薄氷に臨む | ナノ
「うーん…これで大丈夫かなあ?」

雲一つない秋晴れの朝。私は空模様とは反対に難しい顔をしながら鏡を覗き込んでいた。その指先がするりと自分の首を撫でる。
ディオの部屋に訪れたあの日。時が経つのも忘れるほど求め合った証明とばかりに私の体には幾つものキスマークや歯型が刻まれていた。そのほとんどは服で隠れる箇所に有ったが、ただ一つ首筋に刻まれたものは隠しようがない。虫に刺されたというには少々時季外れだ。結局慣れない化粧品で誤魔化すことにしたのだが…。

「うーん…」

鏡に映る自分の首元でそこだけが微かに赤みを帯びているように見えなくもない。自分の意識のし過ぎかもしれない、と思ってもやはり気になってしまう。そのまま考え込んでいると母親が大声で呼びかけてくる。

「葵ー!さっさとしないと遅刻するわよ!」
「はーい!」

慌てて返事を返してもう一度鏡を見つめる。
――お母さんもお父さんも気付かなかったんだし、きっと問題ないんだ、うん。
そんな風に自分に言い聞かせて、早足に家を出る。いつの間にか吹き付ける風が随分と冷たくなっている。もう少ししたらマフラーを巻いてもおかしくないだろう。
その頃にはこの跡は薄れて消えてしまっている。けれどまた新しいものが付いていると期待と確信とが入り混じって胸を揺らした。
足早に通学路を進んでいると、見慣れた後姿が視界に映る。辺りを見回すが、まだいつも彼を囲んでいる女の子達は居ないようだ。
高鳴る心臓を押さえる代わりに鞄の取っ手をギュッと握って小走りに駆けだす。

「じょ、――空条君!」

私の声にぴたりと足を止めた承太郎が僅かに目を見開いてこちらを振り向く。そりゃあここ数年まともに会話どころか視線すら合わせてなかった幼馴染がこんな風に声を掛ければ、流石の彼も驚くだろう。やはり馴れ馴れしく承太郎なんて呼ばなくて正解だった。
振り向いて止まったままの承太郎の横に並び、足を止める。ジッとこちらを見てくる彼に少しの居心地の悪さと、じわじわと湧き出てくる喜びを覚えた。

「えっと、おはよう」
「…ああ」

ぶっきらぼうに返事をしてすたすたと歩き出す承太郎に、いきなり声をかけたのは失敗だったろうかとため息を落とす。そんな私を振り返って行かねえのか、なんて言う彼はやはり変わらずに優しいのだ。
お互いが無言のまま、かさかさと落ち葉が揺れる道を並んで歩く。つい心の思うままに声をかけたが一体どんな話をすればいいのだろうか。ホリィさんは元気?…いや、つい昨日も母の所にお茶をしに来ていて会話したばかりだ。進路は決めた?…これも急すぎるだろうか。一人悩んでいると承太郎が口火を切ってくれた。

「珍しいな」
「え?」
「…一之瀬が俺に声かけてくるなんて珍しいだろう」
「え、ああ…。あの、実は昔の…空条君と遊んでた頃の夢を見て。つい声かけちゃったんだけど。迷惑、だったかな?」
「…いや、別にそんなことはないぜ」

咄嗟の言い訳にしては及第点だろう。承太郎も特に気にした様子もない。しかしここから会話が発展することはなく、ゆるゆると足元に視線を下ろす。そこで彼の歩幅がいつもより小さいのに気づいた。…そういえばこんなにも足の長さが違うのに私は何時もと同じペースで歩いて居る。

「なに笑ってんだ」
「…空条君は相変わらず優しいんだなって。ほら、小学校の遠足の時も皆とはぐれて二人で歩き回って。その時も、こうして歩幅を合わせてくれてたよね」

そう、何時だって承太郎は優しかった。どれだけ二人の歩幅が違っても、いつも私に合わせてくれた。私の手を取って、少しだけ柔らかくなる表情を覗き見るのが好きだった。大きな手に包まれる安心感を思い出して、なんだか少し寂しくなる。

「…そんなこともあったな」
「うん。私途中で転んじゃってびーびー泣いて困らせたんだよねえ」
「ああ、歩けないからおぶれって煩かったな」
「そうそう、でも重かっただろうに承太郎頑張って負ぶってってくれたよね」

ぴたりと承太郎の足が止まる。それを不思議に思って、今自分が彼を何と呼んだか思い出して冷や汗が出た。

「ご、ごめんなさい。つい昔に戻ったような気分になっちゃって」
「…いや、別にいい。お前に空条君なんて呼ばれる方が変な感じがするからな」
「…そっか。ね、じゃあ承太郎もちゃんと昔みたいに呼んでよ」
「…葵。…これで満足か?」

照れた様に目を逸らす承太郎にゆるゆると悪戯心が湧いてくる。ああ、こんな所も好きだった。
…好き、だなあ。

「うん!…ああ、もっと昔は葵ちゃんって呼んでたよね」
「何時の話してんだお前は…」
「承太郎が天使のように可愛らしかった時の頃かなあ」
「誰が天使だ」
「今は絵にかいたような不良になっちゃったものねー」

からかう様に笑う私の頭を承太郎が軽く叩く。記憶と変わらないやり取りに思わず嬉しくなってしまう。

「何叩かれて笑ってんだきもちわりい。…変な所は昔と変わらねえな」
「酷いなあ承太郎は」

下らない会話、呆れたように笑う承太郎。つい先日までとは違う関係。
拗ねた様に顔を逸らす先で私はきっと酷い顔をしている。その手がまた私を慈しむように触れるのを、愛おしく見つめることを浅ましく望んでいる――女の、顔だ。
ごめんね、承太郎。私――あなたの知っている私じゃ、ないの。
風が首筋を撫でる。それを追うように滑らせた指のその下で、淫らな印がジワリと熱を持つような錯覚を覚えた。
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