薄氷に臨む | ナノ
なんで夜に出かけてしまったんだろう。お母さんの言うとおりノートなんて明日購買で買えば良かったんだ。現実逃避なのかそんな事を頭では考えていても、体は素直でがくがくと震える足が一歩後ずさる。街頭の弱弱しい灯りでも青褪めているのが分かるのか、彼は楽しそうにそんな私を眺めていた。
力の抜けた手からビニール袋が落ちて耳障りな音を立てる。それが合図だったかのように僅かばかり力を取り戻した体が全力で動き出した。震える手足を懸命に動かして彼に背を向けて走り出す。それと同時に脳みそも大きく混乱し始めた。
なんで、どうして。そんな言葉が何度も何度も頭の中を駆け廻る。とても長い距離を走った気がするが、それは気のせいなのだろう。

「葵」

私の名前を呼ぶ彼の声が、して。瞬間体が動くのを躊躇った。風に靡いた髪が、いつの間にかすぐそこまで来ていた彼の手に掴まれる。次に来る痛みを思い出して反射的に頭部を押さえこんだ。けれど予測していた痛みは一向に訪れず、記憶よりも細い腕が腹部に回された。

「葵」

呼ばれた名前に思わず顔を上げる。間近に会った彼の顔に驚くよりも早く唇が塞がれた。ぬるりと滑り込んできた舌の感触に思わず体が震える。視界の端に風に揺れるビニール袋が見えて、これだけしか進んでいなかったのかと、あまりの事態に混乱した頭が間抜けな感想が浮かべた。そんな私を咎めるように絡められた舌を甘噛みされる。意識がそちらに集中して、いっそ死にたくなった。
長い舌が口の中、奥まった部分を柔らかく抉る。溢れる唾液を掬うように動いて上あごを擽る様に引いていく。くすぐったいような、むず痒い様な感覚が少しずつ快感に置き変わる。知らず知らずに鼻から甘える様な吐息が零れる――。こんなキスを私に教えたのは、紛れもなくこの男だった。

「っん…ふ…んん」

始まりと同じく唐突にその口付けは終わった。名残惜しむようにつながった唾液の糸がぷつりと切れる。濡れて光る唇から血のように赤い舌が伸びて顎に伝ったそれを舐めた。それがたった今自分の舌を蹂躙していたのだと思うと、状況も忘れて顔が熱くなる。

「ますます赤くなったな」

くつくつと楽しむように笑う綺麗な顔を見て、いつの間にか服を掴んでた手を離して慌てて逃げようとする。しかしそれは力強い腕で簡単に止められてしまった。

「久しぶりだな葵」
「DIO…」

赤い瞳の中に己が映っている。それに涙が出そうになって、慌てて顔を逸らした。胸が煩わしい程強く脈打つ。それが先程の名残なのか、それとも怒りか恐怖か――もしくは。言葉にならない感情に思わず胸を掴む。

「そんなに会えて嬉しいのか?」
「っ!そんな訳、ないでしょう!私はあなたのせいで…!」

あなたのせいで、死んだ。そう言おうとしてはたと止まる。彼は当たり前のように私の名前を呼んで、口付けた。急な展開に頭が付いて行かなかったが…。

「あなた…覚えて、いるのね?」
「今更だな」

馬鹿にした様に鼻を鳴らす顔は記憶と変わらない。しかし、その姿は記憶よりも細く、どこかしっくりと馴染んでいた。無意識に伸ばした手が、彼の首を包む布を引く。抵抗せず簡単に曝け出された首には、あの傷がなかった。

「…あなた、誰?」
「おかしなことを聞くな。…俺はディオ・ブランドー、御嬢さんお名前は?」
「…知ってる、でしょう」

茶化すようなその口調は私の知っている彼にはなかった。けれど、私の頬を撫でるその指の動きが、私の口内を蹂躙したその感触が。体が、彼を覚えている。

「どういう、ことなの」



ガサガサと音を立てるビニール袋を片手に私は帰宅の挨拶もそこそこに部屋に駆け戻る。カーテンの隙間から覗くと、目立つ金色の頭がこちらを振り向いた。目を細めて笑う顔まで思い浮かんで慌ててぴたりと閉める。…やはり、私の記憶とは違う。
彼なら、DIOなら絶対に家まで送り届けるなんてことはしないだろう。なんならあそこで殺されていたとしても全く不思議ではない。
ずるずると体が崩れて、足元に有った袋を踏みつける。その端から覗く紙をのろのろとした動きで取り出した。

『どういうことか知りたければ、ここに来い。明後日以降なら大概そこに居る。時間は…そうだな日暮れ後だ』

そんな曖昧で一方的なことを言って渡された紙には私でも知っている高級ホテルの名前と部屋番号が綺麗な字で書かれていた。
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