薄氷に臨む | ナノ
いつも承太郎を囲む女たちの声が聞こえて、怒られるから先に行くね、と苦笑して小走りに去っていた葵を見送って承太郎は一つ息を吐いた。つい、先程まで葵が隣を歩いて自分を見上げて笑っていた。承太郎、と自分を呼ぶ声を思い出して大きくため息を一つ吐く。
――自分は舞い上がって何か変な事を言いやしなかったか。葵、と名を呼ぶ声は上擦っては居なかったか。そんな不安がジリジリと胸に込み上げてくる。

「ジョジョー!おはよう!」
「ジョジョ、今日も格好いいわね!」
「ねえジョジョ、今日帰りにお茶しない?」
「ちょっと!あんた何抜け駆けしてんのよ!」

何時もならば怒鳴りつける女たちの姦しい会話に耳を傾けることもなく、承太郎は葵の一挙一動を思い出していた。まるで初恋をした中学生の様だと自分で笑ってしまう。だが、それも間違っていないのだ。今も昔も、彼女は自分にとって初恋で、最初で最後の愛した女だった。

「あら!あの子見ない制服ね!」
「本当!…中々格好良さそうじゃない?」
「ならあんたあっちに行けばあ?あたしはジョジョが居るから他は目に入らないもーん」
「私だってジョジョが!」

いきなり腕を組まれて流石に怒鳴りつけようとした承太郎の眼に、見慣れない色の制服が飛び込む。それを認識した途端承太郎は息をすることすら忘れた様に固まった。…か、きょういん?確かにそれはあの旅の間ずっと目にしていた親友の纏っていたものだ。鮮やかな赤毛も、綺麗に伸びた背筋も。忘れる筈もない。
こちらの喧騒に気付いたのか、その男がこちらを振り向く。そしてクスリと、笑った。
その顔は、間違いなく幾度も自身の背を預けた花京院典明の、ものだった。
承太郎は思わず女たちを振り払い花京院の元へと足を進める。その剣幕に何か因縁のある相手だと思ったのか女たちが少し後ずさった。それをいいことに承太郎は花京院の腕を掴む。

「…お前、名前は」
「僕の名は花京院典明ですよ?そして君は…空条承太郎。そうだろう?」

悪戯っぽく笑う花京院に承太郎は何と言えばいいか分からなかった。胸の奥から熱いものが込み上げてくる。今この手で掴んでいる男は、過去の自分が喪った大切な魂の一部だった。

「とりあえず学校に行かないか承太郎?流石に転校初日から遅刻って言うのは避けたいんだが」
「…相変わらず生真面目だなてめえは」
「承太郎が不真面目なんだろう?さ、行こう。…ボク等話はこんな所で出来る様な詰まらないもんじゃないだろう」
「…ああ」

いつの間にか誰も居なくなった道を二人小走りに向かう。

「でも承太郎と本当に先輩後輩になるなんて思ってなかったなあ」
「お前三年じゃなかったのか」
「二年生だよ。じゃなきゃ流石にこんな時期に転校したりしないさ」
「…それもそうだな」

自分はそんな些細なことも知らなかったのか、と承太郎は少し意外な気持ちを覚える。あの旅の中で花京院に対して色々な事を知ったつもりだった。しかし、それは一部だったのだろう。ほんの四十日程度の旅では分からなかったことの方がきっと多いのだ。しかし自分たちにはこれから先、もっと長い時間がある。今もまだ蟠るものはあるが、それを塗りつぶすほどの幸せを承太郎は感じていた。


放課後、屋上で――。そう花京院に告げられた通りにするため、承太郎は授業が終わった後も席に着いていた。HRなどまだるっこしいと出る事のない承太郎がジッとしていることに周りから奇異の視線が送られる。それに舌打ちしたいのを堪えて窓際に目を向けると、他のクラスメイトと同じく承太郎の方を見ていたのか葵と目が合った。視線を逸らされることなく、小さく笑って手を振ってくる葵にささくれ立っていた心が落ち着くのを感じる。我ながら単純なものだと承太郎は小さく苦笑した。そう言えば昔の彼女は自分が"猛獣使い"と言われると笑っていたものだ。
そんな事を考えていると、漸くHRも終わったようだ。ガタガタと荷物を持って外に出る流れに乗って承太郎も席を立つ。チラリと葵の方に視線を遣ると、友人と話している所だった。それに少しばかり残念に思いながらも承太郎は逸る思いのまま屋上に歩を進めた。

重たい扉を開くとぶわりと風が吹き込む。辺りを見回すが花京院はまだ来ていない様だった。一つため息を落として承太郎は逸る心を押さえこむように煙草に火を点ける。フッと吐き出した煙が風に流され消えていく。今日はどうにも風が強い日だ。
一本目のタバコを吸い終える頃、花京院が息を切らして飛び込んできた。

「はっ…すまない承太郎、待たせたか?」
「いや、丁度吸い終えた所だ」
「あいかわらず煙草吸ってるのか。体に悪いから止めた方がいいぞ」
「大きなお世話だな」

小さく笑って肩を竦める承太郎に花京院が軽く肩を殴る。全く、と言いながらも花京院も楽しげな笑みを浮かべていた。

「なあ、ボクにも一本くれないか?」

悪戯気に笑ってそういう花京院に承太郎は一つ瞬きをする。早く、と手を差し出す花京院に一つため息をついて一本差し出した。

「体に悪いんじゃねえのか」
「ふふっ、そう言うことがしたいお年頃なんだ。本当は、あの旅をしているときに少し吸ってみたいな、と思ってたんだよ。…君がずいぶんと美味しそうに吸ってるもんだから」
「…そうだったか?」

手渡された煙草を咥える花京院に続いて承太郎も一本取りだす。カチンっとジッポの蓋を開くと花京院を指で呼んだ。風に消えない様に手をかざしながら灯した火に二人で顔を近づける。ジッと微かな音と共に二人の指先で煙草が煙り始めた。

「ああ、花京院…」

注意した矢先に花京院がげほげほと咳き込んで承太郎は苦笑する。

「…いきなり肺まで入れるとキツイ、と言おうとしたんだがな」
「そう、いうことは、吸う前に言ってくれ…!」

少し涙目になりながら睨み付けてくる花京院に承太郎が両手を挙げる。花京院はジッと煙草を見つめてからまた口付けた。決して美味くは無いのだろう、眉を顰める姿に無理に吸わなければいいのにと思いながら承太郎は煙を吐きながら横目で見る。慣れて来たのか花京院の口からフッと吐き出される煙が自分の物と混じり流れていく。互いに無言のままじりじりと煙草が短くなっていった。

「…ずっと待ってたんだ。君とこうしてまた会える日をずっと、待ってた」
「…ああ」

短くなった煙草を捨て足で踏みにじる。ひしゃげたそれが惨めに風に吹かれて揺れる。それを見下ろしていた花京院も同じようにすると、フッと笑った。

「こうして君と学校の屋上で二人過ごすなんて夢みたいだな」
「なんだそりゃ」
「いや、だってほら。あんな事がなければどう考えたって君とボクがこんな関係になると思わないだろ?君は不良でボクは優等生だ」
「誰が優等生だって?」
「言ってくれるなあ。どこからどう見たって優等生だろ」
「優等生は急に煙草をくれなんて言わねえよ」
「…それもそうだな」

ははっと笑う花京院の顔は記憶と変わらない。ぽつりぽつりと話す花京院の言葉に承太郎が相槌を返す。ホリィさんやジョースターさんは元気か、と尋ねる横顔に承太郎が頷けばパッと顔が華やぐ。それに承太郎も笑みを深めれば照れた様にそっぽを向いた。
気忙しい秋の太陽は既に真っ赤に空を染めて身を沈め始めている。花京院の赤い髪がそれを受けて燃えるように光っていた。

「そろそろ日が沈むな」
「ああ」
「そろそろ行こうか承太郎。…君に会わせたい人が、居るんだ」
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