薄氷に臨む | ナノ
結局承太郎は学校を抜けてそそくさと家路に着くことにした。まだ高く昇っている太陽が固く握られた拳をほんの少し緩めさせてくれる。それでも、心は晴れることを知らなかった。
ああして過去の事を鮮明に思い出す度、目に映る全てが記憶を呼び起こす。葵と笑いながら通った通学路。彼女が通る度撫でていた茶色い犬は承太郎一人だと怯えるように歯を剥いた。
体が一度ぶるりと震える。寒いな、と心の中で呟く。秋も深まってくると体温の高い葵の手を握って歩いた。自分の手の中にすっぽりと納まるそれは、初めからそこにあるのが当然であるかのようにしっくりと馴染んでいた。しかし、それを感じることはもうないのだろう。そう考えるほど、乾いた風が冷たく感じられた。

がらりと玄関を開けると、見慣れない靴が一足あった。一瞬不思議に思って、直ぐに自分の物と比べて遜色のない大きさのそれが誰の物か分かり承太郎の心臓が一つ跳ねる。

「あら承太郎早かったわね!」
「そんなに早くおじいちゃんに会いたかったのかのー?」
「…戯けた事言ってんじゃねえよじじい」
「あら、パパにじじいなんて言って!それに学校抜けて来たんでしょう!もう!」
「まあまあホリィ。この年頃の子なんてちょいと悪ぶってみたいもんじゃよ。親のいいなりの奴より見どころがあるわい!」
「もう、パパは承太郎に甘いんだから」
「わしが一番甘いのはホリィに対してに決まってるじゃろ」

キャッキャとはしゃぎ合う二人を前に承太郎は混乱を隠すので精一杯だった。…高校に入ってから祖父であるジョセフに初めて会うのはあの留置所…全てが始まったあそこからだったはずだ。それ以前に多忙であるジョセフと顔を合わせた記憶はない。なのに何故、彼はここに居るのか。

「承太郎、そんなぼさっと立っとらんでさっさと入りなさい。…大事な話があってここに来たんじゃからな」

急に真面目な顔になったジョセフに承太郎も背筋を伸ばした。大股に歩くジョセフの後ろに続いて承太郎も今に入り腰を下ろした。

「大事な話とは言ったが…そんな緊張せんでもいいぞ。承太郎もなんだかんだ真面目じゃな」

はっはっはと朗らかな笑い声をあげるジョセフを承太郎はじろりと睨み付ける。しかし確かにその表情に緊迫したものは感じ取れない。
…記憶にある時期とそう変わりはないこのタイミングでの訪問。DIOに関する事かとも思ったが…しかし、まだ自分にスタンドが発現する兆候は見られない。…そう、一切見られないのだ。
あの旅の記憶が蘇ってから今まで承太郎は己のスタンドであるスター・プラチナを出そうと努力を続けていた。時を止める感覚を掴んでいる今ならば、また同じ旅をすることになっても仲間を助けられるのではないか。その為には一秒でも長く時を止められなくてはならない。強迫観念とも言えるその考えに憑りつかれて必死にスター・プラチナの姿を思い描き、呼び出そうとしてきたが今の所手ごたえはなかった。

「さて、そろそろ本題に入るとするか」

笑いを引っ込めたジョセフに承太郎も真正面から向き合った。

「ジョナサン・ジョースターという名前を知っておるか?」
「…確か、じじいのじじいだろ」
「うむ。承太郎にとってはひいひい爺さんということになるのう」
「そいつが何だっていうんだ」
「…爺さんが、ジョナサン・ジョースターが今も生きておると言ったら、どうする?」

ジョセフの思いがけない言葉に承太郎は目を見開いた。承太郎の記憶が正しければ、ジョナサン・ジョースターは百年前DIOとの戦いに敗れ死んだはずだ。…DIOに体を乗っ取られて。

「…悪い冗談だな」
「いいや、冗談ではない。…今から話すのは百年前、本当に起こった出来事じゃ。本来ならもっと早くに話すべきだったのかもしれんが…幼いお前に話して周りに話されても困るからなあ。随分と遅くなっちまったが」
「…御託はいい、さっさと話せ」
「全くせっかちじゃな。…そう、どこから話そうかな」

幼かった承太郎に寝物語を聞かせていた時の様な楽しげな笑みがジョセフの口元に浮かんだ。整えられた髭を撫でながら話し始めたそれは、承太郎の度肝を抜くのには十分なものだった。

一世紀ほど昔。ジョースター家はイギリスに住んでいた。豪奢な屋敷に何人もの使用人と、三人の家族。一人は家長であるジョージ・ジョースター。そしてその息子のジョナサン。残る一人はジョージが引き取ったディオ・ブランドーという名の少年。
ジョナサンとディオは年も変わらず、時に友人として、時にライバルとして喧嘩もしたが仲睦まじい義兄弟だった。二人とも聡明でジョナサンは考古学を学び、ディオは法律を学んだ。周りの誰もが彼ら家族を微笑ましく見守り、一家は安泰かと思われた。しかし――。

「一つだけ、不穏の種が紛れておった」
「不穏の種?」
「うむ。それは石仮面。それを被って一度血を浴びれば吸血鬼となる悍ましき仮面よ!…おっと承太郎信じておらんなー?」
「信じてる。さっさと先を話せ」
「おりょ?…普通疑ったり笑い飛ばしたりせんか?随分と素直じゃな…詰まらんのう」

口を尖らせたジョセフは承太郎の苛立った視線に一つ肩を竦めまた話し始めた。

ジョナサンとディオが二十歳を超えて少し経った頃。彼らの家に強盗が入った。使用人を買収し、家族と忠誠心厚い使用人たちの食事に睡眠薬を混ぜるという計画的なものだった。強盗達は眠りに落ちた家人たちを拘束し、悠々と金品を奪うつもりだった。
しかし、ジョナサンの効き目だけが浅かったのか、彼だけが目を覚ました。当然暴れる彼に男達は慌ててジョナサンの机に置いてあった石仮面を被せた。石仮面の作りは荒っぽく、視界が酷く狭いのが見て取れたからだろう。
強盗だけならばまだしも、貴族を殺したとなれば捜査は苛烈なものになる。それを恐れた男達はとにかく自分たちの顔を見られぬよう石仮面を被せ、一旦の目隠し代わりにした。シーツか何かを切ってしっかりとした目隠しをするべきだと声を荒げるものと、さっさと奪って逃げるべきだと言うもの。喧々囂々とした中、もう一つ男達の予想していなかったことが起こった。…ディオが目を覚ましてしまったのだ。
薬のせいでよろ付きながらもやってきたディオは男達の顔をしっかりと見てしまった。それに慌てた男達は思わずもしもの為に持っていたナイフを振るい…それはディオの胸に深々と刺さった。そしてその血の一滴が…ジョナサンの被った石仮面へと飛んだ。
そこから先は惨憺たるものだった。吸血鬼と化したジョナサンは男達を殺し、人格を取り戻した時には、ディオがもう今にも息を引き取るかという状況だった。
ジョナサンは迷い…そしてディオにも石仮面を被せた。友でありライバルであり…大切な兄弟である彼を見殺しには出来なかったのだ。そしてその晩、二人の吸血鬼が生まれた――。

「これが百年前に起きた出来事じゃ。そして彼らは今も夜の闇の中生きておる。どうじゃ?驚いたか?」
「…ああ、たまげすぎて何ていやあいいか分からないぜ」
「そうじゃろうそうじゃろう!わしも親父から聞いた時はなんの冗談かと思ったわ!」

愉しげに笑うジョセフの言葉に嘘は無いのだろう。他にも何か話しているようだったが承太郎の耳には意味のある言葉として入っては、来なかった。



揺らぐ世界
俺が今居るここは、一体なんなのだろうか
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