薄氷に臨む | ナノ
それから三日後。私はそのホテルの前に立っていた。横を通る人は皆綺麗に着飾っていて、なんだか場違いなような気がする。数分固まって、いよいよ入り口に立つボーイさんに怪訝な顔をされ始めた頃。漸く覚悟を決めてフロントに向かった。
煌びやかなロビーに尻込みしつつ部屋番号を告げると、一瞬呆気にとられた様な顔をされる。しかし彼もプロなのか即座に柔らかい笑みを浮かべながら受話器を取った。

「はい、お客様がいらしております。はい」

ガチャリと受話器を置いたフロントの人がボーイさんを呼びつけた。耳打ちをされた彼の背筋が、ピッと正されたことにこちらも緊張が走る。

「こちらへどうぞ」

ボーイさんに促されてエレベーターに乗ると、続けて入ってきた彼がDIOの居るであろう部屋のボタンを押す。…それが最上階だったのは見てみぬふりをしたいところだ。
無言のままエレベーターは最上階に着き、ボーイさんはそのまま一礼して去ってしまった。部屋まで案内してくれないのか!と驚き、冷静になって納得する。…この階、扉が一つしかない。
豪奢な作りのその扉の前でもう一度深呼吸をしていると、がちゃりと扉が独りでに開いた。まさか自動ドアかと驚いていると、DIOが続けて顔を出す。

「…何を間抜けな顔をしているんだお前は」
「…いえ、あの」

恥かしさの余り俯いていると呆れた様に入れと促される。素直にそれに続いて思わず目を瞠った。リビングルーム、というのだろうか、いくつかの座り心地の良さそうなソファーにシックな調度品。どれも煌びやかという訳ではないが、それが逆に品の良い空間を作り出していた。正直中に入るのが怖い。傷でもつけたら恐ろしいことになりそうだ。
そんな風に怯える私に構うことなく、当たり前だがずかずかと進んだDIOがカチャリと棚に置いてあったカップを掴んだ。

「コーヒーでいいか」
「え、あ、はい…」

流れるように作業をしているDIOを呆気にとられて見ていると、座れとソファーを指される。一応下座であろうソファーに腰を下ろしてDIOを眺めた。

「何を見ている」

振り向いたDIOが訝しげに眉を顰めていた。

「え、あ、いや…あなたもそんな服を着るんだなあって」

先日会った時もそうだったが、今のDIOも白いYシャツに黒のスラックスと言う至って普通の格好をしている。例のあの強烈な服の印象が強いだけになんだか不思議な感じだ。

「…そのことは忘れろ」

嫌そうな顔をする彼に少しばかり悪戯心の様なものが湧く。…彼を前にこんな感情が生まれるなんてついぞ考えたこともなかった。私の知っている彼は、邪悪で、恐怖の塊のような人で。けれど今彼の背にそんなものはこれっぽっちも見受けられなかった。だからこそ、私は今日ここに来れたのだ。
かちゃりと置かれたカップの中で真っ黒な液体がゆらゆらと揺れる。ブラックのままでは飲めないので戸惑っているとそれに感付いたのかため息とともにミルクと砂糖を取ってきてくれた。

「あ、ありがとう」
「構わん」

こちらに目をやることなくコーヒーを飲むDIOをそっと覗き見る。長い睫が薄い影を作っていて、何か作り物めいた美しさすら感じさせた。
視線を感じたのかこちらに顔を向けて僅かに首を傾げた彼からは、やはり邪悪さは感じられない。

「…ディオ・ブランドー」

ぽつりと落とした言葉にDIOがカップを静かに下ろす。私も同じようにカップを置いて、真っ直ぐに彼と向き合った。

「あなたは、DIO。そうじゃ、ないの?」
「…そうでもあり、そうでもない」

曖昧な答えに今度は私が首を傾げる番だった。そっと笑みを作ったDIOが、ゆっくりと話し出したのはまるで作り話の様なものだった。



「…じゃあ、あなたは」
「DIOとして生きた記憶はあるがその通りに生きてきた訳ではない。言っただろう、"俺"はディオ・ブランドーだと」

ふん、と鼻を鳴らす彼――ディオにくらりと眩暈がした。私が死んだ後、そんな凄惨な最期を遂げて尚普通に生きるのではなく、(以前と比べれば多少)真っ当ながらも数奇な人生を望んだ彼の思考を柔軟だと言うべきか頑固だと言うべきか。
けれどこれで少しばかり何故彼がこんなにもあのDIOとかけ離れているのか、納得がいった。目の前の彼が聞けば憤慨し否定するだろうが…ある意味この人は前回と比べれば穏やかとも言える人生に絆されたのだ。話に聞くジョナサンさんを敵と扱わずに友として兄弟として認め、長い時間を共に過ごし――周囲全てに対する敵意と邪悪なまでの野望を真っ当な方法で昇華させた。先が見えていたからこそ、環境や一時の感情に流されず、新たな道を切り開いたのだ。…ただ怯え、逃げていた私とは違って。

「あなたは、強い、人ですね」
「嫌味か?」
「いえ。心から、そう思います。私も…前へ進まないと」

閉じた瞼の裏に浮かぶのは彼――承太郎の姿だ。何時の頃のからか離れ、今では言葉も交わさない彼。もうあの時の様な関係にはなれないだろう。けれどならば幼い頃からの友人として、いい関係を築いていきたい。

「…じゃあ、私はこれで」
「待て」

立ち上がろうとした私の手首を大きな手が掴む。弾かれるように振り向いて、彼の瞳を見て私は自分が甘かったのだと認識する。確かに彼は丸くなったのだろう。しかし生来の気質が消えてなくなった訳ではないのだ。猫が獲物を甚振る様に、爛々と輝く瞳が愉悦を伝えてくる。

「まさかここまで来てただで変えれるなんて思っちゃいないだろう」
「た、ただ私は話が聞きたかっただけで」
「ほう…」

ぐいっと手を引かれて体が傾ぐ。反射的に机に手をついてカップがカシャリと揺れた。首筋に温かい息がかかる。その感触にぞわりと背中が粟だった。

「いい服だな」

その言葉にドキリと胸が高鳴った。…お願い、続きを言わないで。そんな願いが叶う筈もない。

「私が似合うと言った色だ。…お前が好きなのはもっと可愛らしい色だったな」

息が、止まる。私は薄い色合いが好きだった。承太郎が似合うと言って照れくさそうに笑ったから。けれど今の私はどうだろう。黒と見まごうような深い紺色のワンピースはこの人が贈ったドレスの色だ、脱がせ甲斐があると無理矢理着せた…。

「望んでいたんだろう」
「ちがっ、違う!私は、望んでなんか!」

望んでなんかいない。赤いこの瞳が、私に注がれるのを。柔らかな皮膚にその指が触れるのを。私は――。

「認めろ。…前に進みたいのだろう?自分の感情を無視して、見て見ぬふりをして前に進めるのか?」

聞いてはいけない。認めては、いけない。これは悪魔の囁きだ。聞いたら、認めたら。

「葵…」

熱を込めて呼ばれる自分の名に、耳を傾けては、いけない。




枷の残響
絡み付いて離れない
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