薄氷に臨む | ナノ
カリカリとノートとペン先の擦れる音が小さく響いていた。ふっと息を吐いて、行儀よく並んだ数式を眺める。

「あ」

最後の最後でミスをしていることに気付いてため息を一つ。昔からここぞという時に間違える癖はどうにも抜けない。集中力が足りないのだ、と承太郎に叱られていたのを思い出してしまう。…でも集中力だけの問題なのだろうか。よくよく思い返すと、私はどうも運というか、間が悪いと言うか。学校に遅刻しそうになって近道をしようとしたら工事中だったり、悩みに悩んだケーキが外れだったり。ああ、DIOに捕まった時だってホリィさんのお見舞いに行くかどうか悩んで、行った帰りに捕まったんだ。
もちろんこんなケアレスミスは集中力の問題なんだろう。でも実は私って本質的に大事な時に間違えてしまう人間なんじゃないだろうか。いや、遅刻やケーキがそんな大事かって言われるとそうでもないとは思うのだけれど。
なんだか憂鬱になってきた気分を振り切る様に消しゴムで間違えた所を擦る。薄く消えていく文字のようにこの感情も消えないものか。
はあ、とため息をつきながら答えを書き直してシャーペンを机に置く。なんだかやる気がそげてしまった。温かいココアでも飲もうか、なんて考えていると一人っきりの部屋に振動音が響いて肩が跳ねた。
慌てて鞄の中から震える携帯を取り出す。…この番号を知っているのは私にこれを与えた彼だけ、だ。期待と不安半々になりながらボタンを押して耳に当てる。

「はい」
『葵。お前明日は休みだな?』

挨拶もなしにいきなりそう聞いてくるディオに苦笑しつつ肯定の返事を返す。

『なら今すぐホテルに来い。急げよ』

それだけ言ってブチりと切られた携帯を少しの間呆然と眺めて、急いで身支度を整える。鏡の中の自分を一度確認して、階段を駆け下りた。

「お母さん、友達の家行ってくるね!もしかしたら泊まりかも!」
「え、ちょっと!もう、手土産何か持ってきなさい。お金ある?」
「大丈夫。ちゃんとケーキでも買ってくから」
「そう。お母さんから連絡してご挨拶しなくていいかしら」
「泊まりになるか分からないしいいよ。私から言っておくから」
「そう?お行儀よくするのよ」
「はーい」

困った顔をしながらも見送ってくれるお母さんに対して、嘘を吐いた事実が少し胸に痛い。私の事を信じているからこそ疑わずに送り出していてくれるのだ。その信頼を裏切っているというのに、心躍ってしまう自分に呆れてしまう。けれどもディオの元へと向かう足が早く早くと急かして止まれない。



「…これは、どういうことでしょうか」

ポツリと落とした言葉を聞き取ったのか、羨ましいですわと綺麗に笑う目の前の人達を見て私は大きくため息をついた。
ディオの元へと辿り着いた私を待ち受けていたのは、この綺麗なお姉さま方だった。呆然と驚いている私から、お姉さま達はあれよあれよという間に服を剥ぎ取った。羞恥心に震える暇もなく、次から次へと取り出された服を着せては脱がせられる。ディオは傍らで書類の様なものを捲りながら、お姉さま達にペンで指示を送っていた。

「これで最後です」

その言葉に顔を上げたディオがふむ、と頷いた。

「今日の所はこれでいい。そっちは持って帰ってくれ。今着ているものはそのまま着せておきたいんだが」
「かしこまりました」

サラサラと肌触りのいい生地に滑らせていた指がピタリと止まる。ディオが指差したそっち、は大目に見積もっても三着程度だろう。お姉さま達はどこかうきうきした表情で…もう片方のどさりと積まれている服を処理していた。

「…ディオ。もしかして、だけど…あれ、全部買う気?」
「ああ。何か問題があったか?」
「問題、というか…」

当たり前のようにそう言い切るディオに思わず眩暈を覚えた。着せ替え人形をさせられている間に服を買う気なのは分かったが、まさかこんな大量に買うとは。チラリと見えた値札は見たこともない桁ばかりだったはずである。
…止めても止まらないんだろうなあ。そう理解していても抗議が混じった視線を送っていたのだろう、ディオが訝しげな顔をした。

「…なんだ、あっちに欲しいものでもあったか?そう言うことは早く言えよ」
「そうじゃない、そうじゃないのよ…」

見当違いの答えに肩を落とす。その間にお姉さま方はそそくさと出てしまっていた。大きなため息を落とした私に構わず、ジャケットを羽織ったディオがカーテンに覆われた窓の方を見た。

「日は落ちたか?」
「え…ちょっと待ってね」

パタパタと履き慣れない高いヒール(これも服に合わせてディオが選んだものだ)に苦戦しつつ窓際に駆け寄る。そっと捲った先は、群青色に染まっていた。遠くの方で僅かに夕日の名残が残っているが、紫色と橙のグラデーションは刻一刻と狭まって行く。

「もう殆ど沈んでるみたいだけど」
「そうか、行くぞ」
「え、どこに?」

クエスチョンマークを飛ばす私を尻目にスタスタと扉に向かうディオを慌てて追いかける。ちらりとこちらを見てスッと出された腕に首を傾げる。

「手をよこせ」

言われた通り差し出した手を腕に掴ませられる。

「…こんなことするんだ」
「俺は英国紳士だぞ?これくらい当たり前だろう」
「…紳士は、もう少しちゃんと説明してくれると思うんだけれど」

くすくすと笑った私を引っ張る様に歩き出すディオに連れられて毛足の長い絨毯を踏みつけた。
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