04


 いつも闇に閉ざされている館内も、夜を迎えた今はその夜気を吸い込むように窓とカーテンが押し開かれている。
 今宵は満月だ。夢主はDIOの腕の中で窓の外に輝く月を見た。
 吸血鬼の彼にとって貧弱な人間の小娘は荷物にもならないらしい。DIOはいつもの澄ました表情で階段を上っていく。恥ずかしさに身悶えていた夢主だったが、相手が何も思っていないことを知ると力を抜いて大人しく身を任せることにした。
「ありがとう、DIO」
 ベッドの上に置かれた夢主が礼を言うとDIOはわずかに眉を寄せた。しばらく無言になり、それからおもむろに夢主の前髪を掻き上げた。ジャラッと氷の音がして額に氷のうが置かれたことを知る。思いも寄らない行動をする相手に夢主の心臓は壊れてしまいそうだ。
「熱は何度だ?」
「さぁ……計ってないから分かんない」
 DIOは夢主の頬と首筋に指先を押し当て、熱を発する体を調べた。
「ふむ……38度ぐらいか」
「わ、冷たくて気持ちいい」
 DIOの差し出す手は誰もが怯える恐怖の対象だ。この指一本で、多くの命を消し飛ばすくらいは易々とやってのけてきた。しかし彼女にはただ冷たい手にしか思えないらしい。
 穏やかな表情を浮かべる夢主をしばらく見下ろしていたが、DIOは肩の力を抜いて彼女の隣へ横になった。
「外に行くんじゃないの?」
「その予定だった……が、もういい。行く気が失せた」
「それって私のせい?」
「自惚れが強いな」
 DIOが色っぽく笑うのでますます熱が上がってしまいそうだ。
「さっさと寝ろ」
 言葉を詰まらせた相手にDIOは眠りを促す。
 額と頬に冷たい冷気を感じながら夢主は頷いた。
(……この手もDIOの好意?)
 疲れと薬のせいなのか次第に眠気が強くなってくる。珍しいDIOをもっと見ていたいと思うのに、それには抗いきれず目蓋が下がってきた。
 夢主が眠りに落ちてしまう間際、彼がうっすらと笑うのを見た気がした。


 夢主が回復するまで三日かかった。
 その間に起こったことといえば、寝室に籠もったDIOが食事以外の時は常に側にいてくれた事と、テレンスが時折様子を見に来ては着替えを手伝ってくれたことぐらいだろうか。報告のためアイスも来ていたらしいが、時間の大半を睡眠に費やしていた夢主には夢うつつにしか彼の声を聞いていない。
「夢主様、お召し物を」
「いえ、もう大丈夫ですから……」
 執事らしい彼の物言いに慣れるには、まだもう少し掛かりそうだ。夢主は困ったように微笑んでその申し出を断った。熱があった時は何も思わなかったが、回復してからはさすがに気恥ずかしくなったからだ。
「では、こちらに置いておきますね」
 テレンスは大きなソファーの上に服を置き、本を読んでいる主に一礼してから出て行った。
 服を着る前にまずは湯を浴びたいと思う。
「お風呂に入ってきます」
 夢主の脳天気な声にDIOは、
「女という者はどうしてそう風呂が好きなのだ?」
 なんて質問を投げかけてくる。
「あんな素敵なお風呂があるのに、入らないなんてもったいないよ」
 夢主はそう言いのけてバスルームに向かった。
 寝汗を流し、身支度を調えた夢主は元気になった体を動かしてDIOの居る部屋に戻ってくる。外はあいにくの夜だし、知らない街を一人で歩けるほど夢主はまだここに馴染んでいなかった。
「今日は何しようかな……DIOはまた読書? 私も図書室で本を借りてきてもいい?」
 寝台で横になっていたDIOは夢主に視線を向ける。ぐったりしていた頃の方が可愛げがあったと思うほどだ。
「テレンスさんとゲーム対決してもいいな。でも、人形にされたら困るし……やっぱり他のゲームでも借りて……」
 そこまで呟いて、何て自堕落な生活をしているのだろうと夢主は眉を寄せた。
「ねぇ、私にも何か出来ることってない?」
 ベッドの端に腰掛けて夢主はDIOに話しかけた。本を見つめていた彼の視線が夢主に移る。
「ごめん、読書の邪魔しちゃった?」
 声が少しだけ恐々としたものになる。
「スタンド能力もないお前に、何か出来ることがあるのか?」
「だよね……でも矢に刺されるのは痛そうだから嫌だし……」
「女であるお前が出来そうなことは?」
 女というところを強調されて夢主は腰が引ける。
「え、無理無理! 血を吸われたら死んじゃうでしょ」
 もう一つの活用法はあえて言わなかった。
「あ、でも少しだけなら……吸血鬼に血を吸われるのってどんな感じか興味はあるかも」
「ほう、お前の血を味見しろと?」
「少しだけなら」
 首筋に指を突き刺されるのは嫌だ。かといって首筋に噛みつかれるのも嫌だ。
「親指でいい? あまり深く切らないで欲しいけど……痛いのは嫌だからね。あ、吸血鬼になるのも嫌だからね」
 DIOは夢主が差し出した指先を見つめた。彼女の少し怯えた顔がとてもいい。そう言う顔が見たかったのだとDIOは改めて思う。
「文句が多いな」
 そう言いながらDIOは夢主の手首を掴み、鋭い爪先で浅く切り裂いた。小さな悲鳴をあげる相手を無視し、滲み出た血がシーツに落ちるより先に指を口の中に含んだ。
「!」
 その行動に驚いた夢主が慌てて身を引こうとするので、DIOは彼女の体をベッドの上へ引き倒し、起き上がれないよう肩を押さえつける。
「味わえと言ったのはお前だ。動くな」
 夢主は見る間に頬を染め、自分の指が吸い込まれてしまった先をおろおろと見つめている。
 こうした事に慣れていないのだろう。体を震わせ、激しく動揺するその姿がとても愉快だ。そんな相手を見下ろしながらDIOが舌先で血を舐めた瞬間、まるで度数の高い酒を呷った後のように体内がカッと熱く燃え上がるのを感じた。
「これは……」
 焼き尽くすような勢いは次第に消えて、上品な甘さと豊かな香りがDIOの体のあちこちに染み込んでいく。それは驚くほど甘美な味だった。今まで味わってきた女の血の中で最も香しく、最も美味で、思わず酔いしれてしまうほどに夢主の血は思いがけない味がした。これまで口にしてきたあらゆる物とは違い、体と心を柔らかなベールで包まれるような不思議な感覚にDIOは堪らずうっとりと息を漏らした。
 そんな相手の様子を夢主は不安そうに見つめる。
「どう……? 変な味がする?」
 たった一滴の血を堪能し終えたDIOは女の指を引き抜き、余韻を楽しむように舌で唇を舐めた。
「処女か?」
「……え?」
 一瞬、何を聞かれているか分からなかったが、少し間を置いてから理解した。性行為がまだなのか、未経験なのかと問われれば夢主は頷くしかない。
「やっぱり処女だと味が違うの? よく吸血鬼は処女の血を好むっていうけど……」
「ふむ……」
 驚くほどに夢主の血は美味しかった。ずっと味わっていたい……そう思えるほどに。
 DIOにとってそれは思いがけない発見だった。今まで無作為に餌の女を選んできたことを後悔すらした。
「あの、DIO……?」
 急に押し黙ってしまったDIOの顔を夢主は下から覗き込む。捕まれた手首を解放して欲しい。そっと腕を引いてみたが、彼はそれを許さず再び口の中にくわえ込んでしまった。
「えっ!」
「もう少し味わせろ」
 傷口を丁寧に舐め、滲む血を舌で絡め取る。時々、ちゅっと音を立てて吸い上げると指はくすぐったそうに震えて逃げ出そうとする。それをDIOの牙が捕らえて甘噛みし、血が止まってしまうまで丹念に舐め上げた。
 いつも飲んでいるワインよりも芳醇だ。舌先から春の日差しのような温かさが広がって、冷たいDIOの体をとろけさせてしまう。思いがけない酩酊状態の中、彼はふと夢主を見下ろした。
 ベッドに押さえつけられ、指を舐められている彼女はトマトのように真っ赤になっていた。唇を噛みしめ目尻に涙を浮かべるその初々しい反応にDIOは驚き、小さく苦笑した。
「……これくらいにしておくか」
 掴んでいた手首を離すと、力の抜けた夢主の手はそのままぱたりとシーツの上に落ちた。押さえつけられていた身も自由になったというのに夢主の体は痺れてしまって起こすことが出来ない。
「どうした? 貧血か?」
 DIOは目で笑って冷やかしてくるが、夢主は返答に困って口籠もる。
 間近に見たDIOの顔や舌の動きを思い出しただけで茹だってしまいそうだ。相手の魅力に全身を腑抜けにされてしまった夢主は、白い枕に顔を埋めて彼の言葉に頷くしかなかった。
「そうか……ならばここにいることだな」
 髪の間から赤い耳を覗かせる彼女の隣でDIOは楽しそうにそう言うと、静かに本を広げて読書を再開した。



 ドサリと女の体が倒れ込み、敷石の溝に沿って赤い血がゆっくりと流れ出ていくのをDIOは冷めた目で見下ろした。
「何故だ」
 ぽつりと呟いた言葉に誰も返事をしなかった。物言わぬ女から引き抜いた指を眺めてみる。べったりと血が付着しているそれから極上の味は得られなかった。
 今日、連れて来させた餌の女は処女だというのに……この違いは何なのだろう?
 試しにもう一人の血を奪ってみるが、これも同じ味にはほど遠かった。
「不思議だ。実に興味深い」
 DIOは血の味の変化に思いを馳せる。
 処女のスタンド使いだからだろうか? こればかりは周りに同じ条件の女がいなかった。もし、そうであれば夢主は貴重な人材だ。まだ完全に発現していないものの、スタンド使いの素質があり美味なる血まで持ち合わせているのだから。
 エンヤの言った“一時も手放してはならない”というのはこういう事なのだろうか?
 確かにあの危機感のなさと言ったら表彰ものだろう。DIOを前にして彼女は恐れない。怖がらない。泣き叫ばない。むしろ笑顔を見せてありがとうと礼まで言う。無邪気にDIOと会話を楽しむ姿は闇の中に灯る優しい光そのものだった。
「たとえ何者だとかまわぬ」
 自分をさらなる高みに押し上げてくれるというのなら、側に居させることに問題はない。むしろいつでも新鮮で美味しい血が味わえてDIOにはこれ以上無い有益な話だ。
 もはや餌の死体には見向きもせずDIOは階段を上った。二階の寝室に近づけば近づくほど彼女の気配が濃くなるのが分かる。
 血を吸ったあの日以来、夢主の体に流れる血潮の香りがDIOの体内から消えなくなった。血縁の結びつきとはまた違った感覚で相手の居場所を探り当ててしまう程だ。今もこうして彼女が放つ甘やかな香りに、思わず陶然となりかけている。DIOはそれを良しと思う一方で何故という戸惑いが隠せなかった。
 寝室のドアを押し開くと夢主は共有するベッドの端へ遠慮がちに横たわっている。彼女は決して真ん中で寝るようなことはしない。熱でうなされている時もDIOを気遣い、隅の方へ移動する素振りまで見せた。
 夢主の寝顔が見える近くまでDIOは足音を消して忍び寄った。外は昼だが、昼夜逆転の生活にも慣れてきたらしく彼女はすやすやと寝息を立てて眠っている。
 その不抜けた表情を見下ろしながらDIOは考えた。
 この者は己にとって何になるのだろうか、と。
「夢主」
 DIOは名を呼んだ後、ゆっくりと屈んで黒髪に触れてみる。少しだけ湿ったそこから花の香りがするので、また好きな風呂にでも入ってきたのだろう。
 このままずっと触れていたい……そう思ってしまうのは何故なのか。
 名残惜しく手を引いてDIOは自身も寝台の上に寝転んだ。夢主の鼓動がシーツを伝わって聞こえてくる。そっと肩に手を置いても彼女は目覚めなかった。
「夢主、こちらをむけ」
「……? なに……?」
 呼ばれるまま素直に寝返りを打って、眠そうな顔でこちらを見上げてきた。
 焦りや怯え、恐怖はもはやそこにない。ここが安全だと理解し、身を置くことに安堵しきっている幼子のような表情だった。
 DIOが何も言わないでいると夢主の目はゆっくりと閉じていく。
 そんな彼女の髪を指先で優しく撫でると、DIOの胸に言いしれぬ感情が込み上げてきた。
「不思議だ……理解できぬ」
 DIOは暗がりの中でぽつりと呟いた。
 この暖かい気持ちは何なのだ? どうして触れたくなる? どうしてそれが抑えられない?
 胸を熱くするような想いに駆られたことのないDIOは、夢主を前にして首を傾げることしかできなかった。


 深い眠りから浮上する意識に任せて目覚めると、夢主の目の前には妖しくも美しい光景が広がっていた。
 いつも背を向けて眠るDIOが珍しくこちらを向いて寝ているせいだ。ベッドサイドに置かれた揺らめくロウソクのおかげで、相手の表情の細かいところまで見えてしまう。
 長いまつげにすっと通った鼻梁、冷たい色をしながらも整った唇。黄金色の髪が頬にかかってそれが何とも艶っぽい。
 まだ馴染んでいないという首筋には痛々しい傷跡があった。ジョナサンから奪った体を繋ぐそれに夢主の良心がチクチクと痛む。
(ここに居ていいのかな……)
 選択を間違っているのではないだろうか……そんな事を思う夢主の前でDIOの目蓋がぴくりと動いた。
 眠そうに唸る相手の声に耳の奥が痺れるようだ。夕日を閉じ込めたような琥珀色の目がゆっくりと開き、先に起きていた夢主と視線を合わせる。
「お、おはよう……DIO」
「……ああ」
 何度か瞬きをくり返した後、DIOは夢主からの挨拶に短く答えた。
「もう起きる?」
「そうだな……」
 気のない返事をしながらDIOは数時間前と同じく相手の髪に指を伸ばした。寝乱れた前髪を横に払い、頬をそっと撫で下ろす。可愛い口元によだれの跡を見つけた彼はクスッと笑ってから指を離した。
 そんな事をされた夢主は驚きに目を見張る。体が熱くなって何も考えられなくなった。
「もう少し寝てもよいが……日は落ちたようだ」
 戸惑いと恥じらいを同時に見せる彼女を置いて、DIOはベッドから身を起こした。
「外に出掛ける」
 ただ一言そう残し、夢主の視線などもはや気にも留めず部屋の外に出て行った。
 彼が去った後、夢主はその場に飛び起きて撫でられた部分を手で押さえ込む。
(今の……なに……)
 高鳴る胸を静めるのには苦労した。それでも、DIOの寝顔を間近で眺める事が出来た幸運を喜ばなければ損だろう。降って湧いた棚からぼた餅。そう考えるともう少し眺めていたかったな……なんて欲が出てくる。
 彼の麗しい表情を思い返しつつ、夢主はパジャマから先日買い求めたガラベーヤに着替えた。エジプト民族衣装のそれはコットン素材で出来ていて、肌に優しく暑い日中でも通気性に優れている。ゆったりとしたワンピースなのでとても気楽だ。象牙色の布地に可愛らしい花の刺繍が施されたそれを身に付けると、少しだけエジプシャンの雰囲気を味わえるような気がした。
 DIOが言ったように外はもう陰っていて、空には月が昇り始めている。しかし昼夜が逆転している夢主にとっては今が朝だ。朝食の間ではテレンスが控えていて、すでに食事の用意が整っていた。
 簡単なものでいいです、という夢主の要望で朝食はパンとサラダとスープ、それから少しの温野菜とデザートが用意されてある。テレンスは器用なだけあって料理も得意なようだ。
「ごゆっくりどうぞ」
 一人きりで食事を取り、テレンスが入れた紅茶を堪能してから席を立つ。彼に何度もありがとうとお礼を伝えた夢主は、ダイニングを出て暗い廊下を歩いた。そのあちこちにDIOがどこからか持ってきた貴金属と札束、それから価値がありそうな絵画などの美術品が無造作に転がっている。
 本来ならそれに加えて女性の死体が転がっているのだが……客人である夢主が来てからというもの、アイスが頻繁に掃除をしているらしく、所々に血の痕を残しつつも床は綺麗だった。
 自分の足音だけが辺りに響く中、夢主はどうやって暇つぶしをしようか考えながら歩く。廊下の壁に飾られた絵画を横目に眺めていると、それらが途切れた先で上着を着込んだDIOがぬっと姿を見せた。
「わっ! びっくりした!」
「お前は絵が好きなのか?」
「え? ううん、暗くてよく見えないから何が描かれているのかなって思っただけ」
「フン……行くぞ」
 DIOは背を向けて玄関ホールに歩いて行く。聞き間違いでなければ彼は今、行くぞと言わなかったかっただろうか。
「何をしている。早く来い」
 首だけで振り返ると、今度ははっきりと夢主に向けて言った。廊下に突っ立っていた夢主は自身を指差す。
「え? 私に言ったの?」
「他に誰がいる。何度も言わせるな」
 DIOは玄関ホールを抜け、スタスタと迷いのない足取りで門をくぐり抜けていく。
「ちょっと待って!」
 夢主はDIOの背中を慌てて追いかける。足の長い彼の歩幅は早く、呼び止める夢主の声を無視して路地を曲がってしまった。
「待って……DIO……ッ」
 勢いよくそこを駆け抜ければ、何の気まぐれかDIOは角の先で立ち止まっているではないか。急に止まる事が出来ず、夢主は勢いそのままに飛び込んでしまった。
「!」
 相手の厚い胸板で鼻を強打した。鼻血が出るかと思ったほどだ。
「遅い。まったく……どうして人間はこうも貧弱なのだ?」
 鼻を押さえた夢主が文句を言おうと口を開くより先に、DIOが夢主の体を絨毯か何かを抱えるように肩へひょいと担ぎ上げる。
「ぎゃあっ」
 DIOのそんな行動に夢主の口から悲鳴が上がった。周囲の人々が何事かと振り向いた時、DIOはすでに建物の屋上へ飛び移っていた。



「ひぃい……嫌だ、怖いッ!」
 安全ベルトはDIOの片腕一本。それもいつ離されるか分からない。広い肩に担がれた夢主は頭を下にして、必死で相手の背中にしがみついた。
「煩いやつだ。落とすぞ」
「ごめんなさい! それだけは許して! でも、だって……こんな体勢、苦しすぎるよ!」
 その言葉の後、夢主の体がずるりとDIOの胸元へ下がっていく。また悲鳴が上がったが、DIOは無視して建物の上を飛び越えた。
「首につかまっていろ」
 両腕に抱えられた夢主の目に、生々しい傷跡が色濃く残るDIOの首が飛び込んでくる。
「……触っても痛くない?」
 妙な気遣いをされてDIOはフッと微笑んだ。
「お前ごときの力で外れはしない」
 一瞬、外れるところを想像してしまった夢主は青ざめつつも相手の首にそろそろと腕を回した。
 DIOの髪があたってくすぐったい。がっしりとした太い腕が体を支えてくれるので、今度はかなりまともに周囲が見渡せる。
 静かになった夢主を抱いたまま、DIOは空を飛ぶようにしてカイロの街を駆け抜けていく。
「ねぇ、どこに行くの?」
「着くまで静かにしていろ。舌を噛むぞ」
 ぐんっと重力がかかり、夢主は大人しく口を閉じて必死にしがみついた。
 何分もかからないうちに目的の場所へたどり着いたらしい。高い塔の上で引っ付いてくる夢主の体を抱いたまま、DIOはそこから向かいの建物を見下ろした。
 入り組んだ細い路地裏を一人の男が歩いている。大きな首飾りが月明かりを反射してキラキラと輝いていた。
「あ」
 夢主は一目でそれが誰か理解した。タロット占い師のモハメド・アヴドゥルだ。一人で歩いているところを見ると、まだ旅の一員にはなっていないらしい。
「分かるらしいな」
 夢主の反応でDIOはアヴドゥルがスタンド使いだと確信したようだ。
「……このために私を?」
「ああ。役に立ちたいのだろう?」
 そう言ってDIOは夢主を塔のわずかな外壁に下ろす。足場はほんの数センチしかない。夢主は慌てて砂壁にしがみついた。
「勧誘するの?」
 道行く人に声を掛けるのとは訳が違う。DIOの勧誘は強引だ。肉の芽を埋めてその溢れるカリスマの力で相手を意のままに操ってしまう。
「優秀なスタンド使いは常に人材不足だからな」
「でも……」
 アヴドゥルはジョセフからDIOの話をすでに聞いているはずだ。きっと彼はこの迷宮のようなスークを利用して逃げ切ってしまうだろう。
 言い淀む夢主を置いてDIOは地上へ降りていった。残された夢主はそろそろと下を見る。
 地上まで15メートルはあるだろうか……落ちたら間違いなく死ぬだろう。降りる手だてのない夢主は震えながら成り行きを見守るしかなかった。
 DIOが建物の屋上から中に消え、アヴドゥルが店の扉を開けて階段を上っていく。二人が出会うのはすぐだろう。
 夢主がやきもきしながら見ていると、不意に二階の窓からガラスを突き破ってアヴドゥルが飛び出してきた。持っていたランプを放り投げ、闇の中を走って行く。
 彼が上手く逃げ切れた事にホッとする夢主の前で、その後ろをDIOが追い始めた。人間と吸血鬼の身体能力の差なのか、手を伸ばせばアヴドゥルの背中に届く距離だった。
「え? どうして?!」
 この迷路のような路地が邪魔してアヴドゥルを捕まえられないはずなのだ。夢主が慌てたその一瞬、年代物の塔の壁がガラリと音を立てて崩れ落ちた。それに掴まっていた夢主も同じく体が宙に浮く。
 あっ、と思った時にはすでに遅かった。指が外壁を引っ掻く嫌な音がしたが、それだけでは夢主の体を支えることすら出来ない。
「……! DIOッ!」
 助けてくれるかどうかの確信も持てないが、無意識にDIOの名を叫ぶ。
 もうダメだときつく目を閉じた次の瞬間、夢主は再び太い腕に抱きとめられていた。
「……何をしている?」
「DIO!?」
 相手の顔が思いかけず間近にあったが、時を止めて助けてくれたのだと瞬時に思い至った。
「壁が……急に……」
 DIOがいなかったら……DIOのスタンドがなかったら自分は死んでいただろう。夢主は改めてゾッとした。
「……助けてくれたの?」
 DIOは無言で顔を見下ろしてくる。夢主はその数秒間がとてつもなく長く感じられた。
(もしかして……アヴドゥルを取り逃がしたことに怒ってる?)
 今更ながら自分の命など彼の前では何でもないのだと思い知らされる。
 彼は残虐で冷酷で、誰も信用しない。だからこそ肉の芽を埋めるのだろう。
「ごめんなさい……でも、あの……」
 氷のように冷たい目に正面から射貫かれて夢主の声が小さくなっていく。
(怖い……何か言ってよ……)
 ここで殺されてしまうのだろうか? そう思うと恐ろしくて体が震えた。きっと血を吸って殺されるのだろう……指が胸元に突き立てられる絵が頭の中で何度も繰り広げられて、サァッと血の気が引くのが分かった。もうそれ以上、DIOの目が見返せなくなって夢主は再びぎゅっと目を瞑った。その途端、堪えていた涙があふれてしまう。
「泣くほどに怖かったのか?」
 DIOのその言葉を理解するまで数秒かかった。
「……え?」
 涙で濡れた夢主の目が再びDIOを映す。
 彼は呆れた表情で夢主を見つめ返してくる。そこから怒りは感じ取れなかった。
 恐怖で固まっていた夢主の体をDIOが横抱きにすると、また驚異的な跳躍力で街中を移動し始めるではないか。
「!」
 激しく上下するその浮遊感に夢主の胃がキュッと縮む。堪らずDIOの首に腕を回したが、今だけは許して欲しく思う。
「DIO! DIO……!」
 名を連呼されてDIOは何だ、と小さく返事をした。
「怒ってないの……? 私、邪魔だったでしょう?」
 夢主の悲鳴を聞いて、DIOが逃げるアヴドゥルよりもそちらに気を取られたのは事実だ。彼女の危機を知り、わざわざ時を止めた後もアヴドゥルには十分追いつける距離だった。
 しかしDIOは追うことよりも夢主を助けることを優先した。貴重なスタンド使いだったが、逃げ方に迷いがないことからすでにこちらをよく知っているようだった。ジョースター家の誰か……おそらくジョセフあたりと知り合っていたのだろう。だから特に怒りもなければ悔いもない。それよりも……
「邪魔だと? いいや、お前は自分で思うよりも役に立ったぞ」
「え?」
 夢主には分からないだろう。DIOが止めた世界で動けるのはDIOだけ。
 落下する夢主が目に入り、瞬間、時を止めたがそれでも二秒の間だけだ。
 そう、今までは。
「エンヤの占いの通りだったな……一時も離してはならないと。まさにその通りだ」
 老婆の言葉の意味が今なら理解できる。
 これまで二秒しか止められなかったのに、夢主を救うために止めた時間はなんと四秒だ。
「実にいい気分だ。館に戻ってワインでも開けてやろう」
 上機嫌なDIOに夢主は訳が分からず、ぽかんとした表情で顔を見つめる。
 そのうち低く笑い始めたDIOの首に夢主は目を瞬かせつつ縋るしかなかった。




- ナノ -