一撃男 | ナノ

Memento mori



「…ナナシ?」
「やっほー」

見慣れた薄い顔が珍しく目を丸くして、驚きを露わにしている。そりゃそうかと思いながらナナシは軽く手を上げた。

「今日も駄目だったかあ。気配消してたと思うんだけどなあ」
「ナナシの匂いがしたから」
「…私ってそんな臭い?」
「ううん、いい匂い」
「そう?ならいいけどさあ。にしてもタローが驚いた顔すんの初めて見たわ」
「俺だって驚くことはあるよ。それよりナナシの顔初めてちゃんと見た」
「あー…長いこと前髪伸ばしてたしね。なんかスースーして落ち着かないや」

ナナシにタローと呼ばれた青年はもう先程の驚いた顔はしておらず、無表情に戻っていた。しかしその眼はジッとナナシの顔辺りに向けられている。

「…似合わないかな?」
「いや、似合ってるよ」
「ありがと。で、今日どこ行く?」
「ナナシと会った店復旧で来たってよ」
「あ、じゃああそこ行こうか。カクテル美味しいんだよねあそこ」
「ん」

ナナシと青年が向かったのは地下にあるこじんまりとしたバーだった。

「お久しぶりでーす」
「どうも」
「ああ、久しぶり」

カウンターの向こうでグラスを拭いていた初老の男性がナナシと青年を見て微笑んだ。ナナシは道中で買った小振りの花束を渡す。

「タローと私から。復旧祝いです」
「ありがとう。…君はまだタローなんだね」
「別に困らないんで」
「タロー、って顔じゃないですか。ね、タロー」
「はいはい」

薄く笑いながら青年は一番奥の薄暗い席、ナナシはその隣に座った。そこは、ナナシと彼が初めて会った時にも座っていた所だ。

二年程前――青年はこの席に座って酒を飲んでいた。手に持っていた紙を開くと、そこには仰々しい文面が並んでいる。二枚目にはS級ヒーロー番犬マンの文字。一度ため息をついて彼は紙を畳んで乱暴に傍らのバッグに突っ込んだ。
…別にそんな称号が欲しかったんじゃない。ただ自分には怪人に対抗する手段が有って、住んでる町を守りたかっただけだ。騒がれるのは好きじゃないから人目を引く着ぐるみを着てたら勝手に番犬マンなんて名前がついて、こんな立場を押し付けられた。
収入が増えるのは純粋に嬉しいが面倒くさい柵は好きじゃあない。そう思ってもこうなってしまえば叶わぬ我儘だと番犬マンにも分かっていた。もう一度ため息をついてグラスの中身を呷っていると、隣に誰かが座った。鼻を擽る匂いが、一瞬ぼうっとしてしまう位魅力的で隣を見る。視線を感じたのか隣に座った女性が小さく頭を下げたので、番犬マンも軽く頭を下げた。
特に会話をするでもなくお互い時たまバーテンダーと会話をする程度。そろそろ番犬マンが帰ろうかと思った頃、手品が始まった。どうせだから終わったタイミングで帰ろうと番犬マンは腰を下ろす。

「さて、コインはどのカップに入っているでしょう」
「「右」」

隣の女性と声が揃って思わず顔を見合わせる。フッと微笑んだ彼女に番犬マンも思わず笑い返した。女性の目は長い前髪でよく見えないが、形の良い唇と通った鼻筋に美人だな、と番犬マンは推測を立てる。その後も二人はコインの位置を次々と当てていった。

「全く、これじゃあ手品にならないよ!」

音を上げたバーテンダーにもう一度笑い合う。

「面白かったですね」
「うん」

そこから会話が始まりお互いぽつぽつと話す。

「あ、私ナナシっていいます」
「あ、俺は…」

名のろうとして番犬マンは少し考える。今後露出が増えるかもしれない。皆犬の着ぐるみとして見てるが、いつかこの人が俺だと気付いて、ネットに名前を流したりしたらどうしよう。公私ははっきり分けたい番犬マンにとって、それは絶対に避けたい事態だった。もちろん番犬マンにも知人や友人は居る。彼女一人に名前を教えたからと言ってリスクが変わるわけでもないだろう。そうは思っても、いきなり与えられた称号に番犬マンの酒が入った思考は上滑りさせられる。
ナナシはそんな番犬マンの間に気付いたのか、少し考えてからニコリと笑った。

「タローって呼んでもいいですか?失礼ですけど私が昔飼ってた犬に雰囲気がよく似ていて」
「…本当に失礼だね。でも、いいよ」

ここでも犬か、と笑ってしまいたくなる。でもなぜか嫌な気分にもならなかったので番犬マンはそれを受け入れた。ヘラりと笑うナナシの顔を見ながら、やっぱりいい匂いがすると番犬マンは大きく息を吸いこんだ。

それから連絡先を交換して、時たま飲みに行くようになって二年が過ぎた。ナナシは未だに番犬マンの名前を聞き出そうともせず、ただ一緒に過ごしてくれている。怪人の出現が酷くなって、ヒーローとしての仕事の時間は増え、逆に友人は怪人の被害にあったり、地元を離れて出没の少ない地域に行ってしまった。日に日に名前を呼ばれることもなく、番犬マンとして過ごしていく時間が増える。そんな生活の中、タローと呼んで屈託なく笑うナナシと居る時間は番犬マンにとっても楽しい時間だった。…この上なくいい匂いもするし。

「タロー…重い。もう酔ったの」
「いや」

いつの間にかナナシの肩に顔を寄せていたらしい。番犬マンはこれ幸いと大きく息を吸った。甘い香りに誘われるように鼻を押し付ける。

「くすぐったいって」
「ん」

名残惜しく思いながら顔を上げると苦笑したナナシと目が合う。こうしてしっかりと目が合うのは初めてだった。番犬マンが想像していたよりも数段整った顔立ちに、会った時は不覚にも驚いてしまったが…。

「ねえナナシ」
「んー?」
「髪、伸ばした方がいい」
「さっきは似合うって言ったくせに」
「似合ってるけどそれでも」

ふーん、と首を傾げるナナシを横目に番犬マンは酒を一口含んだ。



悪い虫が寄る
それでなくともこんないい匂いがするのだから