薄氷に臨む | ナノ
空条承太郎はその日もいつも同じように女子生徒に囲まれながらの登校を果たした。教室に入りやっと姦しい喧騒から離れ小さく息を吐く。何時もの様にちらりと窓際の席に目をやるが、そこはまだ空席だった。声をかけてくるクラスメイトに適当に返しながら数分。ガラリと教室のドアが開いてその空席の主…一之瀬葵が入ってきた。

「あ、一之瀬さんおはよー」
「おはよう」
「ねえねえ、数学の宿題なんだけどさあ…自信なくって。良ければなんだけど見せてくんない?」
「いいけど…本当はやってないんじゃないの?」
「きっびしー!ちゃんとやったって!」
「はいはい。始まるまでに返してね」

登校したばかりの彼女に気安く話しかける男に思わず視線が険しくなったのが自分でも分かった。そんな承太郎の視線に気づいたのか男の背が跳ねる。慌てた様に離れて男友達の輪に加わった。

「…やべえ、ジョジョに睨まれたんだけど」
「お前なあ…朝は機嫌悪いんだから騒ぐなって」
「おー…」

漏れ聞こえてくる声にため息を噛み潰しながら承太郎はそっと葵の方へと視線を移した。すると彼女もこちらを見ていたのか一瞬絡み合った視線は直ぐに断ち切られる。その反応に舌打ちをしたいのを必死に堪えた。

…空条承太郎にはとある記憶があった。それはあまりにも奇妙で、誰に話したこともないおかしなものだった。"今と全く同じ時間を生きた、自分自身の記憶"それが、彼が抱えているものだった。

記憶の中の自分はスタンドと言う超能力の様なものを持ち、一族の因縁の相手を多くの犠牲を払いながらも打倒した。その後も様々な問題に巻き込まれ、時には立ち向かい…最後には己の娘を守って死んだ。そう、記憶している。
しかし、では今の自分はなんなのかと承太郎は常々疑問に思っていた。記憶の中で確かに自分はこの時代を過ごし、死んだはずである。ならば今ここに居る自分とは一体どういう存在なのか。
初めはただの妄想かとも思った。しかし、確かに記憶の中にあるのと同じ事件が起こり、同じものが流行る。こうして自分を囲む人間たちも皆記憶の中と同じだ。…一之瀬葵を除いて。
一之瀬葵と自分とは幼馴染で…恋仲だった。幼馴染なのは変わらないが、関係性は大きく違う。口を交わすことは愚か視線を混じらわせることすら滅多にない。今では彼女と承太郎が幼馴染だということを記憶している人間の方が少ないだろう。
何故こうなったか。それは自分が彼女を避けているということもあるだろう。…嫌っている訳ではない。むしろ真逆だとさえいえる。自分は彼女を愛していた。…いや、愛している。記憶の中の承太郎も、今の承太郎も同じだ。彼女への想いを断ち切れず、多くの人を巻き込み不幸にしてしまった。しかし、それでも恋い焦がれ続けている、そんな存在だ。

だからこそ、自分が彼女に触れることは許されなかった。

彼女はスタンドを持たない平凡で美しい少女だった。そんな彼女を置いて過去の自分(便宜上そう呼ぼう)は因縁の相手…DIOを倒す為エジプトに向かった。母を救い、彼女の元に戻ろうと過酷な旅を進み――漸く辿り着いたDIOの、その横に、彼女が居た。
DIOは酷く狡猾で、残酷だった。葵の命と母の命を天秤に掛け、承太郎に決断を迫った。愛する家族と愛する恋人。どちらを選ぶべきなのか今の自分にも分からない。過去の自分もそうだったのだろう。立ちすくみ、声も出せない自分にDIOは嘲笑を浴びせた。

『なあ承太郎。選べないのならもう一つ選択肢をやろうか。…お前が死ねばこの子もホリィも助けてやろう』

抗議の声を上げる仲間たち。冷静な部分がこの男がそんな美味い話を持ちかけてくる筈がないと囁く。葵の命が助かる保証も、ホリィのスタンドの暴走を止める手立てがあるという保証もない。しかし分かっていてもその言葉は酷く甘い蜜を孕んでいた。

『俺が、死ねば』
『駄目!承太郎、私は、いいから!』

首を振る葵からちゃりちゃりと音がする。月光の中輝く細い鎖の先をDIOが弄んでいた。

『さあ、承太郎…どうする?』

決断を迫るその言葉に俺は、自分に相対するようにスタンドを浮かばせて――。

『スタープラチナ…俺を』
『承太郎!』

振りかぶった拳。ほんの一瞬の空白。手品のように現れた葵の細い体が、粘着質な音を立てて――。

『…お前が葵を殺したんだ承太郎』

俺が、葵を――。

授業の終わりを告げるチャイムの音にハッと顔を上げる。いつの間にか過去の自分と今の自分とが混濁していたようだ。ジトリと嫌な汗が背を濡らしていた。
額を覆いながらため息を零していると、がやがやと喧騒が起こる。次の授業は教室を移動しなくてはならない。余りの億劫さにこのまま帰ろうかという甘い誘惑が承太郎の心を過る。
どうしようか悩みながら視線を上げると視界の端に艶やかな長い黒髪が映った。窓から入った風に靡いた髪を押さえながら葵が友人と笑い合っている。そんな光景に胸がずきりと痛んだ。
細く滑らかなあの髪に指を通すのが好きだった。擽ったそうに笑う葵の額に口付ければ仄かに赤くなる頬の柔らかさが、今も尚鮮明に指先に蘇る。
承太郎の視線に気づいたのか、振り返った葵の顔が一瞬強張った。それを隠すかのように足早に教室を出る華奢なその後姿に強く、強く拳を握ることしか出来ない。
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