぎてため息すら出てこない。ジョルノはその場から身を離し、部屋に置かれたトランクの中から着替えを取り出すと楽しそうな笑い声を背に受けながら部屋を後にした。



 少しでもジョルノたちと親交を深めようと、ジョースター家の面々は彼らと共に行きつけのレストランで食事を取ることにした。そうしてランチでお腹いっぱいになった体を休めに近くのセントラルパークへ足を伸ばしたジョセフは、隣を歩くスージーに小さな声で話しかける。
「あれでは先が思いやられるのぉ……そうは思わんか?」
「そう? あれでもきっと、かなり進歩した方だと思うわ」
 スージーはクスッと笑って背後を振り返る。そこにはいかにもイタリア育ちらしいそつのないエスコートを見せるジョルノと、照れた様子の夢主が腕を絡めて歩いていた。同じくランチに誘われた徐倫が静を乗せたベビーカーを意気揚々と押しつつ、少しぎこちないカップルをからかうように笑った。
「夢主ったら……そんなに俯いてちゃ木にぶつかるわよ!」
 そう言われても夢主は困ってしまう。
「もっとベッタリくっついてもいいのよ? キスしたって私は平気だから」
「フフ、じゃあその言葉に甘えさせてもらいますか」
 悪戯っぽく笑ったジョルノは絡めていた腕を解き、代わりに腰へ腕を回してぐっと引き寄せる。それまで二人の間にあった隙間をあっという間にゼロにした。
「ジョルノ……」
 きちんとセットされた髪からは爽やかな香りが漂い、くらくらするほどの美貌に誘惑されそうになる。切れ長の目は甘い優しさと意地悪な視線を含んでいて小悪魔のように思えた。
「そんなに可愛い顔されると……本当にキスしたくなるじゃないですか」
「あ……う……」
 ジョルノは焦るこちらの反応を見て心から楽しんでいる。それに気付いた夢主は過剰に意識してしまう自分に恥じ入って、熱くなってしまう顔を覆いながら遊歩道を歩いた。
「あ、ダディだ!」
 徐倫は道の向こうにいつもの白いコートを着込んだ父親の姿に気付く。待ち合わせの噴水前に佇む彼もこちらに気付いたようだ。承太郎は下げていた鍔先を持ち上げて、近づいてくるジョセフたちを待っていた。
「こんにちは、空条博士。昨日はどうもありがとうございます。とても助かりました」
「いや……困った時はお互い様だ」
 真摯な態度で礼を言うジョルノに承太郎は淡々と返す。
 父親に話しかけようと思った徐倫だが、静がぐずり始めたのを見てベビーカーをスージーのところへ移動させた。
「ありがとう、徐倫。寝るまであやしているわ。少し遊んできてくれる?」
「はーい」
 明るい声で返事をした徐倫は鳴き声を上げて泳ぐ水鳥が住む湖の方へ走っていく。それを見た承太郎は、
「夢主……あいつを頼む。俺は少しジョルノとサシで話がしたい」
 と言われてつい心配そうにジョルノを見上げた。彼は腰に回した腕を解くと、心配ありませんよ、と言うようにいつもの笑みを見せてくれる。
 夢主は頷いた後、そっと二人から離れ、湖に向かう徐倫の後を追いかけた。
 無言でそれを見届けた承太郎は少し離れたベンチに腰掛けて隣にジョルノが来るのを待つ。
「それで……話とは何です?」
 深く腰掛けて足と手を組んだジョルノからそれまでの穏やかな雰囲気がフッと消えた。承太郎に向けられたのはギャングのボスという頂点に立つ者だけが見せる鋭い目と、年齢以上に落ち着き払った静かな声だ。
「……まず最初に、職員を無事に返してくれた礼を言っておこう」
 承太郎は帽子の鍔先を持ちつつジョルノに向けて頭を下げた。
「ああ、“彼”ですか。以前なら始末させるのでしょうが……今は無駄に敵を作りたくないのでね。無事に本国へ戻れたみたいで何よりだ」
 数ヶ月前……ジョルノの身辺を探る夢主をリゾットに保護させるその一方で、離れたところから彼女を尾行する怪しい男をブチャラティたちが裏路地で拘束した。スタンドを持たない彼はあっけなく捕まり、ブチャラティの尋問にもすぐに口を割った。厳しい尋問に耐えられなかったのではなく、何よりも己の命を優先しろと承太郎に言われていたからだ。
「本人は生きた心地がしなかったとぼやいていたがな」
「フフ……まぁ多少、脅かしすぎたのは認めますよ。でも僕らはギャングだ。お優しい先生じゃあないんでね」
 それくらいは許して欲しいと言うようにジョルノは肩を竦めた。
 あの日……イタリアに行きたいと強く願う夢主を承太郎は説得できたとは思えなかった。きっといずれ飛行機に飛び乗るだろう。それならそれで好都合だと考えて密かに尾行するよう職員に命じておいた。しかし、まさかジョルノがギャングのボスになっているとはその彼も承太郎も思いもよらないことだった。
「それで……事実を知ったあなたはどうするつもりですか、あの吸血鬼を」
 どこか愉しそうな口調のジョルノとは反対に承太郎は硬く険しい表情を浮かべた。
 電話口でドジりました、と謝罪する職員と交代したのはジョルノ本人だ。彼から詳細を聞いた承太郎はあまりのことにしばらく何の言葉も頭に浮かんでこなかった。冷や汗が手のひらに伝い落ちたところで意識を取り戻し、長く重いため息の後にようやく全てを理解した。
 杜王町で会う度に青ざめていた夢主の態度、心苦しそうなあの視線……カイロで終わったと安堵した“あの日”からすべては始まっていたのだ。
 この手で倒したはずのDIOが生きている……それを知った承太郎は怒りよりも戸惑う気持ちの方が強かった。DIOはなぜ復讐してこないのか。夢主はなぜこちらを恨まず、気に掛けてくれるのか……
 今この時でも徐倫と夢主は楽しそうに水鳥を追いかけ回して遊んでいる。承太郎は二人の姿を眺めつつジョルノのもっともな問いに答えた。
「……財団の大半は滅するべきだと言う意見だ。一部には研究素材として活用したい輩もいる。ジョースター家としても先祖の体を墓に戻したいし、俺もこの世から居なくなって欲しいのが本音だ」
 承太郎は一度そこで言葉を切り、短い息をついてからぽつりと呟いた。
「だが……今は……奴を殺す理由がない」
 母や徐倫の身に何か起きているわけでも無い。DIOが犯した罪を立証したくても、そのほとんどが時効や証拠の無さでうやむやになるだろう。しかし、取り返しが付かない決定的なことが起こる前に何かしらの手は打っておきたいと思う。
「理由、ですか」
 ジョルノは承太郎の懸念を理解した。ジョルノも決してDIOの存在を軽く見てはいなかった。影響力が強いのは組織にとってありがたいことだが、あまり強すぎても厄介な事にしかならないからだ。
「作ろうと思えばいくらでも作れると思いますが……。僕は……そう、夢主やリゾット、それにパードレ本人がどう思うかはひとまず置いておいて……僕としてはあなた方に引き渡してもいいと思っています」
 引き渡すという思いがけない言葉に、承太郎はわずかに目を見開いて相手の顔を見つめ返した。
「とは言えあれでも一応、父親という存在だ。組織的にも重要な位置にいるので殺すのだけは遠慮して欲しいな。今まで通り、監視するくらいならご自由にどうぞ」
「君はいいというのか……?」
「ええ。何ならこの際だ、体の検査に付き合ってもいい。僕がパードレの血を受け継いでいるかどうか、気になって仕方がないようだから」
 ジョルノは驚いた顔の承太郎にクスッと微笑みかける。
「ですが……組織の内部を見るからにはそれ相応の対価を頂きますよ。もちろん、機密を他言しない事も命をかけて守ってもらいたい」
「……」
「安心して下さい。僕は別に金や銃器が欲しいと言ってる訳じゃあない」
 麻薬も余分な金や銃も自分の組織には必要ない。ジョルノは安心させるように微笑みかける。
「僕の望みは二つ。スタンド能力者についての情報と、何らかの危機に陥ったときは能力や力を貸してもらう事……それが条件です」
「……二つもか」
「こちらも慈善事業だけではこの世界で生き残っていけませんからね。パードレや僕個人の情報、イタリアギャングの内部事情、どちらも最高機密だと思いますが?」
 承太郎は様々なことを両天秤に掛けた後、何が重要で何を最も守らなくてはならないか……その鋭い目で見定める。しかし、答えはすぐ目の前にあったのでたいした時間も掛からずに頷く事が出来た。
「分かった」
「口約束はあまり好きではないけど、僕はあなたを信頼しますよ」
 ジョルノの言葉に承太郎は小さく笑う。
 SPW財団はDIOのあらゆる行動を把握でき、ギャングの縄張り内でそれを公然と行える。ジョルノは財団が預かり持つスタンド使いの情報を得ることが出来る。どちらにも損にはならない。それに立場は違っても真っ直ぐな信念の中で生きる者同士の言葉だ、疑う必要は無かった。
「ダディ、のど渇いた−! あつい〜!」
 不意にそれまであちこちを走り回っていた徐倫が汗を拭いながらこちらに駆けてきた。同じように肩を揺らす夢主も息切れがひどいようだ。
「……やれやれ」
 承太郎はポケットから小銭を取り出して徐倫の小さな手の上にジャラリと乗せる。親心を知らない彼女は笑顔を浮かべて近くの売店へ駆けていく。その後ろをふらふらとした足取りで夢主が再び追いかけていった。




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