形兆中編 | ナノ






紙の上に字を詰め込んで小一時間。息抜きにコーヒーでも淹れようかと思い立った。
下で同じように勉強に励む二人にも淹れてやろう。そう考えながら一階に降りるが誰の声も聞こえない。不思議に思いながらドアを開けば、妹の名前と億泰が二人して机に突っ伏していた。


「もうすぐ試験でしょうが…」


小さく呟きながら、何か掛けるものを取ってきてやろうと振り返ると目の前にアイツが現れて思わず息を飲む。


「何変な顔してんだ」

「あんたが、いきなり現れるからいけないんでしょ…!」


二人が起きないように声量は抑えながらも怒りを滲ませながら睨みつける。しかしこの男には私の怒りなどどこ吹く風の様だ。


「何か取りに行こうとしてたんじゃねえのか」

「…掛けるもの取りに行くからどいて」


押しのけようとする私を機敏な動作で避ける。…なんかイラっとする。そんなに私に触られるのは不快か!
苛立ち紛れに歩けば、『あいつらが起きるぞ』なんて言われて余計に癇に障った。



とりあえず二人にタオルケットをかけて、コーヒーを淹れてリビングに戻る。二人を眺めていた彼の前にもカップを置けば、鋭い目つきでこちらを見てきた。


「嫌味か?これは」

「…ただ、目の前に人がいるのに何も出さないのが耐えられなかっただけ。後でそっちも私が飲んどくわよ」


その眼に少し気後れしながらも答えを捻り出せば、興味が無くなったのか私から視線を逸らした。その途端二人の寝息以外音が消える。その沈黙がとても気まずく感じられて、私は態々ここに戻ったことを後悔し始めた。
大体何故自室に戻らなかったのか。そうしたら睨まれることもこんな気まずい思いもしなかったのに。
というか、今からでも遅くはない。さっさと部屋に戻ろう。腰を浮かせようとしたその時、向かいの男が口を開いた。


「…そういやお前らの親って見たことないな」


話しかけられたのに無視して出ていけるほど図太くもない。浮かせかけた腰をおろす。


「ああ、母さんたちなら今頃…ギリシャ辺りにでもいるんじゃない?」

「…ギリシャ?」

「ギリシャ」


流石に驚いたのか聞き返してきたので、鸚鵡返しをしながら頷く。まあ、大概の人は不思議そうな顔をするからこの反応には慣れていた。


「父さんが考古学者で、母さんはカメラマン。元々父さんは世界各地を飛び回ってて、母さんは私達が中学に入った頃から同行し始めたの」

「だから居ねえのか」

「うん。じゃなきゃ億泰泊めたりしないよ」


今回の様に試験前や長期休暇の時には、億泰が泊まりに来ることも多い。寝室は私と妹の名前・億泰と分けては居るが、親がいたらそれもそうそう出来ないことだろう。まあ、我が家としては普段ない男手が来てくれることは有り難いのだけれど。


「それもそうだな」

「まあ妹の名前に何か仕出かそうとしたら両親に代わって私が鉄槌を加えるし」


私の言葉に何とも言えない表情でこちらを見てくる。…厳しい、と思われるかもしれないけれど、私は妹の名前の保護者でもあるのだ。いくら億泰と言えどもそう簡単に手出しなどさせるものか!一人意気込んでいると、また億泰の方を見ながらポツリと呟いた。


「…億泰はお前達に迷惑かけたりしてねえか」

「迷惑なんてなんにも。それはあんただって知ってるでしょ」

「まあな」

「ああ、でも食生活について心配はしてるわ」


億泰は家に来るたび出てくる料理に甚く感動してくれる。しかしそれらの殆どは普通の家庭料理だ。普段どんなものを食べているのかが慮られる。


「あいつは昔から不器用でな…」


深々とため息をつく彼にこちらも苦笑を返すしかない。億泰が不器用なことは私も知っているからだ。


「お兄ちゃんはフォローが大変だったわけだ」

「…その呼び方はやめろ」


苦々しそうに唸る男の姿にニヤニヤと意地の悪い笑みが浮かぶ。性格が悪いとも思うが、日頃やられてばかりなのだ。こちらにもやり返す権利は有るだろう。


「お前は出来のいい妹で楽だったろうな」

「…まあ、聞き分けのいい子ではあったよ」

「億泰は何でもかんでも指示してやらねえと何もできやしなかったからな」

「ああ、だからか」

「あ?」

「いや、私にも心当たりがあるな、と」


あれは妹の名前の誕生日の少し前。プレゼントは何が良いかとか、どんなふうに祝ってやればいいのか、そんなことを質問攻めにされた。ある程度まではアドバイスも出来るが、最終的には億泰が決めた方が喜ぶと思う。そう告げれば本当に途方に暮れた顔をしていた。
初めての彼女で不慣れだということを差し引いても、自分で物事を決定するということに不安があるのだと感じ取れたものだ。そして結局かなりの口出しをしてしまったのも記憶に新しい。
優柔不断というよりは、幼い子供が選択肢すら考え付かない姿に似通っていた。それは、この兄が居たからだろう。なんか妙にきっちり行動しそうだし。
自分が考える前にやることを全て示された子供、というものは自分で考えるということが得てして苦手になるものだ。


「まあ、少しづつ改善してるみたいよ」


一応あの時も最終的にプレゼントは億泰が選んでたし。少しづつだが前に進んでるのは確かだろう。


「なら、いいんだがな」


そういう彼の横顔には少々暗いものが見えて。


「兄離れが寂しい?」

「…俺が幽霊じゃなきゃひっ叩いてた所だ」

「そりゃ怖い」


肩を竦めれば苦虫を噛み潰したような顔をされた。


「私は寂しいけどなー」

「何がだ」

「姉離れ」


私の言葉に少し肩が揺れた。


「…今まで私達二人だけの世界に億泰が来て。妹の名前が楽しそうなのは嬉しいけど、やっぱりちょっと寂しいもんよ」

「姉妹だからじゃねえか」

「そう?」

「…」


口ごもる彼に笑いかける。…こういう風に笑ったのは初めてかもな、なんて頭に過ぎる。


「お兄ちゃんとお姉ちゃんって大変だよね」

「そう呼ぶなって言っただろうが」


鋭く睨む彼に今度は怯まずに笑い返した。



見つけた小さな共通点
離れていく子に対する寂しさ。

[ 1/1 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]